少なくとも、フリーレンはそう思っていた。
魔王討伐の旅から八十年以上。
かつて勇者一行が訪れた小さな村で、フリーレンは一冊の日記を受け取る。
それは、今は亡き勇者ヒンメルが残したものだった。
そして、そこには一つの告白が記されていた。
『フリーレンに、一つだけ嘘をついた』
勇者ヒンメルは、なぜ嘘をついたのか。
これは、長い時を越えてようやく届いた、ある勇者の小さな願いの物語。
勇者ヒンメルは、嘘をつかない人だった。
少なくとも、フリーレンはそう思っていた。
彼は少し格好つけで、自分の銅像を見つければ必ず立ち止まり、頼まれてもいないのに人助けをするような男だった。
くだらない冗談を言うこともあった。自分の容姿を褒めることもあった。鏡の前で髪型を整える時間が、魔王討伐の旅に必要なのかと疑問に思ったことも、一度や二度ではない。
それでも。
勇者ヒンメルは、嘘をつかない人だった。
だからこそ、フリーレンは不思議に思った。
あの日、彼が口にした言葉を。
そして、その言葉が嘘だったと知ったとき。
彼女は初めて、勇者ヒンメルという人間のことを、ほんの少しだけ理解したのだった。
◇
「フリーレン様」
「んー?」
「聞いていますか?」
「聞いてるよ」
「では、私が今何と言ったか答えてください」
「……今日の夕飯はハンバーグ?」
「違います」
即答だった。
フリーレンは少しだけ残念そうな顔をした。
隣を歩いていたフェルンが、深いため息をつく。
「次の村まで、あと二時間ほどです。今日はそこで宿を取りましょうと言ったんです」
「そうなんだ」
「そうなんだ、ではありません。ちゃんと聞いてください」
「フェルンはお母さんみたいだね」
「誰のせいだと思っているんですか」
いつものやり取りだった。
秋の終わり。
北側諸国の山間部を、三人は歩いていた。
街道の両脇には背の高い木々が並び、色づいた葉が風に揺れている。空は高く、雲は薄い。旅をするには悪くない天気だった。
ただし、少し寒い。
「なあ、フェルン」
後ろからシュタルクが声をかけた。
「なんですか」
「次の村って、温泉とかあるのか?」
「知りません」
「いや、そんな冷たく言わなくても……」
「シュタルク様は温泉のことしか考えていないんですか」
「そんなことないって。飯のことも考えてる」
「最低ですね」
「なんでだよ!」
フリーレンは二人の会話を聞き流しながら、道端に咲いている小さな花を眺めていた。
白い花だった。
五枚の花弁が、風に揺れている。
どこかで見たことがある。
そう思った。
「……あ」
足を止める。
「フリーレン様?」
「この花」
フリーレンはしゃがみ込んだ。
小さな白い花。
珍しい種類ではない。北側諸国では、秋になるとよく見かける。
名前は、確か。
「忘れな草ですね」
フェルンが言った。
「違うよ」
「え?」
「これは月白草。似てるけど、花弁の形が違う」
「そうなんですか」
「うん」
フリーレンは花に触れた。
その瞬間。
遠い昔の記憶が、不意に蘇った。
『綺麗な花だね』
青い髪の青年が、笑っていた。
『そうかな。ただの雑草だよ』
『フリーレンは花に厳しいね』
『ヒンメルが何にでも感動しすぎなんだよ』
『そうかもしれない』
そう言って、ヒンメルは笑った。
そして。
『でも、僕は好きだよ。こういう花も』
……そうだった。
あれは、魔王討伐の旅の途中。
確か、この辺りだった。
「フリーレン様?」
「……なんでもない」
フリーレンは立ち上がった。
「行こうか」
「はい」
再び歩き始める。
背後で、風が吹いた。
白い花が揺れていた。
◇
村の名前は、リーベル。
北側諸国の山間にある、小さな村だった。
人口は百人ほど。石造りの家が並び、中央には古い教会が建っている。
宿屋は一軒しかなかった。
「三人部屋はないんだって」
「では、私とフリーレン様が同じ部屋ですね」
「え、俺は?」
「一人でお願いします」
「即決!?」
シュタルクが抗議したが、フェルンは取り合わなかった。
