勇者ヒンメルは、嘘をつかない人だった。

少なくとも、フリーレンはそう思っていた。

魔王討伐の旅から八十年以上。

かつて勇者一行が訪れた小さな村で、フリーレンは一冊の日記を受け取る。

それは、今は亡き勇者ヒンメルが残したものだった。

そして、そこには一つの告白が記されていた。

『フリーレンに、一つだけ嘘をついた』

勇者ヒンメルは、なぜ嘘をついたのか。

これは、長い時を越えてようやく届いた、ある勇者の小さな願いの物語。

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君が忘れてしまう、その日まで

勇者ヒンメルは、嘘をつかない人だった。

 

 少なくとも、フリーレンはそう思っていた。

 

 彼は少し格好つけで、自分の銅像を見つければ必ず立ち止まり、頼まれてもいないのに人助けをするような男だった。

 

 くだらない冗談を言うこともあった。自分の容姿を褒めることもあった。鏡の前で髪型を整える時間が、魔王討伐の旅に必要なのかと疑問に思ったことも、一度や二度ではない。

 

 それでも。

 

 勇者ヒンメルは、嘘をつかない人だった。

 

 だからこそ、フリーレンは不思議に思った。

 

 あの日、彼が口にした言葉を。

 

 そして、その言葉が嘘だったと知ったとき。

 

 彼女は初めて、勇者ヒンメルという人間のことを、ほんの少しだけ理解したのだった。

 

     ◇

 

「フリーレン様」

 

「んー?」

 

「聞いていますか?」

 

「聞いてるよ」

 

「では、私が今何と言ったか答えてください」

 

「……今日の夕飯はハンバーグ?」

 

「違います」

 

 即答だった。

 

 フリーレンは少しだけ残念そうな顔をした。

 

 隣を歩いていたフェルンが、深いため息をつく。

 

「次の村まで、あと二時間ほどです。今日はそこで宿を取りましょうと言ったんです」

 

「そうなんだ」

 

「そうなんだ、ではありません。ちゃんと聞いてください」

 

「フェルンはお母さんみたいだね」

 

「誰のせいだと思っているんですか」

 

 いつものやり取りだった。

 

 秋の終わり。

 

 北側諸国の山間部を、三人は歩いていた。

 

 街道の両脇には背の高い木々が並び、色づいた葉が風に揺れている。空は高く、雲は薄い。旅をするには悪くない天気だった。

 

 ただし、少し寒い。

 

「なあ、フェルン」

 

 後ろからシュタルクが声をかけた。

 

「なんですか」

 

「次の村って、温泉とかあるのか?」

 

「知りません」

 

「いや、そんな冷たく言わなくても……」

 

「シュタルク様は温泉のことしか考えていないんですか」

 

「そんなことないって。飯のことも考えてる」

 

「最低ですね」

 

「なんでだよ!」

 

 フリーレンは二人の会話を聞き流しながら、道端に咲いている小さな花を眺めていた。

 

 白い花だった。

 

 五枚の花弁が、風に揺れている。

 

 どこかで見たことがある。

 

 そう思った。

 

「……あ」

 

 足を止める。

 

「フリーレン様?」

 

「この花」

 

 フリーレンはしゃがみ込んだ。

 

 小さな白い花。

 

 珍しい種類ではない。北側諸国では、秋になるとよく見かける。

 

 名前は、確か。

 

「忘れな草ですね」

 

 フェルンが言った。

 

「違うよ」

 

「え?」

 

「これは月白草。似てるけど、花弁の形が違う」

 

「そうなんですか」

 

「うん」

 

 フリーレンは花に触れた。

 

 その瞬間。

 

 遠い昔の記憶が、不意に蘇った。

 

『綺麗な花だね』

 

 青い髪の青年が、笑っていた。

 

『そうかな。ただの雑草だよ』

 

『フリーレンは花に厳しいね』

 

『ヒンメルが何にでも感動しすぎなんだよ』

 

『そうかもしれない』

 

 そう言って、ヒンメルは笑った。

 

 そして。

 

『でも、僕は好きだよ。こういう花も』

 

 ……そうだった。

 

 あれは、魔王討伐の旅の途中。

 

 確か、この辺りだった。

 

「フリーレン様?」

 

「……なんでもない」

 

 フリーレンは立ち上がった。

 

「行こうか」

 

「はい」

 

 再び歩き始める。

 

 背後で、風が吹いた。

 

 白い花が揺れていた。

 

     ◇

 

 村の名前は、リーベル。

 

