ねえ、沙也加はどこか部活考えた?」
冗談みたいだった、いや、実際に冗談だったのだろうか。
とにかく、趣味の悪い夢だと思った。
「私は吹部、入って見たいなって思ってるんだ。
仮入部、一緒に行かない?」
飯田莉緒と仲良くなったのは、高校に入学してからだった。
そもそもの母数が多い首都圏の高校進学は、つまり多くの中学の同級生とはどの学校に行っても別々になることを意味していた。
それを防ぐために例えば友達と志望校を揃えるだとか、そういうことをやる気にもなれなくて、気付けば知り合いのいないこの学校に進学が決まっていた。
登校初日、莉緒が話しかけてきた時の驚きを今でも思い出せる。
思い返せば、同郷の士が知り合いの誰もいない新天地にいたのだから、向こうは話しかけるのが当然だったのだろう。
以来数日、気付けば高校生活で行動を共にするようになっていた。
「あー、うん、いいよ。」
本当に入りたかった軽音の見学は明日でも行けるし、友人もまだ少ない高校生活で、誰かと行動するチャンスを無駄にするのも躊躇われてたので、その日は吹奏楽部の部室へ向かった。
「またね!」
結局その日は仮入部に行って、2人でやいのやいのと言って、同じ中学出身なのだから当然のように最寄りまで一緒に帰った。
思い返せば、なぜあの日、私は彼女と帰らなかったのだろうか。
今になっては思い出せやしないし、彼女になにかを押し付けるつもりだって無い。
2人並んでバスに乗ると、何だか携帯を見過ぎるのも良くない気がして、窓の外を眺める。
今自転車を漕いでいたのは、確か新しいクラスメイトだっただろうか。
この学校の野球部は、あのようなデザインのバッグを使うのから、
これくらいの時間になると、空が酷くオレンジ色だとか、とにかく、世界をよく見るようになって、他愛もない話をして、最寄りで別れた。
結局翌日、軽音楽部の仮入部に行こうとして、なんだか皆もうひとかたまりになっていて、ここから自分がバンドを組める未来が想像出来なくて、その日は帰って、そのままなんとなくで吹奏楽部に入ることに決めた。
いつまで、こんな夢を見続けているのだろうか。
過去にはもう、戻ればしないのに。
♢♢♢♢
半年前、大きな交通事故があった。
被害者は私で、加害者は酔っ払い。
可哀想な高校生は腕に後遺症が残り、部活を引退。
それでも健気にリハビリをし、日常生活を送れるように。
社会生活に復帰すると、無頓着で無遠慮で、残酷な優しさが私を襲った。
毎日、制服を脱げば、腕に残った傷跡が見える。
楽器が吹けなくても言いだなんて言われて、吹奏楽部の部室に連れていかれたこともある。
悪意の無い優しさというものに、私の心はとても耐えられなかった。
どうにか部活に残る手段を提案してくれた仲間や、コンクールや演奏会は見に来てくれと言われたところで、居心地の悪さというのは変わらなくて、それ以降部室に行くことは無く、また人間関係だって自然と解消されていった。
松葉杖が外れた頃には、気遣いとは別種の遠慮が周囲に芽生えているのを感じて、そういう時に限って手の震えがどこまでも微細に伝わってきて、悔しさで死にそうだった。
気付けば冬は終わって、春が来て、今日から私の高校3年生が始まることになる。
今後のことを、私は何も決められずにいる。
♢♢♢♢
地を踏むことも、バスに揺られることも、意識すれば違和感があるし、意識しなければなんともない。
それはあの日の経験からなのか、その前からそうだったのかは思い出せないけれど、どうにしろこれからずっと付き合っていく感覚なのだと思う。
バスを降りて、校舎までの僅かな距離、聴いている曲がもうすぐ終わるだろうか、ちょうど終わるなら気持ちいいし、ブツ切りならなんだか勿体ない。
高校三年のクラス替えは、文理が2年から分かれている関係で大きな変化が起こることもない。
もっとも、それは3分の1程度がそのまま持ち上がると言うだけで、逆に言えば3分の2は違うクラスから来るといことになる。
2年のクラスで始業式に参加し、ホームルームでクラスが発表される。
3年4組、同じクラスになって盛り上がってるクラスメイト達を横目に見る。
何人かと、「今年も一緒で良かった」という言葉を交わして、そろそろクラスを移動してくれと担任から声がかかる。
1フロア下の、3年の教室のフロアへと向かう。
プラスとマイナスの足し引きで言えば、上級生の教室が下の階にあるのは正しいのかもしれないけれど、昔から一定の寂しさを感じていた。
入学した時、それから暫く、1年の頃は幾人かの頭越しに空を見ていた。
それが今や街路樹の木と同じ目線だ。
自分の人生の浮つきを責められている気がして、このシステムの事がずっと好きになれなかった。
誰かしらがもうたどり着いたのか、もう扉は開かれていた。
中を見れば、持ち上がりであろう幾人かが輪になって話している。
前のクラスの担任から貰った紙に書いてある番号の机に座って、少し時が経つのを待った。
同じクラスだった子が話しかけて来てくれたり、かと思えばどこかへ飛んでいったり。
新しいクラス、最後の1年の始まり。
去年まではもう少し心を踊らせていた気がするのに、今年はそうでもないのは、前からの持ち上がりが多いからだろうか、それとも、何か別の事があるのだろうか。
窓の外の景色は、予想してた通りであって予想よりも遥かに狭かった。
