ハリー・ポッターと玄武(ガメラ)の少女 作:フォレス・ノースウッド
翌朝、草凪朱音が目を覚ましたのは、午前五時半辺り……と時計は表示しているが、サマータイムの都合上実際の時刻は約一時間進んでる。
それでもまだ鐘が鳴ったわけではないし、誰かに起こされたわけでもなかった。
深緑色の天蓋の内側で目を開けた瞬間、意識は驚くほど澄み切っていた。
長い汽車の旅、湖上から見上げたホグワーツ城。
組み分け帽子との、思いのほか長い対話。
歓迎の宴、初めて足を踏み入れたスリザリン寮。
昨日だけで数日分にも思える出来事があったというのに、身体にはほとんど疲れが残っていない……どうやら思った以上にぐっすり眠れたらしいと、朱音は起き上がり、両腕を伸ばした。
天蓋から、青緑色の薄明かり――水中越しの朝陽が寝室を満たしていた。
地上には、まだ朝日が昇りきっていないのだろう。
湖底に位置するスリザリン寮の窓からは、淡い光に溶けた水草と、時折ゆっくり通り過ぎる魚影が見える。
隣のベッドでは、ルームメイトのパンジー・パーキンソンが眠っていた。
昨夜、寝る直前まで同室の少女たちと話していたからだろう。深緑色の掛け布団へ半分ほど顔を埋め、規則正しい寝息を立てている。
音を立てないよう、そっとベッドから降りた。
日本にいた頃から朝は早い方、小学校へ通っていた時にも、起床後に身体を動かすことを日課にしていた。長く続けている習慣は、住む場所が魔法学校へ変わったくらいでは崩れないらしく、むしろ朱音にとって好都合。
ホグワーツを含むスコットランドの朝は、息を呑むほど美しい。
祖父のエヴァンダーから、何度もそう聞かされていたからだ。
朱音は寝間着から、持参した濃紺色の運動着(ジャージ)へ着替えた。
ローブを着る時間になってから慌てずに済むよう、最初の授業に必要な品も用意しておく。
授業初日の記念すべき最初の科目は午前九時から始まる、ミネルバ・マクゴナガル教授の変身術。
教科書と羊皮紙のノートと羽根ペン、インク瓶、独自で持ってきたマグルの世界ではごく一般的な鉛筆とメモ帳、時間割と教室までの簡単な道順を書いた紙。
それらを机の上へ順番に並べ、最後に杖の箱を確かめる。
イングリッシュオークの杖を、運動着の内側に自分で縫って作った杖用の内ポケットに入れ。
「授業開始の十分前には教室へ着くとして……朝食の時間を考えれば、十分余裕はあるね」
思考を整理する為に声に出した独り言も、パンジーを起こさない程度に抑える。
朱音は長い葡萄色がかった黒髪を後頭部で簡単にまとめ、勾玉のペンダントを運動着の内側へ収めた。
扉を開ける直前、もう一度寝室を振り返る。
誰も目を覚ました様子はない。
「行ってきます」
返事のない部屋へ囁き、静かに扉を閉めた。
◇
早朝のスリザリン談話室には、誰もいなかった。
暖炉には昨夜の火が僅かに残り、湖底から届く青緑色の光が、深緑色のソファや銀の装飾へ揺らめいている。
昼間なら何人もの生徒が行き交う場所を、一人で歩く。
この秘密基地めいた静けさが、朱音には少し楽しかった。
合言葉を告げて寮を出る。地下から一階へ上がるまでの道順は、昨夜のうちに覚えていた。ホグワーツの階段には勝手に動くものがあり、廊下の構造も決して単純ではない。それでもスリザリン寮は地下にある分、地上の教室へ行く際には必ず一階付近を通るので、動く階段たちのパターン完全に把握できなくても、基準になる場所を幾つか覚えておけば、迷う危険は減らせる。
まして変身術の教室は一階かつ、中庭からそれほど離れていない。
朱音は曲がり角や甲冑の位置を確認しながら歩き、授業で使う教室までの経路を実際に辿った。
変身術用の教室の扉を見つけ、そこから大広間までの経路も確認する。
「これなら大丈夫そうだ」
一つ目の目的を果たした朱音は、そのまま中庭へ出た。
扉の向こうから、冷たい空気が流れ込んでくる。
空は朝の薄青へ変わろうとしていおり、古城の尖塔を縁取るように、東の空が淡く染まっている。
石畳には夜露が残り、芝生の一面に細かな光が散っていた。
森の方角から届く鳥の声。
遠くで流れる水音。
肺へ満ちる、湿り気と冷たさを含んだ空気。
日本で迎えてきた朝とは違う。
それでも、朝が持つ静かな始まりの気配は同じだった。
「グランパの言った通り……綺麗……」
ゆっくりと息を吸い、まだ誰も歩いていない中庭の中央へ進む。
首を左右へ傾け、肩を回し、腕を伸ばす。
足首と膝を確かめ、呼吸と身体の動きを合わせていく。
十分に身体が温まったところで、朱音は両腕を広げて踊り出す。
決められた型を、正確になぞるための舞ではない。
音楽を流す必要もない、必要なのは、今ここでいる空間に流れているもの、それを自分が感じているもの、それだけで音色となる。
朝の冷気、頬を撫でる風、古城の石壁へ差し始めた朝の光。
昨日まで知らなかった場所で、これから新しい生活が始まるという期待。
朱音は片足を軸にして身体を回した。
葡萄色を帯びた黒髪が、朝の光を受けて弧を描く。
腕を伸ばし、重心を落とす。石畳を蹴り、身体を軽く浮かせる。
着地と同時に姿勢を崩し、崩れた動きを次の一歩へ繋ぐ。
流れるようでいて、決まった流れはない。
その時々の感情と、身体が選んだ動きを形にする。
やがて朱音は、草むらの一角から向けられている視線に気づいた。
