ハリー・ポッターと玄武(ガメラ)の少女 作:フォレス・ノースウッド
・その頃、ほかの大釜では――
朱音とネビルが机の下で拳を触れ合わせていた、ちょうどその頃。
教室の反対側では、別の二組も調合の仕上げへ入ろうとしていた。
「ロン、火から下ろして!」
「今やってる!」
「山嵐の針はまだだよ!」
「分かってるって!」
ハリーとロンの大釜は、少なくとも爆発してはいなかった。
これは、初めて魔法薬を調合する二人にとって大きな進歩である。
ただし、教科書に記された淡い桃色には程遠い。
鍋の中では、妙に赤みの強い液体が、ごぼ、ごぼ、と不吉な音を立てている。
「なあ、おでき治しの薬って、こんなに……苺ジャムみたいな色だったっけ?」
「食べ物に例えるのはやめた方がいいと思う」
薬液から立ち昇る湯気には、焼いたゴムと腐りかけた玉葱を混ぜたような臭いが漂い、ついにロンが鼻を押さえる。
「絶対に苺ジャムじゃないな」
「だからその例え方……」
一番の原因は、蛇の牙を砕く際にロンが力を込めすぎた。乳棒を勢いよく振り下ろした代償で牙の欠片が幾つか乳鉢の外へ飛び出した。二人は落ちた欠片を拾い集めたものの、その分正確な量を把握できなくなってしまった。
さらに火力を調節する時、ハリーが蛇の牙の粉末へ気を取られている間に、大釜の温度が指定値を僅かに上回った。
致命的な失敗ではないが、二つの小さな誤差が薬液の色と臭いへ表れていた。
「山嵐の針を入れれば直るかな?」
「分からない。でも、入れないと完成もしない」
「もう少し多めに入れたら、帳尻が合ったりしないか?」
「ロン」
ハリーは真顔で友人を見た。
「分からない時に材料を無暗に増やすのは、一番やっちゃいけないと思う」
「……そうだな」
二人は黒板を見直した。
大釜を火から外す。
残り火がないことを確認する。
規定された本数の山嵐の針を投入。
時計回りに三回。
せめて後の手順だけは間違えないよう、声に出して確認した。
「一回~二回~三回……」
鍋の内を回すロンが柄杓を止める。赤みの強かった薬液が、ゆっくりと桃色に……というより、赤茶色に白を混ぜたような色に変わる。
「……さっきよりは、薬らしくなった?」
「苺ジャムではなくなったね」
「喜んでいいのか、それ」
ハリーが答えるより早く、背後から低い声が落ちてきた。
「吾輩も同じことを聞きたいところだ、ミスター・ポッター」
二人の肩が揃って跳ねた。
スネイプが、大釜の向こうに立っている。
「これは、何を調合したつもりなのかね?」
「おでき治しの薬です、先生」
「ほう」
スネイプは大釜を覗いた。
「諸君らの間では、おできは皮膚を赤褐色に染めなければ治療できんのか?」
「少し温度が高くなってしまって……」
「少し?」
スネイプは長い指で温度計を持ち上げた。
「目盛りは、諸君を慰めるために控えめな数値を示してくれるほど親切ではない」
「すみません」
「謝罪は材料にならん」
午前中だけで二度目だった。
どうやらスネイプにとって、非常に便利な言葉らしい。
「蛇の牙も規定量を下回っているな」
「僕が砕く時に飛ばしてしまいました」
ロンが正直に認めた。
「なるほど、ならば床を材料置き場として利用したわけか」
「拾いました」
「それは衛生上の問題を自白しただけだ、ミスター・ウィーズリー」
スネイプはロンの口を閉ざすと白い陶器皿へ一滴落とし、薬液の粘度を確かめた。
雫は少し広がりすぎたものの、水のように流れてはいない。
「効能は弱い。持続時間も短いだろう、だが――」
二人の肩がガックリ落ちかける直前、スネイプは一拍置いた。
「火から下ろした後の手順だけは、教科書どおりだ。少なくとも山嵐の針を煮立った大釜へ放り込み、教室を薬液まみれにする程度の愚行は避けたらしい」
褒められたとは思えないものの、完全な失敗とも言われなかった。
「今回は廃棄せず、標本として保存する」
ハリーが顔を上げる。
「標本?」
「調合温度と材料不足が完成品へどのような差異を生じさせるか、次回比較させるためだ」
