五月の爽やかな風が初星学園のキャンパスを吹き抜ける頃、アイドル科の一年生たちにとって最初の大きな試練であり、華やかな門出となる舞台の日がやってきた。
定期公演『フレッシュアイドル公演』。
毎月の定期公演の中でも、五月のこのステージは、四月に入学したばかりの新入生たちが担当プロデューサーと共に作り上げた最初の成果を披露する「初陣」の意味合いが強い。
会場となる第4スタジオ『グランドステージ』は、開演前からすさまじい熱気とざわめきに包まれていた。八百人を収容できる客席には在校生や講師陣だけでなく、未来の原石をいち早く見定めようとする音楽業界の関係者たちが詰めかけ、幕が上がる瞬間を今や遅しと待ち構えている。
その華やかな客席の裏側――巨大なバックステージでは、出番を控えた一年生アイドルとプロデューサーたちが慌ただしく行き交っていた。
「……よし、いいステージだったぞ、二人とも! 特に後半のフォーメーション移動、練習以上の出来だった!」
舞台袖のモニター前で、ステージから降りてきたばかりの二人の少女を労ったのは、プロデューサー科一年生の中野仁だ。黒髪黒目の清潔感あふれる青年が真剣な眼差しで頷くと、銀髪碧眼の少女――葛城リーリヤが、胸をなでおろしたようにへなへなと微笑む。
「あ、ありがとうございます、センパイ……! 足がガクガクして、途中で転んじゃうかと思いましたけど、清夏ちゃんが隣でアイコンタクトをくれたから、最後まで歌い切れました……!」
「へへっ、大げさだってばリーリヤ! あたしはただ、Pっちの言った通りに楽しく踊っただけだし〜♪」
橙色の長い髪を揺らして明るく笑う紫雲清夏に、中野はふっと口元を緩めた。
「何を言ってるんだ、清夏。さっき出番の直前、リーリヤさんのために今日は絶対に負けられないと言って、控室の隅で誰よりも念入りに股関節の柔軟をやっていたのを俺は見ていたぞ」
「ちょ、Pっち!? そういうことはバラさないでよぉーっ!」
顔を赤くして抗議する清夏と、嬉しそうに目を潤ませるリーリヤ。
すぐ近くでは、黒髪短髪の熱血漢・佐藤健太が、これから出番を迎える倉本千奈と篠澤広の二人を前に気合を入れていた。
「いいか、次は俺たちの番だ! 千奈ちゃん、そんなにブルブル震えてたらステージに出る前に目が回るぞ、もう少し落ち着いてくれ!」
「ひゃああっ、だって先生! 客席にすごい数の人がいらっしゃいますわ! 全校生徒の中で最下位のわたくしなんかが出ていったら、皆さま石を投げたりなさいませんこと!?」
「投げるわけないだろ! 今日まで毎日、靴擦れを作りながら個人練習室でステップを反復してきたじゃないか。実家のコネじゃなくて、自分の足で立つって決めたんだろ?」
「……っ! は、はいっ! わたくし、皆さまに追いつきたいのです。だから、どんなに大変でも逃げたくありませんわ!」
艶やかな茶髪のロングストレートを揺らし、千奈が小さな拳を握りしめる。隣では、ミステリアスな雰囲気を漂わせる篠澤広が、どこか楽しそうに目を細めてステージの光を見つめていた。
「身体が熱くて、呼吸が苦しいね。……でも、昨日のリハーサルより少しだけステップが軽くなってる。プロデューサーは厳しいけど、このステージでわたしがどれだけ足掻けるか……試してくるね」
「おう、思いっきり暴れてこい、篠澤さん、千奈ちゃん!」
佐藤に背中を押され、二人が眩しいステージへと駆け出していく。
その様子を少し離れた場所から見守っていた穏やかな青年・鈴原良治と、金髪のおさげ髪を揺らす藤田ことね、そしておっとりとした木下誠二と秦谷美鈴のペアも、それぞれの初陣に向けて静かに闘志を燃やしていた。
「みんな、すごい熱気ですねぇ、鈴原P! あたしも負けてられませんよ〜っ! 今日のお客さん全員に『ことねちゃんが一番可愛い!』って思わせて、将来のファンクラブ会員をガッチリ確保しちゃいますから♪」
「はは、頼もしいですね、ことねさん。その調子でいきましょう」
「まりちゃんも、もうすぐ出番ですね。……ふふ、私も木下Pと一緒に、気持ちのいい日差しのようなステージをお届けしましょう」
「そうだねぇ、秦谷さん。僕たちはおっとり、マイペースに頑張ろうか」
プロデューサー科の一年生たちが、それぞれの担当アイドルと肩を並べ、眩しいスポットライトの世界へと挑んでいく。
――そして、彼らから数十メートル離れたバックステージの薄暗い搬入通路で、一条護は一人、額の汗を拭いながら重たい空の機材ケースを台車へと積み上げていた。
「よし、これで前半組の転換用バミリテープと予備マイクの回収は完了、と……」
護の左腕には、『臨時運営サポート』と書かれた黄色い腕章が巻かれている。
