第4スタジオ『グランドステージ』の舞台袖は、開演中の華やかなホールとは対照的に、凍りついたような重苦しい空気に支配されていた。
ステージ上では一つ前の出演者のパフォーマンスが終盤に差し掛かり、客席からは八百人の歓声と手拍子が地響きのように伝わってくる。次の出番――本日のトリを務める新入生首席・花海咲季の登壇まで、残された時間はすでに二十分を切っていた。
「ほら花海、ここにサインをしろ。運営デスクから『機材トラブルによる出演辞退届』の用紙をもらってきたぞ」
上手側の待機エリアで冷ややかな声を上げたのは、プロデューサー科三年生の桐生颯太だ。
運営デスクから書類を受け取ってきた桐生は、出演直前の棄権には担当アイドル本人の署名も必要であると知り、バインダーに挟んだ一枚の用紙を咲季の目の前へと突きつけていた。
「早く書け。前の演者がハケて司会進行が繋いでいる間にこの書類を提出すれば、機材不良による不可抗力として処理される。俺のキャリアにも、お前の首席という看板にも傷はつかないんだ」
「…………っ」
咲季は突き出されたボールペンを受け取ろうともせず、指の関節が白く浮き出るほど両拳を強く握りしめていた。
真紅と白のステージ衣装が、小刻みに震える肩の上で揺れる。強く噛みしめた下唇に痛みが走り、床を見つめる赤い瞳には、今にも溢れ出しそうな悔しさと屈辱が渦巻いていた。
(私は勝負が好き。勝つのが好きで、負けるのが何より大っ嫌い! ……それなのに、ステージがすぐ目の前にあるのに、戦うことすら許されずに負けを認めろっていうの……!?)
今日という日のために、どれだけの汗を流してきたか。
すぐ後ろを猛スピードで追いかけてくる妹・佑芽の気配に焦りを抱きながら、それでも「無敵のお姉ちゃん」であり続けるために、どれほど孤独な夜を越えてきたか。
ここでサインをして舞台を降りれば、確かに減点はされないのかもしれない。だが、そんな臆病な逃げを選んだ瞬間、花海咲季の心は二度と立ち上がれないほどに折れてしまう。
「……嫌よ」
「あぁ? 何を言っているんだ、花海。通信サーバーは完全に死んでいて、同期音源もイヤモニも使えないんだぞ! 今さらどうやってもステージなんか作れるわけがないだろう!」
「それでも、私は棄権なんてしないわ……っ!」
咲季が悲痛な声を振り絞った、まさにその瞬間だった。
「お姉ちゃんっ!!」
バックステージの奥へと続く搬入通路から、切迫した少女の叫び声と、二つの激しい足音が飛び込んでくる。
ふんわりとした赤みのある茶髪をなびかせた花海佑芽と――その隣で、すり減った靴底をキュッと鳴らして滑り込んできたプロデューサー科一年生、一条護である。
「はぁ、はぁ……っ! 咲季さん、まだ間に合いますか!?」
「え……? 佑芽……それに、あなたは……」
顔を上げた咲季が、息を切らして駆けつけた護の姿を見て目を見張る。
十日前、第3スタジオ『プリズム』の廊下で、桐生Pから雑用係と罵られながらも、咲季のサビ前の踏み込みを真っすぐな目で褒めてくれた、あの黒髪の青年だった。
護の視線が、咲季の震える肩と、強く握りしめられた拳を捉える。
いつも誰よりも気高く、完璧な王者のように胸を張っていた少女が、舞台袖の薄暗がりの中でたった一人、夢を奪われそうになって震えていた。
その光景を目にした瞬間、護の胸の奥で、普段の穏やかさを吹き飛ばすほどの激しい怒りと闘志が湧き上がる。
(花海咲季の最初のステージを、こんなところで終わらせてたまるか……!!)
