ハリー・ポッターと玄武(ガメラ)の少女   作:フォレス・ノースウッド

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一年生編――森番のお茶会

・森番のお茶会

 

 初めての魔法薬学を、誰一人大鍋ごと爆発させることなく乗り越えた翌日。

 土曜日の朝を迎えたホグワーツ城は、平日とは異なる空気に包まれていた。

 授業へ急ぐ足音はない。制服のローブを翻して廊下を駆ける生徒も、動く階段の行き先に悲鳴を上げる新入生も、今日は随分と少なかった。代わりに談話室や中庭には私服姿の生徒が溢れている。

 朝食を終えたハリー・ポッターとロン・ウィーズリーは、玄関ホールで草凪朱音と合流した。

 ハリーは少し大きめの灰色のセーターに、黒いズボン。

 ロンは濃い臙脂色の編み込みセーターを着ていた。胸元には、不格好ながら愛嬌のある大きな『R』の文字が縫い込まれている。

 

「素敵なセーターだね」

 

 朱音からイニシャルが入ったセーターの感想を言われてロンは、少し気恥ずかしそうに胸元を引っ張った。

 

「母さんの手編みなんだ、毎年送ってくれる」

「それなら、世界に一着しかない特別製だ」

「まあね。兄さんたちも全員、自分の名前入りを持ってるけど」

 

 そう言いながらも、ロンの口元にはどこか嬉しそうな笑みがあった。

 一方の朱音は、襟元の開いた白いシャツに深緑色のカーディガン、動きやすそうな黒いロングスカートを合わせていた。葡萄色を帯びた長い黒髪は普段と同じく背へ流し、首元には琥珀色の勾玉が揺れている。

 制服姿より幾分柔らかな印象でありながら、背筋の伸び方は変わらない。

 

「朱音って、休日でもきちんとしてるよな」

「そうかい? 日本にいた頃から着ているような服だけど」

「僕なんてまともな服がほとんどなかったよ……下手すると着るかもしれなかった学校の制服も」

 

 ハリーは自分のセーターの袖を摘まんだ。

 

「どういうこと?」

 

 ロンがハリーの発言の意図を問い、朱音もどう言うことか気になる様子。

 

「ホグワーツから手紙が来なかったら、マグルの中学(セカンダリー)に通う予定だったんだけど……おじさんたち制服を買うお金も使いたくなくて……僕の従弟のお下がりを制服にし立てあげようとしたって言うか……」

「ええ~……お下がりでもちゃんとした制服使う家(うち)より酷いとこあったんだ……それもマグルの家で」

「へぇ……なるほどなるほど~……ふ~ん」

 

 朱音の様子に違和感を覚えた二人の目線が彼女に向けると、同時に身震いしたお互いの身体を抱き合って数歩下がった。

 

「ちょっと待っててね………今あのろくでなしのダーズリー夫妻に一泡吹かせたい気持ちを抑えてるから」

「「は、はい……」」

 

 細く艶やかに流れる葡萄色がかった朱音の長髪がゆらゆらと、自我を持つかのように浮き上がり………口元は笑顔だが、双眸と眉間はむしろ殺意に昇華する直前な程に、今日も曇天なスコットランドの空よりも仄暗いオーラを全身から発していたが――。

 

「普通って……なんだろうね」

「「さぁ……」」

 

 大人でさえ正解を見つけられない難題に、各々の境遇の差はあれど十一歳の彼らにも解答できるわけがなかった。

 

「でも、ダイアゴン横丁でハグリッドと朱音に買ってもらった服はぴったりだったよ………自分の目じゃサイズ以外どうすればいいか分からなかっただけで」

 

 ダドリーのお下がりばかり着せられていた頃に比べれば、ハリーが今着ている服装はずっと身体に合っている。それでも、自分で服を選ぶという習慣には、まだ慣れていなかった。

 

「なら尚のこと、これから見つければいいさ、服も好きなものも、今まで選べなかった分も込みでたっぷりとね」

「……うん」

 

 朱音からのエールにハリーは小さくも、確かな嬉しさを込めて笑い返した。

 

  ◇

 

 三人が向かう先は、禁じられた森の外れに建つ森番の小屋である。

 前日の夕方、ハリーと朱音のもとへ一羽のフクロウが手紙を届けた。

 差出人はルビウス・ハグリッド。土曜日の午前中にでも、よければ友達も一緒に茶を飲みに来ないか――太い筆跡で、そう記されていた。

 朱音とハリーが相談するまでもなく、同行者にはロンが選ばれた。

 ハーマイオニーにも声をかけようとしたが、彼女は既に図書館で一週間分の復習と翌週の予習を済ませる計画を立てていた。

 

『今回は三人で行ってきて。後でどんな話をしたか教えてちょうだい』

 

 そう言って、分厚い予定表を見せられたのである。

 

『休日まで予定表を作るのかよ……』

 

 予定表を見たロンは、心底恐ろしそうに呟いていた。

 

     ◇

 

 中庭へ出て見上げた秋の空は高く、薄い雲の隙間から柔らかな陽射しが降り注いでいた。

 石造りの回廊には、外出用のローブを着た上級生たちが集まっている。

 談笑しながら城門へ向かう彼らを見て、ロンが羨ましそうに目を細めた。

 

「いいなあ。ホグズミードに行けるまで、あと二年の辛抱か……」

「ホグズミード?」

 

 ハリーが聞き返す。

 