五月に入っても担当アイドルが一人も決まらなかった護は、今日の『フレッシュアイドル公演』にプロデューサーとして参加する資格を持っていなかった。だが、寮の部屋で指をくわえて休んでいることなどできない。音響チーフの源さんや照明チーフの照美姐さんに自ら頭を下げ、舞台裏の雑用や転換の手伝いをする無給のサポートスタッフとして現場に入れてもらったのである。
「おう、一条君。こんな裏方の通路まで手伝ってくれてるのかい? いつも真面目だねぇ」
控室への移動の合間に通りかかった木下が声をかけると、隣にいた中野や佐藤も足を止めた。
「一条さん、さっきはリーリヤさんと清夏のために、ステージ袖に冷たい水とタオルを準備してくれてありがとうございました。本当に助かりましたよ」
「ああ、千奈ちゃんが緊張で喉がカラカラだって騒いでた時も、一条さんがすぐにストロー付きのボトルを持ってきてくれたよな。サンキュな!」
同期たちの言葉に、護は少しも卑屈になることなく、親しみやすい笑顔で首を振る。
「礼には及ばないよ、中野君、佐藤君、木下君。今の俺には担当がいないから、これくらいしかできることがないんだ。それより、葛城さんと紫雲さんのステージ、袖のモニターで見ていたけどすごく良かったよ! 葛城さんの最後のロングトーン、練習の時よりずっと声の芯が太くなっていたね」
「……! あの一瞬の声の違いに気づきましたか。さすが一条さんですね」
中野が感心したように目を見張った。
護の作業着のポケットには、今日もあの角がすり減った『観察ノート』がねじ込まれている。雑用の合間にわずかでも時間があれば、袖のモニターや扉の隙間から同期たちのステージを観察し、照明の当たり方や音響のバランス、そしてアイドルたちが輝く瞬間を休むことなく記録し続けていたのだ。
(やっぱり、ステージの上で戦っているみんなは本当に眩しいな。……俺もいつか、あの舞台袖の一番近い場所から、自分の担当アイドルを送り出したい)
胸の奥がチクリと痛まないと言えば嘘になる。
それでも護は、足元の履き慣れた靴を一度だけ強く踏みしめると、「さて、次の転換準備に行かないと!」と気持ちを切り替え、再び山積みになったケーブルの束へと向かった。
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公演は順調に進行し、時刻は午後四時を回る。
会場のボルテージが最高潮に達する中、プログラムはいよいよ終盤――本日の最終演者(トリ)を務める新入生首席、花海咲季の出番まで残り三十分となっていた。
上手(かみて)側の舞台袖に設けられた特別待機エリアでは、真紅と白を基調としたステージ衣装に身を包んだ咲季が、静かに目を閉じて呼吸を整えている。
頭の左右に結い上げた小さなお団子と、肩甲骨まで流れる美しい赤髪が、袖の薄明かりの中でも鮮烈な存在感を放っていた。
「よし、バックステージの専用サーバー、起動チェック完了。イヤモニのワイヤレス周波数もロックしたぞ、花海」
丸椅子に座り、ノートパソコンとタブレット端末を接続したラックの前で満足そうに頷いたのは、仮タッグを組む三年生のエリートプロデューサー候補生・桐生颯太である。
桐生は今回の咲季の初陣にあたり、通常のPAシステムに音源を渡す一般的な手法を取らなかった。『十王のメソッド』が推奨する最先端の「デジタル完全同期システム」を、独自に舞台袖のサブサーバーへ持ち込んでいたのだ。
「いいか花海、もう一度確認するぞ。お前の耳につけたイヤモニには、このサーバーからミリ秒単位で計算されたクリック(メトロノーム)音と、リアルタイムのピッチ補正ガイドが直接送られる。同時に、メインPA卓の音源とステージ背景のLED映像も、すべてこのサーバーのタイムコードで一括管理されているんだ」
「……はい、分かっています、桐生P」
咲季は自分の耳にはめ込まれた特注のイヤモニにそっと指を触れ、どこか息苦しそうに頷いた。
「お前は余計な感情やアドリブを一切挟まず、イヤモニから聞こえる電子ガイドの通りに8割の出力で正確に声を乗せればいい。そうすれば、ピッチの乱れもリズムのズレも0%に抑えられる。審査員が絶対に減点できない、完璧な首席のステージの完成だ」
「…………」
桐生の得意げな声を聞きながら、咲季は視線を少しだけ舞台袖の端へと向ける。
そこには、今日の公演には出演できず、見学用のパスを首から下げた妹――花海佑芽が、両手を胸の前でぎゅっと組んでこちらを見つめていた。
目が合うと、佑芽はふんわりとした茶髪を揺らし、「お姉ちゃん、頑張って!」と声に出さずに太陽のような笑顔を向けてくる。
(佑芽が見ている……。私を追いかけ、私を目標にしてこの学園に入ってきた妹が、すぐ後ろであんなに真っすぐな目をして見ているのに……!)