宿の主人は、白髪の老人だった。
フリーレンたちを見ると、穏やかに笑った。
「旅の方かね」
「うん」
「この村には何もないが、ゆっくりしていくといい」
「ありがとう」
部屋の鍵を受け取ろうとしたときだった。
老人の視線が、フリーレンの顔で止まった。
「……おや」
「?」
「もしかして、あんたは……」
老人は目を細めた。
「勇者ヒンメル様と旅をしていた、魔法使いのフリーレン様かね?」
「そうだけど」
老人は驚いたように口を開けた。
「なんと……!」
それから、少し嬉しそうに笑った。
「お久しぶりですな」
「……会ったことあったっけ」
「ええ。もっとも、わしはまだ子供でしたが」
老人は懐かしそうに言った。
「覚えておられませんか。八十年以上前、勇者一行がこの村に立ち寄ったことを」
フリーレンは少し考えた。
八十年以上前。
魔王討伐の旅。
この村。
「……ああ」
思い出した。
「確か、橋を直した村だ」
「そうです!」
老人が声を弾ませる。
「あのときは、本当にありがとうございました。あの橋がなければ、村は冬を越せなかったでしょう」
「直したのはヒンメルたちだよ。私は魔法で資材を運んだだけ」
「それでも、村にとっては大恩人です」
老人は何度も頭を下げた。
フェルンとシュタルクが、顔を見合わせる。
「フリーレン様、そんなことがあったんですね」
「うん。大したことじゃないよ」
「フリーレン様にとっては、そうかもしれませんが……」
フェルンは小さく笑った。
老人はしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思い出したように手を打った。
「そうだ。フリーレン様に、お渡ししたいものがあるんです」
「私に?」
「ええ」
老人は宿の奥へと消えていった。
しばらくして、古びた木箱を抱えて戻ってくる。
箱の表面には、長い年月を感じさせる傷がいくつも刻まれていた。
「これは、祖父から預かったものです」
「お祖父さん?」
「はい。祖父は当時、この村の村長を務めておりました」
老人は箱を机に置いた。
「勇者ヒンメル様から、あるものを預かったそうです」
フリーレンの手が止まった。
「……ヒンメルから?」
「ええ」
老人は頷いた。
「いつか、フリーレン様がこの村を訪れたら渡してほしいと」
そして。
箱の蓋が、ゆっくりと開かれた。
中に入っていたのは。
一冊の、古い日記だった。
◇
「ヒンメル様の日記、ですか」
フェルンが目を丸くした。
「うん」
夕食を終えたあと。
三人は宿の一室に集まっていた。
机の上には、古びた日記が置かれている。
革張りの表紙は色褪せ、角が擦り切れていた。
「へえ……勇者ヒンメルの日記か」
シュタルクが興味深そうに覗き込む。
「何が書いてあるんだ?」
「まだ読んでない」
「なんで?」
「なんとなく」
フリーレンは日記を見つめた。
不思議な気分だった。
ヒンメルは、よく喋る男だった。
旅の途中、くだらないことから真面目なことまで、何でも話した。
美しい景色を見れば感想を口にし、困っている人を見れば迷わず手を差し伸べた。
自分の考えを隠すような人間ではなかった。
だから。
日記をつけていたことが、少し意外だった。
「フリーレン様」
「ん?」
「無理に読む必要はないと思います」
フェルンが静かに言った。
「ヒンメル様が残されたものなら、きっと大切なものなのでしょう。でも、読むかどうかはフリーレン様が決めることです」
「……そうだね」
フリーレンは日記を手に取った。
表紙を撫でる。
長い時間が過ぎていた。
ヒンメルが亡くなってから、もう何十年も経つ。
それでも。
こうして彼の残したものに触れると、不思議と昨日のことのように思える。
「……読むよ」
フリーレンは言った。
「ヒンメルが私に残したものなら、読んでみたい」
フェルンは頷いた。
「では、私たちは部屋に戻りますね」
「え、俺も読んでみたかったんだけど」
「シュタルク様」
「はい」