動きを止めず、そちらへ目を向ける。
石垣の隙間から、小さな灰褐色の蛇が頭を出し、丸い目が珍しいものを見るように朱音を追っている。
最後に大きく腕を回し、ゆっくり動きを止め、蛇の前へしゃがみ込む
『やあおはよう』
『……おはよう』
蛇は挨拶を返しかけ――勢いよく頭を持ち上げた。
『えっ?分かるの? 僕の言葉』
『分かるよ』
朱音が蛇語で答えると、蛇は驚いたように細い舌を何度も出し入れした。
『人間なのに?』
『人間にも色々いるからね、私は君らと話せる珍しいタイプ』
『ふうん……』
蛇は石垣から、もう少しだけ身体を出した。
『さっきのは何? 獲物を捕まえる動きじゃないよね』
『舞踊(ダンス)、って言うものさ』
『だんす?』
『人間が身体を動かして、気持ちを表すものってところ』
『食べ物を探すためでも、敵と戦うためでもないの?』
『そういう踊りもあるけど、私がしていたのは違うね』
蛇にも伝わる言葉(ひょうげん)で、踊りの何たるかを説明する。
「今の気分を、身体の動きにしていたんだ。朝の空気が気持ちいいとか、新しい場所での生活が楽しみだとか。言葉にする代わりに、手や足を動かしていた」
『決まった動きはないの?』
『事前に振りつけを決めてやるのもあるけど、私がやってたのはその時の自分に合わせて動くんだ』
近年では、コンテンポラリーダンス。その源流の一つとして、ヌーヴェルダンスと呼ばれることもある。
だが蛇にとって、名前そのものは大切ではないだろう。
『人間の世界でも、まだ新しい部類の踊りなんだ』
『へえ。楽しそう』
『嵌まると思うよ。自分の気分に合わせて動けばいいから、始めやすいし♪』
『僕にもできる?』
『もちろん』
『でも、僕には手も足もないよ』
「身体はちゃんとあるだろう?君にしかできない動きはちゃんとある、それを探す為に踊ることもね』
蛇は他の動物の大半が持ってる手足を持たないハンデを持ってもできるかと言うもっともな質問に応じてくれた朱音からのアドバイスに、蛇は少し考えた後、草の上へ出てきた。
右へ身体を曲げ、次に左へ。
普段の移動よりも少し大きく、わざと曲線を描くように進む。
『これも踊り?』
『立派な踊りだよ』
『じゃあ、これは?』
蛇は自分の尾を中心にして、小さく一周した。
「上手だね~」
『楽しい!』
朱音の拍手も受けて興に乗った蛇がもう一度回る。
今度は少し勢いをつけすぎたらしく、草の上で身体が絡まりかけた。
『……今のは見なかったことにして』
『秘密にしておくよ』
朱音は笑いを堪えながら立ち上がった。
遠くの塔で鐘が鳴る、そろそろ運動を切り上げる時間だった。
『私はもう行くよ、他にも予定と、朝の食事があるからね』
『また踊る?』
『今くらい天気がよければ』
『じゃあまた見たい』
『その時は君も一緒に踊るかい?』
『ここでまた一緒になった時に』
『それじゃあまた』
『うん、またね、変わった人さん』
蛇は草むらへ潜り、石垣の向こうへ消えていった。
相手の言葉が分かる。
だから挨拶をし、少し話す、朱音にとっては、それだけの出来事だった。
だが、この会話を誰かに聞かれていたなら、ホグワーツでの最初の朝は別の意味を持っていたかもしれない。
蛇語を話せる魔法使い。その希少さと、魔法界……特にイギリスではどのような意味を持つのか……この時の朱音は、まだ知らなかった。
◇
運動を終えた朱音は寮へ戻り、汗を流して制服へ着替えた。
パンジーはまだ眠っている、昨日の長旅と歓迎の儀で疲れているのだろう。
組み分けの儀が当初の予定より伸びた原因が自分にもあるのもあり、まだ起こすには早いと判断して、机へ短い書き置きを残した。
『先に図書室へ行っています、朝食はそのまま大広間で待ち合わせにしよう――朱音』
授業用の鞄は、朝食後に取りに戻ればいい。
朱音は読みかけの本と時間割だけを持ち、再び寝室を出た。
図書室へ入ると、古い羊皮紙と革表紙の匂いがした。
天井近くまで続く書架、規則正しく並ぶ閲覧机。
窓から射し込む早朝の光の中で、細かな埃がゆっくり舞っている。
この時間なら、さすがに誰もいないだろう。
そう思っていた朱音は、奥の机に積み上げられた本を見つけて足を止めた。
さらにその向こうにも、大判の本が重ねられている。
その本の壁に囲まれ、ハーマイオニー・グレンジャーが羊皮紙へ熱心に書き込んでいた。
(私より先に来ていたんだ)
驚くと同時に、妙に納得もした。昨日の汽車の中でも、彼女は教科書をかなり読み込んでいた。呪文を試し、覚えたことを確かめ、分からない部分をそのままにしない。
今も一冊を読みながら、別の本の索引を開いている。
集中している相手へ、不用意に話しかけるべきではない。
朱音は少し離れた書架から一冊選び、ハーマイオニーの斜め向かいへ座った。
椅子を引く音をできる限り抑えたつもりだったが、彼女はすぐに顔を上げた。
「あれ?あなた……」
「おはようハーマイオニー。邪魔をしてしまったかな?」
「ううん、少し驚いただけ」
ハーマイオニーは机の上の本を端へ寄せ、場所を空けた。
「朱音も予習?」
「半分はね、早く起きれたから、せっかくだし朝食まで本を読もうと思って」
「半分?」
「残り半分は、単純に図書室を見てみたかったんだ、これだけ本があると、何日でも過ごせそうだねぇ」
書架を見まわしてなんてことなく言ってみた発言で、ハーマイオニーの表情が僅かに明るくなる。