「魔法使いだけが住んでる村だよ。学校の近くにあって、三年生になれば休日に遊びに行けるんだ」

「一年生は駄目なの?」

「駄目、保護者の許可証も必要だしな」

 

 ロンは城門の向こうへ消えていく上級生たちを、未練がましく見送った。

 

「ハニーデュークスっていう菓子屋があるんだ。蛙チョコも百味ビーンズも、学校で買えない菓子も山ほど売ってる。それにゾンコのいたずら専門店! フレッドとジョージなんて、夏休み前から商品一覧を作って――」

「三年生になって最初に行くのは、いたずら専門店なのかい?」

「当然だろ?」

「本当に息を吸うように悪戯へ走る一家なんだねぇ」

「僕まで兄貴たちと一緒にするなよ!」

「真っ先に行きたいお店は一緒なんだろう?」

「それはそうなんだけど……」

 

 ロンは言葉に詰まり、ハリーが笑った。

 

「朱音は、最初にどこへ行きたい?」

「そうだねえ、まず村を一周して、店の場所と品揃えを見てから決めたいかな」

「買う物を先に決めないの?」

「知らないものを見つけに行くのに、最初から目的を一つへ絞るのはもったいないだろう?」

「朱音らしいね」

「でも、菓子屋には行くだろ?」

 

 ロンのまずはお菓子やら玩具やらの主張は譲らない。

 

「もちろん。食べ物には興味があるよ」

「よし!」

「やけに喜んでないかい?」

「一人で買いすぎるより、三人で分けた方が色々食べられるだろ?」

「そこまで考えていたのか」

「だろ?」

「一人で食べ切れない量を買う前提なのは、感心しないけどねぇ」

「うぐっ……」

 

 上級生への羨望から始まった話は、三年生になった時の菓子購入計画へ変わっていった。

 まだ二年も先のことである。

 それでも、その未来を当然のように三人で話せることが、ハリーには少し嬉しかった。

 

     ◇

 

 城を離れるにつれ、石畳は踏み固められた土の道へ変わっていく。

 遠くには禁じられた森が広がっていた。昼間であっても、森の内側はほとんど光が届かない。幾重にも重なる枝葉の下へ、夜が置き去りにされているようだった。

 その手前に、一軒の小屋、石造りの壁、煙を吐き出す煙突、扉の脇にはゴム長靴と大きな石弓、裏手には畑があり、巨大な南瓜が幾つも転がっていた。

 

「随分大きな南瓜だね」

 

 ハリーがそのスケールを前に目を丸くする。

 

「ハグリッドが育てたのかな?」

「たぶん、ルビおじさんの畑なら、普通の大きさで収まる方が不思議な気がする」

「それ褒めてんの?」

「半分くらいは」

 

 朱音は扉の前に立ち、拳で三度ノックした直後、と扉の向こうへ何かが衝突した。

 

『ウォン! ウォン、ウォン!』

 

 大型犬の吠え声と、鋭い爪が木製の扉を引っ掻く音が響く。

 

「うわっ!」

 

 ロンが一歩後ずさった。

 

「よせ、ファング! 待てったら!」

 

 中からハグリッドの声が聞こえる。

 扉の向こうで、何か大きなもの同士が揉み合っているらしい。

 

「……大丈夫かな」

 

 ハリーが心配そうに言った。

 

「少なくとも、歓迎されてはいるみたいだね」

 

 朱音は平然としていた。

 やがて扉が僅かに開き、隙間から大きな黒い鼻先が飛び出した。

 

「ファング、下がれ!」

 

 ハグリッドが犬の首輪を掴み、巨大な身体で押し戻す。

 ようやく開いた扉の向こうには、仔牛ほどもある黒い猟犬がいた。

 恐ろしげな外見とは裏腹に、尻尾は千切れそうな勢いで左右へ振られている。

 

「すまんな、うちの犬は、客人が来るたびに騒がしくていけねえ」

 

 ハグリッドはファングを片腕で押さえたまま、三人を順番に見た。

 

「ハリーと朱音は知っちょるが……ええと」

「「友達のロン」」」

 

 ハリーと朱音の声が、綺麗に重なった。

 その紹介を受け、ロンは少し胸を張る。

 

「ロン・ウィーズリーです」

「ウィーズリー?」

 

 ハグリッドの髭に隠れた顔がほころぶ。

 

「なるほどな。赤い髪を見りゃあ、すぐ分かりそうなもんだった。二人から聞いちょると思うが、俺がルビウス・ハグリッドだ」

 ハグリッドは巨大な手を差し出しかけ、ファングを押さえていることを思い出して引っ込めた。

 

「まあ、立ち話も何だ。三人とも遠慮せず入っとくれ!」

 

 三人が小屋へ入ると、ファングは待ちきれなかったように駆け寄ってきた。

 最初に捕まったのはロンだった。

 

「ちょっ、待て! うわ、顔を舐めるな!」

 

 ファングは前脚をロンの胸へかけ、盛大に頬を舐め回す。

 

「助けてくれ、ハリー!」

「すごく気に入られたみたいだよ」

「見てないで引き離してくれ!」

「ファング。彼の挨拶が終わってないよ」

 

 朱音が呼びかけると、犬はぴたりと動きを止めた。

 

「初めまして。朱音だよ」

 

 差し出された手の匂いを嗅いだファングは、その場へ腰を下ろした。

 尻尾だけが床を激しく叩いている。

 

「いい子だね」

 

