ハリー・ポッターと玄武(ガメラ)の少女 作:フォレス・ノースウッド
・図書室の番人
早朝のホグワーツ図書室。この魔法界の知識が結集した書架たちの司書にして番人でもあるイルマ・ピンスは、棚の陰から二人の新入生を観察していた。
グリフィンドールの少女は、古い本を開く際に背表紙へ無理な力をかけず、必要な箇所を羊皮紙へ丁寧に書き写している。
スリザリンの少女は、図版を確認する際もページの端を慎重につまみ、読み終わった本には持参した栞を挟んでいた。
机の上にはインク瓶が置かれているが、開いた本から十分な距離を取っている。
私語も小声。
菓子も飲み物も持ち込んでいない。
そして、読み終わった本は配架番号を確認して戻している。
ピンス夫人は細い目をさらに細め、二人が本を戻し終えたところで声をかけた。
「あなたたち」
「はい?」
内一人、スリザリン生の方の朱音が振り返る。
「本を戻す際は、書架の分類番号をよく確認なさい。似た題名でも、別の棚に収めるものがあります」
「承知しました、ピンス先生。ご指導ありがとうございます」
「……私は教授ではありません。司書です」
「あ、失礼しました。ピンス夫人」
朱音が素直に訂正すると、ピンス夫人は小さく頷いた。
「それから、グレンジャーさん」
「は、はい!」
「その変身術の参考書は、第三版から図解が修正されています。比較するなら、東側の書架にある第三版を読みなさい」
マダム・ピンスからの福音に、ハーマイオニーの顔がぱっと明るくなった。
「第三版があるんですか!?」
「ありますとも、ここは図書室です」
「ありがとうございます!」
「助かります、版によって説明がどう変わったのか、興味がありますから」
「……結構」
ピンス夫人は二人を見比べた。
「静粛を守り、蔵書を大切に扱う限り、図書室で学ぶことを妨げるつもりはありません」
「はい!」
「ありがとうございます、マダム・ピンス」
その返事を聞くと、司書は何事もなかったように奥へ戻っていった。
――もっとも、その口元がほんの僅かに緩んでいたことには、二人とも気づかなかった。
◇
・魔法界の退屈な授業
初日午前の授業を乗り越え、昼食を終えた一年生たちは、午後の授業へ向かった。
ハリーたちや朱音が次に受講する科目は魔法史、実際に魔法を目にしてきた彼らは少なからず期待していた。
動く肖像画に階段、朝から活動的なゴーストたち、変身する教師、一本のマッチ棒を、金属の針へ変える授業。
ならば魔法史も、過去の魔法使いたちが残した品や、歴史上の魔法を実際に見せてもらえるのではないか。
「きっと昔の大決闘とか、伝説の魔法使いの話をするんだよ」
ロンも同じように考えているらしい。
「ゴブリンとの戦争とかさ。教室で剣が飛び回ったりするかもしれない」
「歴史の授業で、どうして剣が飛ぶの?」
ハーマイオニーが呆れたように尋ねる。
「魔法界の歴史だからだよ」
「魔法界でも歴史は歴史でしょう?」
「でも、普通の歴史よりは面白いはずだ」
期待に胸膨らますロンへ、朱音は苦笑を浮かべた。
「さて、どうだろうねぇ」
「日本の学校では歴史をどう教えるの?」
「教科書と資料が中心だよ。先生によっては写真や映像を見せてくれるけど、基本的には座学だね」
「それじゃ、眠くならない?」
「そこは授業内容込みで先生の采配次第かな」
その答えの意味を、ロンたちは間もなく身をもって知ることになった。
◇
魔法史の教室には、教壇こそあったものの、教師の姿がなかった。
生徒たちが席へ着いても、誰も入ってこない。
「先生が遅刻?」
ロンが呟いたその時、教壇の後ろにある黒板を、一人の老人が通り抜けてきた。
「うわっ!」
何人もの生徒が声を上げる。
老人の身体は半透明で、着古した教師用のローブに白く霞んだ顔、生きている者とは明らかに違う、真珠色の輪郭。