「私もそう思ったの、魔法界の本って、普通の本とは全然違うでしょう? 挿絵が動くだけじゃなくて、同じページでも読む時間によって文章が変わる本まであるのよ」
「それは興味深いね」
「でも、参考文献として使うには困るわ。昨日読んだ文章が、今日も同じとは限らないもの」
「なるほど、変化した箇所も記録して比較すれば、その本が何を基準に内容を変えているのか調べられるかもしれない」
この朱音がふと口にしたアイデアにもハーマイオニーの目が輝いた。
「そうよ! 読者に合わせているのか、日時に合わせているのか、それとも本自身の判断なのか――」
「本に直接聞ければ早いけれど、答えてくれるとは限らないね」
「そもそも意思があるかも分からないわ」
「なら確かめてみよう」
二人は顔を見合わせて笑いあう。
それぞれ自分の本を読むつもりが、ハーマイオニーが予習していた変身術の項目を朱音が覗き込み、朱音が見つけた補足資料へハーマイオニーが疑問を示したことで、自然と共同作業になっていった。
「変身術は、見た目だけを変える魔法じゃないみたいね」
ハーマイオニーが教科書の一節を指で示す。
「物質そのものの性質へ干渉するから、呪文と杖の動きだけでなく、変化後の姿を正確に理解していなければいけない、例えば木製の物を金属へ変えるなら、硬さや重さ、熱の伝わり方まで意識する必要がある――と」
「今日の授業では、マッチ棒を針へ変える可能性が高いみたい」
「針か」
針自体はローブの内側にも手作業で追加させた杖用の内ポケット込みの裁縫でよく使うが、当然他の物体を針に変質させた経験はない。
「材質の変化まで含めると難しそうだ」
「私は昨夜、針の構造を調べたの」
ハーマイオニーは隣に積んでいた本を開く。
そこには縫い針を拡大した図が描かれていた。
先端の角度、胴の太さ、糸を通す穴、金属表面の仕上げ。
「……随分詳しいねぇ」
「正確にイメージする必要があるでしょう?」
「それは間違いない」
感心しながら朱音も図を見る。
勉強熱心という言葉だけでは足りない。ハーマイオニーは、失敗する可能性を少しでも減らすため、事前に把握できるものを全て把握しようとしている。
「朱音は、昨日のうちに予習しなかったの?」
「教科書は読んだよ、ただ実際に魔法を使う前から答えを一つに決めすぎないようにもしている」
「どういう意味?」
「思い浮かべやすい方法は人それぞれかもしれないだろう?完成形を細部まで想像した方が成功する人もいれば、木が金属へ変化していく過程を順番に考えた方が扱いやすい人もいるかもしれない、マクゴナガル先生が実際にどんな説明をするか聞いて、自分に合う方法を探したいんだ」
「でも、何も知らずに授業を受けたら、試す以前の問題になるわ」
「だから今参考に君と読んでる」
「……なるほど」
少し考えこんだハーマイオニーは羊皮紙に一行書き加えた。
「《完成形と変化の過程、双方のイメージを試す》?」
「あなたの考えも、一応記録しておこうと思って」
「光栄だねぇ」
「一応よ、授業で正しいか確かめてから判断するわ」
「むしろそうしてくれた方がいい」
どちらが正しいかを競うのではない、違う考えを並べ、実際の授業で確かめる。
朱音にとっても心地よい学び方だった。
気がつけば、二人の間には何冊もの本が開かれていた。
寮を示すローブの色は違う、けれど机の上ではその違いに大した意味はなかったのだが……窓から差す陽光の一部に黒い影が横切るのを感じ、朱音は顔を上げる。
音もなく歩いてきたのは、全身を黒いローブに包んだ長身痩身の男性教師だった。
肩まで届く黒髪。血色の薄い顔。
こちらを見下ろす黒い瞳。
蝙蝠と言う生物の特徴を、人体で再現してみたかの如き風体。
スリザリン寮監にして、魔法薬学を担当するセブルス・スネイプ教授である。
彼は机へ積み上げられた本と、二人の新入生を順番に見た。
「入学初日の早朝から、随分と熱心なことだ」
「お、おはようございます、先生」
「おはようございます、スネイプ先生」
ハーマイオニーが反射的に背筋を伸ばし、朱音も丁寧に挨拶して一礼する。
スネイプの視線が、朱音の制服へ刻まれたスリザリンの紋章で止まった。
「クサナギ」
「はい」
「こんな朝早くから、何をしている?」
真意を測りかねる問い。
図書室へ入ること自体を咎めているのか。
グリフィンドール生と行動していることを確認したいのか。
あるいは、単純に一年生たちがなぜこの時間に起きているのか尋ねているだけなのか。
「早く目が覚めましたので、ミス・グレンジャーと本日の授業の予習をしておりました」
朱音は余計な推測を加えず、事実だけを述べると、スネイプは黙った。
机には変身術の教科書。
針の構造を記した図鑑。
ハーマイオニーの羊皮紙には、授業内容を想定した細かな覚え書き。
朱音は制服を正しく着用し、禁書棚へ近づいた形跡もない。
発言通りのことを行っているので一切の虚偽はなく、言い逃れですらなかった。
「……授業初日から遅刻する生徒よりは、幾分ましだろう」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「失礼しました」
朱音は素直に頭を下げた。その表情に皮肉や挑発の色はない。
スネイプは一瞬、次に言うべき言葉を探すように微かな間を置き、黒い瞳が二人を順に捉える。