「行きますよ」
「……はい」
二人が部屋を出ていく。
扉が閉まった。
静寂が訪れる。
フリーレンは、ゆっくりと日記を開いた。
◇
最初のページには、こう書かれていた。
『勇者ヒンメルの旅の記録』
その下に、小さな文字が続いている。
『いつか忘れてしまうかもしれない、僕たちの日々について』
フリーレンは首を傾げた。
「……忘れる?」
ヒンメルらしくない言葉だった。
彼はよく、思い出について語っていた。
旅の記憶は何より大切だと。
どんなにくだらない出来事でも、いつかきっと宝物になるのだと。
だから、忘れることを恐れているような文章が、少し意外だった。
ページをめくる。
『旅の三年目。今日はフリーレンが寝坊した』
「……」
『朝からハイターが酒を飲んでいたので、僕が注意した。するとハイターは、フリーレンも昼まで寝ているじゃないですかと言い返してきた』
「……ハイター」
『確かにそうだったので、何も言い返せなかった』
フリーレンは小さく息を吐いた。
覚えている。
あの日、ハイターは朝から酒を飲んでいた。
ヒンメルは呆れていた。
アイゼンは黙々と朝食を食べていた。
そして自分は。
「……寝てたね」
次のページ。
『フリーレンが新しい魔法を覚えた。服についた泥を綺麗に落とす魔法らしい』
『嬉しそうだったので、僕も嬉しかった』
その次。
『今日は村の子供たちと遊んだ。フリーレンは最初、面倒くさそうにしていたが、最後には子供たちに魔法を見せていた』
『本人は否定するだろうけど、案外面倒見がいい』
「……余計なお世話だよ」
また、ページをめくる。
『今日は綺麗な夕焼けを見た』
『フリーレンは、いつもと同じだと言った』
『でも、僕には今日の夕焼けは今日だけのものだと思えた』
『いつか彼女にも、そう思ってもらえたら嬉しい』
フリーレンは手を止めた。
窓の外を見る。
夜だった。
星が、静かに瞬いている。
ヒンメルは。
本当に、変わった人間だった。
同じような景色を何度も見ているのに、そのたびに感動していた。
百年もすれば、同じ場所で似たような夕焼けを見ることができる。
フリーレンには、それで十分だった。
でも。
ヒンメルにとっては、違ったのだろう。
「……そういうことだったんだね」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
そして、次のページをめくった。
そこに書かれていた日付を見て。
フリーレンは、動きを止めた。
◇
『旅の七年目。リーベル村』
この村だった。
『今日は橋の修復を手伝った。村人たちはとても喜んでくれた』
『ハイターはお礼に酒をもらっていた。アイゼンは村の子供たちに囲まれていた』
『フリーレンは、村外れの花畑にいた』
フリーレンは目を細めた。
思い出した。
あの日。
橋の修復が終わったあと。
ヒンメルは自分を探しに来たのだ。
村外れの、小さな丘。
そこには白い花が咲いていた。
月白草。
今日、街道で見かけた花だった。
そして。
あの日、ヒンメルは。
『フリーレンに、一つだけ嘘をついた』
フリーレンの指が止まった。
「……え?」
もう一度、文字を読む。
『フリーレンに、一つだけ嘘をついた』
間違いない。
ヒンメルは、そう書いていた。
「……嘘?」
フリーレンは眉を寄せた。
あの日のことを思い出す。
白い花。
夕暮れ。
ヒンメルの笑顔。
そして。
彼の言葉。
『大丈夫だよ、フリーレン』
……そうだ。
確かに、言っていた。
でも。
何に対して、大丈夫だと言ったのだろう。
フリーレンは記憶を辿った。
八十年以上前の、何気ない会話。
それは、彼女にとってほんの一瞬の出来事だった。
けれど。
ヒンメルにとっては。
日記に残すほど、大切なことだったらしい。
◇
あの日。
リーベル村の丘には、白い花が咲いていた。
「フリーレン」
「ん?」
「こんなところにいたんだね」
振り返ると、ヒンメルが立っていた。
いつもの青い髪。
いつもの笑顔。