ホグワーツの教師陣兼本校に住まうゴーストの中で唯一の幽霊教師、カスバート・ビンズ教授である。
ビンズは、生徒たちの驚きを対して気に留めずに教壇の背後から浮かび上がり、椅子へ腰掛ける。幽霊なので、身体の一部は椅子を僅かに通り抜けているが。
生前のビンズ教授は非常に高齢だった頃、職員室の暖炉の前で居眠りし、そのまま息を引き取ったと言われている。
ところが翌朝、当の本人は自分が死んだことに頓着せず、肉体だけを暖炉の前へ置き忘れ、幽霊の姿でいつも通り授業へ向かった。
以後、生前と何一つ変わらぬ調子で魔法史を教え続けている。
もっとも、その逸話を知らない一年生たちにとっては、壁を通り抜けてきた教師だけでも十分な衝撃だった。
ハリーが目を輝かせ、ロンも机へ身を乗り出していた。
ビンズ教授は出席簿を開き、濁った単調な声で名前を読み上げていく。
声の調子は、最初から最後までほとんど変化させずに全員の出席を確認すると、彼は前置きもなく講義を始めた。
「さて、一〇一二年に行われた第三次ゴブリン税制協議に先立ち、悪名高きウルリックが――」
それから三分。
「――ウルリックの唱えた逆さま保護法令は、北部魔法使い評議会の反発を招き、一〇一四年三月十七日に――」
五分過ぎ……。
「――この日付について、旧暦を採用する史料では三月十九日とする説もありますが、翌年に編纂されたグリンバーグ写本との照合により――」
十分経過……ハリーたちの期待は、音もなくこの数分で急速に萎んでいった。
魔法は披露されないし、歴史上の決闘を再現する立体映像も出てこない。
ビンズ教授は教科書よりさらに細かな人名と日付を、感情の起伏が全くない声で並べ続ける。
声だけを聞けば、掃除機が古い絨毯の上を一定の速さで往復しているようだった。
そんな講義内容でもロンは、懸命に羊皮紙へ書き込んでいた。
『悪名高きウルリック――一〇一二年――税――ゴブリン――たぶん重要』
後から見た自分自身ですら目を疑う書き方でも書き進めていたが、ついに羽根ペンが止まり、目蓋が少しずつ下がっていった。
隣のハリーも似た状態だった。
『一〇一四年三月十七日。ただし十九日という説――』
そこまで書いた文字が右下へ大きく曲がり、そのまま羊皮紙の端へ落ちている。
教室のあちこちで、生徒たちの頭が意欲(テンション)ごと少しずつ下がっていった。
ビンズ教授は起きていようが眠っていようが、意に介さずの一本調子で講義を続ける。
「――その後、一〇八七年に発生した北部ゴブリン反乱の直接的要因については、銀貨鋳造権を巡る対立とする説が一般的ですが――」
数少ない睡魔に抗う一人、ハーマイオニーは懸命にノートを取っていた。
早朝から予習していたにもかかわらず、驚くべき集中力である。
しかし、その彼女でさえ数分に一度は瞼が閉じかけ、目を擦っていた。
朱音の方も睡魔と拮抗して羽根ペンを動かしていた。
人名、年号、事件、原因と結果。
教授の説明を全て書き写すことはとうに諦め、小学校の歴史の授業で掴んだコツを生かし、項目同士の関係だけを拾い上げる。
『税制協議』
↓
『ゴブリン側の鋳造権要求』
↓
『評議会が拒否』
↓
『各地の反乱へ波及』
説明を単なる羅列として聞けば眠くなる一方だが、争いが起きた理由を辿れば、現在の魔法界へ繋がる問題も見えてくる。
当時誰が法を作り?
その事件で誰が利益を得たのか。
その時代に生きていた誰の主張が、記録から抜け落ちたのか。
朱音はそこへ意識を向けようとした。
それでも――。
「――なお、悪名高きウルリックの甥にあたる奇人ウルリックについては同名別人とする説が有力であり、両名を混同した一七世紀の研究は――」
(え?いやいや待て待て……ウルリックが……二人?)