8割の安全運転。電子音に縛られた窮屈なステージ。
本当はそんなものではなく、魂が焼き切れるほどの全力の歌声で、妹にも会場中にも「これが新入生首席・花海咲季だ!」と吼えてみせたい。だが、今の自分には桐生Pの指示に逆らうだけの根拠も、別の手段もなかった。
「……はい。どんな形であれ、私が一番であることは変わりません」
咲季が自分に言い聞かせるように答え、マイクを握り直した――まさにその時だった。
バチッ!!
舞台袖の機材ラックの奥で、乾いた小さな破裂音とともに、青白い火花が散る。
直後、桐生の目の前にあるノートパソコンと専用同期サーバーのインジケーターランプが、不気味な警告音を一度だけ鳴らして真っ暗にブラックアウトした。
「――え?」
桐生の間抜けた声が落ちるのと同時に、咲季の耳に装着されていたイヤモニから『ブツッ……ザー……』という不快なホワイトノイズが流れ、やがて完全な無音へと変わる。
「き、桐生P!? イヤモニから何も聞こえなくなりました! テスト信号が止まっています!」
「なっ……なんだこれは!? おい、なんでサーバーの電源が落ちてるんだ!?」
桐生が血相を変えてキーボードを叩き、サーバーの再起動ボタンを連打する。だが、液晶画面には『COMMUNICATION INTERFACE ERROR / FILE SYSTEM CORRUPTED』という無慈悲な赤いエラーメッセージが表示されるばかりで、一向に立ち上がる気配がない。
そこへ、インカムの異常を察知したPAチーフの源さんの怒鳴り声が、舞台袖の連絡用スピーカーから飛び込んできた。
『おい桐生! お前の持ち込んだ舞台袖の同期サーバーから、メイン卓へのデジタルリンクが完全に切れたぞ! 出番まであと二十五分しかねぇんだ、どうなってやがる!?』
「し、知りませんよ! 急に通信インターフェースがショートして、メインの同期データが読み込めなくなったんです!」
『あぁ!? だから俺が言っただろうが、素人がライブ現場で複雑なネットワーク同期なんざ組むなってよ! ……チッ、仕方ねぇ、同期システムは諦めて、予備のWAV音源かバックアップのCDをこっちの卓に持ってこい! イヤモニも通常の返し(フロアモニター)に切り替えれば歌えるだろ!』
源さんの的確で冷静な指示。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、桐生の顔からサーッとすべての血の気が引いた。
「よ、予備のCD……? そ、そんなもの、用意してあるわけないだろう! 俺のシステムは専用フォーマットで映像とガイドトラックを完全パッケージ化してあるんだぞ、今さら2ミックスの汎用音源なんて書き出せるわけがない!」
『なっ……てめぇ、本番のステージでバックアップ音源すら持たずに乗り込んできたのか!? バカ野郎、サーバーの復旧にはどれだけかかるんだ!?』
「さ、再インストールとタイムコードの再同期に……早くても一時間半はかかります……っ!」
桐生の震える声が、舞台袖に重苦しく響き渡る。
一時間半。咲季の出番は本日のトリ、あと二十五分後だ。後ろに順番を回すこともできなければ、何百人もの観客と業界関係者を何もないまま一時間半も待たせることなど、定期公演の運営ルール上、絶対に許されない。
「……っ! 桐生P、サーバーが直らないなら、ガイドデータの入っていない普通の伴奏トラックでも構いません! アイドル科のデータベースにある既存の練習用音源を引っ張ってくれば、イヤモニのガイドなんてなくても私は歌えます!」
咲季が必死の形相で桐生に詰め寄った。
彼女が今回歌うのは、学園の課題曲として登録されている既存のロックナンバーだ。桐生が作った「8割出力用のガイド付き特殊データ」ではなくても、標準的な伴奏さえ鳴らせれば、新入生首席である咲季には最後まで歌い切るだけの圧倒的な実力がある。
だが、パニックに陥った桐生の頭の中にあるのは、「花海咲季をどうやってステージに立たせるか」ではなかった。
「自分自身のエリートとしてのキャリアを、どうやって傷つけずに守るか」――ただそれだけだ。
「ふ、ふざけるな、花海!! 練習用の汎用音源で、イヤモニのピッチガイドもなしにぶっつけ本番で歌うだと!? そんな不確定要素だらけのステージを、この俺が許可するわけがないだろう!」