いつもの、少し気取った立ち姿。
「探したよ」
「何か用?」
「いや、特には」
「じゃあ、なんで探したの?」
「君がいなかったからね」
「……変なの」
フリーレンは再び花に視線を戻した。
ヒンメルが隣に座る。
「綺麗な花だね」
「ただの雑草だよ」
「フリーレンは花に厳しいね」
「ヒンメルが何にでも感動しすぎなんだよ」
「そうかもしれない」
ヒンメルは笑った。
しばらく、二人で花を眺めていた。
風が吹く。
白い花が揺れる。
やがて。
フリーレンが、ぽつりと言った。
「……ねえ、ヒンメル」
「なんだい?」
「人間って、どうしてそんなに急ぐの?」
ヒンメルは少し驚いた顔をした。
「急ぐ?」
「うん」
フリーレンは花を指差した。
「この花、来年も咲くよ」
「そうだね」
「再来年も咲く」
「うん」
「百年後も、きっと咲いてる」
ヒンメルは黙って聞いていた。
「でも、ヒンメルは今見ないといけないって言う」
「……そうだね」
「どうして?」
フリーレンには、わからなかった。
花はまた咲く。
夕焼けはまた訪れる。
季節は巡る。
何度でも。
それなのに。
ヒンメルは、いつも今を大切にしていた。
まるで。
次がないことを、知っているかのように。
「……そうだな」
ヒンメルは少し考えた。
「僕たち人間は、君ほど長く生きられないからね」
「知ってるよ」
「だから、今見ておきたいんだ」
「……ふうん」
フリーレンは納得したような、していないような顔をした。
それから。
何気なく、尋ねた。
「ねえ、ヒンメル」
「うん?」
「ヒンメルも、いつか死ぬんだよね」
風が止んだ。
ヒンメルは、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに笑った。
「そうだね」
「……そっか」
フリーレンは花を見つめた。
「変な感じ」
「何が?」
「ヒンメルがいなくなるの」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。
ただ。
旅を始めて七年。
ヒンメルは、いつも隣にいた。
朝になれば声をかけてきて。
何かを見つければ嬉しそうに話して。
くだらないことで笑って。
困っている人を助けて。
そういう日々が、当たり前になっていた。
だから。
「……いなくなったら、困るかもしれない」
そう言った。
ヒンメルは、何も答えなかった。
しばらくして。
彼は、静かに尋ねた。
「フリーレン」
「ん?」
「君は、僕がいなくなったら寂しいかい?」
「……わからない」
正直な答えだった。
寂しいという感情を、フリーレンはまだよく理解していなかった。
長い時間を生きてきた。
多くの出会いと別れを経験した。
けれど、そのほとんどは、いつの間にか過ぎ去っていた。
だから。
「たぶん、すぐ忘れると思う」
フリーレンは言った。
「人間と過ごす時間なんて、私にとっては短いから」
ヒンメルは、少しだけ目を伏せた。
それから。
「……そうか」
小さく呟いた。
フリーレンは続けた。
「でも、忘れたくないな」
ヒンメルが顔を上げる。
「……え?」
「ヒンメルたちとの旅」
フリーレンは、何気なく言った。
「結構楽しいから」
ヒンメルは黙った。
フリーレンは首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いや」
ヒンメルは笑った。
「なんでもないよ」
そして。
少しだけ、声を柔らかくして言った。
「大丈夫だよ、フリーレン」
「何が?」
「君はきっと、忘れない」
フリーレンは目を瞬かせた。
「……どうして?」
ヒンメルは、いつものように笑った。
「僕が、そう約束するからさ」
それが。
勇者ヒンメルの、嘘だった。
◇
フリーレンは日記を見つめた。
あの日の会話を、思い出した。
確かに、ヒンメルはそう言った。
『君はきっと、忘れない』
『僕が、そう約束するからさ』
でも。
それが嘘だというのは、少しおかしい。