数秒前まで理解していたはずの内容が、霧の向こうへ遠ざかっていく。
彼女は背筋を伸ばし直して、深く息を吸い、こちらの隙を逃すまいと攻めてくる眠気を追い払うため、ノートの端へ小さく問いを書く。
『魔法史に於いてウルリックの名は複数あって混同する懸念あり、後で補足すること』
『なぜ反乱側の一次資料が少ない?』
疑問を作れば、受け身で聞き続けるより意識を保ちやすい。
だがビンズ教授の声は強敵で、海の底で眠っていた前世の記憶すら、引きずり出されそうになるほどの一定さ具合に、朱音は額へ手を当てた。
前の席では、ロンの頭が完全に机へ着いて、ハリーが肘で小突く。
ロンは飛び起き、慌てて羊皮紙へ羽根ペンを走らせる。
書かれた文字は『ゴブリンは反乱した。とてもたくさん』だけだった。
ドラコも眠気を堪えている。
朱音とハーマイオニーが変身術で評価された直後だけに、ここで居眠りするわけにはいかないと思っているらしい。
しかし気合いとは裏腹に、頭は少しずつ前へ傾いていく。
その額が机へ触れる直前、朱音が羽根ペンの軸で自分の教科書を軽く叩いた。
今のでドラコははっと顔を上げ、朱音は何も言わず、前を向いたままノートを取り続けた。
ドラコは自分を起こした相手を見て、少しだけ口元を引き結ぶ、礼を言うには、教室が静かすぎた。
代わりに背筋を伸ばし、再び羽根ペンを握った。
◇
授業終了を告げる鐘が鳴った。
それでもビンズ教授は、しばらく講義を続けた。
「――この反乱の結果については、次回。一一〇五年のグリップフック協定へ至るまでの各地の蜂起を、年代順に確認します」
教授は教科書を閉じ、同時に息を吐く音が聞こえる……生徒のほとんどが、先のマクゴナガル先生の変身術とほぼ同じ実時間でありながら、遥かに長い体感時間に耐え忍んでいた証に他ならない。
ビンズは生徒たちの様子に全く頓着せず、出てきた時と同じように黒板の中へ消えていった。
完全に姿が見えなくなった瞬間、ロンが机へ突っ伏した。
「ホグワーツにもこんな授業があるの聞いてない……」
ハリーも疲れ切った顔で頷く。
「変身術より難しかったかもしれない」
「マッチ棒は目に見えるからね。ウルリックは途中で何人いたのか分からなくなった」
朱音の言葉に、ハーマイオニーが顔を上げる。
「二人よ、悪名高きウルリックと、その甥とされていた奇人ウルリック。ただし、後者は血縁ではなく、そもそも同名の別人だった可能性が高いの」
「ちゃんと聞いていたんだ……」
ロンが畏敬すら含んだ目でハーマイオニーを見る。
「もちろんよ」
即答したものの、ハーマイオニーは小さく欠伸を噛み殺した。
「君も眠かったんだね」
「少しだけよ……」
「私も危なかったよ。ガメ――亀みたいに、その場で長い眠りへ入るところだった」
「どうして亀?」
危うく自分の前世(ひみつ)の単語を朱音は出しかけ、ハリーが首を傾げる。
「長生きとよく眠る印象があるから……かな」
朱音は何気ない顔で答え、羊皮紙をまとめた。
自分の秘密を守るには、こういう小さな言葉にも気をつけなければならない。
「でも、内容そのものが無意味だったわけじゃないね」
朱音は自分のノートを三人へ見せた。
人名と年号を全て書き写すのではなく、争いが起きた原因と結果が矢印で繋がれている。
「ゴブリン側は貨幣を作る技術を持っていたのに、その所有権や流通の決定へ十分参加できなかった。魔法使い側の記録だけ読めば《突然反乱した》で終わるけれど、理由がなかったわけじゃない」
「でも、ビンズ先生はそこをほとんど説明しなかったわ」
ハーマイオニーが言う。
「正確には、説明していたよ」
「してた?」