 朱音が大きな頭を撫でると、ファングは気持ちよさそうに目を細めた。

 顔中を涎まみれにされたばかりのロンが、信じられないものを見る目を向ける。

 

「どうして朱音の言うことは聞くんだ?」

「落ち着いて話しかけたからじゃないかな」

「僕だって最初は落ち着いてたぞ!」

「途中から悲鳴になっていたね」

「こうなったら誰でも叫ぶだろ!」

 

 ハグリッドが腹を抱えて笑った。

 

     ◇

 

 小屋の中は、一つの大きな部屋でできていた。

 天井からは干した肉や鳥が吊され、壁際には巨大な寝台が置かれている。その上へ継ぎ接ぎだらけの布団が掛けられていた。

 暖炉では火が勢いよく燃え、大きな銅の薬缶から白い湯気が上がっている。

 ハグリッドは三人を卓へ座らせると、棚から四つのカップを取り出した。

 ただし、森番の手に合わせて作られた食器である。

 三人の前へ置かれたカップは、どう見ても普通のバケツに近い。

 

「……これ、全部飲むのか?」

 

 ロンが、なみなみと注がれた紅茶を見つめた。

「無理せんでいいぞ。残しても構わん」

「よかった……」

 

 続いて、ハグリッドは皿へ手作りの菓子を盛った。

 丸く、焦げ茶色をしている。

 表面はでこぼこで、名前のとおり小さな岩にしか見えなかった。

 

「ロックケーキだ。遠慮せず食え」

「ありがとう、ハグリッド」

 

 ハリーは一つ手に取り――その重さに驚いた。

 軽く指で押してみるがへこまない、両手で力を込めても、びくともしない。

 

「これ本当にケーキ?」

 

 ロンが自分の分を卓へ軽く打ちつければ、木の卓へ鈍い音が響く。

 

「武器じゃないのか、これ」

「何を言っちょる?ちゃんと食えるぞ」

 

 ハグリッドは一つ摘まみ、何の苦もなく口へ入れた。

 ごりっ、と噛み砕く音がした……明らかに人間の子どもが食べるお菓子から響いていい音ではない。

 三人は揃って、彼の歯を見た。

 

「歯まで丈夫なんだねえ」

 

 朱音は感心しながら杖を取り出した。

 

「何をするんだ?」

「食べられる硬さにする」

 

 朱音はロックケーキへ杖先を向ける。

 

「スポンジファイ」

 

 小さな光がケーキを包んだ。表面に杖先を触れると、先ほどまで岩のようだった生地が柔らかく沈み、程よく元へ戻る。

 

「おお……」

 

 ロンが目を見開いた。

 

「これなら本当にケーキだ」

「だから食べる前からケーキだぞ」

 

 ハグリッドが不服そうに言う中、まずは朱音が一口齧った。

 干し葡萄の甘味。

 香辛料の風味。

 焼けた小麦の香ばしさ。

 材料の組み合わせ自体は悪くない。

 むしろ素朴で、紅茶によく合う味だった。

 

「味は美味しいんだけど、これはこれで独特な弾力だね‥…」

 

 朱音はもう一口味わってから、真剣に考える。

 

「後は、どう火力を控えるかが課題かな。表面だけでなく中心まで水分が抜けすぎているから、焼き時間も少し短くして――」

「相変わらず手厳しいな、朱音先生は」

 

 ハグリッドが苦笑した。

 

「先生?」

「朱音の料理は、俺の舌が知る限りじゃプロ以上だ。エヴァンダーを訪ねて何度か日本へ行った時、こいつが和食を振る舞ってくれてな。煮物も焼き魚も、何だか細長い卵焼きも、どれも絶品だったぞ」

「細長い卵焼きって、だし巻き卵かな?」

「お~それだ!」

「朱音、そんなに料理が上手いの?」

 

 ロンが驚いて尋ねる。

 

「好きで作っているだけだよ」

「それでプロ以上になるのか?」

「ルビおじさんが褒めすぎなだけ」

「そんなことはないぞ。ハリーも食べたことがあるだろ?」

「うん」

 

 ハリーの脳裏へ、二人と初めて会った夜の十一歳の誕生日に食べたチョコレートケーキが蘇る。

 蝋燭の柔らかな光が灯る初めて自分のために用意された、きちんとした誕生日ケーキ。

 甘すぎないクリーム。

 濃厚なチョコレート。

 そして、誕生日を祝ってくれたハグリッドと朱音。

 

「すごく美味しかった」

 

 味を思い出しただけではない。

 あの日、自分は魔法使いなのだと教えられた。

 両親について知った。

 何より、自分が生まれた日を喜んでくれる人がいると、初めて実感できた。

 

「あのケーキは、たぶんずっと忘れないと思う」

 

 ハリーが静かに言うと、朱音は僅かに目を丸くするも、穏やかに微笑み返す。

 

「それは作った甲斐があったよ」

 

 ロンは柔らかくなったロックケーキを頬張りながら、二人を見比べる。

 

「いいなあ。僕も朱音のケーキを食べてみたい」

「今度、作れる場所があればね」

「ホグワーツの厨房を借りられないのか?」

「場所がどこにあるか、まだ知らないんだ」

 

 朱音は紅茶のカップを両手で持ち上げた。

 大きすぎるため、飲むというより縁から慎重に啜る形になる。

 

「料理といえば、少し気になっていたんだけど」

「何だ?」

「大広間に出てくる料理って、自分が食べたいものをお願いできるのかな?」

「ああ、それならできるぞ」

 