 北側諸国の山間にある、小さな村だった。

 

 人口は百人ほど。石造りの家が並び、中央には古い教会が建っている。

 

 宿屋は一軒しかなかった。

 

「三人部屋はないんだって」

 

「では、私とフリーレン様が同じ部屋ですね」

 

「え、俺は?」

 

「一人でお願いします」

 

「即決!?」

 

 シュタルクが抗議したが、フェルンは取り合わなかった。

 

 宿の主人は、白髪の老人だった。

 

 フリーレンたちを見ると、穏やかに笑った。

 

「旅の方かね」

 

「うん」

 

「この村には何もないが、ゆっくりしていくといい」

 

「ありがとう」

 

 部屋の鍵を受け取ろうとしたときだった。

 

 老人の視線が、フリーレンの顔で止まった。

 

「……おや」

 

「?」

 

「もしかして、あんたは……」

 

 老人は目を細めた。

 

「勇者ヒンメル様と旅をしていた、魔法使いのフリーレン様かね?」

 

「そうだけど」

 

 老人は驚いたように口を開けた。

 

「なんと……!」

 

 それから、少し嬉しそうに笑った。

 

「お久しぶりですな」

 

「……会ったことあったっけ」

 

「ええ。もっとも、わしはまだ子供でしたが」

 

 老人は懐かしそうに言った。

 

「覚えておられませんか。八十年以上前、勇者一行がこの村に立ち寄ったことを」

 

 フリーレンは少し考えた。

 

 八十年以上前。

 

 魔王討伐の旅。

 

 この村。

 

「……ああ」

 

 思い出した。

 

「確か、橋を直した村だ」

 

「そうです!」

 

 老人が声を弾ませる。

 

「あのときは、本当にありがとうございました。あの橋がなければ、村は冬を越せなかったでしょう」

 

「直したのはヒンメルたちだよ。私は魔法で資材を運んだだけ」

 

「それでも、村にとっては大恩人です」

 

 老人は何度も頭を下げた。

 

 フェルンとシュタルクが、顔を見合わせる。

 

「フリーレン様、そんなことがあったんですね」

 

「うん。大したことじゃないよ」

 

「フリーレン様にとっては、そうかもしれませんが……」

 

 フェルンは小さく笑った。

 

 老人はしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思い出したように手を打った。

 

「そうだ。フリーレン様に、お渡ししたいものがあるんです」

 

「私に?」

 

「ええ」

 

 老人は宿の奥へと消えていった。

 

 しばらくして、古びた木箱を抱えて戻ってくる。

 

 箱の表面には、長い年月を感じさせる傷がいくつも刻まれていた。

 

「これは、祖父から預かったものです」

 

「お祖父さん?」

 

「はい。祖父は当時、この村の村長を務めておりました」

 

 老人は箱を机に置いた。

 

「勇者ヒンメル様から、あるものを預かったそうです」

 

 フリーレンの手が止まった。

 

「……ヒンメルから?」

 

「ええ」

 

 老人は頷いた。

 

「いつか、フリーレン様がこの村を訪れたら渡してほしいと」

 

 そして。

 

 箱の蓋が、ゆっくりと開かれた。

 

 中に入っていたのは。

 

 一冊の、古い日記だった。

 

     ◇

 

「ヒンメル様の日記、ですか」

 

 フェルンが目を丸くした。

 

「うん」

 

 夕食を終えたあと。

 

 三人は宿の一室に集まっていた。

 

 机の上には、古びた日記が置かれている。

 

 革張りの表紙は色褪せ、角が擦り切れていた。

 

「へえ……勇者ヒンメルの日記か」

 

 シュタルクが興味深そうに覗き込む。

 

「何が書いてあるんだ?」

 

「まだ読んでない」

 

「なんで?」

 

「なんとなく」

 

 フリーレンは日記を見つめた。

 

 不思議な気分だった。

 

 ヒンメルは、よく喋る男だった。

 

 旅の途中、くだらないことから真面目なことまで、何でも話した。

 

 美しい景色を見れば感想を口にし、困っている人を見れば迷わず手を差し伸べた。

 

 自分の考えを隠すような人間ではなかった。

 

 だから。

 

 日記をつけていたことが、少し意外だった。

 

「フリーレン様」

 

「ん?」

 

「無理に読む必要はないと思います」

 

 フェルンが静かに言った。

 

「ヒンメル様が残されたものなら、きっと大切なものなのでしょう。でも、読むかどうかはフリーレン様が決めることです」

 

