ハリー・ポッターと玄武(ガメラ)の少女 作:フォレス・ノースウッド
書いてるこっちもめっちゃ緊張感が押し寄せるので、実際に授業を受けていたハリーたちはどれだけプレッシャーだったのやら。
後ろからスネイプ先生が見下ろしてくるんですよ……『マグルごときが吾輩を描けるのか、見ものだな』って。
こっちも負けていられるかと『善悪混在して愛に殉じた嫌なヤツ』なバランスになるよう努めましたよ。
・名声を瓶に、栄光を大釜に
金曜日の朝。ホグワーツ城の地下深くに設けられた魔法薬学の教室は、暖炉へ火が入っているにもかかわらず、指先から体温を奪うような冷気に満ちていた。
分厚い石壁が、湖と地中の冷たさを抱え込んでいるのだろう。
壁際の棚には、大小さまざまなガラス瓶の標本が隙間なく並んでいた。
白濁した液体へ沈む眼球に、節くれ立った植物の根、新入生では何の生物のものとも分からない青黒い内臓。
鱗や牙、干からびた翼、何本もの脚を持つ虫。
液体の中でゆっくり揺れる標本の数々が、教室全体へ博物館と解剖室を混ぜ合わせたような不気味さを与えている。
「夜中にこれを一人で見るの嫌だな……」
ロンが、棚に並ぶ標本たちを見上げながら呟いた。
「中身が突然動いたら、僕は叫ぶよ」
隣のハリーも、冗談とは思えない顔で答える。
「動かない保証はないわね」
二人のジョーク寄りな発言に、ハーマイオニーが生真面目に返す。
「魔法生物の組織には、切り離された後も反応を続けるものがあるそうだから」
「せめて授業の後に教えてよ……」
同じ卓で、草凪朱音は寮の掲示板から書き写してきた注意事項を確認していた。
「大釜は授業開始前に温めておくこと。火力は最小。材料は指示があるまで開封しない――うん、これでいいね」
鉄製の大釜の底を、小さな青い炎が舐めている。
スリザリンとグリフィンドールの合同授業だった。
昨夜の予習会で朱音が使ったメモ帳と鉛筆も、羊皮紙や羽根ペンと一緒に机上へ置いてある。
少し離れた場所では、ネビル・ロングボトムが何度も鞄の中を確認していた。
忘れ物はない、朱音とハーマイオニーに予習を付き合ってもらい、手順も確かめた。それでも、スネイプ教授の授業というだけで胃の辺りが硬くなってしまうらしい。
ネビルと朱音の目が合う、彼女は言葉をかけず、小さく頷いた。
準備したことは消えないと、ネビルは一度息を吸い、ぎこちなくも頷き返した。
その時、教室の外から足音が近づいてきたのを皮切りに、談笑が一つずつ途切れていく。
扉が勢いよく開かれ、セブルス・スネイプ教授が黒いローブを大きく翻して教室へ入ってくる。
その裾は、飛び立つ寸前の巨大な蝙蝠の翼を思わせた。
誰にも挨拶をせずに足音を響かせて教壇へ進み、長い指で出席簿を開く。
教室を支配する音は、羊皮紙が捲られる乾いた音と、大釜の下で燃える炎の微かな揺らめきだけになった。
スネイプは、生徒の名を一人ずつ読み上げ、返事の大きさが足りなければ視線を上げる。
かと言って逆に余計な返事をすれば眉をひそめる。
自分の名が呼ばれるまでの時間すら試験であるかのように、一年生たちは背筋を伸ばしていた。
「ドラコ・マルフォイ」
「はい、先生」
「ハーマイオニー・グレンジャー」
「はい」
「アヤネ・クサナギ」
「はい、先生」
そして――。
「ハリー・ポッター」
――そこでスネイプの声が止まった。
漆黒の瞳が、名簿からゆっくり持ち上がる。
「……我らが新しいスター、ミスター・ポッター、ようこそ芸術の地へ」
囁きに近い声量ながら、ハリーへの皮肉は教室の隅まで染み渡った。
何人かのスリザリン生が笑い、ドラコもつられて口元を緩めかけた。
その時、前方の席にいる朱音が振り返った。
起こっているわけでも、糾弾するような目でもなかった。
まして便乗して笑うでもなく、ただ不思議そうに首を傾げ、翡翠色の瞳でドラコを見ている。
――今、何が面白かったの?