 ハリーとロンも、同時に顔を上げた。

 

「できるの?」

「前の日か、その日の朝に《次の夕飯はあれを食いたい》と強く念じてみろ。次の日か、その日の晩には、大体そのとおりの料理が並ぶ」

「本当に!?」

 

 ロンの目が輝いた。

 

「僕、ローストビーフを山ほど頼む!」

「大広間には普段から出ているだろう」

「じゃあ、ソーセージと肉入りパイと、糖蜜タルトを――」

「お願いする前に、今ある献立を確認した方がいいね」

「何でだよ?」

「既に出る料理を頼んでも、選択肢は増えないからさ」

「なるほど。じゃあ普段出ないものを考えよう」

 

 ロンは早くも献立の検討へ入り、ハリーも興味を引かれたらしい。

 

「マグルの料理でも出るのかな?」

「万国を問わんのは間違いないな」

 

 ハグリッドは顎髭を撫でた。

 

「フランス料理だろうが、インド料理だろうが、アフリカや中国の料理だろうが、念じりゃ出たって話は聞く。前の日なら朝飯でも昼飯でも夕飯でも、だいたい対応しちょるぞ」

「日本料理は?」

「それは試したことがないなあ」

 

 朱音の翡翠色の瞳が輝いた。

 

「よかった♪」

 

 心底安心したような声とその笑顔を見て、ハリーはなぜか嫌な予感がした。

 

「朱音」

「何かな?」

「何を頼むつもり?」

「まだ決めていないよ」

「本当に?」

「候補なら幾つか」

「幾つ?」

 

 朱音は指を折りながら答える。

 

「白いご飯。お味噌汁。焼き魚。だし巻き卵。肉じゃが。ひじきの煮物。胡麻和え。お漬物。それから――」

「待って」

 ロンが止めた。

 

「一食で全部頼むのか?」

「量を調整すれば、朝食としても悪くないだろう?」

「それ宴会じゃないの?」

「日本では一般的な献立だよ」

「日本人は朝からそんなに食べるのか!?」

「毎日全部が並ぶわけじゃないさ」

 

 朱音は楽しそうに笑う。

 

「でも、せっかくホグワーツへ来たんだ。皆にも日本の味を知ってもらえたら嬉しいね」

「皆にも?」

 

 ハリーが聞き返した。

 

「大広間の全員に出るんだろう?」

「たぶんな」

 

 ハグリッドが頷き、ハリーとロンは顔を見合わせた。一人の新入生が前日の夜に念じた結果、翌朝、四つの寮と教職員全員の前へ和朝食が並ぶ。それは、食文化の紹介というには随分と大規模だった。

 

(……あれ?)

 白いご飯。

 お味噌汁。

 焼き魚にだし巻き卵。

 頭の中では、すっかり懐かしい日本の朝食が出来上がっている。

 しかし――。

 

(いけない……いくらダンブルドア校長が日本文化にも通じてると、組み分け帽子さんから前世の件でお話した時に知ったからって、先走り過ぎた)

 

 朱音は、手元の紅茶へ視線を落とした。

 

(そもそもホグワーツはイギリスの学校なんだから、みんなが日本の朝食に慣れているわけじゃない。それに、厨房で準備してくださる方々の都合も確認していないし……)

「……朱音?どうしたの?」

 

 ハリーが首を傾げた。

 

「いや、ちょっと反省していたところさ、私が食べたいからって、いきなり学校全員分の献立を変えてもらうのは、さすがに勝手が過ぎるかなって」

「……今さら?」

「うっ、返す言葉もないねぇ……」

 

 珍しく素直に肩を落とした朱音を見て、ハリーが笑いを堪える。

 

「でも、僕は日本の朝ご飯、食べてみたいよ」

「僕も!」

 

 ロンが勢いよく手を挙げた。

 

「その、だし巻き卵ってやつ! ハグリッドが絶品だって言ってただろ?」

「うん。甘い卵焼きとは少し違って、お出汁の風味を楽しむ料理だよ」

「ますます食べたい!」

「ありがとうロン」

 

 朱音は嬉しそうに微笑んだ。

 

「それなら、まずは希望する人だけに食べてもらえる方法を考えてみようかな」

「そりゃあいい考えだ」

 

 ハグリッドが頷いた。

 

「厨房の連中に相談してみるといい。あいつらは料理の腕もいいし、珍しい献立にも興味を持つかもしれん」

「そうだね。まずは作ってくださる方々へ相談するのが筋だ」

 

 朱音は納得したように頷く。

 

「それに、私自身が厨房を借りられるなら、作り方を教えながら一緒に準備するのも楽しそうだ」

「朱音が作るの!?」

 

 ロンの目が輝いた。

 

「それなら僕、絶対食べに行く!」

「まだ厨房を借りられるかも分からないよ?」

「予約しておく!」

「予約制じゃないと思うけどねぇ」

 

 ロンと朱音の見事なコメディに、ハリーが吹き出した。

 

「じゃあ僕も予約しようかな」

「ハリーまで!?」

「だって、誕生日のケーキ、本当に美味しかったから」

「……ふふっ」

 

 朱音は困ったように、それでいて嬉しそうに笑った。

 

「分かったよ。実現できたら、二人には真っ先に知らせるさ」

「ところで朱音」

 

 ハグリッドが大きなカップを置いた。

「さっきから気になっとったんだが、お前さん、どうしてダンブルドア校長が日本の文化に詳しいって知っとるんだ?」

 