「……そうだね」

 

 フリーレンは日記を手に取った。

 

 表紙を撫でる。

 

 長い時間が過ぎていた。

 

 ヒンメルが亡くなってから、もう何十年も経つ。

 

 それでも。

 

 こうして彼の残したものに触れると、不思議と昨日のことのように思える。

 

「……読むよ」

 

 フリーレンは言った。

 

「ヒンメルが私に残したものなら、読んでみたい」

 

 フェルンは頷いた。

 

「では、私たちは部屋に戻りますね」

 

「え、俺も読んでみたかったんだけど」

 

「シュタルク様」

 

「はい」

 

「行きますよ」

 

「……はい」

 

 二人が部屋を出ていく。

 

 扉が閉まった。

 

 静寂が訪れる。

 

 フリーレンは、ゆっくりと日記を開いた。

 

     ◇

 

 最初のページには、こう書かれていた。

 

『勇者ヒンメルの旅の記録』

 

 その下に、小さな文字が続いている。

 

『いつか忘れてしまうかもしれない、僕たちの日々について』

 

 フリーレンは首を傾げた。

 

「……忘れる?」

 

 ヒンメルらしくない言葉だった。

 

 彼はよく、思い出について語っていた。

 

 旅の記憶は何より大切だと。

 

 どんなにくだらない出来事でも、いつかきっと宝物になるのだと。

 

 だから、忘れることを恐れているような文章が、少し意外だった。

 

 ページをめくる。

 

『旅の三年目。今日はフリーレンが寝坊した』

 

「……」

 

『朝からハイターが酒を飲んでいたので、僕が注意した。するとハイターは、フリーレンも昼まで寝ているじゃないですかと言い返してきた』

 

「……ハイター」

 

『確かにそうだったので、何も言い返せなかった』

 

 フリーレンは小さく息を吐いた。

 

 覚えている。

 

 あの日、ハイターは朝から酒を飲んでいた。

 

 ヒンメルは呆れていた。

 

 アイゼンは黙々と朝食を食べていた。

 

 そして自分は。

 

「……寝てたね」

 

 次のページ。

 

『フリーレンが新しい魔法を覚えた。服についた泥を綺麗に落とす魔法らしい』

 

『嬉しそうだったので、僕も嬉しかった』

 

 その次。

 

『今日は村の子供たちと遊んだ。フリーレンは最初、面倒くさそうにしていたが、最後には子供たちに魔法を見せていた』

 

『本人は否定するだろうけど、案外面倒見がいい』

 

「……余計なお世話だよ」

 

 また、ページをめくる。

 

『今日は綺麗な夕焼けを見た』

 

『フリーレンは、いつもと同じだと言った』

 

『でも、僕には今日の夕焼けは今日だけのものだと思えた』

 

『いつか彼女にも、そう思ってもらえたら嬉しい』

 

 フリーレンは手を止めた。

 

 窓の外を見る。

 

 夜だった。

 

 星が、静かに瞬いている。

 

 ヒンメルは。

 

 本当に、変わった人間だった。

 

 同じような景色を何度も見ているのに、そのたびに感動していた。

 

 百年もすれば、同じ場所で似たような夕焼けを見ることができる。

 

 フリーレンには、それで十分だった。

 

 でも。

 

 ヒンメルにとっては、違ったのだろう。

 

「……そういうことだったんだね」

 

 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 

 そして、次のページをめくった。

 

 そこに書かれていた日付を見て。

 

 フリーレンは、動きを止めた。

 

     ◇

 

『旅の七年目。リーベル村』

 

 この村だった。

 

『今日は橋の修復を手伝った。村人たちはとても喜んでくれた』

 

『ハイターはお礼に酒をもらっていた。アイゼンは村の子供たちに囲まれていた』

 

『フリーレンは、村外れの花畑にいた』

 

 フリーレンは目を細めた。

 

 思い出した。

 

 あの日。

 

 橋の修復が終わったあと。

 

 ヒンメルは自分を探しに来たのだ。

 

 村外れの、小さな丘。

 

 そこには白い花が咲いていた。

 

 月白草。

 

 今日、街道で見かけた花だった。

 

 そして。

 

 あの日、ヒンメルは。

 

『フリーレンに、一つだけ嘘をついた』

 

 フリーレンの指が止まった。

 

「……え?」

 

 もう一度、文字を読む。

 

『フリーレンに、一つだけ嘘をついた』

 

 間違いない。

 

 ヒンメルは、そう書いていた。

 