「ただし熱心さを理由に睡眠を削り、授業中に机へ突っ伏すようでは話にならん。今後、もし朝日が昇る遥か手前から毎日図書室へ籠もるつもりなら、その程度の計算はしておくことだ」
「はい、気をつけます」
朱音は真面目に頷いた。
ハーマイオニーも慌てて続く。
「私も気をつけます、先生」
「結構」
スネイプは黒いローブを翻した。
「朝食に遅れぬようにな。空腹を集中力不足の言い訳にされてはかなわん」
それだけ言い残し、書架の向こうへ消えていく。
しばらく、二人は無言でその背中を見送った。
「……朱音」
「うん?」
「今の、私たち怒られたのかしら?」
「睡眠不足には気をつけて勉学に励みなさいって忠告じゃないかな」
「そうなの?」
「言ってたことは正しいよ、寝不足では授業へ集中どころか、朝食を取る元気も出せないし」
「でも、もっと別の言い方があると思うわ」
「それはそう、せっかくのベルベットボイスが勿体ない」
あっさり同意した上にユーモアも添えた朱音に、ハーマイオニーは目を瞬いた。
「庇ってたんじゃないの?」
「そのスネイプ先生が寮監だからといって、何でも肯定する必要はないだろう?忠告の内容は正しいけど言い方は少し意地悪だった、両方とも本当なんだし」
「……あなたって、物事の受け取り方が独特ね」
「よく言われるよ」
朱音は本を閉じ、図書室の時計を見ると、朝食の時間が近い。
「そろそろ大広間へ行こうか」
「ええ。でもその前にこの本を戻さないと」
「手伝うよ、半分ずつにしよう」
「配架番号を間違えないでね」
「そこは信用してほしいなあ」
「今、棚の場所を確認していたでしょう?」
「初めて来たからね」
「だったら、私が番号を読み上げるわ」
「よろしく頼むよ」
二人は机の上へ積まれた本を抱え、それぞれの書架へ戻していく。
高い窓から差し込む朝日は、いつの間にか強さを増していた。
もうすぐ、ホグワーツでの最初の授業が始まる。
昨日まで本の中にしかなかった魔法を、自分の手で学ぶ日々。
期待に胸を弾ませながら、朱音は最後の一冊を棚へ収めた。
一方、地下のスリザリン女子寮の一角では、ようやく目を覚ましたパンジーが、隣の空になったベッドを見て固まっていた。
枕元の時計は、まだ早朝を示している。
机には朱音の書き置き、パンジーはそれを読み、寝癖のついたボブカットヘアを抱えた。
「初日から元気すぎでしょ」
同じ寮になった少女が、朝の運動を済ませ、蛇へ踊りを教え、グリフィンドールの生徒と予習まで終えているとは、もちろん知らない。
それを知った時、パンジーがどのような顔をするのか。
朱音も、まだ知らなかった。
ホグワーツで迎えた最初の朝は、始まったばかりだった。
そしてこの後、変身術の教室では――昨日より少しだけ賑やかな、新入生たちの一日が幕を開けようとしていた。
◇
ホグワーツへ入学して間もない一年生にとって、教室へ辿り着くこと自体が、既に一つの授業だった。
階段は気まぐれに行き先を変える。
廊下に飾られた肖像画は、道を尋ねれば答えてくれることもあるが、わざと遠回りを教えて面白がる者もいる。
昨日まで確かに通れたはずの場所が今日は壁で塞がれていたり、近道だと思って入った扉の向こうが、なぜか掃除用具入れになっていることさえあるらしい。
その複雑怪奇な城の一角、変身術の教室には、既に大半の一年生が集まっていた。
前方の席では、ハーマイオニーが教科書を開いており、隣には朱音がいる。
今朝、図書室で一緒に予習していた二人は、授業が始まるまでの時間にも教科書と羊皮紙を広げていた。
教師用の机の上には、一匹の猫が座っている。
灰色がかった縞模様の猫だった。
背筋を伸ばし、尻尾を前脚へ巻きつけ、教室に入ってくる生徒を静かに観察している。目の周りには、四角い眼鏡を思わせる模様があった。
しかし、大半の生徒は気にも留めていない。
魔法学校なのだから、猫が教室に入り込むことくらい珍しくないと思っているらしい。
「あの二人、まだ来ないわね」
ハーマイオニーが壁の時計を見上げた。
授業開始まで、もうほとんど時間がないのに、ハリーとロンの二人分の席はいまだ空いている。
「迷ったんだろうね、道そのものが気まぐれに動くんだから」
「でも、遅刻しないように早く出るべきでしょう?」
「それはそう、ただ昨日まで普通の家で暮らしていた子へ、初日からこの城を迷わず歩けというのも難しいさ」
「あなたは迷わなかったじゃない」
「先に経路を確かめたからね。それに地下のスリザリン寮から地上へ出るなら、途中までは選択肢が少ない分、そこを基準にすればまだ覚えやすいよ」
「朝の運動へ行く前に、教室まで歩いたの?」
「せめて九時十分前に着くには、どれくらい時間が必要か知っておきたかったから」
「随分用意がいいのね」
「日本の学校では、こんなに教室を移動しないからさ。慣れないことは、先に一度試しておいた方が安心だろう?」
「日本では、生徒が教室を移動することは少ないの?」
「小学校や中学校なら特にね。一クラス三十人前後で、基本的には同じ教室を使う。先生の方が授業ごとに来てくれるんだ」
「寮監の先生みたいなもの?」
「少し違うけれど、各クラスに担任の先生はいるよ。生徒の学校生活をまとめて見てくれる点では、少し似ているかな」
ハーマイオニーは興味深そうに羽根ペンを止めた。