実際、フリーレンは覚えていた。
ヒンメルのことも。
旅のことも。
あの日の花畑も。
忘れていない。
それなら。
「……何が嘘だったの?」
ページをめくる。
そこには、ヒンメルの文字が続いていた。
『フリーレンは、僕たちとの旅を忘れたくないと言った』
『嬉しかった』
『本当に、嬉しかった』
『でも、僕は彼女に嘘をついた』
『君はきっと忘れない、と』
『僕が約束する、と』
『そんなこと、僕にわかるはずがないのに』
フリーレンは、静かに読み進めた。
『彼女はエルフだ』
『僕たちより、ずっと長く生きる』
『百年、千年。その先も』
『僕がいなくなったあと、彼女がどんな人生を歩むのか、僕にはわからない』
『もしかしたら、僕たちの旅なんて、本当に一瞬の出来事になってしまうのかもしれない』
『いつか、僕の名前も』
『顔も』
『声も』
『全部、忘れてしまうのかもしれない』
フリーレンは、息を止めた。
『それでも、僕は言った』
『大丈夫だよ、と』
『忘れないよ、と』
『約束する、と』
『なぜなら』
そこで、文章が途切れていた。
次のページは、白紙だった。
「……え?」
フリーレンはページをめくった。
何も書かれていない。
さらにめくる。
白紙。
その次も。
白紙。
「……どうして」
日記は、そこで終わっていた。
いや。
正確には、終わっていなかった。
ヒンメルは、続きを書かなかったのだ。
なぜ。
なぜ、あんな言葉を残したのか。
なぜ、嘘をついたのか。
その答えだけが。
どこにも、書かれていなかった。
◇
翌朝。
「フリーレン様?」
フェルンが部屋を覗くと、フリーレンはまだ机に座っていた。
日記を開いたまま。
窓の外を眺めている。
「……寝ていないんですか?」
「うん」
「まったく……」
フェルンはため息をついた。
「何か、気になることでも書いてあったんですか?」
「……ヒンメルがね」
「はい」
「嘘をついてたんだって」
フェルンは目を瞬かせた。
「ヒンメル様が?」
「うん」
「……珍しいですね」
「そうだね」
フリーレンは日記を閉じた。
「でも、何が嘘だったのか、よくわからないんだ」
フェルンは少し考えた。
「フリーレン様」
「ん?」
「ヒンメル様は、どんな嘘をついたんですか?」
「私が、ヒンメルたちとの旅を忘れないって」
「……」
「でも、私は覚えてる」
フリーレンは言った。
「だから、嘘じゃなかったと思うんだけど」
フェルンは、しばらく黙っていた。
それから。
「……フリーレン様」
「何?」
「ヒンメル様は、本当に忘れないと信じていたんでしょうか」
「……?」
「それとも」
フェルンは、静かに言った。
「忘れてほしくなかったんでしょうか」
フリーレンは、目を見開いた。
◇
その日の昼。
三人は村を出ることにした。
宿の老人は、最後まで名残惜しそうだった。
「また、いつでもいらしてください」
「うん」
「勇者ヒンメル様も、同じことを言ってくださいました」
「……そうなんだ」
老人は笑った。
「ええ。あの方は、本当に不思議な人でした」
「不思議?」
「はい」
老人は、少し遠くを見るような目をした。
「祖父から聞いた話ですが、ヒンメル様はこの村を去る前に、一人で丘へ行かれたそうです」
「……丘?」
「ええ。村外れの、白い花が咲く丘です」
フリーレンは、顔を上げた。
「そこで、何かを埋めていかれたとか」
「……埋めた?」
「はい。何を埋めたのかは、祖父も知らなかったようですが」
老人は笑った。
「もしかしたら、宝物でも隠したのかもしれませんな」
フリーレンは、しばらく黙っていた。
それから。
「……フェルン」
「はい」
「ちょっと寄り道していい?」
フェルンは微笑んだ。
「もちろんです」
◇
丘には、白い花が咲いていた。
八十年以上前と、同じように。
風が吹く。
花が揺れる。
フリーレンは、ゆっくりと歩いた。
記憶を辿る。
あの日。
ヒンメルは、どこに座っていた?
自分は、どこにいた?
花は、どの辺りに咲いていた?