スネイプの口元が、意地の悪い角度へ歪む。
「自ら失敗例を用意するとは授業への貢献、痛み入るぞ」
ロンの耳が赤くなった。
スネイプは杖を振り、二人の大釜の横へラベルを出現させる。
そこには大きな文字で、
《高温・蛇牙不足――効能不完全》
と記されていた。
「……名前を書かれなかっただけ、ましなのかな」
ハリーが囁く。
「下に書いてあるぞ」
ロンが指差した先に小さな字で、しっかりと二人の名前が添えられている。
「最悪だ」
「私語を続けたいのなら、その感想もラベルへ加えてやろう、ミスター・ポッター」
「結構です、先生!」
ハリーは慌てて姿勢を正した。
スネイプが立ち去った後、ロンは溜め息をつく。
「減点されなかった」
「うん」
「鍋も爆発しなかった」
「うん」
「一応、効き目はあるらしい」
「弱いけどね」
二人は大釜を見た。
朱音とネビルの薬のような、美しい桃色ではない。
それでも、自分たちが最初から最後まで作った魔法薬だった。
「次は牙を飛ばさない」
「僕は温度計から目を離さない」
「それなら、次はもう少しましになるかな」
「なるよ。たぶん」
「そこで言い切れよ」
成功ではないが、幸い失敗をどこで犯したかは明確に把握はできている。二人にとっての最初の一瓶は、少し臭く、色も悪く、教室の教材として永久に名前を残しかねない出来だった。
◇
一方、ドラコとゴイルの卓でも、別種の問題が起きていた。
「ゴイル、撹拌は三回だと言っただろう!」
「まだ二回だ」
「今ので三回目だ!」
「最初のは半分だった」
「半分でも回したことには変わりない!」
ドラコは手順を正確に覚えている。材料の計量も丁寧で、蛇の牙も均等な粉末へ仕上げた。角ナメクジなどスネイプから『完璧な茹で具合だ、ミスター・マルフォイの出来具合を諸君もお飾りな瞳と脳みそに刻みたまえ』と、日頃の生徒の評判からは信じられないほどの賛辞を貰った。
ただし、全てを自分の指示どおりに進めさせようとするあまり、相棒であるゴイルの動きを逐一監督していた。
対するゴイルは口数こそ少ないが、案外自分の感覚へ自信を持っている。
「いいから、柄杓を貸せ」
「でも、まだ三回じゃない」
「僕が三回だと言っているんだ!」
「大釜の正面まで回ってない」
「細かいな!」
隣でクラッブと組んでいるブレーズが、隣の卓から顔を上げた。
「お前がそれを言うのか、ドラコ」
「口を挟むな、ザビニ!」
柄杓を受け取ろうとしたドラコだが、ゴイルは離さない。
一本の柄杓を二人で掴み、大釜の上で引っ張り合う。
「離せ!」
「あと半分」
「僕がやる!」
「ドラコが触ったら四回になる」
「最初の半分を数えるなと言ってるんだ!」
「何をしている?」
背後から届いた声で、二人の動きが止まった。
スネイプが立っていた。
ドラコは即座に柄杓を離し、その反動で、ゴイルの手元が半円を描いた。
結果として、柄杓はちょうど一周分の撹拌を終えた。
「あっ……」
ドラコの顔から血の気が引く。
ゴイルは大釜を見下ろした。
「これで三回」
「余計なことを――!」
「ミスター・マルフォイ」
スネイプの低い声に、ドラコは言葉を飲み込んだ。
「はい、先生」
「先の角ナメクジは見事だったが、まさか調合中の大釜を挟み力比べをすることが魔法薬の教科書へ書き加えられていたとは、吾輩も寡聞にして知らなかった」
「申し訳ありません」
「原因は?」
撹拌回数を理解していなかった。
そうドラコが答えれば、自分の失敗ではなくなる。
だが、ゴイルは最初から「半分しか回っていない」と言っていた……そして結果として、薬液は教科書どおりの薄桃色へ変化している。
「……数え方について、意見が合いませんでした」
「つまり諸君らは、一周という概念について議論していたわけか」
「はい」
「十一歳の魔法使いとして実に高度な議題だな」
教室のあちこちで、笑いを堪える音がした。
ドラコの頬が赤くなる。朱音も遠くから大釜の様子を見ていたが、笑わなかった。