「ずっと同じ教室なら、階段に振り回されることもないのね」
「ただ理科の実験や音楽、図工なんかは専門の教室へ移動するけどね」
「日本の学校にも、魔法薬学みたいな授業があるの?」
「薬品に火を使った実験はあるよ、でも鍋を使うことは滅多にないかな」
「滅多に?」
「料理の授業なら煮込むけどね♪」
ハーマイオニーが小さく笑った。
ホグワーツ特急で知り合ってから、まだ一日も経っていない。
それでも読書好きという共通点を持つ二人は、既に気兼ねなく言葉を交わせるようになっていた。
イギリスのマグル社会で育ったハーマイオニーにとって、日本の学校生活は新鮮だった。
朱音にとっても、ハーマイオニーがどのように魔法界を見ているのか聞くことは面白い。
同じマグル社会を知っていても、育った国も家庭も違う。
だから同じものを見ても、疑問を抱く場所が少しずつ異なっていた。
そんな二人を、少し離れた席から複雑そうに眺める少年がいた。
ドラコ・マルフォイである。
(どうして朱音は、あのマグル生まれと仲がいいんだ?)
朱音はスリザリン。
ハーマイオニーはグリフィンドール。
しかも彼女は、魔法使いの家系ではなく、マグルの両親から生まれた魔女だ、ドラコが家庭で教えられてきた価値観に従えば、進んで親しくする理由などない、それなのに朱音は、寮も生まれも気にせず、楽しそうに言葉を交わしている。
(まあ誰と話そうと、あいつの自由だけどさ)
そう思い直して教科書へ目を戻すも、ついついハーマイオニーとすっかり意気投合しているらしい朱音の様子を何度も伺っていた。
◇
「ハーマイオニー、私語はここまでにしよう」
「どうして? まだ先生はいらしていないでしょう?」
朱音は答えず、視線だけを教壇へ向けた。
机の上に座る縞猫が、二人をじっと見つめている。
ハーマイオニーも猫を見た。
四角い眼鏡を思わせる目元の模様、異様に整った姿勢。
そして、変身術を担当する教師について、昨夜までに読んだ記述。
「……あ」
ハーマイオニーが小さく息を呑んだ。
ミネルバ・マクゴナガル教授は、魔法省に正式登録された数少ないアニメーガス――魔法薬や呪文を用いず、自らの意思で特定の動物へ変身できる魔法使いの数少ない一人。
彼女が変身する動物は――猫。
「まさか」
「たぶんね」
机の上の猫が、ゆっくりと尻尾を揺らす。
二人はすぐに姿勢を正し、開いた教科書へ視線を落とした。
縞猫は満足したように、一度だけ瞬きをした。
◇
授業開始を告げる鐘が鳴った。
しかし、教室の扉のそばに二つある空席は、まだ埋まっていない。
鐘が鳴り終わった直後、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「こっちだ、ハリー!」
「ロン待って!」
扉が勢いよく開かれる。
ハリーとロンが、肩で息をしながらやっと教室へ飛び込んできた。
「まだ……マクゴナガル先生が来てなくて、よかったぁ……!」
ロンもハリーも、一見まだ担当教師が来ていない教壇を見て胸を撫で下ろした。
教室中が静まり返っている、誰も二人へ答えない。
朱音はそっと目を伏せ、ハーマイオニーも言いたいことを必死に飲み込むように唇を結んでいる。
ドラコも二人と教壇の猫を交互に見比べ、何か妙なものを感じ取っていた。
「……猫?」
ロンがようやく猫の存在に気付いたその瞬間。
机の上の縞猫が、ふわりと宙へ跳び。
灰色の毛並みが一瞬で深緑色のローブへ、四本の脚は人の手足となり、猫の顔は眼鏡を掛けた老婦人の顔へ移り変わった。
朱音の予想通り、ミネルバ・マクゴナガル教授は猫に化けた状態で既に教室にいたのである。
「おはようございます、ポッター、ウィーズリー」
マクゴナガルは眼鏡越しに、初日の初回から遅刻した二人を見下ろした。
「……へ、変身、お見事です」
どうにか絞り出したロンの声は、ひっくり返っていた。
「お褒めの言葉、どうも」
言葉ではロンのお世辞は丁重に受け取ったが、目も口元も全く笑っていない……眼鏡のレンズを経ても『さっそく遅刻するとは良い度胸ですね』と言い放つ眼光は全く軽減されていなかった。
「お二人を懐中時計に変身させれば、遅刻は今回限りで済むでしょう」
「すみません先生、僕たち道に迷ってしまって――」
「それならポッター。あなたは地図帳へ変身させた方がよさそうですね」
教室のあちこちから、堪え切れなかった笑い声が漏れた。
ハリーは顔を赤くし、ロンは小さく縮こまる。
「先生、一つよろしいでしょうか」
凛としていながら穏やかな声が上がり、マクゴナガルが視線を向ける。
「何でしょう、ミス・クサナギ」
「はい、お言葉ですが先生――」
朱音は席に座ったまま、丁寧に口を開く。
「――懐中時計にせよ地図帳にせよ、変身させるのであれば、せめて猫くらいの脚力で移動できるようにしてあげませんと、ベッドから自力で起き上がることすらままならず、遅刻どころか無断欠席ばかり増えます」
ハリーとロンは、呆然と朱音を見る。
ハーマイオニーは口元を手で押さえていた。
笑いを隠しているのか、朱音の大胆さに息を呑んでいるのかは分からない。
ドラコは額へ手を当てている、マクゴナガル教授がいかに厳格な指導をするのか、ホグワーツ出身でもある両親から話で聞いていたからだ。
(朱音!? 相手はマクゴナガル先生だぞ!)