「なっ……どうしてですか!? 私は今日のために何百回もこの曲を歌い込んできました! ガイドがなくても音程なんて外しません!」
「お前が外さないと言ったって、データが保証していないじゃないか! いいか、十王龍正社長の作られた『十王のメソッド』ではな、100%管理できないステージは未然に棄権するのが鉄則なんだ! 万が一にも本番でリズムが走ったり、ピッチが乱れて減点されたりしてみろ……担当プロデューサーである俺の成績とキャリアに、取り返しのつかない泥を塗る気か、花海!」
「――――っ!!」
桐生が唾を飛ばして叫んだその言葉に、咲季は雷に打たれたように息を呑む。
周囲にいた運営スタッフや、出番を終えて袖に残っていた他の一年生たちも、信じられないものを見るような目で桐生を見つめていた。
「き、棄権……? 私の、初星学園での最初のステージを……戦う前から逃げろって言うの!?」
「逃げるんじゃない、戦略的撤退だ! 機材トラブルによる不可抗力として運営本部に辞退届を出せば、俺のプロデュース評価は『減点なし』で処理される。お前だって、下手なステージを見せて首席の看板に傷がつくよりマシだろうが!」
「ふざけないで!! 私は減点されないためにアイドルになったんじゃないわ! ステージが目の前にあるのに、客席でみんなが待っているのに、歌わずに尻尾を巻いて降りるなんて……そんなの、死んでも嫌よ!!」
咲季の赤い瞳から、悔しさと怒りの火花が散った。
しかし桐生は、咲季の悲痛な叫びから逃げるように視線を逸らし、震える手で壊れたノートパソコンを抱え上げる。
「ええい、素人の精神論で喚くな! 決定権はプロデューサーである俺にある! 今すぐ舞台袖の運営デスクから『出演辞退届』の用紙をもらってくるから、お前はここで待っていろ! サインをしたら即座に撤退だ!」
そう吐き捨てると、桐生は咲季の制止も聞かず、舞台袖の運営デスクへ書類を取りに足早に去っていった。
「待って……待ちなさいよ、桐生P……っ!」
咲季が伸ばした手は、虚しく空を切る。
出番まで、あと二十二分。
ステージの上では一つ前の出演者のパフォーマンスが華やかに繰り広げられ、客席からは割れんばかりの歓声と拍手が響いてくる。
それなのに、本来なら一番心強い味方であるはずのプロデューサーはステージを捨てることしか考えず、自分の名前が呼ばれるはずのトリの舞台は「空白」になろうとしていた。
「……っ、うそよ……こんなのって……っ!」
薄暗い舞台袖の片隅で、咲季は一人うつむき、両拳を強く握りしめた。
誰よりも早く起き、誰よりも遅くまでスタジオに残り、完璧な一番であり続けるために血の滲むような努力を重ねてきた。それなのに、自分の力が及ばない機材の故障と、パートナーである男の臆病な保身のせいで、初陣のステージに立つことすら許されないのか。
(嫌よ……こんなの、絶対に嫌……! 佑芽が……私の背中を追いかけてきた佑芽が、すぐそこで見ているのに……! お姉ちゃんがこんなみっともない姿で、戦わずに負けるなんて……っ!)
肩を小刻みに震わせ、落ちそうになる涙を必死に堪える姉の姿。
それを、数メートル離れた関係者通路の柱の陰から、花海佑芽は息を止めて見つめていた。
「お姉ちゃん……」
佑芽の胸の奥が、張り裂けそうなほど痛む。
これまで生きてきた十六年間、お姉ちゃんはいつだって佑芽にとって「無敵の太陽」だった。どんなに苦しい練習でも弱音一つ吐かず、堂々と胸を張って一番高い場所を走り続ける、自慢のお姉ちゃん。
そのお姉ちゃんが今、誰にも頼れず、たった一人で下唇を噛みしめながら震えている。
周囲を見渡しても、他のプロデューサー科の一年生たちは自分の担当アイドルのケアで手一杯であり、三年生のエリートである桐生Pが「棄権する」と決めた現場に割り込める者はいない。現場のスタッフたちも、プロデューサー不在のまま勝手に別音源を流すわけにはいかず、困惑した顔で時計を見つめていた。
(ダメだ……このままじゃ、本当に時間切れでお姉ちゃんのステージがなくなっちゃう! 誰か……誰か、お姉ちゃんを助けてくれるプロデューサーさんはいないの!?)