言葉にすれば、おそらくそれだけの視線だった。
だからこそ、ドラコは返答に困った。
父から聞いていた有名人。
皆が注目する少年。教授から皮肉を言われたなら笑っておくものだと、深く考えずに反応しただけである。
だが、なぜ笑ったのかと問われたら、上手く説明できない。
ドラコは口元を引き締め、大釜へ向き直った。
(……別に、授業が始まるからだ)
自分へ言い聞かせる。結果として、その姿勢は先ほどまでより真剣なものになっていた。
朱音もすぐに正面へ戻る。
咎めるために振り返ったわけではない。
本当に、何が面白かったのか分からなかっただけなのだ。
スネイプは出席簿を閉じて教卓の前へ立ち、組んだ両手をローブの袖へ隠す。
蝙蝠を思わせる印象が増し、吸血鬼らしさすらある。
「この授業では、魔法薬調剤における微妙な科学と、厳密にして繊細なる芸術を学ぶ」
滑らかな低音が、冷えた教室へ広がった。
普段の皮肉を取り除けば、耳へ心地よく響く柔らかなベルベットボイス。
しかし、その美しい低音の下には刃のような威圧感が潜んでいる。
「よって、ここでは杖を振り回したり、馬鹿げた呪文を唱えたりはしない、大釜の中でふつふつと沸く液体。揺らめき立ち昇る湯気。人の血管を這い巡り、精神と肉体へ作用する繊細なる魔力――」
スネイプの言葉に合わせるかのように、棚の瓶の中で何かの組織が揺れた。
目にしたロンは、見なかったことにした。
「もっとも、その真の素晴らしさを諸君らが理解できるとは、吾輩も期待しておらぬ」
わずかな期待を抱かせてから、一息に切り捨てる。
「吾輩が諸君らへ教えられるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し――死にさえ蓋をする方法である」
ハリーは、思わずスネイプを見つめた。
魔法薬というものを、これまで深く考えたことはなかった。
薬草や生物の一部を鍋へ入れて作る、魔法界の薬、その程度の認識だった。
だが彼の語り口を通せば、大釜の中に人の心や運命すら溶かし込めるように聞こえる。
朱音の方も静かに耳を傾けていた。
言い方は威圧的で、生徒への期待も恐ろしく低い。それでもスネイプが、魔法薬学そのものを心から誇っていることだけは伝わってくる。
「――もっとも」
スネイプの声音が、さらに低くなる。
「諸君らが、吾輩のこれまで教えてきた愚鈍な生徒たちより、多少なりともましであればの話だが」
ロンの抱きかけた感動が、早くもしぼんだ。
「やっぱり最後にそれを言うんだな……」
聞き取れないほどの小声だったが、ハリーは同感だった。
「吾輩は、端から全員が理解できるなどとは思っておらぬ。素質を持つ一部の者だけに、人の心を操り、感覚を惑わせる術を伝授してやろう」
蝋燭の火が揺れる中、スネイプは教卓から離れ、音もなく生徒たちの間を歩き始めた。
そして不意に、足を止める。
「ミスター・ポッター」
「はい?」
ハリーの肩が跳ねた。
「アスフォデルの球根を粉末にし、ニガヨモギを煎じた液へ加えると、何ができる?」
教室が静まり返る中、ハリーは頭の中を必死に探した。
しかし、十一歳の誕生日まで自分が魔法使いであることさえ知らなかった彼に、答えが出せるはずもない。
周囲の生徒たちの大半も同様、乾燥した根や毒草の名前は聞いたことがあっても、それを混ぜた結果まで知っている一年生など、ほとんどいない。
例外は二人、内一人のハーマイオニーが目を見開く。
もう一人の朱音も僅かに眉を上げた。
二人の視線が、一瞬だけ交わった。
――昨夜、読んだね。
――でも、これは一年生の範囲じゃない。
『上級魔法薬調合法』に記載されていた、六年生課程の水薬。
勤勉なハーマイオニーは、答えを知っているのに黙っていることができなかった。
腕をまっすぐ伸ばすも、スネイプは見向きもしない。
「分かりません、先生」
返答を聞いたスネイプの口元へ、冷たい笑みが浮かぶ。
「なるほど。有名であることと、知識があることは同義ではないらしい」