 朱音の顔は微笑んだまま固まり、こめかみに滴る冷や汗。ハリーとロンも、興味深そうにこちらを見ている。

 

「ダンブルドアって、日本にも行ったことがあるの?」

「さあ、どうだろうねぇ」

 

 慎重に言葉を吟味している朱音……実は組み分け帽子づてに、前世の件はダンブルドア校長とマクゴナガル副校長には打ち明け済みなのだが。

 

「組み分けの時、帽子さんと少し長く話しただろう? その時に、校長先生が色々な国の文化にも造詣が深い方だと聞いたんだよ」

「へえ、組み分け帽子ってそんなことまで教えてくれるのか」

「僕の時なんて、あっという間だったのに」

「私の時は、ちょっと相談事があったからね」

「相談事?」

「帽子さんがどの寮で学ぶのが私に合っているか、という話さ」

 

 嘘ではない。ただし全てを話してもいない。

 紅茶を一口飲む朱音の首元にかかる琥珀色の勾玉(ペンダント)が、胸元で小さく揺れた。

(……前世の件は、まだ二人に話す段階じゃないね)

 

 ハリーはそれ以上追及しなかった。

 

「でも、朱音がスリザリンに入ってよかったと思うよ」

「おや、どうして?」

「だって、違う寮でも友達になれるって分かったから」

「……そうだね。私も、そう思うよ」

 

 ロンは残りのロックケーキを頬張りながら、うんうんと頷いた。

 

「それに、スリザリンに友達がいれば、寮対抗杯で負けても少しは悔しくないかもしれないし」

「それはどうかなぁ」

 

 朱音が楽しそうに笑う。

 

「勝負する時は、私も本気でスリザリンを応援するよ?」

「えっ」

「友達だからって、手加減するとは限らないだろう?」

「……そうだった!」

 

 ロンが頭を抱えた。

 ハリーは声を上げて笑った。

 ハグリッドも髭を揺らして笑う。

 朱音はそんな二人を眺めながら、胸の内で一つだけ決めた。

 

(日本の朝ご飯は、まず食べてみたい人から。それがいいね)

 

 そして、もう一つ。

 

(……組み分け帽子さんとの話も、もう少し慎重に扱わないと)

 

 秘密を守ることと、誰かを遠ざけることは同じではない。

 今はまだ、話すべき時を選ぶだけだ。

 そう考えて、朱音は再び紅茶のカップを持ち上げた。

 

「何の話で盛り上がっちょるんだ、お前さんたちは」

 

 ハグリッドは呆れながらも、楽しそうだった。

 暖炉の火が爆ぜる。

 ファングは朱音の足元へ巨体を横たえ、満足そうに眠り始めている。

 卓上には、バケツのように大きな紅茶のカップ。

 魔法で柔らかくされたロックケーキ。

 そして、明日の朝食を巡る話。

 ホグワーツで迎えた最初の休日。それは冒険でも、授業でも、命の危険を伴う事件でもない。友人の家を訪ね、お茶を飲み、まだ見ぬ料理について笑い合う。

 ハリーにとって、そんな何でもない時間こそが、これまでほとんど知ることのなかった魔法の一つだった……のだが――。

 

「そういやハリー。学校はどうだ?」

 

 ハグリッドが新しい紅茶を注ぎながら尋ねた。

 

「先生たちとは、うまくやっとるか?」

 

 その問いを聞いた瞬間。ハリーとロンの表情から、笑みが僅かに消えた。

 前日の地下教室。こちらを射抜く漆黒の瞳。

 答えられないと承知した上で投げられた、三つの難問。

 朱音は二人の変化へ気づき、カップを静かに卓へ戻した。

 

「……実はね、ハグリッド……う~ん……」

 

 ハリーが口を開くも、どう表現すればいいか迷っている様子。

 穏やかなお茶会は、少しずつ別の話題へ向かおうとしていた。

 

「どう話せばいいかなって」

「その反応は何だ?」

 

 ハグリッドの太い眉が寄る。

 

「早速、誰かに目ぇつけられたんじゃあるまいな?」

「僕……スネイプ先生に嫌われてると思う」

 

 ハリーは、ロックケーキを皿へ戻した。

 口に出してみても、胸の奥に溜まっていたものは軽くならなかった。

 

「スネイプが?」

 

 ハグリッドは怪訝そうな顔をした。

 

「どうしてそう思うんだ?」

「最初からなんだ」

 

    ◇

 

 歓迎の宴で大広間へ入った、あの夜。

 組み分けを終えたハリーは、ロンやハーマイオニーと共にグリフィンドールの長卓へ座っていた。

 ダーズリー家での暮らしでは絶対に食べたことがない舌鼓を打つ料理が次々と金の皿へ現れ、頭上では無数の蝋燭が揺れている。

 そんな中、ロンから自身と同じくらいの色合いの赤毛な上級生を紹介された。

     

「こっちはパーシー。僕の兄貴」

「パーシー・ウィーズリーだ」

 

 少年は胸元の監督生章がよく見えるように、姿勢を正した。

 

「学校生活で分からないことがあれば、監督生の僕に聞くといい。規則や施設の利用法についてなら、ほとんど答えられる」

「ほとんど?」

「ロンよりは詳しい、という意味だ」

 

 パーシーは澄ました顔で答えた。

 ハリーは教師用の長卓へ目を向けた。何人もの教職員が並ぶ中、その人物だけが周囲の明るさから切り離されているように見えた。

 肩まで伸びた黒髪に蝋のように青白い顔、全身を覆う漆黒のローブ。

 深い眼窩に沈んだ二つの目が、まっすぐハリーへ向けられている。

 