代わりに、何が起きたのか確かめるように首を傾げている。他の連中同様笑い飛ばさない朱音の様子に、ドラコは却って居心地の悪さが強まった。
「最初の動きは半周でした」
ドラコは観念して答える。
「ゴイルの数え方が正しかったです」
ゴイルがドラコを見る。
意外そうな顔だった。
スネイプも僅かに目を細めた。
「ならば次からは相方の観察を、怒鳴る前に検討したまえ」
「はい、先生」
「技量があることと、常に自分だけが正しいことは同義ではない」
ドラコにはその言葉が妙に深く刺さり、先のスネイプからの賛辞を思い出して紛らわそうとしているのをよそに、彼は完成した薬液を検分する。
色に問題はなし、粘度も適正、湯気も安定している。
「調合結果は良好だ」
ドラコの表情が明るくなる。
「スリザリンに二点」
「ありがとうございます!」
「ただし点を得たのは、ミスター・ゴイルが柄杓を離さなかったからだ。ミスター・マルフォイの指示に従っていれば、撹拌回数を一回超過していた」
———も、スネイプが追加して発した言葉に、笑顔はなんとも言えない塩梅で固まる。
「よって内訳は、ミスター・ゴイルの観察へ二点。ミスター・マルフォイの材料処理へ――評価のみとする」
開いたあままのドラコの口が僅かに動く、調合は成功した方、しかも寮に点数も入った。
それなのに、どうしても勝った気がしない。
「不服か?」
「……いいえ、先生」
「結構」
スネイプは次の卓へ移り、他生徒の出来栄えを注視している。
ゴイルは大釜の中の魔法薬を見下ろし、それからドラコへ。
「僕の二点?」
「スリザリンの二点だ」
「でも先生は、僕の観察に二点って」
「スリザリンへ入るんだから同じだろ!」
「じゃあ、ドラコも嬉しい?」
「当然だ!」
「よかった」
ゴイルは満足そうに笑った。
ドラコは何か言い返そうとして、やめた。
自分一人なら、撹拌を一回多くしていた。
認めるのは癪だが、それは事実である。
「……次からは」
「何だ?」
「半周なら、最初から半周と言え」
「だから最初から言ってた」
「ならもっと大きな声で!」
「分かったよ……」
素直に頷くゴイル、一連の様子(やりとり)を見ていた朱音が、にこやかに笑う。
「いい相棒だね、ドラコ君」
「今のどこをどう見てそう思った!?」
「君がゴイル君の意見を最後には認めたところ」
「スネイプ先生の前で否定できなかっただけだ!」
「誤魔化さずに正直に伝えたのは事実だろう?」
ドラコは言葉に詰まった。
褒められるつもりなどなかった。
もっと完璧に調合し、自分の方が優秀だと示すはずだった。
それが結果だけを見れば、ゴイルに助けられた形になっている。
「……次は僕が二点取る」
「ではゴイル君と競争だ」
「同じ寮なのに、なぜ競争になる!」
「それで互いに腕を磨けるなら、悪くないだろう?」
「そういう問題じゃ――」
「ドラコ」
朱音に言い返す中途で、ゴイルがドラコを呼ぶ。
「何だ!」
「薬、瓶に入れないと」
「……分かっている!」
ドラコは保存瓶を取り出した。
ゴイルが漏斗を支える。今度はどちらも、相手の手を奪おうとはしなかった。
◇
授業終了の鐘が、地下教室へ響いた。
完成した薬は保存瓶へ移され、失敗作は別の棚へ分けられた。
朱音とネビルの瓶には、淡い桃色の液体が満ちている。
ハリーとロンの瓶――正確には失敗例として保存された大釜の中身――は、赤茶色。
ドラコとゴイルの瓶も、朱音たちのほぼ同じくらいの桃色をしていた。
片づけを終えた四組が、教室の出口近くで顔を合わせる。
「ネビル、成功したんだって?」
ハリーが尋ねた。
「うん。朱音と一緒に」
「ネビルが火力の変化へ気づいてくれたんだよ」
朱音が即座に補足する。
「すごいじゃないか!」
ロンがネビルの背中を叩いた。
「ぼ、僕も驚いたよ」
ネビルは照れながら笑い、それを見たドラコがむすっと腕を組む。
「僕たちも成功したぞ」
「でも先生は、ゴイル君の観察へ二点と」
「聞いていたのか朱音!?」
「同じ教室だし、スネイプ先生の低音はよく通るから聞こえちゃってさ、やるじゃんゴイルくん」