ハリーの頬が熱くなった。
「では、ベゾアール石を手に入れたければ、どこを探す?」
再びハーマイオニーの腕が伸びる。
今度は先ほどより高く。
椅子から身体が浮きかけている。
「分かりません」
「モンクスフードとウルフスベーンには、どのような違いがある?」
「……分かりません、先生」
ハーマイオニーの指先は、もはや天井へ届きそうだった。
それでもスネイプは、彼女と目すら合わせない。
漆黒の瞳は、ハリーの緑色の瞳から一度も動いていなかった。
質問は知識を確かめるためのものではない。少なくとも、今この瞬間は……答えられないと承知した上で、明らかにハリー一人だけを指名している。
朱音は鉛筆を置き、ハーマイオニーに続き、静かに右手を上げる。
スネイプの目が、初めてハリーから動いた。
「ミス・クサナギ」
「はい」
「貴女(きじょ)ならば答えられると言うのなら、見せてもらおう」
(私には答えさせてくれるんだね)
その声音から、意図を読み取ることは難しかった。
寮監として、スリザリン生の能力を確かめたいのか。
昨朝、図書室で予習していた成果を試しているのか。
それとも、ハリーと同じように、答えられぬ生徒をもう一人作るつもりなのか。
あるいは、スリザリン生すら例外なく見世物へ加える魂胆か。
どちらであろうと、やることは変わらないと、朱音は立ち上がり。
「はい。もし相違点があれば、遠慮なく減点していただいて構いません」
そして机の上のメモ帳を開き、スネイプへ見えるよう白紙の頁を向けた。
答えを事前に書き写していたわけではない。
何も書いていない、彼を前にいかさまをする気もないと示した上で、鉛筆を取る。
スネイプの漆黒の瞳を見据えたまま、朱音は答え始めた。
「アスフォデルの球根を粉末にしたものへ、ニガヨモギを煎じた液を加えると、《生ける屍の水薬》になります」
口頭で述べた内容を、同時にメモへ書き記していく。
「死者のように深い眠りをもたらすことから、その名で呼ばれる強力な睡眠薬です」
鉛筆の芯が、紙面を滑る。
「ベゾアール石は、主にヤギの胃から採取される結石です。羊やリャマなど、ほかの反芻動物から見つかる場合もありますが、魔法薬学で一般に用いるものはヤギ由来と理解しています。多くの毒に対する解毒剤となります」
生徒たちの視線が朱音へ集まる。
彼女は急がない。誇るように声を張りもしない。
教科書の内容を暗唱するのではなく、意味を理解した上で整理していることが分かる話し方を用いていた。
「そして、モンクスフードとウルフスベーンに植物学上の違いはありません。同じ植物を指す別名です、正式にはアコナイト。マグル界ではトリカブトとして知られる著名な毒草で、適切に処理されていないものを摂取すれば、生命に関わります」
答えを終えても、朱音はすぐに座らなかった。
「以上です、スネイプ先生」
教室の中で、暖炉の薪が小さく爆ぜる。
やがて彼は、朱音の机へ歩み寄った。
白紙だった頁には、たった今口にした三つの回答が、整った日本語と英語で並んでおり、それをスネイプに見せる。
「……授業中の筆記には、通常、羊皮紙と羽根ペンを用いるものだが」
「提出物は指定された形式に従います」
朱音は鉛筆を指先で持ち上げた。
「ですが、要点を素早く書き留めるには、こちらの方が適していると判断しました。校則に反するのであれば、以後は使用を控えます」
「規則の不備を探すことには長けているらしいな」
「有効な選択肢を確認するのが好きなだけです、先生」
教室の後方で、ドラコが僅かに口元を引きつらせた――あのスネイプを相手に、よく平然とそんな受け答えができるものだ。
だが朱音は反抗しているわけではない。
禁止されれば従う、ただし禁止されていないのならば、より合理的と判断した方の道具を選ぶ。
スネイプはメモ帳から朱音へ視線を戻した。
「回答は概ね正しい」
ハーマイオニーが、自分のことのように嬉しそうな顔をする。