「……嘘?」

 

 フリーレンは眉を寄せた。

 

 あの日のことを思い出す。

 

 白い花。

 

 夕暮れ。

 

 ヒンメルの笑顔。

 

 そして。

 

 彼の言葉。

 

『大丈夫だよ、フリーレン』

 

 ……そうだ。

 

 確かに、言っていた。

 

 でも。

 

 何に対して、大丈夫だと言ったのだろう。

 

 フリーレンは記憶を辿った。

 

 八十年以上前の、何気ない会話。

 

 それは、彼女にとってほんの一瞬の出来事だった。

 

 けれど。

 

 ヒンメルにとっては。

 

 日記に残すほど、大切なことだったらしい。

 

     ◇

 

 あの日。

 

 リーベル村の丘には、白い花が咲いていた。

 

「フリーレン」

 

「ん?」

 

「こんなところにいたんだね」

 

 振り返ると、ヒンメルが立っていた。

 

 いつもの青い髪。

 

 いつもの笑顔。

 

 いつもの、少し気取った立ち姿。

 

「探したよ」

 

「何か用?」

 

「いや、特には」

 

「じゃあ、なんで探したの?」

 

「君がいなかったからね」

 

「……変なの」

 

 フリーレンは再び花に視線を戻した。

 

 ヒンメルが隣に座る。

 

「綺麗な花だね」

 

「ただの雑草だよ」

 

「フリーレンは花に厳しいね」

 

「ヒンメルが何にでも感動しすぎなんだよ」

 

「そうかもしれない」

 

 ヒンメルは笑った。

 

 しばらく、二人で花を眺めていた。

 

 風が吹く。

 

 白い花が揺れる。

 

 やがて。

 

 フリーレンが、ぽつりと言った。

 

「……ねえ、ヒンメル」

 

「なんだい?」

 

「人間って、どうしてそんなに急ぐの?」

 

 ヒンメルは少し驚いた顔をした。

 

「急ぐ?」

 

「うん」

 

 フリーレンは花を指差した。

 

「この花、来年も咲くよ」

 

「そうだね」

 

「再来年も咲く」

 

「うん」

 

「百年後も、きっと咲いてる」

 

 ヒンメルは黙って聞いていた。

 

「でも、ヒンメルは今見ないといけないって言う」

 

「……そうだね」

 

「どうして?」

 

 フリーレンには、わからなかった。

 

 花はまた咲く。

 

 夕焼けはまた訪れる。

 

 季節は巡る。

 

 何度でも。

 

 それなのに。

 

 ヒンメルは、いつも今を大切にしていた。

 

 まるで。

 

 次がないことを、知っているかのように。

 

「……そうだな」

 

 ヒンメルは少し考えた。

 

「僕たち人間は、君ほど長く生きられないからね」

 

「知ってるよ」

 

「だから、今見ておきたいんだ」

 

「……ふうん」

 

 フリーレンは納得したような、していないような顔をした。

 

 それから。

 

 何気なく、尋ねた。

 

「ねえ、ヒンメル」

 

「うん?」

 

「ヒンメルも、いつか死ぬんだよね」

 

 風が止んだ。

 

 ヒンメルは、一瞬だけ目を見開いた。

 

 けれど、すぐに笑った。

 

「そうだね」

 

「……そっか」

 

 フリーレンは花を見つめた。

 

「変な感じ」

 

「何が?」

 

「ヒンメルがいなくなるの」

 

 自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。

 

 ただ。

 

 旅を始めて七年。

 

 ヒンメルは、いつも隣にいた。

 

 朝になれば声をかけてきて。

 

 何かを見つければ嬉しそうに話して。

 

 くだらないことで笑って。

 

 困っている人を助けて。

 

 そういう日々が、当たり前になっていた。

 

 だから。

 

「……いなくなったら、困るかもしれない」

 

 そう言った。

 

 ヒンメルは、何も答えなかった。

 

 しばらくして。

 

 彼は、静かに尋ねた。

 

「フリーレン」

 

「ん?」

 

「君は、僕がいなくなったら寂しいかい?」

 

「……わからない」

 

 正直な答えだった。

 

 寂しいという感情を、フリーレンはまだよく理解していなかった。

 

 長い時間を生きてきた。

 

 多くの出会いと別れを経験した。

 

 けれど、そのほとんどは、いつの間にか過ぎ去っていた。

 

 だから。

 

「たぶん、すぐ忘れると思う」

 

 フリーレンは言った。

 