マクゴナガルは、眼鏡越しに微笑む朱音を見つめた。
目上の教師を侮っているわけではなく、翡翠の眼差しには、きちんと敬意が残っていた。
「なるほど。確かに移動能力を失わせては、本末転倒ですね」
「はい」
「では、二人を懐中時計と地図帳へ変える案は撤回しましょう」
ハリーとロンが同時に安堵の溜息を零す
「ただし、ミス・クサナギ、あなたも、私の授業中に余計なお喋りをしている時間はないと覚えておきなさい」
「失礼いたしました」
朱音は素直に頭を下げた。
マクゴナガルの口元がほんの僅かに動く――笑ったようにも見えたが、次の瞬間には、いつもの厳格な表情へ戻っていた。
「二人とも席へ、地図は無くとも分かりますね」
「はい!」
二人は声を揃え、慌てて空席へ向かった。
朱音のそばを通り過ぎる際、ロンが小声で囁く。
「ありがとう、朱音」
「どういたしまして」
ハリーも苦笑しながらお礼の会釈を送った。。
「さて、皆さん」
教壇でマクゴナガルが杖を取り出す。
「変身術は、ホグワーツで学ぶ魔法の中でも、特に複雑で危険なものの一つです」
マクゴナガルの声が、教室の隅々まで響いた。
「私の授業でふざけることは許しません、規律を守れない生徒は教室から退出させ、以後の受講も認めません」
生徒たちの背筋が、一斉に伸びる。
先ほど軽口を挟んだ朱音も、すぐに真剣な表情へ切り替わっていた。
マクゴナガルが杖を振ると、教壇に置かれていた木製の机が一頭の豚へと変わった。
眼前で変身術を目にしたロンが声を上げ、ハリーも目を丸くした。
豚は教壇の周囲を歩き、鼻を鳴らす。
外見は無論、歩き方も声も呼吸も、生きた豚そのものだった。
もう一度杖が振られ、豚の輪郭が硬質な四角形へ戻り、何事もなかったように机が現れた。
「すごい……」
ハーマイオニーが息を漏らす。
朱音の翡翠色の瞳も、好奇心に輝いていた。
外見だけを取り繕った幻ではない。
机という無生物を、呼吸し、自ら動く生物へ変えている。
形状。
材質。
内部構造。
そしておそらく生命活動まで、対象の性質そのものを、別の存在へ組み替えているのだと実感していた。
「ただし」
マクゴナガルの声で、生徒たちは机から教授へ意識を戻した。
「今お見せした変身は、皆さんがすぐに行えるものではありません。理論を理解せず、見よう見まねで高度な変身を試みることは、重大な事故へ繋がります」
教科書を開くよう指示が出る。
変身術の基本原理。
呪文。
杖の動き。
変身させる対象と、変身後の物体を明確に捉えること。
生徒たちは羽根ペンを走らせ、羊皮紙へ次々に書き込んでいった。
「では、実技へ移ります」
生徒一人ひとりの机へ、一本ずつマッチ棒が配られた。
「本日は、このマッチ棒を縫い針へ変身させます」
ロンがマッチ棒と教授を交互に見る。
先ほど机を豚へ変えた魔法と比べれば、あまりにも地味な課題に思えたらしい。
しかし、朱音とハーマイオニーは互いに顔を見合わせた。
今朝、図書室で予想した通りだった。
「まず、変身後の物体を明確に思い描きなさい。形だけでは不十分です。材質、構造、用途。それらを理解した上で、対象が何へ変わるのか意識すること」
マクゴナガルは杖の動きを実演する。
「焦らず、正確に」
生徒たちが一斉に杖を構えた。
「針になれ……針になれ……」
ロンはマッチ棒を睨みつけている。
「睨んでも変わらないよ」
ハリーが小声で忠告した。
「分かってるって!」
「声に出して頼んでも変わらないと思うけど」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「僕に言われても」
二人の前にあるマッチ棒は、揃って何の変化も見せない。
一方、朱音は杖を構えず、机上の一本を静かに観察していた。
丸い断面。
木の繊維。
先端へ塗られた発火剤。
(これを針へ変える)
針は同じ細い棒状でも、性質が違う。
冷たく滑らかな金属。
布を貫くための鋭い先端。
指で押しても容易には曲がらない強度。
反対側には、糸を通すための穴がある。
(形を整えるだけなら、削ればいい。でも変身術は違う)
木を金属へ、全く異なる性質へ変化させる。
朱音の脳裏へ、日本の小学校で学んだ理科の知識が浮かぶ。
木材を形作る繊維、物質を構成する分子と原子、金属が持つ結晶構造――そこまで考えたところで、一度思考を止めた。
(これは化学反応を一段ずつ再現する作業じゃない)
原子を一つずつ並べ替えようとすれば、いかに前世(かいじゅう)の記憶を持ってようが十一歳の少女の意識で処理できる情報量ではなくなる。
変身術が求めているのは分解の全工程を計算することに非ず。目の前の物を別の物として正しく捉え直すこと。
(完成した針を、どれだけ明確に思い描けるか)
朱音は杖を構えた。
肩の力を抜く。
腕を固めず、教わった通りの軌道を手首でなぞる。
(針に糸を通すように、細部まで、正確に)
杖先が小さな弧を描いた。