「あの……パーシー」

「何だい?」

「あそこにいる、コウモリみたいな感じの先生は誰?」

「コウモリ?」

 

 ロンが視線を辿り、すぐに納得した。

 

「ああ、本当にそれっぽいな、隣の先生の頭はエジプトっぽい」

「失礼な呼び方をするな、彼はセブルス・スネイプ先生だ。魔法薬学の担当で、スリザリンの寮監でもある」

 

 そこでパーシーは声を落とした。

 

「ただ……闇の魔術にもかなり詳しい。毎年、《闇の魔術に対する防衛術》の教授職を狙っているという噂もある」

「闇の魔術……」

 

 ハリーがもう一度、教師用の長卓を見る。

 スネイプはまだ、こちらを見ていた。

 正確には――ハリーの目を。

 黒い双眸が、母から受け継いだ緑色の瞳へ釘づけになっている。

 目が合った瞬間、ハリーの額の傷痕へ鋭い痛みが走った。

 

「痛っ……!」

「どうした、ハリー?」

「傷が……」

 額へ手を当てながら、もう一度顔を上げる。

 

 しかしスネイプは、既に隣の教授――クィレルへ何かを話していた。

 

     ◇

 

「それだけなら僕も気にしなかった……でも昨日の魔法薬学でも、いきなり僕に難しい質問をしてきたんだ。ハーマイオニーと朱音によれば、六年生くらいで習う内容だったんだって」

「一年坊に、六年の問題を?」

 

 ハグリッドの眉が、ますます深く寄る。

 

「アスフォデルとニガヨモギを混ぜたら何ができるとか、ベゾアール石はどこにあるとか、モンクスフードとウルフスベーンの違いとか……僕が答えられないと分かってて聞いてたみたいだった」

「ハーマイオニーがずっと手を挙げていたのに、ガン無視だったし」

 ロンが不満そうに付け加える。

 

「朱音が手を挙げたら、そっちは当てたけど」

「私の場合はスリザリン生だからか、どこまで答えられるのか試すつもりだったのか――その辺りは分からないね」

 

 朱音は紅茶のカップを両手で包みながら言った。

 

「ただ、質問の難度が初回授業として不適切だったことは確かだよ。ハリーが答えられなくても、勉強不足の証拠にはならない」

「朱音が答えてくれなかったら、もっと長く晒し者にされていたと思う」

「それは少し違うよハリー、私は先生の質問に答えただけだ。あの場で耐えたのは君自身さ」

 

 ハリーは何も言わなかった。耐えたというより、耐えるしかなかっただけだ。

 けれど朱音の言葉は、それを弱さとして扱いもしなかった。

 

「うーん……」

 

 ハグリッドは太い指で髭を掻いた。

 

「気にし過ぎじゃないのか? 元からスネイプは、生徒という生徒が嫌いなんだ」

「それ、先生としてどうなの?」

 

 ロンから呆れた声を上げる。

 

「いや、嫌いっちゅうのは言葉のあやでな。愛想のいい男じゃないのは確かだが……誰にでも厳しいんだ」

「でも、あれは嫌ってるっていうより……」

 

 あの黒い瞳を思い出すハリー、あの眼差しは冷たいとじゃ嫌いだけではない。

 まるでハリーの顔に、見たくもない何かを見つけてしまったかのような眼差し。

 

「もう、憎んでるところまで行ってる気がする」

「馬鹿な、なんでスネイプがお前さん一人(ひちょり)にそこまで憎むんだ?」

「それが分からないから聞いてるんだよ」

「お前さんが会ったのは、入学してからだろう?だったら、憎まれるようなことなんぞ、しようがないじゃないか」

 

 もっともな話ではあるが、それでスネイプの視線まで勘違いだったとは思えなかった。

 

「朱音はどう思う?スネイプと睨み合ってたろ?質問に答えた時」

「睨み合っていたつもりはないんだけどねぇ」

「教室中からはそう見えたんだもん、二人とも全然目を逸らさないし」

「先生の目を見て答えただけだよ」

 

 朱音はそう答えたが、笑みを薄くし、天井の電球を眺めて昨日の授業模様を思い返す。

 

「ただ……嫌っているのか、憎んでいるのかは置いておいて、スネイプ先生は生徒をよく観察していると思う」

「揚げ足を取るために?」

「それもあるかもしれない、手順を間違えそうな生徒、話を聞いていない生徒、失敗を他人のせいにしようとしている生徒、そういう兆候を探しているんだと思う。私や他の生徒を見る時は、顔や手元、姿勢まで、隅々を確認していた」

「じゃあ、ハリーも見られてたんだろ?」

「うん、ハリーへの見方は、他の生徒と違う気がする……」

「違うって?」

 

 朱音の翡翠色の瞳はハリーの碧眼を見据えた上で目元を指す。

 

「私が見た限り、先生はハリーを見る時だけ、ずっと瞳に焦点を合わせていたんだ。口元や眉、肩の力、杖を持つ手――普通なら相手を見極めるために確認する場所を、ハリーに対してはほとんど見ていなかった」

 

 歓迎の宴でも、魔法薬学の教室でも。

 スネイプの目はずっと、ハリーの緑色の瞳へ向けられていた。

 