「人間と過ごす時間なんて、私にとっては短いから」

 

 ヒンメルは、少しだけ目を伏せた。

 

 それから。

 

「……そうか」

 

 小さく呟いた。

 

 フリーレンは続けた。

 

「でも、忘れたくないな」

 

 ヒンメルが顔を上げる。

 

「……え?」

 

「ヒンメルたちとの旅」

 

 フリーレンは、何気なく言った。

 

「結構楽しいから」

 

 ヒンメルは黙った。

 

 フリーレンは首を傾げた。

 

「どうしたの?」

 

「……いや」

 

 ヒンメルは笑った。

 

「なんでもないよ」

 

 そして。

 

 少しだけ、声を柔らかくして言った。

 

「大丈夫だよ、フリーレン」

 

「何が?」

 

「君はきっと、忘れない」

 

 フリーレンは目を瞬かせた。

 

「……どうして?」

 

 ヒンメルは、いつものように笑った。

 

「僕が、そう約束するからさ」

 

 それが。

 

 勇者ヒンメルの、嘘だった。

 

     ◇

 

 フリーレンは日記を見つめた。

 

 あの日の会話を、思い出した。

 

 確かに、ヒンメルはそう言った。

 

『君はきっと、忘れない』

 

『僕が、そう約束するからさ』

 

 でも。

 

 それが嘘だというのは、少しおかしい。

 

 実際、フリーレンは覚えていた。

 

 ヒンメルのことも。

 

 旅のことも。

 

 あの日の花畑も。

 

 忘れていない。

 

 それなら。

 

「……何が嘘だったの?」

 

 ページをめくる。

 

 そこには、ヒンメルの文字が続いていた。

 

『フリーレンは、僕たちとの旅を忘れたくないと言った』

 

『嬉しかった』

 

『本当に、嬉しかった』

 

『でも、僕は彼女に嘘をついた』

 

『君はきっと忘れない、と』

 

『僕が約束する、と』

 

『そんなこと、僕にわかるはずがないのに』

 

 フリーレンは、静かに読み進めた。

 

『彼女はエルフだ』

 

『僕たちより、ずっと長く生きる』

 

『百年、千年。その先も』

 

『僕がいなくなったあと、彼女がどんな人生を歩むのか、僕にはわからない』

 

『もしかしたら、僕たちの旅なんて、本当に一瞬の出来事になってしまうのかもしれない』

 

『いつか、僕の名前も』

 

『顔も』

 

『声も』

 

『全部、忘れてしまうのかもしれない』

 

 フリーレンは、息を止めた。

 

『それでも、僕は言った』

 

『大丈夫だよ、と』

 

『忘れないよ、と』

 

『約束する、と』

 

『なぜなら』

 

 そこで、文章が途切れていた。

 

 次のページは、白紙だった。

 

「……え?」

 

 フリーレンはページをめくった。

 

 何も書かれていない。

 

 さらにめくる。

 

 白紙。

 

 その次も。

 

 白紙。

 

「……どうして」

 

 日記は、そこで終わっていた。

 

 いや。

 

 正確には、終わっていなかった。

 

 ヒンメルは、続きを書かなかったのだ。

 

 なぜ。

 

 なぜ、あんな言葉を残したのか。

 

 なぜ、嘘をついたのか。

 

 その答えだけが。

 

 どこにも、書かれていなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

「フリーレン様?」

 

 フェルンが部屋を覗くと、フリーレンはまだ机に座っていた。

 

 日記を開いたまま。

 

 窓の外を眺めている。

 

「……寝ていないんですか?」

 

「うん」

 

「まったく……」

 

 フェルンはため息をついた。

 

「何か、気になることでも書いてあったんですか?」

 

「……ヒンメルがね」

 

「はい」

 

「嘘をついてたんだって」

 

 フェルンは目を瞬かせた。

 

「ヒンメル様が?」

 

「うん」

 

「……珍しいですね」

 

「そうだね」

 

 フリーレンは日記を閉じた。

 

「でも、何が嘘だったのか、よくわからないんだ」

 

 フェルンは少し考えた。

 

「フリーレン様」

 

「ん?」

 

「ヒンメル様は、どんな嘘をついたんですか?」

 

「私が、ヒンメルたちとの旅を忘れないって」

 

「……」

 

「でも、私は覚えてる」

 

 フリーレンは言った。

 

「だから、嘘じゃなかったと思うんだけど」

 

 フェルンは、しばらく黙っていた。

 

 それから。

 

「……フリーレン様」

 