八十年以上。
人間にとっては、途方もない時間。
けれど。
フリーレンにとっては、ほんの少し前のことだった。
「……ここ」
足を止める。
丘の端。
大きな木の根元。
あの日、ヒンメルが座っていた場所。
フリーレンはしゃがみ込んだ。
「何かあるのか?」
シュタルクが尋ねる。
「たぶんね」
フリーレンは地面に手を当てた。
探知魔法を使う。
土の下。
木の根の近く。
小さな反応があった。
「……あった」
慎重に土を取り除く。
そこから現れたのは。
小さな、金属の箱だった。
錆びてはいたが、魔法による保護が施されている。
フリーレンは、その魔法に見覚えがあった。
「……これ」
自分の魔法だった。
正確には。
旅の途中で、ヒンメルに教えた魔法。
物を長持ちさせるための、簡単な保存魔法。
ヒンメルは、あの日。
『これ、便利だね』
そう言っていた。
まさか。
こんなことに使っていたなんて。
フリーレンは箱を開けた。
中には。
一通の手紙が入っていた。
宛名は。
『フリーレンへ』
見慣れた、ヒンメルの文字だった。
◇
フリーレンは手紙を開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『フリーレンへ』
『君がこの手紙を読んでいるということは、きっと僕はもういないんだろうね』
『なんだか不思議な気分だ』
『君に手紙を書くなんて、少し照れくさい』
『でも、どうしても伝えておきたいことがある』
『あの日、僕は君に嘘をついた』
『君は僕たちの旅を忘れない、と』
『僕が約束する、と』
『本当は、そんな約束なんてできない』
『人の記憶は、いつか薄れていくものだから』
『ましてや、君は僕たちよりずっと長く生きる』
『いつか僕たちのことを忘れてしまっても、不思議じゃない』
『それでも』
『僕は、君に忘れてほしくなかった』
フリーレンの指が、わずかに震えた。
『格好悪いだろう?』
『勇者なのに、そんなことを考えていたんだ』
『僕は、君の人生のほんの一瞬しか一緒にいられない』
『君がこれから出会う人たちの中には、僕なんかよりずっと大切な人が現れるかもしれない』
『君が僕たちのことを思い出さなくなる日が来るかもしれない』
『それが、少しだけ怖かった』
『だから、嘘をついた』
『君はきっと忘れない、と』
『僕が約束する、と』
『本当は』
『僕の方が、約束してほしかったんだ』
フリーレンは、動かなかった。
風が吹いた。
白い花が揺れる。
手紙は、まだ続いていた。
『でもね、フリーレン』
『今は、少し考えが変わったんだ』
『もし、いつか君が僕たちのことを忘れてしまっても』
『それは、きっと悪いことじゃない』
『君がそれだけ長く生きて』
『たくさんの人と出会って』
『たくさんの思い出を作ったということだから』
『だから』
『無理に覚えていなくてもいい』
『僕たちのことを忘れてしまっても、構わない』
『ただ』
『君が、幸せでいてくれたら』
『それだけで、僕は嬉しい』
フリーレンは、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に。
何かが、静かに広がっていく。
それは、痛みのようでもあり。
温かさのようでもあった。
手紙の最後には。
たった一行。
こう書かれていた。
『それでも、もし覚えていてくれたなら――僕はきっと、世界で一番幸せな勇者だ』
◇
「……馬鹿だね」
フリーレンは呟いた。
声が、少しだけ震えていた。
「本当に、馬鹿だよ」
ヒンメルは。
いつもそうだった。
自分のことを後回しにして。
誰かのために笑って。
誰かのために戦って。
誰かのために、何かを残して。
そして。
自分の本当の気持ちは、いつも隠していた。
「……忘れるわけないじゃん」
フリーレンは、小さく言った。
「ヒンメル」
返事はない。
当たり前だった。
彼は、もういない。
ずっと前に、亡くなった。
それでも。
「……私、覚えてるよ」
フリーレンは手紙を胸に抱いた。
「ヒンメルが、朝から鏡を見てたことも」
「ハイターと喧嘩してたことも」
「アイゼンに呆れられてたことも」
「くだらないことで笑ってたことも」
一つずつ。
思い出す。
「……全部、覚えてる」
声が、かすれた。
「忘れてないよ」
風が吹いた。
白い花が揺れた。
まるで。
遠い昔の誰かが、笑っているようだった。
◇
少し離れた場所で。
フェルンとシュタルクは、静かに待っていた。
「……なあ、フェルン」
「なんですか」
「フリーレンってさ」
「はい」
「ヒンメルのこと、すごく大切に思ってたんだな」
フェルンは、フリーレンの背中を見つめた。