「ハリーの顔全体を見ているというより、目の色しか見られない――そんな感じだったよ」

「どうして?」

「それが分かれば苦労しないんだけどね~」

 

 朱音は両手を僅かに上げ、肩をすくめた。

 

「ここから先は、お手上げさ」

「目の色……」

 

 ロンがハリーの顔を覗き込む。

 

「変わった色ではあるけど、緑色の目なんて他にもいるだろ?ここだけでも二人いるし」

「うん」

 

 スネイプはその向こうに、一体なにを見ているのか。

 考えても、答えは出なかった。

 

「そういやロン!」

 

 不意にハグリッドが、大きな声を出した。

 ハリーたちが一斉に振り向く。

 

「チャーリー兄貴は、ここんとこどうしとる? 何か聞いとらんか?」

「チャーリー?」

 

 ロンは急な話題の変化に目を瞬いた。

 ハリーもハグリッドを見る。

 先ほどまでスネイプの話へ向けられていた彼の目は、もうロンの方しか見ていなかった。

 

(話を逸らした?)

 

 そんな疑念が頭を過る。

 ハグリッドは、スネイプがなぜ自分を見るのか知っているのだろうか。

 それとも、ただ根拠のない話を長引かせたくないだけなのか。

 朱音もハグリッドの話題転換へほんの一瞬、翡翠色の瞳が細くなるも、何も追及せずに引っ込めた。

 

「今はルーマニアにいるよ」

 

 ロンは上から二番目の兄のホグワーツ卒業後の近況を話す。

 

「ドラゴンの研究をしてる。手紙だと、かなり忙しいみたいだけど」

「おお、そうか!」

 

 ハグリッドの表情が明るくなる。

 

「あいつとは、動物を愛する者同士、気が合ってなあ。学生の頃から、ちょくちょく森へ入っちまうのが玉に瑕だったが」

「禁じられた森へ?ダンブルドアもダメだって釘刺してたあそこに?」

「ああ。危険な生き物を見つけたとなりゃ、止めても行っちまう。まあ、フレッドとジョージに比べりゃ可愛いもんだったがな」

「何で誰も彼も双子(あいつら)を基準にするんだよ……」

 

 ロンが額を押さえる。

 

「ウィーズリー家では、比較対象として便利なんだろうねぇ」

「便利で済ませていいのか、それ?」

「そのチャーリーさんは、昔からドラゴンが好きだったのかい?」

「うん。ドラゴンの話になると止まらないんだ。家でも母さんに隠れて、火傷の治療法とか読み込んでたらしい」

「好きなものを仕事にできたんだね。素敵じゃないか」

「まあね、母さんは今でも危険だって心配してるけど」

 

 会話はチャーリーの近況へ移っていった。

 ハグリッドは、ルーマニアのドラゴン保護区について興味津々で質問する。ロンは知っている範囲で兄の手紙の内容を話し、朱音が時折相槌を打った。

 ハリーも会話へ加わろうとした。

 けれど、胸に引っかかった疑問は消えない。

 スネイプは、なぜ自分の瞳ばかりを見るのか。

 そして、ハグリッドはなぜ話題を変えたのか。

 ふと、テーブルの端に置かれた新聞が目に入った……少し前の日付の『日刊予言者新聞』である。

 開かれた紙面では、挿絵の中の黒ずくめの人物が、何度も建物の陰へ身を隠している。

 魔法界特有の『活動写真』が捉えたその動きに、なぜか胸騒ぎを覚えたハリーは新聞を引き寄せる。

「ハリー?」

 

 記事の見出しには、大きな文字が並んでいた。

 

 ――グリンゴッツ侵入事件、捜査続く。

 八月初めに発覚した、グリンゴッツ魔法使い銀行への侵入事件。

 犯人は正体不明の魔法使い、あるいは魔女。

 銀行側は何も盗まれなかったと発表している。

 侵入を受けたのは、地下深くにある七百十三番金庫。

 ただしその金庫は、事件が起きた日のうちに中身を移され、空になっていたという。

 保管されていた品物について、ゴブリンたちは一切の回答を拒否していた。

 

「七一三番……」

 

 忘れるはずがなかった。

 ハグリッドと朱音と共に、初めて魔法界を訪れた日。

 グリンゴッツの地下深くで、ハグリッドが小さな包みを取り出した金庫。

 

「ハリー、何が気になって――」

 

 朱音も新聞を覗き込む目が、記事の番号へ止まった。

 ハグリッドは何も言わず、顎髭を撫でている。

 

「ハグリッド」

 

 ハリーは記事から顔を上げた。

 

「この強盗、僕たちがグリンゴッツへ行った日に起きたのかもしれないよ」

「さ、さあなあ」

 

 ハグリッドは、はっきりと目を逸らした。

 

「新聞は大袈裟に書くもんだ。ほれ、ロックケーキをもう一つどうだ?」

「事件が起きたのは八月初め。七百十三番金庫は、その日のうちに空になってたって……の日、ハグリッドが何かを持ち出した金庫も七百十三番だったよね?強盗は、ハグリッドが持ち出した物を盗もうとしたんじゃないの?」

 

 ハグリッドの手から、ロックケーキが皿へ落ちた。

 ごつり、と菓子とは思えない音がする。

 

「何の話?」

 

 この場で唯一事情を知らないロンが、ハリーとハグリッドを交互に見る。

 

「ハグリッドが、泥棒の狙っていた物を先に持っていったってこと?」

「わしは何も言っとらんぞ!」

 

 ハグリッドが慌てて否定した。

 