ロンが顔を上げる。
「三十七個くらいの人名と二十個くらいの年号の間に埋まっていたけれどねぇ」
ハリーが吹き出し、ハーマイオニーすら堪え切れず釣られて笑う。
「じゃあ次の授業までに情報を整理してみない?」
「ビンズ先生の講義から、原因、当事者、結果を分けてノートへまとめる。ハーマイオニーは日付や固有名詞をよく拾えていたし、私は関係を図にする。ハリーとロンは――」
「僕たちは?」
「授業中寝ない方法の模索」
「役割が低すぎない!?」
「いや、僕らが今できるとしたらそこからだと思うよ」
ロンが抗議し、ハリーが再び笑った。
朱音も楽しそうに笑いながら、鞄を肩へ掛ける。
午前中には、一本のマッチ棒を針へ変えた。
午後には、無数の人名と日付の中から、歴史の流れを拾い上げようとした。
どちらも魔法学校での学びだった。
一方は、目に見える物を変える技術。
もう一方は、既に起きた出来事を、どのように理解するかという試み。
魔法は、杖を振るだけでは身につかない。
歴史も、年号を覚えるだけでは見えてこない。
焦らず、全体を見失わず、必要な一点へ、正確に意識を通す。
(針に糸を通すように、か)
それは変身術だけでなく、学ぶという行為そのものへ通じるのかもしれなかった。
◇
夕方。
図書室の一角には、ドラコも含めた一年生が集まっていた。
机の上には、変身術の教科書。
魔法史の資料。
練習用として許可を得て借り受けたマッチ棒。
ハーマイオニーが自分のノートを広げる。
「最初に変身術。それが終わったら魔法史の整理よ」
「どうしてお前が仕切り役なんだ?」
ハーマイオニーが仕切っているドラコが不満そうに言った。
朱音からの機会を失いたくないが為に、グリフィンドール生と共に勉学する事態は受け入れたが、それとこれとはまた別で不服ではある。
「ほかに順序を提案した人がいないからよ」
「では僕が――」
「ドラコ君、変身術を先にしたいのは、君も同じだろう?」
「まあ、そうだが……」
「なら、まず始めよう、進め方に気になることがあったら、その時に異議を申し上げて改善していけばいいからさ」
ドラコは反論を飲み込んだ……と言うより異論する機会を朱音から先に貰い受けたので、やる前からそれをわざわざ使って進行を妨げるデメリットの方が大きいと気づけたが為に、自然と引っ込んだ。
「それで朱音、僕の何が悪かった?」
「その前に、どんな針を思い描いたか教えてくれる?」
「普通の針だ」
「長さは?」
「普通」
「太さは?」
「普通だ」
「糸を通す穴の形は?」
「ふっ…………」
腕を組んで押し黙るドラコに、ハーマイオニーが事実だけを告げる。
「それじゃ《針》って単語をノートに繰り返し書いてる様なものじゃない」
「分かっている!」
「今分かったところでしょう?」
「お前、一言多いんだよ!」
「二人ともステイステイ、まず本物の針を観察しよう。触って、重さを確かめて、何のためにその形をしているのか考える」
ハリーが練習用の針を夕焼けの光にかざした。
「すごく小さい穴だね」
「これをマッチ棒から作るのか……」
ロンの顔が早くも曇る。
「最初から全部を完成させなくてもいいよ」
朱音は自分が最初に作った穴のない針を机へ置いた。
「私はここまで失敗した。でも材質と形は変えられた。なら次は、どこが足りなかったか考えられる」
「失敗した物を取っておいたの?」
「先生に聞いてみたらOK出してくれてね、これでどこまで成功できたか振り返られるわけだし」
ドラコは穴のない針を見つめる。
朱音当人も失敗作と認めているが、捨てて隠すべき恥ともしていない、むしろ次の成功へ繋がる記録として大事に取る姿勢……は見習いたいと思えた。