朱音から賞賛されたゴイルはどこか誇らしげ、スネイプから点数を貰った瞬間より嬉しいそうだ。
「僕が柄杓を離さなかった」
「そこだけ聞くと、意地の張り合いで成功したみたいだな」
「お前たちは失敗したそうじゃないか、ウィーズリー」
ドラコの反撃に、ロンのくすくすとしていた笑みが消えた。
「効き目が弱いだけだマルフォイ」
「それを失敗と言うんだウィーズリー……」
「鍋を爆発させてないから失敗じゃない!」
「基準が低すぎるぞ」
「初回なんだからいいだろ!」
「何回目だろうと僕たちは成功した」
この口論にハリーは止めるべきか迷い、ネビルはおろおろと二人を見比べた。
朱音は少し考え、静かに口を開く。
「では、今日の結果をまとめようか」
三人が彼女を見る。
「ネビルと私は、予習と確認で成功」
「うん」
「ドラコ君とゴイル君は、意見が衝突したけれど、ゴイル君の観察によって成功」
「僕の材料処理もだ!」
「もちろんそれも成功材料」
ドラコはひとまず黙る。
「ハリーとロンは、分量と温度を誤ったけれど、原因を特定できる程度には完成」
「ほら、失敗じゃない!」
「成功とも言ってないぞ」
「そしてドラコ君たちも、柄杓を取り合っていたとスネイプ先生が言ってたと」
「じゃあ、完璧だった組はないってこと?」
「そうなるね」
朱音は頷いた。
「でも全員、最初の一瓶から次に直すところを見つけた。初回授業としては、十分な成果じゃないかな」
ロンは腕を組んだ。
「……何だか上手くまとめられた気がする」
「実際、上手くまとめているからね」
ハーマイオニーがパーバティと一緒にやって来る。
二人の手には、教科書どおりの美しい桃色をした瓶があった。
「私たちは問題なく完成したわ」
全員が黙った。
ハーマイオニーは瓶を持ち上げる。
「色、粘度、湯気、どれも適正。スネイプ先生からも訂正はなかったの」
ロンが朱音へ顔を向けた。
「完璧だった組、いたじゃないか」
「いたねぇ」
朱音は素直に訂正した。
ドラコは悔しそうにハーマイオニーの瓶を見る。
ハリーは苦笑した。
「さすがハーマイオニー」
「昨日、三人で予習した成果よ」
ハーマイオニーは得意げに言った後、ネビルを見る。
「でも、ネビルも成功したのね。よかった!」
「ありがとう」
「今度は角ナメクジを入れた後の湯気について、僕が気づいたことを二人に話すんだ」
「ぜひ聞かせて」
ハーマイオニーが当然のように頷く。
ネビルの顔が、嬉しそうに綻んだ。
「……僕の話でいいの?」
「実際に大釜を観察して得た知識でしょう? 聞かない理由がないわ」
「うん。じゃあ、ちゃんと整理しておく」
四人の会話を聞きながら、ドラコは自分の瓶を見た。
成功は成功なのだが、一人で成し遂げたものではない。
その事実が悔しいような……でも少しだけ、悪くないような。
「次は負けないからな、グレンジャー」
ドラコが宣言する。
ハーマイオニーは目を瞬いた。
「え?私と競っていたの?」
「今から競うんだ!」
「じゃあせっかくだし、今日の勉強会にも参加する?」
「なぜそうなる!?」
「一緒に予習復習した方が、次に成功する確率は上がるでしょう?」
「朱音、敵に塩を送るつもりか?」
「寮同士競ってはいても同じ授業を受けている生徒でしょう?さすがに敵は行き過ぎだわ」
ドラコがハーマイオニーの発言を前に返答に詰まる。
朱音の笑みが深まり、陽気さが昇っていた。
「次は六人で勉強できそうだねぇ」
「僕たちもその数に入ってる?」
「もちろん」
「ちょっと待て……」
ハリーからの質問に気前よく応じた朱音に、ドラコが周囲を見回す。
朱音。
ハーマイオニー。
ネビル。
ハリー。
ロン。
そして、自分(ドラコ)。
「なぜ僕が、グリフィンドール五人に囲まれて予習しなければならないんだ?」
「朱音はスリザリンだぞ」
「そういう問題じゃないゴイル!」
「じゃあゴイル君も参加する?」
「参加する」
朱音からの提案を、ゴイルは即答して応じた。