「言っとらんからな!」

「でも、違うとも言ってないじゃん」

「ロン!」

「僕に怒らないでよ!」

 

 ハグリッドは困り果てた様子で髭を掻き回した。

 朱音は新聞を元の位置へ戻す。

 

「そこまでにしよう」

「でも、朱音」

「気にならないわけじゃないよ」

 

 彼女はハグリッドを見る。

 森番の大男は、叱られた子どものように肩を落としていた。

 

「ルビおじさんが私たちに説明できないなら、守秘義務の厳しい仕事だったんだろう。これ以上質問しても、困らせるだけさ」

「そ、そうなんだ!」

 

 救いを得たように、ハグリッドが何度も頷く。

「わしが勝手に喋っていい話じゃない。だからお前さんたちももう忘れろ。七百十三番のことも、中身のことも、泥棒のこともな!」

 

 言い終えてから、ハグリッドは固まった。

 

「……中身があったのは認めたね」

 

 ロンが指摘する。

 

「今のは、その……言葉の綾だ!」

 

 ハグリッドは深々と息を吐いた。

 ハリーはまだ聞きたかった。

 あの小さな包みには、何が入っていたのか。

 誰が盗もうとしたのか。

 ダンブルドアは、なぜそれをハグリッドに運ばせたのか。

 だが、朱音の言うことも分かる。問い詰めたところで、ハグリッドが話せない事実は変わらない。

 

「分かった……今日はもう聞かないよ」

「そうしてくれ」

「今日は、ね」

 

 

 ハリーが付け加えると、ハグリッドは何とも言えない顔をした。

     ◇

 

 小屋を出る頃には、太陽が空の高い位置まで昇っていた。

 そろそろ昼食の時間である。

 ファングは三人を見送ろうとして外までついてきたが、森へ駆け出しそうになり、ハグリッドに首輪を掴まれていた。

 

「また来いよ!」

「うん。ごちそうさま、ハグリッド!」

「次はケーキをもう少し弱火でね、ルビおじさん」

「分かっとるよ、朱音先生!」

「次は僕も《スポンジファイ》を覚えるからさ」

「どういう意味だロン!」

 

 ハグリッドの声を背中に受けながら、三人は城への坂道を上っていく。

 

「あれ絶対、何か隠してるよな」

「うん」

 

 ハリーは迷わず頷いた。

 

「朱音もそう思うだろ?」

「隠しているのは間違いないだろうね」

「じゃあ、やっぱり七一三番金庫から――」

「ただし」

 

 朱音がロンの言葉を遮った。

 

「ルビおじさんが取り出した物と、侵入者の狙いが同じだったかどうかは、まだ推測だよ」

「でも、それ以外にあるか?」

「とりあえず金目のもの欲しさにたまたま同じ金庫へ入った可能性もゼロじゃない。侵入者が金庫の中身を正確に知っていたとも限らないしね」

「朱音って、こういう時まで慎重だよな」

「間違った推測を確定事項として扱うと、後で全部の考えがずれてしまうからさ」

 

 朱音は一度、背後の小屋を振り返った。

 

「それに、ルビおじさん自身は悪事を働いていたようには見えない。誰かに頼まれて、あの品物を金庫から別の場所に運んだ。それ以上は今のところ分からないね」

「ダンブルドアかもしれない」

 

 ハグリッドは、グリンゴッツで確かにそんなことを口にしていたのをハリーは思い出す。

 ホグワーツの仕事、ダンブルドアから頼まれた大切な用事だと。

「校長先生が銀行から別の場所へ移したかった代物で」

「しかも、誰かが盗もうとするくらい価値のある物」

 

 三人は黙り込んだ。遠くに、ホグワーツ城の塔が見える。

 あの城のどこかに、七百十三番金庫から運び出された小包があるのだろうか。

 ハリーには、まだ分からない。

 けれど、泥棒があの金庫の中の《何か》を狙っていたのだとしたら。

 そして、その何かが今、ホグワーツにあるのだとしたら――。

 

「ハリー」

 

 朱音に呼ばれ、顔を上げる。

 

「考えるのはいいけれど、足元にも気をつけたまえ」

「え?」

 

 次の瞬間、ハリーの靴が石へ引っかかった。

 

「うわっ!」

 

 倒れる寸前で、ロンと朱音が両側から腕を掴む。

 

「危なっ!」

「考え事をする時ほど、足元の確認を忘れずにね」

「……気をつけるよ」

 

 三人は顔を見合わせて、少しだけ笑い合う一方、ハリーの中の疑念までは消えなかった。

 スネイプがハリーの瞳に見るもの。

 グリンゴッツの七一三番金庫からハグリッドが運んだ、小さな包み。

 互いに関係があるのかどうかさえ、今は分からない。

 ただ、ホグワーツで始まった生活の裏側に、自分たちの知らない重大な秘密(なにか)が横たわっている。ハリーは、その気配だけをはっきりと感じていた。

 昼食を告げる鐘が、城から鳴り響く中、三人は再び歩き始めた。

 謎を背後へ置いてきたつもりでも……その日を境に、ハリーの意識は七百十三という数字から、決して離れようとはしなかった。

 

つづく。

 




『スポンジファイ』はゲーム作品ではよく出てくる呪文です。
大広間で前日に念じれば翌日に希望メニューが出てくるのはほぼ独自設定ですね。
屋敷しもべ妖精がキッチンで作った料理を魔法で転送してるのは公式とは言え。
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