「……もう一度やる」
ドラコはマッチ棒を置き、杖を構えた。
ハーマイオニーも向かいで見守る。
ハリーとロンも、自分たちのマッチ棒を手に取った。
違う寮。
違う家柄。
違う学び方。
それでも、一つの小さな机を囲み、同じ一本の針を目指している。
朱音は全員を見渡し、微笑んだ。
「では、焦らずに」
杖の先を、マッチ棒へ向ける。
「針に糸を通すように、丁寧にやろうか」
ホグワーツで迎えた最初の授業日は、まだ終わっていなかった。
そして朱音を中心に結ばれ始めた細い糸もまた、この時はまだ、誰にもその行き先を見通せないほど小さなものだった。
ただ、一度通すことのできた糸は、簡単にはほどけない。
たとえ赤と金、緑と銀――異なる色の布を縫い合わせることになったとしても。
◇
・ある意味恐怖な授業
水曜日の朝、一年生たちが待ち望んでいた授業が、ついに時間割へ姿を現した。
《闇の魔術に対する防衛術》
その名を聞くだけで、ハリーは胸が高鳴った。
教科書の中に記された呪いや怪物から、どのように身を守るのか。実際に杖を振り、防御呪文を練習する授業なのではないか。
ロンも似たような想像をしているらしく、朝食の席から妙に機嫌がよかった。
「兄貴たちが言ってたんだ。上級生になると、呪いを受けた時の対処法とか、危険な魔法生物との戦い方も習うって」
「一年生でも、少しくらい実技をするかな?」
「するだろ、防衛術なんだから」
グリフィンドールの長卓で話す二人の向かいでは、ハーマイオニーが分厚い教科書を開いていた。
「最初から戦闘訓練をするとは思えないわ。まずは闇の魔術の定義や、呪文の分類からでしょうね」
「それじゃ一昨日の魔法史と変わらないじゃないか」
「全然違うわよ!」
その言い合いを、少し離れたスリザリンの長卓から朱音が眺めていた。
今週の防衛術は、グリフィンドールとスリザリンの合同授業である。
授業を共にする寮の組み合わせは週ごとに変わる。異なる寮の生徒同士を交流させる目
的もあるらしいが、初日から互いを意識している生徒も多かった。
「闇の魔術に対する防衛術、か」
BLTサンドイッチを味わいながら朱音は時間割を見下ろす。
未知の脅威について学び、それへ対処する。
内容だけを聞けば、彼女にとっても興味深い授業だった。
「随分楽しみそうね」
隣でパンを切っていたパンジーが言った。
「せっかく魔法学校へ来たんだ。知らない分野の授業は全部楽しみだよ」
「私は、先生の方が少し気になるけど」
「クィレル先生?」
「昨日、廊下で会ったら、挨拶を返すだけで三回もつかえていたわ」
向かいに座るドラコが、飲み物の杯を置いた。
「父上からは、ホグワーツの教師陣は魔法界でも一流だと聞いている。実力まで話し方だけで判断するのは早いさ」
もっともらしく語っているが、言ってる傍から彼の表情には僅かな不安があった。
「そうだね。まずは授業を受けてみよう」
朱音は微笑み、最後の一口を食べ終えた。
その時点では、彼女もまだ期待していた……少なくとも、その教室の扉を開けるまでは―――。
◇
「うへっ……におう」
教室へ一歩入ったロンが、真っ先に鼻を押さえた。
「ロン!」
ハーマイオニーが咎めるも、すぐに彼女も眉をひそめた。
無理もない。教室中が、強烈なニンニクの臭気に満たされていた。
窓は一応開けられているものの、それでもまるで何百個ものニンニクを教室の壁へ直に塗りつけたかのように、刺激の強い匂いが先に入室したグリフィンドール生の鼻腔を突き刺してくる。
「すごいな……」
ハリーは鼻を覆ったまま、教壇を見た。