「勝手に決めるな、ゴイル!」
「次も二人一組かもしれない、いずれ一人で調合する場合もあるだろうけど、その時まで組んだ相手からも色々吸収できるメリットは活かさないと損だよ」
「……それは」
ドラコの勢いが鈍る。確かに今回の成功には、ゴイルの観察が必要だった。
次も同じ相棒になる可能性があるなら、彼からの経験を踏まえた意見交換で困ることはない。
「勘違いするな」
ドラコはグリフィンドール生はいわずもがな、朱音もゴイルも含めたこの場にいる全員へ向けて指を突きつけた。
「僕はただ、次の授業でスリザリンが最高の結果を出すために参加するだけだ!」
「うん。目的は何でもいいさ」
朱音は楽しそうに頷いた。
「それじゃあ、次の予習会は七人だね」
「増えすぎだろ!」
ロンの叫びが地下廊下へ響いた。
その直後、まだ教室に残っていたスネイプの声が扉越しに届く。
「廊下で騒いだ者は、寮を問わず五点減点する」
七人の口が、同時に閉じた。
沈黙の中、朱音が人差し指を唇へ添える。
全員が揃って頷いた。
こうして初回の魔法薬学は終わった。
最も正確な一瓶。
協力して完成させた一瓶。
失敗から学ぶために保存された一瓶。
そして、意地の張り合いから偶然にも正解へ辿り着いた一瓶。
出来栄えは、それぞれ違う。
けれど――スネイプが誰と組むかを指定しなかったことで、大釜の中には薬だけでなく、それぞれの組が持つ関係そのものまで、はっきりと煮出されていたのである。
・敵ではないけれど……
「……グレンジャー」
「何?」
「一つ聞いておくが、君は僕がスリザリンだと分かっていて、勉強会に誘っているんだな?」
「もちろんよ。あなた、スリザリンの制服を着ているじゃない」
「そういう意味じゃない!」
ドラコは苛立たしげに眉間を寄せ、眉毛の端がピクリと跳ねた。
「僕たちは寮杯を競う相手だろう?」
「ええ……だから?」
「だから!うっ……だから……!」
言い淀むドラコをよそにハーマイオニーは少し考えてから、きっぱりと答えた。
「あなたが授業で良い成績を取ったら、スリザリンに点数が入る。それは分かっているわ、でもそれなら私たちだって勉強すればいいでしょう?」
「…………」
「それに、あなたが魔法薬学で何かを間違えていたら、教えてあげるのは普通のことだと思うわ。逆に私が間違っていたら、あなたが教えてくれてもいいのよ」
「……僕が君に?」
「ええ。今日の角ナメクジの下処理、スネイプ先生に褒められていたでしょう? どうやったのかは興味があるわ」
ドラコは意外そうに目を瞬かせた。
「……君、聞いていたのか?」
「同じ教室にいたんだから、聞こえたわよ」
少し離れたところで、朱音がくすくす笑っている。
「ほらねドラコ君、君の得意なことを知りたい人は、私以外にもいるみたいだよ」
「……ふん」
腕を組んだドラコはつま先立ち込みで背筋を伸ばし、ふんぞり返る。
「教えてやってもいいが、僕は手加減しないからな」
「望むところよ」
ハーマイオニーも胸を張った。
「私だって負けるつもりはないもの」
「……あれ、本当に勉強会になると思う?」
互いに譲る気のない二人を見て、ロンがハリーへ耳打ち。
「さあ……でも、退屈はしなさそうだね」
「いいじゃない」
一方で朱音は合いの手をしてにっこりとしている。
「お互いに教え合って高め合いができるライバルなんて、なかなか得難いものだよ」
「………」
そんな朱音の反応を見て、こそばゆくも悪い気もしないドラコだった。
◇
・個人訓練の週末
金曜日の午後。
ホグワーツ城の西側に広がる芝生の一角では、前日の飛行訓練で使われた練習用の箒が、三本並べられていた。
昨日と違って今日はグリフィンドール生もフーチ先生の姿もなく、スリザリンの一年生が三人。
草凪朱音。
ドラコ・マルフォイ。
そして、パンジー・パーキンソン。
「…………」
ドラコは三人目の参加者を見つめていた。
「……なぜパンジーもいるんだ?」
「仕方ないじゃない。一年生は最低三人で申請しないと通らないんだから」