「ただし、ベゾアールとして魔法薬学上もっとも一般的かつ信頼性の高いものは、ヤギの胃から採取された結石だ。知識を広げることは結構だが、問われた内容へ必要以上の枝葉を付け、要点を曇らせぬように」
「はい。ご指摘ありがとうございます」
朱音はその注意までメモへ加えた。
「スリザリンに五点」
スリザリン生たちの間に、小さなどよめきが起きた。
初回の魔法薬学、しかも授業が始まって間もないうちに得点が与えられた。
ドラコは得意げな顔になりかけたものの、朱音に見られる前に表情を引き締めた。
「それから、ミス・クサナギ」
「はい」
「吾輩の目を見つめ続ければ、回答の正確性が増すわけではない」
「先生が質問なさったので、先生へ答えておりました」
「…………座りたまえ」
「はい、先生」
朱音が着席する横で、ハリーは複雑な表情をしていた。
友達(あやね)が答えられたことは、自分のことの様に嬉しい。
しかし、自分が答えられなかった事実を見世物にされたような感覚は消えていない。
その隣で、ハーマイオニーはまだ腕を上げており、スネイプがようやくその挙手を見た。
「ミス・グレンジャー。既に回答は終わった。腕を下ろしたまえ」
「……はい、先生」
ハーマイオニーは不満を隠し切れない顔で手を下ろした。
朱音は机の下で、彼女へ小さく掌を向ける。
昨夜、一緒に調べたから答えられた。
君の知識も同じものだ。
言葉にせずとも、今のジェスチャーでハーマイオニーにはそう伝わったらしい。固く結ばれていた口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「なぜ、今の回答を書き留めない?」
その一言で、教室中の羽根ペンが慌ただしく動き始めた。
ロンは羊皮紙へ顔を寄せ、ハリーへ囁く。
「一年で習う問題じゃないだろ……」
「静粛に、ミスター・ウィーズリー」
即座に飛んできた声に、ロンは凍りついた。
「口を動かす暇があるなら、手を動かしたまえ」
「はい、先生……」
教壇へ戻った黒いローブの裾が、冷たい床を撫でる。
「今の三問は、知識だけを問うたものではない、魔法薬の材料には一つの呼称しか持たぬものばかりではない。同じ植物が土地や用途によって異なる名で呼ばれ、異なる生物から似た効能を持つ素材が得られる場合もある」
スネイプは教室全体を見渡した。
「名称だけを暗記し、対象を理解したつもりになる者は、いずれ大釜の中身を猛毒へ変える」
その言葉には、先ほどまでの嘲りとは異なる重さがあった。
「魔法薬調剤において、《知らなかった》は失敗の言い訳にならぬ。誤った材料を入れれば、薬は効能を失う。分量を違えれば毒となる。手順を飛ばせば、同じ卓につく者まで巻き込む」
ネビルの喉が鳴るも、昨夜の予習で、最初の調合に用いる材料も手順も確認してきた。
震える指を一度握って開く。
朱音はその様子を横目で確かめたが、敢えて助け舟は出さなかった。
今はまだ、何も失敗していない。先回りして心配するより、準備してきた彼を信じるべきだった。
スネイプが杖を振ると、黒板へ白い文字が次々に現れた。
乾燥イラクサ。
砕いた蛇の牙。
角ナメクジ。
山嵐の針。
そして最上段には、今日調合する魔法薬の名。
《おでき治しの薬》
「教科書、三ページを開け」
頁を捲る音が、教室中で重なった。
「ここまでの話を聞き、簡単な薬だと侮った者から失敗する。二人一組。材料の確認から始めろ」
スネイプの漆黒の瞳が、教室をゆっくり巡る。
「大釜へ何かを入れる前に、手順の意味を考えたまえ」
その視線は一瞬、朱音のメモ帳で止まった。
「考えすぎて、投入時機を逃すこともないようにな」
朱音は僅かに目を丸くし、それから微笑んだ。
「はい、先生」
忠告なのか、皮肉なのか、あるいは昨夜まで予習を重ねた生徒へ向けた試験開始の合図なのか。
ただ、大釜の下では青い炎が揺れ、温められた水面から最初の湯気が立ち始めていた。
魔法薬学の初回授業は、ようやく本当の幕を開けたのである。
――後編につづく。