そこにはクィリナス・クィレル教授が立っている。
長身だが痩せた全身、不安そうに常に左右上下に泳ぐ目。
そして頭には、大きな紫色のターバン。
教室へ染みついた臭気とは別に、ターバンそのものからも濃密なニンニクの匂いが漂っているようだった。
「そう言えばクィレル先生、ちょっと前まで『魔法使いとして経験を積みたい』とかで休み取って旅に出た時に、ルーマニアで吸血鬼に出くわしてひどい目に遭ったらしいってハグリッドが言ってた」
「だからニンニク?にしたって、これだけ濃いと吸血鬼どころか人も失神するよ、と言うか今日中だよ!日に弱いあいつらが出てくるわけないはん!」
ハグリッドづてのハリーからの説明に、ロンの口よりごもっともな苦言(クレーム)の数々が出た。
「それで四六時中こんな調子なの?」
「先生本人に聞いてみれば?」
「嫌だよ僕も……」
二人が話している間に、スリザリンの生徒たちも教室へ入ってくる。
ドラコは三歩目で立ち止まり、露骨に顔をしかめる……なけなしの『自分はマルフォイ家の子息である』意地で鼻は押さえないよう耐えているが、顔に苦悶が浮き出ていた。
「……本当に、ここで授業をするのか?」
「時間割に間違いがなければね……ルビおじさんから吸血鬼がトラウマって聞いてたけど、ここまでか」
朱音も袖で口元を覆っていた。
「私のローブへ匂いが染みつかないといいんだけど」
「笑い事じゃないぞ。これでは昼食までニンニクの味がする、僕は今吸血鬼より……この教室の方が怖いんだが……」
パンジーも、嗅覚に留まらず五感の大半を刺激してくる環境に少し涙目になっている。
「髪にまで匂いがついたらどうしてくれるのよ……」
やがて、全員がどうにか席へ着いた。
クィレルは怯えるように生徒たちを見渡し、講義を始める。
「で、では……きょ、今日は……や、闇の魔術が、わ、我々の精神と、に、日常へ及ぼす……き、危険について……」
声が小さいし、案の定何度もつかえる……生徒たちは聞き逃すまいとして耳を澄ませるが、聴覚に意識のリソースを割こうとすればするほど、鼻に入ってくる匂いに悶えたくなる悪循環。
「ま、まず……あ、相手が、あ、明確な害意を、も、持つ場合と……そ、そうでない場合を……はんべっ……する」
クィレルの説明には、教科書に書かれていない実体験らしき内容も混じっていた。
しかし、話が何度も途切れるため、黒板の表記含め、どこを要点にすればいいのかてんで掴みにくい。
ハリーは真面目に羽根ペンを動かしていたが、羊皮紙の上には――
『害意の有無を――ニンニク――闇の魔術は――吸血鬼――』
と、講義内容と匂いに対する感想が混ざり始めていた。
ロンに至っては、鼻を押さえたまま片手で文字を書いているため、後から読めるかどうかも怪しい。
ハーマイオニーでさえ、質問する機会を見つけられずに困っていた。
翡翠の双眸周辺が眉をひそめている朱音も。どうにか話の要点をいくつか拾い上げていたものの、内心では一つの結論へ達していた。
(……先生がルーマニアで何を経験したかは分からないけど、恐怖へ心のハンドルを渡したまま、戻ってこられていないみたいだね)
吸血鬼への備えとしてニンニクを持つ……それ自体は、経験に基づく安全対策なのかもしれないが、教室にいる全員が涙目になるほどの量を身につけるのは、もはや対策というより恐怖に追い立てられた行動に見えた。
結局『闇の魔術に対する防衛術』と名ばかりに杖を一度も振らないままどころか、羊皮紙に内容を記載するのもままならず、苦行――もとい授業終了の鐘が鳴った。
「きょ、今日は、こ、ここまで……つ、次は教科書の、だ、第十二頁から……」