「……それは知ってる」
「だったら、どうしてそんな顔をしてるの?」
「いや、その……」
ドラコは練習用の箒を一本手に取り、柄の状態を確かめている朱音をこっそり見た。
「……別に」
「ふぅん?」
パンジーの口元が、にやりと吊り上がった。
「何か期待してた?」
「してない!」
「まだ何も言ってないけど?」
「だから、何も期待してないと言ってるんだ!」
「二人とも――」
箒によろしくと言いたげに柄をなでながら、朱音が顔を上げ。
「仲いいねぇ」
「「どこが!?」」
声が綺麗に重なった。
「おやおや」
朱音は楽しそうにほくそ笑んだ。
◇
ホグワーツでは、初回の飛行訓練を終えた一年生に限り、一定の条件を満たせば自主練習が認められていた。
ただし、誰でも自由に空を飛べるわけではない。
フーチ先生による初回評価が一定以上であること。
事前に練習日時と参加者を届け出ること。
一年生は最低三人で行動し、互いの安全を確認すること。
そして、指定された練習区域から出ず、地上から定められた高度を超えないこと。
これらを守らなければ、練習許可は即座に取り消される。
なお、マクゴナガル先生の推薦でグリフィンドールのシーカーに異例抜擢されたハリーについては、チームの監督下で行う練習に限り、高度制限の特例が適用されていた。
ドラコたちが提出した申請書には、三人の名前とともに、練習内容が記されている。
――基本姿勢、旋回、停止、低高度での速度制御。
指導役はドラコ。
その申請書を確認したフーチ先生は、昨日の授業で見た三人の飛行能力を踏まえ、条件付きで許可を出したのだった。
「さて、ドラコ先生」
朱音が箒を持って振り向き、お辞儀。
「今日はよろしくお願いします」
「せ、先生はやめろ!僕たちは同級生だろう!」
「じゃあドラコ君。まずは何から始めよう?」
咳払いして息を整え直すドラコ。
「まずは昨日の復習だ。いきなり速度を上げるのは感心しない」
「うん」
「特に朱音、昨日の君は箒の動きに合わせるのが上手かったが、旋回の時に少し大きく回りすぎていた」
「なるほど」
「もっと小さな円を描くように、重心を動かすんだ。急に柄を引っ張る必要はない」
「分かった。試してみるよ」
朱音は箒に跨がった。
軽く地面を蹴り、身体がふわりと浮いた。
ドラコの指示に従い、ゆっくりと円を描いて飛ぶ。
最初の旋回。
次の旋回。
三度目と、回数を経て、着実に旋回の円が小さくなっていった。
「……こうかな?」
「そうだ、今のは悪くない」
「ありがとう、教え方が分かりやすいね」
「当然だ……」
ドラコは顔を背けた。
その様子を、パンジーがじっ~と見ている。
「……何だよ、パンジー」
「別に?」
「またその顔は何だ!」
「教えるの、楽しそうだなって」
「僕は頼まれたから教えているだけだ!」
「はいはい」
◇
「次は停止の練習だ、決めた位置で、できるだけ揺らさずに止まる。まず僕が見本を見せる」
彼は箒に跨がり、地面を蹴った。
滑らかな加速で一定の高度を保った直進。
そして、目印として置かれた石の手前で、すっと減速し、ほとんど揺れずに静止した。
「おお……!」
朱音が素直に感嘆の声を上げた。
「綺麗だねぇ」
「ふん。これくらい、慣れれば簡単だ」
「いやいや、簡単に見せることこそ難しいものさ」
ドラコは口元を引き締めた。
「……次、君の番だ」
「了解」
朱音が飛び出す。
風に葡萄色がかった黒髪が流れた。
直進。
減速。
停止。
だが、目印の手前で止まろうとした瞬間、箒の先端が僅かに上がった。
「おっと」
身体がふわりと揺れる。
朱音は姿勢を立て直し、ゆっくり着地した。
「……まだ少し癖があるね」
「止まる時、上体を起こしすぎなんだ、身体を後ろへ倒すんじゃない。箒が減速するのに合わせて、重心を戻すんだ」
「なるほど。私が先に動きすぎていたのか」
「そういうことさ」
ドラコの正確な指摘に朱音は少し考え込んだ。
「……自分の身体だけで飛ぶ感覚とは、やっぱり違うなぁ」
「ん?」
「いや、こっちの話さ」