「……そうですね」
「でも、本人は気づいてなかったんだろ?」
「たぶん」
フェルンは、小さく笑った。
「フリーレン様は、少し鈍いですから」
「……少し?」
「シュタルク様」
「はい」
「余計なことは言わなくていいです」
「……はい」
二人は、再び黙った。
丘の上では。
フリーレンが、静かに花を見つめていた。
◇
それから、しばらくして。
三人は再び旅を始めた。
街道を歩く。
秋の風が吹く。
空は高く、雲は薄い。
いつもと同じような景色だった。
「フリーレン様」
「ん?」
「次の街まで、あと三日ほどです」
「そうなんだ」
「途中に小さな村があるようなので、そこで一泊しましょう」
「うん」
「……ちゃんと聞いていますか?」
「聞いてるよ」
「では、私が今何と言ったか答えてください」
「今日の夕飯はハンバーグ?」
「違います」
フェルンがため息をつく。
シュタルクが笑う。
いつもの旅だった。
けれど。
フリーレンは、少しだけ足を止めた。
道端に。
白い花が咲いていた。
月白草。
八十年以上前。
ヒンメルと見た花。
フリーレンは、しゃがみ込んだ。
「……綺麗だね」
フェルンが振り返る。
「フリーレン様?」
「この花」
フリーレンは、静かに笑った。
「綺麗だと思わない?」
フェルンは少し驚いた顔をした。
それから。
「……はい」
微笑んだ。
「とても、綺麗ですね」
フリーレンは頷いた。
そして。
小さな花を、しばらく眺めていた。
百年後も。
きっと、この花は咲くのだろう。
千年後も。
同じように、風に揺れているのかもしれない。
でも。
今日の花は、今日だけのものだ。
ヒンメルが、そう言っていた。
今なら。
少しだけ、わかる気がした。
◇
その夜。
フリーレンは、焚き火の前で日記を開いていた。
ヒンメルの日記。
旅の記録。
最後のページには、まだ余白が残っていた。
フリーレンは、羽ペンを取り出した。
そして。
ゆっくりと、文字を書き始めた。
『ヒンメルへ』
『今日、君の嘘を知った』
『君は、私が旅を忘れないって約束した』
『でも、本当は忘れてほしくなかったんだね』
『……馬鹿だね』
『そんなこと、言ってくれればよかったのに』
ペンが止まる。
焚き火が、小さく音を立てた。
フリーレンは、少し考えた。
そして、続きを書いた。
『私は、君たちとの旅を忘れない』
『たぶん、百年後も』
『千年後も』
『それでも、もし忘れそうになったら』
『また思い出すよ』
『君が好きだった花を見て』
『君が綺麗だと言った夕焼けを見て』
『君が助けた人たちの話を聞いて』
『何度でも、思い出す』
『だから』
『もう、嘘をつかなくていいよ』
フリーレンは、最後に一行を書き加えた。
『君は、ちゃんと私の中にいるから』
日記を閉じる。
夜空を見上げる。
星が、静かに瞬いていた。
ヒンメルは、もういない。
彼の声を聞くことも。
笑顔を見ることも。
一緒に旅をすることも、できない。
けれど。
思い出は、消えていなかった。
むしろ。
今になって、少しずつ増えている気がした。
知らなかったヒンメルを知るたびに。
何気ない会話の意味を理解するたびに。
遠い昔の旅が、少しずつ色づいていく。
「……ねえ、ヒンメル」
フリーレンは、小さく呟いた。
「私、まだ君のこと、全然知らないみたい」
返事はない。
それでも。
彼女は、微笑んだ。
「……だから、もう少し旅を続けるよ」
焚き火が揺れた。
夜風が、頬を撫でた。
どこか遠くで。
白い花が、静かに揺れている。
勇者ヒンメルは、嘘をついた。
たった一つ。
大切な人に、忘れられたくないという願いを隠して。
けれど。
その嘘は。
長い長い時間を越えて。
ようやく、彼女に届いたのだった。
◇
――勇者ヒンメルの死から、数十年。
ある村の、小さな丘で。
白い花を見つめるエルフがいた。
彼女は、隣にいる少女に言った。
「ねえ、フェルン」
「はい」
「昔ね、ヒンメルが言ってたんだ」
「何をですか?」
「今日の花は、今日だけのものなんだって」
少女は、少し考えた。
「……素敵な言葉ですね」
「うん」
エルフは、静かに笑った。
「私も、そう思う」
そして。
空を見上げた。
青い空。
白い雲。
穏やかな風。
いつか見た景色と、よく似ていた。
けれど。
今日という日は、今日しかない。
だから。
彼女は、歩き始めた。
大切な人たちと。
新しい思い出を作るために。
そして。
遠い昔の、あの勇者に。
いつか、胸を張って伝えるために。
――君との旅は、今でも私の宝物だよ。
と。
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