マッチ棒の表面へ、銀色の輝きが走る。ざらついた木の繊維が滑らかな金属へ変わり、片側の先端が徐々に細く尖っていく。
反対側には、小さな窪みが生じるも――そこで変化が止まった。
窪みはあるのだが、穴は貫通していない。
「惜しい」
朱音は小さく呟いた。
見た目だけなら、ほとんど縫い針である。
しかし糸を通せない以上、道具として完成してはいない。
「ほう」
背後から声がした。
朱音が振り返ると、マクゴナガルが立っていた。
「ミス・クサナギ」
「はい、先生」
「初回の授業で、ここまで変化させましたか」
教授は机上の細い金属を摘まみ、窓から差し込む光へかざし、朱音が変化させた針を慎重に見定める。
「材質の変化は良好。形状も概ね正確です」
「ありがとうございます」
「しかし、これはまだ完成した針ではありませんね」
「はい、肝心の糸を通す穴がありません」
「その通りです」
マクゴナガルは未完成の針を机へ戻した。
「何が足りなかったと思いますか?」
朱音はすぐに答えず、自分の行使した魔法を思い返した。
「対象全体の変化へ集中しすぎて、細部の完成形を最後まで維持できなかったのだと思います」
「続けなさい」
「最初は、木材から金属への変化を考えていました。以前マグルの学校で学んだ、物質の
構造を思い出して」
教室の何人かが、マグルという言葉に反応し、ドラコも朱音へ目を向ける。
「ですが、変身術は原子や分子を一つずつ手作業で組み替えるものではない。変化の工程を細かく分解するより、変身後の対象を一つの完成形として認識することの方が大切なのではないかと考え直しました」
マクゴナガルの眉が僅かに上がる。
「興味深い考察です。マグルの科学的知識を、魔法の理解へ結びつけようとしたのですね」
「はい。ただまだ分からないことばかりです」
「それでよろしい、分からないことを、分からないと認める。それは学問において重要な姿勢です」
微かに口元と声音を柔らかくさせたマクゴナガル教授からのアドバイスに朱音の顔が明るくなる。
「ありがとうございます、先生」
「では、もう一度。今度は材質の変化だけでなく、針として完成した姿を最後まで保ちなさい」
「はい」
隣のハーマイオニーも自分のマッチ棒へ杖を向けていた。
「……よし」
今朝の予習で確認した、完成した縫い針。
細さ。
長さ。
金属の質感。
鋭い先端。
糸を通す穴。
それらを部分としてではなく、一つの道具として思い描く。
ハーマイオニーの杖が動いた。
マッチ棒が銀色へ変わる。
細く滑らかな軸となり、片側が尖り、反対側には小さな穴が開いた。
「できた!」
ハーマイオニーが歓声を上げる。
「ミス・グレンジャー」
マクゴナガルがすぐに歩み寄った。
完成した針を手に取り、厳しい目で確認する。
「素晴らしい。見事な変身です」
「ありがとうございます!」
ハーマイオニーの頬が喜びに染まる。
朱音も惜しみなく拍手を送った。
「おめでとう、ハーマイオニー。すごいね」
「ありがとう、朱音!」
ハーマイオニーは、朱音の机にある未完成の針を見る。
「あなたも、あと少しじゃない」
「最後の穴が最難関でね」
「私は、最初から完成した針を一つの姿として思い描いたわ。先端と穴を別々に考えないようにしたの」
「なるほど、部分を順番に作るのではなく、最初から完成した一つの道具として捉えたのか」
「ええ、今朝あなたが言っていた《変化の過程》も考えてみたけど、私には完成形の方が集中しやすかった」
「自分に合う方を、実際に確かめたんだね」
「そういうこと」
「参考になるよ、ありがとう」
二人は互いの針を見比べ、意見を交わした。
それを少し離れた席から、ドラコが見ている。
自分のマッチ棒は、半分ほど銀色になっているものの、先端は丸いままだ。
(グレンジャーはともかく――いや、グレンジャーもだけど。朱音まで、初回からあそこまで)
悔しさが込み上げるドラコは杖を握り直した。
(負けていられるか)
「ミスター・マルフォイ」
マクゴナガルの声が飛んでくる。
「焦る必要はありません。先に対象を正確に観察しなさい」
「……はい、先生」
ドラコは悔しそうに答えた。
しかし、その目から闘志が消えることはなかった。
マクゴナガルはそれ以上叱らず、次の生徒の机へ向かう。
競争心そのものを否定するつもりはないらしい。
扱い方さえ間違えなければ、それも学ぶ力になる。
◇
授業終了まで、残り僅か。
朱音は三度目の挑戦へ臨んでいた。
一度目は材質と形状を同時に意識しすぎ、針の穴が作れなかった。
二度目は穴へ意識を集中させすぎて、先端が十分に尖らなかった。
だから三度目は、どこか一部分だけを追いかけない。
(一本の針)
指先で摘まめる細さ。磨かれた金属の感触。
布を傷口のように裂くのではなく、糸が通るだけの道を作る鋭い先端。
そして反対側には、糸を受け入れる小さな穴。
(針に糸を通す時、穴ばかり見ても手元が狂う、糸の先だけを見ても、針の位置を見失う、両方を見る……全体を保ったまま、通すべき一点へ集中する)