護は迷うことなく一歩前に踏み出すと、咲季と桐生の間に立ち塞がるようにして、桐生の手から『出演辞退届』のバインダーを奪い取った。
「なっ……!? おい一条、お前いきなり何をする気だ! なぜ運営サポートの雑用係がここにいる!」
「桐生さん、この辞退届はまだ出せません。咲季さんは今日、このステージで歌うために誰よりも努力してきたんです。まだ出番まで十八分あります! 最後までステージに立つ方法を探すのが、プロデューサーの仕事じゃないんですか!?」
「ハッ、笑わせるな! 十八分で何ができると言うんだ!」
桐生は顔を真っ赤にして唾を飛ばし、護の胸元に抱えられた角のすり減った分厚いノートを指差して怒鳴り散らす。
「なんだその泥臭い観察ノートは! 担当アイドルすら一人もいない落ちこぼれの素人が、気合と根性でデジタル機材のトラブルを解決できるわけがないだろう! いいからその書類を返せ、俺の完璧な評価に泥を塗る気か!」
「……ちょっと、桐生P。そこまでよ」
その時、護の背後から、凛とした声が響いた。
咲季が顔を上げ、燃えるような赤い瞳で桐生を真っすぐに睨みつけている。
「自分の保身しか考えずに逃げ出すだけでも呆れるのに……ひたむきに頑張ってる人を貶すなんて、ダメに決まってるじゃない!」
「なっ……花海、お前まで何を……!」
「あなた、それで本当にいいの? アイドルの夢をゴミみたいに切り捨てて守った成績に、何の価値があるっていうのよ!」
咲季の気迫に満ちた一喝に、桐生が「ぐっ……」と言葉に詰まって後ずさった。
護は振り返り、咲季の赤い瞳を正面から見つめる。近くで見れば、彼女の指先はまだ緊張と悔しさでわずかに震えていた。けれど、その瞳の奥にある「歌いたい」「勝ちたい」という強い光は、少しも消えてはいない。
「咲季さん。俺には桐生さんみたいな実績も、デジタル機材を直す知識もありません。……ですが、咲季さんが今日までどれだけ凄い練習を積み重ねてきたかは、このノートに全部書いてあります」
「……あなた……」
「絶対に歌わせます。あと十八分、俺が会場中のプロに頭を下げて、咲季さんが120%の力で吼えられるステージを作ってみせます! だから、ここで声を作って待っていてください!」
護の声には、嘘もハッタリも、一切の迷いもなかった。
ただ純粋に「花海咲季の輝きを守り抜く」という覚悟だけが込められたその言葉に、咲季の大きく見開かれた瞳が強く揺れる。
「行ってきます、佑芽さん! 咲季さんの付き添いは頼みましたよ!」
「はいっ、一条さん! お姉ちゃんのこと、よろしくお願いしますっ!!」
「お、おい待て一条! 勝手な真似をして本番で大事故を起こしたら、お前を退学処分にしてやるからな!!」
背後から響く桐生の怒号など、護の耳にはもう届いていない。
護は踵を返すと、すり減った靴底でバックステージの床を強く蹴り、特別棟の階段へ向かって全力で走り出した。
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(考えるんだ、俺にできる最善の手を……! 桐生さんの同期サーバーが壊れて、予備のCDもWAVデータもない。学園のデータベースから既存の練習用音源を引っ張ってくるにしても、今から運営本部の申請を通していたら十八分じゃ絶対に間に合わない!)
階段を三段飛ばしで駆け上がりながら、護は脳内の知識と、これまで現場を歩き回って蓄えた情報をフル回転させる。
デジタル音源が鳴らせないなら、どうするか。
答えは一つしかない。機械がダメなら、「人間の手」で音楽を鳴らすのだ。
(今日の『フレッシュアイドル公演』の前半パート……アコースティック編成でバラードを歌った二年生の先輩がいたはずだ! その伴奏を担当した学園嘱託のプロピアニスト・白川先生が、出番を終えた後、特別棟二階奥の第2スタジオ『メロディア』で片付けをしていたのを、さっき水配りの途中で見たぞ!)