佑芽が焦燥に駆られ、視線を必死に巡らせた――その瞬間。
元アスリートとして極限の勝負をいくつも潜り抜けてきた佑芽の脳裏に、稲妻のような閃きが走る。
思い浮かんだのは、スマートなスーツを着たエリートではない。
雨上がりの購買部の裏で泥だらけになって荷物を拾い、早朝のグランドステージで音響の源さんに頭を下げてケーブルの巻き方を教わり、照明の照美姐さんたちと汗だくになって機材を運んでいた、あの青年の背中だ。
そして何より――誰よりも真剣な瞳でお姉ちゃんの練習を見つめ、桐生Pに雑用係と笑われても、お姉ちゃんの全力の踏み込みと歌声を『すごい輝きでした』と真っすぐな目で褒めていた、あの横顔だった。
「――あの人だ」
佑芽の大きな瞳に、迷いのない強烈な光が宿る。
理屈じゃない。実績なんて関係ない。佑芽が持つ天性の「直感」が、身体中の細胞を震わせて叫んでいた。
今、この絶望的な状況でお姉ちゃんを見捨てずに走り、現場の職人さんたちを動かして、お姉ちゃんのステージを守り抜ける人間が世界に一人だけいるとしたら――あの人しかいない!
「待ってて、お姉ちゃん! あたしが絶対に、本物のプロデューサーさんを連れてくるからっ!!」
佑芽はキュッとスニーカーの靴底で床を蹴ると、舞台袖からバックステージの奥へと続く長い通路を、風のような猛スピードで走り出した。
ふんわりとした赤みのある茶髪が後ろへなびき、元陸上選手さながらの驚異的な加速でスタッフたちの間をすり抜けていく。
探す場所は分かっていた。彼はいつも、誰もやりたがらない一番泥臭い場所で働いている。
通路の角を二つ曲がり、予備機材が山積みにされた薄暗い搬入通路へと飛び込んだ佑芽は、そこで額に汗を浮かべながらスピーカーケーブルを八の字巻きにしている黒髪の青年の姿を見つけ出した。
「いっ……一条さぁぁーーんっ!!」
通路の壁がビリビリと震えるほどの大声で叫びながら、佑芽はブレーキもかけずに護の目の前へと滑り込む。
「えっ!? う、佑芽さん……!? どうしたんですか、そんなに息を切らして……!」
突然飛び込んできた少女のただならぬ剣幕に、護は持っていたケーブルを置いて目を見張った。
佑芽は護の両腕を両手でガシッと掴み、潤んだ大きな瞳で真っすぐに彼の目を見上げる。
「た、大変なんです、一条さん! お姉ちゃんの機材が壊れて、音が全部出なくなっちゃったんです! なのに桐生Pは、自分の成績に傷がつくのが嫌だからって、お姉ちゃんに棄権届を書かせようとしてて……っ!」
「……なんだって!?」
護の表情から、普段の穏やかさが一瞬にして消え去った。
アイドルが今日のために積み重ねてきた血の滲むような努力を、プロデューサーが自分の保身のために切り捨てて逃げた。それは、一条護という人間が最も許すことのできない裏切りだった。
「お姉ちゃん、舞台袖で一人で拳を握りしめて、泣きそうなくらい悔しがってるんです! 出番まで、もうあと二十分しかありません……! お願いします、一条さん! あたしの直感が言ってるんです、今お姉ちゃんを助けられるのは、いつもお姉ちゃんの輝きをノートに書いてくれていた一条さんしかいないって! お姉ちゃんを、助けてくださいっ!!」
必死にすがりつく佑芽の言葉に、護には一秒の迷いもなかった。
自分には担当の資格もない。三年生の桐生に逆らえば、学内でどんな処罰を受けるかも分からない。
けれど――目の前で誰かの夢が理不尽に踏み潰されようとしているのに、何もしない自分を許せるはずがなかった。
「……分かりました。案内してください、佑芽さん!」
護はポケットから角のすり減った『観察ノート』を強く握りしめると、佑芽の手を引き、履き慣れた靴で舞台袖の戦場へと全力で駆け出した。