朱音は呼吸を整え、杖を振る。
マッチ棒へ銀色の光沢が広がった。
木の繊維が消え、軸が細く整い、片側が滑らかに尖っていく。
反対側に小さな窪みが生まれ――今度は、その中央が静かに貫通した。
「……できた」
三度目の正直は成功、ハーマイオニーが身を乗り出した。
「朱音!おめでとう!」
「ありがとう。君の助言のおかげさ」
朱音が針を摘まみ上げる。
窓から差し込む光が、細い金属の表面を白く照らし、糸を通す穴はちゃんと陽光を素通りさせていた。
「ミス・クサナギ、今度は見事です」
「ありがとうございます」
「先ほどの失敗を観察し、原因を考え、次の試みへ反映できましたね」
「はい、最初は少し考えすぎていたようです」
「考えること自体が悪いわけではありません」
マクゴナガルは完成した針を感心そうに確認し、机へ戻した。
「ただし、魔法を理解するための思考と、魔法を実行する瞬間の集中は、必ずしも同じものではありません」
朱音は、その言葉を胸中で繰り返した。
「知識を積み重ねること。そして必要な時には、その知識を一つの明確な意思へまとめ、迷わず実行すること。どちらも欠かせません」
「はい、先生」
マクゴナガルは満足そうに頷いた。
授業終了の鐘が鳴る。
教授は教壇へ戻り、教室全体を見渡した。
「本日の授業はここまで。ミス・グレンジャーとミス・クサナギは、初回として特に優秀な成果を示しました」
ハーマイオニーが嬉しそうに笑い、朱音も席から軽く会釈した。
「ですが、皆さん」
マクゴナガルの声が厳しさを取り戻す。
「変身術は、見た目だけを変える遊びではありません。対象の性質を理解し、目的に適う形へ正確に変化させる魔法です。次回までに、教科書の指定した箇所を熟読しておきなさい」
生徒たちは声を揃えて返事をした。
◇
授業を終え、朱音とハーマイオニーが廊下へ出たところで、後ろから声が飛んできた。
「朱音!」
二人が振り返るとドラコが鞄を抱え、少し早足で近づいてきた。
「どうしたんだい?」
「さっきの変身術……」
「うん」
「最初からあそこまでできるなら……僕にも少しくらい教えてくれたっていいだろう?」
ドラコからの申し出の朱音は翡翠の双眸をぱちくりさせると、くすりと笑う。
「もちろん構わないよ」
「本当か?」
「ただ、私も初回の授業を終えたばかりだからね。教えるというより、一緒に練習することになると思うけれど」
「それでいい」
ドラコは少し照れくさそうに顔を背けた。
「私も一緒に練習していいかしら?」
ハーマイオニーが口を開き、ドラコの表情が固まる。
「……お前も?」
「朱音の考え方って面白かったし、私も一度成功しただけで満足するつもりはないもの」
「…………」
ドラコは朱音を見る。
朱音は二人を交互に見て、にこやかに頷いた。
「三人なら、それぞれの方法を比べられるね。ハーマイオニーは完成形を一つにまとめて思い描くのが得意で、私は失敗から細部を調整した。ドラコ君にも、君に合うやり方があるかもしれない」
「それはどうだが……」
「嫌かな?」
「嫌とは言っていない」
ドラコは渋々という顔を作った。しかし、本当に嫌なら立ち去っているはずだった。
マグル生まれのハーマイオニーを一緒になる拒否感よりも、朱音と一緒に勉強できる機会をみすもす逃す方が『もっと嫌だ』と言う感情が上回ったからだ。
「それでは、決まりだね♪」
朱音の笑みが深くなり、ハーマイオニーも満足そうに頷いた。
(どうして、こうなるんだ)
対してドラコは小さく息を吐く。
スリザリンとグリフィンドール、純血の魔法族とマグル生まれの魔女。
これまでの自分なら、生まれと寮の垣根を超えて同じ机を囲んで練習するなど考えもしなかったし、入学前日の自分が見たら我が目を疑い、下手すると軽蔑さえするだろう。
事実今の自分でさえ、戸惑っている始末だ。
『他の生徒たちにないものがある』
——そう見込んで朱音に思い切って頼んでみれば、もれなく本来なら交わらないはずの相手と一緒に何かをすることなってしまった
面倒だし調子が狂う……なのに悪い気までしない不思議な気分。
その上――少しだけ面白いとも感じていた。
「練習するなら、僕が一番先に成功するからな」
「私はもう成功しているけど?」
ハーマイオニーが即座に指摘する………正直このマグル生まれなこいつの気質にはイラつくのも事実だったので。
「次の課題でという意味だ!」
「じゃあその時に確かめてみようか」
強がってみると、朱音は楽しそうに笑う……のを見てしまうと、ハーマイオニーへの苛立ちが萎んでいく。
「競争するのも、教え合うのも、両方やればいいさ」
(むっ……なるほど……その野心の強さと、他の寮の奴からも迷わず学ぼうとする狡猾さ……組み分け帽子が選ぶだけのことある)
当人には悟られぬ様にポーカーフェイスの裏側で、ドラコは朱音がスリザリンに選ばれた理由を目にできた気がした。
つづく。