「何?」

 

「ヒンメル様は、本当に忘れないと信じていたんでしょうか」

 

「……?」

 

「それとも」

 

 フェルンは、静かに言った。

 

「忘れてほしくなかったんでしょうか」

 

 フリーレンは、目を見開いた。

 

     ◇

 

 その日の昼。

 

 三人は村を出ることにした。

 

 宿の老人は、最後まで名残惜しそうだった。

 

「また、いつでもいらしてください」

 

「うん」

 

「勇者ヒンメル様も、同じことを言ってくださいました」

 

「……そうなんだ」

 

 老人は笑った。

 

「ええ。あの方は、本当に不思議な人でした」

 

「不思議?」

 

「はい」

 

 老人は、少し遠くを見るような目をした。

 

「祖父から聞いた話ですが、ヒンメル様はこの村を去る前に、一人で丘へ行かれたそうです」

 

「……丘?」

 

「ええ。村外れの、白い花が咲く丘です」

 

 フリーレンは、顔を上げた。

 

「そこで、何かを埋めていかれたとか」

 

「……埋めた?」

 

「はい。何を埋めたのかは、祖父も知らなかったようですが」

 

 老人は笑った。

 

「もしかしたら、宝物でも隠したのかもしれませんな」

 

 フリーレンは、しばらく黙っていた。

 

 それから。

 

「……フェルン」

 

「はい」

 

「ちょっと寄り道していい?」

 

 フェルンは微笑んだ。

 

「もちろんです」

 

     ◇

 

 丘には、白い花が咲いていた。

 

 八十年以上前と、同じように。

 

 風が吹く。

 

 花が揺れる。

 

 フリーレンは、ゆっくりと歩いた。

 

 記憶を辿る。

 

 あの日。

 

 ヒンメルは、どこに座っていた?

 

 自分は、どこにいた?

 

 花は、どの辺りに咲いていた?

 

 八十年以上。

 

 人間にとっては、途方もない時間。

 

 けれど。

 

 フリーレンにとっては、ほんの少し前のことだった。

 

「……ここ」

 

 足を止める。

 

 丘の端。

 

 大きな木の根元。

 

 あの日、ヒンメルが座っていた場所。

 

 フリーレンはしゃがみ込んだ。

 

「何かあるのか?」

 

 シュタルクが尋ねる。

 

「たぶんね」

 

 フリーレンは地面に手を当てた。

 

 探知魔法を使う。

 

 土の下。

 

 木の根の近く。

 

 小さな反応があった。

 

「……あった」

 

 慎重に土を取り除く。

 

 そこから現れたのは。

 

 小さな、金属の箱だった。

 

 錆びてはいたが、魔法による保護が施されている。

 

 フリーレンは、その魔法に見覚えがあった。

 

「……これ」

 

 自分の魔法だった。

 

 正確には。

 

 旅の途中で、ヒンメルに教えた魔法。

 

 物を長持ちさせるための、簡単な保存魔法。

 

 ヒンメルは、あの日。

 

『これ、便利だね』

 

 そう言っていた。

 

 まさか。

 

 こんなことに使っていたなんて。

 

 フリーレンは箱を開けた。

 

 中には。

 

 一通の手紙が入っていた。

 

 宛名は。

 

『フリーレンへ』

 

 見慣れた、ヒンメルの文字だった。

 

     ◇

 

 フリーレンは手紙を開いた。

 

 そこには、短い文章が書かれていた。

 

『フリーレンへ』

 

『君がこの手紙を読んでいるということは、きっと僕はもういないんだろうね』

 

『なんだか不思議な気分だ』

 

『君に手紙を書くなんて、少し照れくさい』

 

『でも、どうしても伝えておきたいことがある』

 

『あの日、僕は君に嘘をついた』

 

『君は僕たちの旅を忘れない、と』

 

『僕が約束する、と』

 

『本当は、そんな約束なんてできない』

 

『人の記憶は、いつか薄れていくものだから』

 

『ましてや、君は僕たちよりずっと長く生きる』

 

『いつか僕たちのことを忘れてしまっても、不思議じゃない』

 

『それでも』

 

『僕は、君に忘れてほしくなかった』

 

 フリーレンの指が、わずかに震えた。

 

『格好悪いだろう?』

 

『勇者なのに、そんなことを考えていたんだ』

 

『僕は、君の人生のほんの一瞬しか一緒にいられない』

 

『君がこれから出会う人たちの中には、僕なんかよりずっと大切な人が現れるかもしれない』

 