朱音は小さく笑う。
ドラコは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「もう一度やってみろ」
「うん」
二度目。朱音は、今度こそ滑らかに停止した。
「……できた!」
「それでいい、最初からその感覚を覚えておけば、もっと速く飛んでも姿勢が乱れにくい」
「ありがとう、ドラコくん」
朱音は嬉しそうに笑った。
「やっぱり、経験者に教えてもらうのはいいね」
「……ふ、ふん」
ドラコの耳が、少し赤くなった。
◇
「ねえ、ドラコ」
パンジーが箒に跨がりながら言った。
「私にも教えてくれる?」
「……君も飛べるだろう」
「飛べるけど、朱音みたいに綺麗には止まれないもの」
「だったら練習すればいい」
「だから教えてって言ってるの!」
朱音が横から口を挟む。
「ドラコくん、せっかく三人で来たんだ。パンジーにも教えてあげようよ」
「……分かったよ」
ドラコはため息をついた。
「いいか、パンジー。まず、君は箒の柄を握る力が強すぎる」
「え?」
「昨日の授業でもそうだった。緊張すると腕が固まるんだ。だから旋回する時に箒が大きく揺れる」
「……見てたの?」
「同じ授業を受けていたんだから、当たり前だろう」
パンジーは暫くドラコを見つめ、それから合点がいったと言いたげに何度も頷いてにやける。
「そう」
「何だ?」
「別に~ちゃんと見てくれてたんだなって」
「……練習を始めるぞ!」
朱音は二人を見比べた。
「ふふっ」
「何だ朱音?」
「いや。ドラコくんは本当に、いい先生だなと思って」
「だから先生はよしてくれ!」
慌てふためくドラコのリアクションに、パンジーが吹き出した。
◇
しばらくして。
三人は指定された区域の中で、低空をゆっくりと飛んでいた。
先頭はドラコ、少し後ろに朱音、その横にパンジー。
「次は右へ旋回!」
「了解!」
「分かったわ!」
三本の箒が、ほぼ同時に右へ傾く。
朱音の旋回は滑らかだった。
パンジーは少し遅れたが、姿勢を崩さずについていく。
「パンジー、今のはよかったぞ!」
「本当?」
「ああ。さっきよりずっと安定してる」
「……ありがと」
パンジーが微笑んだ。
朱音も嬉しそうに頷く。
「二人とも上手だねぇ」
「君もだ朱音。最初よりずっと旋回が小さくなってる」
「おかげさまで♪」
三人は、もう一度ゆっくりと円を描いた。
風が頬を撫でる。ホグワーツの尖塔が、遠くに見えた。
高度制限があるため、空高く飛ぶことはできない。
それでも朱音にとっては十分だった。今は、誰かと一緒に飛ぶことが楽しい。
速さを競うのでも、力を誇示するのでもなく、ましてや『殺し合い』の為に争う為でもない。
同じ空の下で、互いの動きを確かめながら飛ぶ。
そんな時間が何より心地よかったのだ。
◇
練習を終えた三人は、箒を所定の場所へ戻していた。
「今日はありがとう、とても勉強になったよ」
「……まあ、初日にしては悪くなかったな」
「じゃあ、また教えてもらえるかい?」
ドラコの手が止まった。
「……君が望むなら、構わない」
「本当?嬉しい」
朱音がにっこりと微笑む。
「じゃあ、また三人で申請しよう」
「…………」
ドラコは固まった。
パンジーが、ゆっくりと振り向く。
「……ドラコ?」
「…………何だ」
「また三人ですって」
「聞こえてる!」
「私も次はもっと上手くなりたいし、よろしくね?」
「……分かったよ!」
朱音は二人のやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「やっぱり二人とも、仲がいいねぇ」
「「だから、どこが!?」」
またしても声が重なった。
その見事な一致ぶりに、朱音はとうとう声を上げて笑った。
秋の柔らかな陽射しの下。
スリザリンの一年生三人による、初めての自主飛行練習は、こうして無事に終わった。
なお、その日の夕食。
ブレーズ・ザビニは、ドラコから自主練習の話を一通り聞いた後、ぼそっと一言。
「次は僕も参加しようかな?」