しかも、グランドステージの舞台袖には、式典や合唱用に常設されているプロ仕様のステージピアノが一台置かれており、PA卓へのアナログ回線は常に生きている。あの回線を使えば、壊れたデジタル同期サーバーを一切経由せずに、メインスピーカーから直接ピアノの音を轟かせることができるはずだ。
「はぁっ、はぁっ……ここだ!!」
二階の廊下を疾走し、ミュージックラボの反対側――奥まった場所にある第2スタジオ『メロディア』の防音扉にたどり着いた護は、ノックするのももどかしく扉を押し開けた。
室内では、黒のタキシードシャツを着た四十代半ばの男性ピアニスト・白川が、譜面をカバンにしまいながら帰りの支度をしているところだった。
「うわっ!? な、なんだね君は、そんなに慌てて!」
「白川先生! 星城大学プロデューサー科一年生の一条護と申します! 突然このような形で押し入ってしまい、本当に申し訳ありません!」
護は白川の目の前まで駆け寄ると、背筋を伸ばしたまま腰を九十度に折り、深々と頭を下げた。
「お、おい君、いったい何事だい!?」
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます! どうしても、先生にしかお願いできないことがあるんです! 今から十五分後、グランドステージのトリで歌う一年生・花海咲季さんのバックトラックが機材トラブルで完全に飛んでしまいました! このままでは、彼女の初陣が棄権になってしまいます……っ!」
頭を下げたまま、護は肺の中の空気をすべて吐き出すような熱量で言葉を継ぐ。
「咲季さんが歌うのは、学園指定の課題曲『ブレイジング・ハート』です! 白川先生なら、これまで何十回も授業や公演で弾いてこられた曲だと伺っています! 無理をお願いしていることは分かっています。本番直前に、リハーサルもなしでステージ袖のピアノを弾いてくれなんて、音楽家の先生に対してあまりにも失礼な要求だと承知しています! ですが……っ!」
護は顔を上げ、汗で張り付いた前髪の奥から、真剣な瞳で白川を真っすぐに見つめた。
「どうか、彼女の可能性まで、最初から諦めないでいただきたいんです! 今日まで血の滲むような努力を重ねてきたアイドルが、一度も声を出せないままステージを降りるなんて、絶対にあってはならないんです! 俺がどんな処分を受けても構いません、どうか咲季さんのために、先生のピアノの力を貸してください!!」
護は胸元から『観察ノート』を取り出し、白川の前に両手で差し出した。
開かれたページには、咲季が『ブレイジング・ハート』を練習していた際のテンポ感、コード進行のアクセント、そしてブレスのタイミングが、音大生顔負けの丁寧な書き込みで記されている。
白川は息を呑み、必死に頭を下げる青年の姿と、すり減ったノートのページを交互に見つめた。
「……君、確か先月から朝早くにホールへ来て、清掃員や裏方のスタッフにもいつも礼儀正しく挨拶していた学生さんだね」
「え……?」
「私も何度か見かけていたよ。そうか、あの新入生首席のお嬢さんのために、担当でもない君がそこまで泥をかぶるのか」
白川はふっと口元に渋い笑みを浮かべると、一度カバンにしまった指先保護用のテーピングを取り出し、自分の右手首に素早く巻き付けた。
「音楽家に対して失礼なんかじゃないさ。歌い手がステージで立ち往生している時に、駆けつけて鍵盤を叩くのが伴奏屋の誇りというものだよ。……顔を上げなさい、一条君。『ブレイジング・ハート』なら、目をつぶってでも弾ける。それどころか、ピアノ一本でフルバンド以上のロックを鳴らしてやろうじゃないか!」
「し、白川先生……っ! 本当に、ありがとうございます!!」
「礼はステージが終わってから聞くよ。さあ走ろう、ステージ袖のピアノの回線を開けに行くぞ!」
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白川を連れて『メロディア』を飛び出した護は、再び階段を駆け下りてグランドステージへと舞い戻った。
舞台袖のステージピアノに白川を案内すると、休む間もなく踵を返し、今度はホールの客席後方――一段高くなったオペレーションブースへと向かって非常通路を全力疾走する。
出番まで、残り十分。
前の出演者の曲が終わり、ステージ上では司会進行を務める放送部の生徒が、なんとか時間を繋ごうと必死にトークを始めていた。
走る護の靴底が、コンクリートの床に擦れて熱を持つ。呼吸が浅くなり、太ももの筋肉が悲鳴を上げ始めていたが、足は少しも緩まない。
「源さんっ!! 照美姐さんっ!!」
客席最後方のPAブースと照明ブースが並ぶエリアに飛び込んだ護は、巨大なミキシングコンソールの前に立つ轟源治と、照明卓のインカムを握る灯里照美の前へと駆け寄った。
「おう護!? お前、今舞台袖から『桐生のサーバーが復旧不能で、花海の嬢ちゃんが棄権になりそうだ』って連絡が来たところだぞ、どうなってやがる!」
「一条ちゃん、すごい汗じゃないか! 桐生のやつが勝手に辞退届を出そうとしてるって聞いたよ!」
心配と苛立ちの入り混じった顔で振り返る二人の前に、護はバンッ! と両手で『観察ノート』を開いて置いた。