クィレルが告げた途端、生徒たちは一斉に立ち上がった。
一番手で廊下へ出たロンが盛大にせき込み、肺の中身を全て入れ替えるように深呼吸する。
「あ~空気がうまい!」
「大袈裟よ」
ハーマイオニーはそう言いながらも、自分のローブの袖を嗅ぎ、顔をしかめる。
「……でも、これは困ったわね」
「やっぱり匂う?」
「あなたもよハリー」
「僕も?」
廊下へ出ても、四人の制服からはニンニクの匂いが漂っていた。
ドラコたちも同様である。
「このまま大広間へ行くつもりか?」
ドラコが自分の袖を摘まみ、不満を露わにする。
「僕たちの周りだけ席が空くぞ」
「静かに食事ができて便利じゃない?」
「君は気にならないのか?」
「気にはなるし、ランチの味までニンニクに塗り潰されるのはイヤだから――」
朱音は周囲を見回す、教師も上級生も近くにはいない。
通行の邪魔にならない様に壁際へ移動し、杖を取り出す。
「試してみよう」
「何をするの?」
ハリーが尋ねる。
「《スコージファイ》――清掃用の呪文だよ」
「昨日一緒に調べた呪文ね!」
「ああ、普通は付着した汚れを落とすために使う。でも匂いも衣服へ付着した微粒子によって生じているから――」
「それを呪文を唱える時に『汚れ』だとイメージして念じれば、除去できるかもしれない?」
「その通り」
朱音は自分の袖へ杖先を向けた。
「ただし、強く掛けすぎると布地まで傷める可能性があるから、最初は狭い範囲から試そう」
袖口だけへ狙いを定める。ニンニクの匂いを、落とすべき汚れとして明確に意識する。
「スコージファイ」
杖先から淡い光が走り、朱音は今の閃光を浴びたローブの袖口を鼻へ近づける。
「……うん、消えてる」
「ほんとに?――本当だわ!」
パンジーも匂いを確かめ、表情を明るくした。
「じゃあパンジー、次は君のローブ全体へ。じっとしていてね」
布地だけを対象として意識し、朱音は慎重に杖を動かした。
「スコージファイ」
パンジーの制服からも、染みついていたニンニク臭が消えていく。
「助かったわ……!」
パンジーは胸元の布を確かめ、心底安堵して、匂いが消えたての制服越しにほっと胸をなでおろす。。
「……僕にも頼む」
「もちろん」
一歩前に出たドラコにも、朱音は気前よくに杖を構えた。
「そこまで真剣な顔をしなくても、順番にやるよ」
「別に焦ってはいない」
「そう?」
「その顔は何だ」
「何でもないよ♪」
パンジー、ドラコから続けて朱音がスリザリンの生徒たちの制服を担当する一方、ハーマイオニーも杖を取り出した。
「私もやってみるわ。ハリー、じっとしていて」
「大丈夫?」
「朱音と同じ手順でやればいいのよ。スコージファイ!」
最初の一度では、ハリーの肩口に匂いが僅かに残った。
ハーマイオニーはすぐに範囲を絞り、二度目の呪文を掛ける。
今度は綺麗に消臭できた。
「できた!」
「ありがとう、ハーマイオニー」
「次は僕!一番近くにいたから、僕のローブが一番ひどいんだ!」
「先生の近くへ座ろうって言ったのは、ロンでしょう?」
「まさか近づくほど攻撃力が増すなんて思わないだろ!」
「先生を危険な魔法生物みたいに言うんじゃありません!」
ハーマイオニーは叱りながらも、ロンの制服へ呪文を掛けた。
やがてニンニクの臭気は、全員のローブからほとんど消えた。
「初回から実戦的な復習ができたね」
「清掃呪文の授業じゃなかったけどな」
ロンが渋い顔で返す。
「役に立つ魔法に、科目の境界はないさ」
「でも、闇の魔術に対する防衛術で一番役に立ったのが、授業後の消臭呪文ってどうなんだ?」
このロンから出された難問を前に、誰も答えられなかったのでした。