『君が僕たちのことを思い出さなくなる日が来るかもしれない』

 

『それが、少しだけ怖かった』

 

『だから、嘘をついた』

 

『君はきっと忘れない、と』

 

『僕が約束する、と』

 

『本当は』

 

『僕の方が、約束してほしかったんだ』

 

 フリーレンは、動かなかった。

 

 風が吹いた。

 

 白い花が揺れる。

 

 手紙は、まだ続いていた。

 

『でもね、フリーレン』

 

『今は、少し考えが変わったんだ』

 

『もし、いつか君が僕たちのことを忘れてしまっても』

 

『それは、きっと悪いことじゃない』

 

『君がそれだけ長く生きて』

 

『たくさんの人と出会って』

 

『たくさんの思い出を作ったということだから』

 

『だから』

 

『無理に覚えていなくてもいい』

 

『僕たちのことを忘れてしまっても、構わない』

 

『ただ』

 

『君が、幸せでいてくれたら』

 

『それだけで、僕は嬉しい』

 

 フリーレンは、ゆっくりと目を閉じた。

 

 胸の奥に。

 

 何かが、静かに広がっていく。

 

 それは、痛みのようでもあり。

 

 温かさのようでもあった。

 

 手紙の最後には。

 

 たった一行。

 

 こう書かれていた。

 

『それでも、もし覚えていてくれたなら――僕はきっと、世界で一番幸せな勇者だ』

 

     ◇

 

「……馬鹿だね」

 

 フリーレンは呟いた。

 

 声が、少しだけ震えていた。

 

「本当に、馬鹿だよ」

 

 ヒンメルは。

 

 いつもそうだった。

 

 自分のことを後回しにして。

 

 誰かのために笑って。

 

 誰かのために戦って。

 

 誰かのために、何かを残して。

 

 そして。

 

 自分の本当の気持ちは、いつも隠していた。

 

「……忘れるわけないじゃん」

 

 フリーレンは、小さく言った。

 

「ヒンメル」

 

 返事はない。

 

 当たり前だった。

 

 彼は、もういない。

 

 ずっと前に、亡くなった。

 

 それでも。

 

「……私、覚えてるよ」

 

 フリーレンは手紙を胸に抱いた。

 

「ヒンメルが、朝から鏡を見てたことも」

 

「ハイターと喧嘩してたことも」

 

「アイゼンに呆れられてたことも」

 

「くだらないことで笑ってたことも」

 

 一つずつ。

 

 思い出す。

 

「……全部、覚えてる」

 

 声が、かすれた。

 

「忘れてないよ」

 

 風が吹いた。

 

 白い花が揺れた。

 

 まるで。

 

 遠い昔の誰かが、笑っているようだった。

 

     ◇

 

 少し離れた場所で。

 

 フェルンとシュタルクは、静かに待っていた。

 

「……なあ、フェルン」

 

「なんですか」

 

「フリーレンってさ」

 

「はい」

 

「ヒンメルのこと、すごく大切に思ってたんだな」

 

 フェルンは、フリーレンの背中を見つめた。

 

「……そうですね」

 

「でも、本人は気づいてなかったんだろ?」

 

「たぶん」

 

 フェルンは、小さく笑った。

 

「フリーレン様は、少し鈍いですから」

 

「……少し?」

 

「シュタルク様」

 

「はい」

 

「余計なことは言わなくていいです」

 

「……はい」

 

 二人は、再び黙った。

 

 丘の上では。

 

 フリーレンが、静かに花を見つめていた。

 

     ◇

 

 それから、しばらくして。

 

 三人は再び旅を始めた。

 

 街道を歩く。

 

 秋の風が吹く。

 

 空は高く、雲は薄い。

 

 いつもと同じような景色だった。

 

「フリーレン様」

 

「ん?」

 

「次の街まで、あと三日ほどです」

 

「そうなんだ」

 

「途中に小さな村があるようなので、そこで一泊しましょう」

 

「うん」

 

「……ちゃんと聞いていますか?」

 

「聞いてるよ」

 

「では、私が今何と言ったか答えてください」

 

「今日の夕飯はハンバーグ?」

 

「違います」

 

 フェルンがため息をつく。

 

 シュタルクが笑う。

 

 いつもの旅だった。

 

 けれど。

 

 フリーレンは、少しだけ足を止めた。

 

 道端に。

 

 白い花が咲いていた。

 

 月白草。

 

 八十年以上前。

 

 ヒンメルと見た花。

 