「源さん、照美姐さん! 棄権はさせません! 今、第2スタジオからピアニストの白川先生に駆けつけていただいて、上手袖のステージピアノに入ってもらいました!」
「なっ……白川先生を生伴奏に引っ張ってきただぁ!? おいおい護、あの曲は激しいロックナンバーだぞ! 同期クリックもイヤモニもなしで、どうやってピアノ一本とボーカル、それに照明を合わせる気だ!?」
「合わせられます! いえ、クリックやガイドがない方が、本当の花海咲季は何倍も輝くんです!!」
護はノートの『花海咲季』のページを指差し、二人のベテラン職人の目を真っすぐに見つめてプレゼンテーションを始めた。
「これを見てください! 桐生さんは『十王のメソッド』に従って、咲季さんの出力を8割に抑え、均一なデジタルクリックに当てはめようとしていました。でも、それは間違っています! 花海咲季というアイドルは、サビに入る直前の0.8秒――深く息を吸い込むブレスと、床板を踏み抜くような力強いステップの瞬間に、一番強く輝くんです!」
護の指先が、ノートに描かれた詳細なステージ図と、秒単位のグラフをなぞる。
「細かいクリックなんていりません! 源さん、上手袖のピアノのアナログ回線と、有線のダイナミックマイクを一本だけ開けてください! そして足元のフロアモニターから、白川先生のピアノの音を直接咲季さんにぶつけてほしいんです! 一番のサビ前、彼女が強く床を踏み込んだ瞬間に、ボーカルとピアノのフェーダーを恐れずにグッと前へ突き出してください! 彼女の声量なら、絶対に音割れなんてしません、ホールの空気ごと震わせるはずです!」
息もつかせぬ具体的な提案。
ただの根性論ではない。咲季の声の特性、ブレスの深さ、そして源さんが普段どのようにコンソールを操っているかを、毎朝の見学で学び取った護だからこそ言えるディレクションだった。
さらに護は、隣で目を見張っている照美の方へと向き直る。
「照美姐さん! デジタル同期のプログラム照明は全部切ってください! 一番は白川先生のピアノと咲季さんの歌の掛け合いに合わせて、シンプルな白のフロント照明だけで彼女の表情を追っていただきたいんです。そして――二番のサビの最高音に入る瞬間! 咲季さんが右拳を天に突き上げますから、そこでバックの真紅のライトとピンスポットを全開にして、彼女の姿を逆光で照らし出してください!」
「…………っ!」
オペレーションブースに、一瞬の静寂が落ちた。
源さんと照美は、卓の上に広げられたボロボロの観察ノートへと視線を落とす。
角がすり減り、何十枚もの付箋が貼られたそのページには、花海咲季という少女がいつ、どんな顔で練習し、どの瞬間に一番輝くのかが、並々ならぬ情熱と誠実さで記録されていた。
「……ハッ。まったく、大したバカ野郎だよ、お前は」
最初に沈黙を破ったのは、首のタオルをぐっと掴み直した源さんだ。
四十八歳の頑固オヤジの顔に、獰猛で頼もしい職人の笑みが浮かび上がる。
「首席の嬢ちゃんのオケが飛んだからって、短時間でピアニストの先生に頭を下げて口説き落として、俺たちにリハなしの生オペレーションを要求しやがるとはな! ……よし、俺の卓(コンソール)に任せろ! 毎日誰よりも早く来てケーブルを巻き、俺たちに頭を下げて勉強してきた護が、ここまで本気で頼んでんだ。一肌も二肌も脱いでやるよ!!」
「源さん……っ!」
「アタシも乗ったよ、一条ちゃん!」
照美がショートカットの髪を揺らし、パチンと威勢よく指を鳴らす。
そしてインカムのスイッチを入れると、ホール中の照明スタッフたちへ向かって凛とした声を飛ばした。
「おい若い衆、聞いたかい!? いつもアタシたちの名前を呼んで重いウエイトを運んでくれてた護くんが、アイドルの初陣を守るために走ってきたんだ! 自動プログラムは全部破棄だよ! 佐々木、高橋、二階席のピンスポットをマニュアル(手動)に切り替えな! アタシたちの光で、咲季ちゃんのステージを世界一カッコよく照らしてやろうじゃないさ!!」
『了解です、照美チーフ!!』
『一条君のためなら、一ミリもズレずに抜いてみせますよ!』
インカムの向こうから、照明スタッフや音響サブの若手たちの威勢のいい返事が次々と返ってくる。
源さんが分厚い指でデジタル同期の回線をバッサリと切り捨て、ステージピアノと有線マイクのフェーダーを立ち上げた。照美が照明卓のマスターレバーを握り、手動オペレーションのスタンバイを完了させる。
わずか数分のうちに、グランドステージを支える三十人以上のプロフェッショナルたちが、「一条護」という一人の新米の熱意を軸にして、完璧な臨戦態勢へと結集したのだ。
「準備はいつでもいけるぜ、護! あとはお前が、あの嬢ちゃんの背中を押してくるだけだ!」
「ありがとうございます、源さん、照美姐さん! ……必ず、最高の歌を届けさせます!」
護は二人に深々と頭を下げると、観察ノートをポケットにねじ込み、再び舞台袖へと向かって風のように駆け出した。
出番まで、あと三分。
すり減った靴底を鳴らして走る新米プロデューサーが、花海咲季の待つ舞台袖へと戻っていく。