歩道を歩く人間が、申し訳程度の街路樹が、遠くなった空が、時間の経過というものを伝えてくる。
1年の頃、空の青を背にした彼女との会話が、何より楽しかったのを不意に思いだした。
過去の事を、単純だったという人がいる。
それは正鵠を射ているようでいて、それもまた違うのではないかと思う。
少なくとも学生生活においては、高校3年というのは1年よりもずっと単純で、夢の無い場所だった。
「沙也加?」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、懐かしい顔があった。
「久しぶりだね、えっと、ほんといつぶりだっけ?」
遠慮を含んだたどたどしい言葉遣いで、彼女は、莉緒は私に話しかけてきた。
「前、いいかな?」
「また、なんだ。」
「また、だね。」
柔らかく笑って、私の前の席に莉緒が座った。
彼女、飯田莉緒は同じ中学の出身で、高校になってから仲良くなった。
私の苗字は"江島"で、莉緒は"飯田"、1年の頃のクラスには"う"から始まる苗字の人がいなくて、前後同士になった私たちは、よく話すようになった。
同じ吹奏楽部に所属して、行きも帰りも一緒に過ごすような仲だった。
2年はクラスが別で、私が事故にあってからは、私が関わるのを避けていた。
なんだか気まずかったのだ。
それが、運命というほど大きな偶然じゃないかもしれないけれど、今年も前後の席で過ごすことになるらしい。
莉緒は私の前の席に腰掛けて、荷物を掛けると振り返って、私に向き合った。
「改めて、久しぶり。」
「うん、久しぶり。」
「その、怪我は、どう?」
「いきなり?」
「あ、えっと....」
「....っふ、変わってないね、なんか安心した。」
「え、びっくりした〜、地雷踏んだかと思ったよ。」
「地雷ではあるけどね?」
「あ、うん。」
なんだか安心して、2人して笑いあった。
あの頃、何か楽しかった頃の何かがそこにある気がして、期待が胸の中で膨らんで、なにか逸るように言葉が出ていった。
「元気だった?」
「元気だよ〜、超元気。」
「部活の方は?」
「今年、意外といけるかも、みたいな?」
「おお」
「沙也加は何してたの?部活辞めてから、あんま話さなくなっちゃったじゃん?」
「リハビリ?いや、ほんとにさ、3ヶ月くらい歩けなかったんだから。」
会話が心地良い、懐かしい。
遠慮をするのが下手なところも、声のトーンも、目を合わせた時の眦も、きっと無くしたと思ってたもので、記憶の中では、もっと青かったものだ。
「はい!みんな座って〜」
担任の先生が入ってきて、大きな声で教室に呼びかけた。
「やばっ、また後でね!」
莉緒はそう言って、前を向き直した。
♢♢♢♢
ホームルームが終わって、自己紹介をして、教科書を取りに行き、適当な雑談をして帰りになる。
人生でいままで、本当に何度も繰り返してきたはずのそれは、高校三年生という現在において、ともすれば感傷の源になったかもしれないが、驚くほどに何も感じなかった。
「今日って部活あるの?」
「うん、新入生くるかもしれないし、色々準備しなきゃ。」
「3年生だもんね、ね、歳もとるよね。」
「なにそれ、ババくさい。」
半年間の疎遠などというのは、短い人生の中でもありふれたもので、また距離感を上手く掴めたのなら、取り返すのに5分もかからないものだった。
「ねね、飯田さんって江島さんと仲良いの?」
話しかけてきたのは、去年同じクラスだった日畑さんだった。
「あ、うん、どうして?」
「今年、持ち上がり多いでしょ?江島さん、去年あんまり話さなかったから、これを機に仲良くなりたいなって。」
「それで?」
「江島さん、なつちゃんとかとは話してたけど、あんまり色んな人と話すタイプじゃなかったでしょ?
楽しそうに話してたから、混ざりたいな〜って。」
少しだけ、頭が冷えていくのを感じていた。
「そうなの?」
「別に、いや、友達多いタイプじゃないじゃん、私。」
「まあそうか。」
「あはは、やっぱ仲良いね、2人、どういう関係?」
「あー、1年の頃クラス同じで、席が前後ろでさ。」
「そう、実は中学も同じで。」
「それで更に、部活も....」
莉緒が途中で、ほんの一瞬だけ、言葉に詰まった。
「あー、吹部だっけ?あ、江島さんって....」
「いや、いいって、大丈夫だから。」
「あ、ごめん。」
「触れづらいみたいに扱われるのもなんか居づらいから、これから一緒のクラスなんだから気にしないでいいよ。」
「あ、うん、うん、これからよろしくね。」
「うん、よろしく。」
「飯田さんも。」
「あ、うん。」
莉緒は、1度言葉に詰まってから、そのまま口を噤んでいた。
私は、心が冷えていくのを感じていた。
事故に触れられたことが嫌だった訳じゃない。
ただ、莉緒との間に出来てしまった、あの透明な壁のようなものをまた感じてしまったからだ。
指先を見る、少し震えている。
自分から距離を開けたのに、馬鹿みたいだった。
チャイムが鳴る。
帰りのホームルームを終える。
「あ、じゃあ、私部活行くね。」
「うん、また明日。」
「またね!」
また明日、その言葉を最後に交わしあったのは何時だっただろうか。
教室を出て行く莉緒の背中を見送る。
私はイヤホンを着けて、バス停へと向かう。
イヤホンから流れる音楽が、あの頃よりずっと響いて、涙が出そうだった。