「なぜ君まで来るんだ!?」
「いや、三人以上なら四人でもいいだろう?」
「いいんじゃない? 安全確認の人数が増えるし」
「それは心強いねぇ♪」
ドラコ・マルフォイ、十一歳。この日彼は初めて知った。校則というものは、守っていても自分の思い通りになるとは限らない。
そして、彼が次回の申請書に四人の名前を書くことになるのは、また別のお話である。
◇
・湖底の夢
夜のスリザリン談話室。
湖に面した大きな窓の向こうでは、青緑色の水が静かに揺れていた。
時折、魚の群れが窓辺を横切り、その影が石造りの壁を滑っていく。
暖炉の炎が揺れる中、ドラコ・マルフォイと草凪朱音は、並んでソファに腰掛けていた。
それぞれの手には、温かな飲み物を注いだゴブレッド。
「それにしても、君はほんと変わってるな」
「今度は何かな?」
「この談話室のことだよ」
ドラコは窓の向こうへ目を向けた。
「地下にあるのは別にいい。だけど、あんなに大量の水が窓の向こうにあるんだぞ? 気味が悪いと思わないのか?」
「私は好きだけどねぇ」
「……好き?」
「うん。なんだか落ち着くんだ」
朱音は杯を傾け、少しだけ微笑んだ。
「夢でよく見るんだ。水の底でゆったりまどろみに落ちそうな中で、心地いい感触を味わうみたいな」
「…………」
ドラコは怪訝そうに眉を寄せた。
「……水の底で?」
「そう」
「息は?」
「さあ?」
「寒くないのか?」
「むしろ、温かい感じかな」
「……温かい?」
ドラコは窓の向こうを見た。
水中を泳ぐ魚。
ゆらゆらと揺れる水草。
遠くに見える、巨大な生き物らしき影。
それから、隣で平然とお茶を飲んでいる朱音を見た。
「……朱音」
「うん?」
「お前の前世は水生生物か何かだったのか?」
朱音は一瞬、目を丸くし、それから翡翠色の瞳を細める。
「どうだろうね」
ドラコは微笑む彼女をじっと見つめた。
「……否定しないのか?」
「夢の話だから」
「そういう問題か?」
朱音は楽しそうに笑うばかりだった。
ドラコは額に手を当てた。
「まったく……君は時々、何を考えているのか分からないな」
「それはお互い様じゃないかい?」
「僕のどこが!」
「この間、ハリーがシーカーになったと聞いた時の顔とか」
「ポッターは関係ないだろう!」
朱音の肩が、小さく揺れた。
ドラコはむっとした顔で杯を口へ運ぶ。
だが、しばらくすると、また窓の方へ視線を向けた。
「……でも」
「ん?」
「君がここを気に入ってるのは、悪いことじゃないと思う」
朱音の目がドラコの横顔をに向いたまま瞬きをした。
「僕だって、スリザリンの談話室は気に入ってるからね」
「そうかい」
柔らかくはにかみ、嬉しそうな声音と表情を見せる朱音。
「じゃあ、そこは気が合うね」
「……まあな」
ドラコは少しだけ得意そうに頷いた。
その横で、朱音は再び湖底へ目を向けた。
遠い水の向こうで、何か大きな影がゆっくりと泳いでいく。
それを見つめる翡翠色の瞳には、郷愁を味わう光が宿っていた。
(……水の底、か)
夢の中では、もっと深く、もっと広い水の世界があった。
冷たさも、暗さも、恐怖ではなかった。
そこは、身体を休めるための場所だった。
何も考えずに、ただ水へ身を預けていられる。
そんな感覚を、今でも覚えている。
「朱音?」
「ん?」
「……今、また寝そうになってなかったか?」
「顔に出てた?」
「出てたよ!」
「あら?それは困ったねぇ」
その返しにドラコは呆れたようにため息をついた。
「本当に、魚みたいな奴だな……」
「魚かぁ」
朱音は、少し考える素振りを見せ。
「惜しいね」
「……は?」
「何でもないよ♪」
「いや今、惜しいって言っただろう!」
「あれ言ったかな?」
「言った!」
朱音は答えず、にこにこと杯を傾けた。
窓の向こうでは、魚たちが何事もなかったように泳ぎ続けている。
ドラコ・マルフォイ、十一歳。
この日、彼はひとつ学んだ。草凪朱音という少女に、何気ない質問を投げかけると、答えよりも謎が増えるばかりだと言うことを。