 フリーレンは、しゃがみ込んだ。

 

「……綺麗だね」

 

 フェルンが振り返る。

 

「フリーレン様?」

 

「この花」

 

 フリーレンは、静かに笑った。

 

「綺麗だと思わない?」

 

 フェルンは少し驚いた顔をした。

 

 それから。

 

「……はい」

 

 微笑んだ。

 

「とても、綺麗ですね」

 

 フリーレンは頷いた。

 

 そして。

 

 小さな花を、しばらく眺めていた。

 

 百年後も。

 

 きっと、この花は咲くのだろう。

 

 千年後も。

 

 同じように、風に揺れているのかもしれない。

 

 でも。

 

 今日の花は、今日だけのものだ。

 

 ヒンメルが、そう言っていた。

 

 今なら。

 

 少しだけ、わかる気がした。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 フリーレンは、焚き火の前で日記を開いていた。

 

 ヒンメルの日記。

 

 旅の記録。

 

 最後のページには、まだ余白が残っていた。

 

 フリーレンは、羽ペンを取り出した。

 

 そして。

 

 ゆっくりと、文字を書き始めた。

 

『ヒンメルへ』

 

『今日、君の嘘を知った』

 

『君は、私が旅を忘れないって約束した』

 

『でも、本当は忘れてほしくなかったんだね』

 

『……馬鹿だね』

 

『そんなこと、言ってくれればよかったのに』

 

 ペンが止まる。

 

 焚き火が、小さく音を立てた。

 

 フリーレンは、少し考えた。

 

 そして、続きを書いた。

 

『私は、君たちとの旅を忘れない』

 

『たぶん、百年後も』

 

『千年後も』

 

『それでも、もし忘れそうになったら』

 

『また思い出すよ』

 

『君が好きだった花を見て』

 

『君が綺麗だと言った夕焼けを見て』

 

『君が助けた人たちの話を聞いて』

 

『何度でも、思い出す』

 

『だから』

 

『もう、嘘をつかなくていいよ』

 

 フリーレンは、最後に一行を書き加えた。

 

『君は、ちゃんと私の中にいるから』

 

 日記を閉じる。

 

 夜空を見上げる。

 

 星が、静かに瞬いていた。

 

 ヒンメルは、もういない。

 

 彼の声を聞くことも。

 

 笑顔を見ることも。

 

 一緒に旅をすることも、できない。

 

 けれど。

 

 思い出は、消えていなかった。

 

 むしろ。

 

 今になって、少しずつ増えている気がした。

 

 知らなかったヒンメルを知るたびに。

 

 何気ない会話の意味を理解するたびに。

 

 遠い昔の旅が、少しずつ色づいていく。

 

「……ねえ、ヒンメル」

 

 フリーレンは、小さく呟いた。

 

「私、まだ君のこと、全然知らないみたい」

 

 返事はない。

 

 それでも。

 

 彼女は、微笑んだ。

 

「……だから、もう少し旅を続けるよ」

 

 焚き火が揺れた。

 

 夜風が、頬を撫でた。

 

 どこか遠くで。

 

 白い花が、静かに揺れている。

 

 勇者ヒンメルは、嘘をついた。

 

 たった一つ。

 

 大切な人に、忘れられたくないという願いを隠して。

 

 けれど。

 

 その嘘は。

 

 長い長い時間を越えて。

 

 ようやく、彼女に届いたのだった。

 

     ◇

 

 ――勇者ヒンメルの死から、数十年。

 

 ある村の、小さな丘で。

 

 白い花を見つめるエルフがいた。

 

 彼女は、隣にいる少女に言った。

 

「ねえ、フェルン」

 

「はい」

 

「昔ね、ヒンメルが言ってたんだ」

 

「何をですか?」

 

「今日の花は、今日だけのものなんだって」

 

 少女は、少し考えた。

 

「……素敵な言葉ですね」

 

「うん」

 

 エルフは、静かに笑った。

 

「私も、そう思う」

 

 そして。

 

 空を見上げた。

 

 青い空。

 

 白い雲。

 

 穏やかな風。

 

 いつか見た景色と、よく似ていた。

 

 けれど。

 

 今日という日は、今日しかない。

 

 だから。

 

 彼女は、歩き始めた。

 

 大切な人たちと。

 

 新しい思い出を作るために。

 

 そして。

 

 遠い昔の、あの勇者に。

 

 いつか、胸を張って伝えるために。

 

 ――君との旅は、今でも私の宝物だよ。

 

 と。




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