王とは、神に選ばれるものなのだろうか。
古来より、人々は自らを統べる存在に特別な資格を求めてきた。ある者は神々の血を引くことを誇り、ある者は偉大な祖先の名を掲げ、またある者は、天より授けられた権威をもって自らの支配を正当化した。
もっとも、そのような大層な理由を並べ立てたところで、結局のところ王権を支えるものが暴力であることに変わりはない。
如何に高貴な血筋を誇ろうとも、剣を振るう兵士がいなければ王国を守ることはできず、どれほど神聖な権威を主張しようとも、腹を空かせた民衆の怒りを鎮めることはできないのだから。
それでも人々は、王に特別な何かを求め続けた。
その最も有名な例の一つが、アーサー王伝説である。
ブリテンの伝説的な君主、アーサー・ペンドラゴン。
円卓の騎士を従え、魔術師マーリンの助言を受け、理想の王国キャメロットを築いたとされる英雄。その生涯は数多の文学作品によって語り継がれ、千年以上の時を経た現代においても、彼の名を知らぬ者は少ない。
ちなみに“彼”である。断じて某運命なゲームのような永遠の美少女ではない。
それはともかく、そんなアーサー王の伝説には、決して欠かすことのできない一振りの剣が存在する。
その名は、エクスカリバー。
持ち主に勝利をもたらすとされる、伝説の聖剣である。
ちなみにビームを放つというような伝承は存在しない。
伝説というものは厄介だ。長い年月をかけて幾人もの語り手によって書き加えられてきた物語に、ただ一つの正解など存在しない。
例えば、エクスカリバーと聞いて、多くの人々が真っ先に思い浮かべるのは、石に突き刺さった剣を若きアーサーが引き抜く場面だろう。
先王ユーサー・ペンドラゴンの死によって王位が空白となったブリテンにおいて、誰にも抜くことのできない剣が石の中に現れる。
そこには、その剣を引き抜いた者こそが正統なる王であると記されていた。
名だたる騎士や諸侯が挑戦するも、剣は微動だにしない。ところが、まだ何者でもなかった少年アーサーが柄を握ると、剣はいとも容易く石から抜けたという。
これこそが、後に偉大なる王となる人物の正統性を示した奇跡であった。
しかし、別の伝承では事情が少々異なる。
十五世紀にトマス・マロリーがまとめた『アーサー王の死』などでは、石から抜かれた剣と、後に湖の乙女から授けられるエクスカリバーは、別の剣として描かれている。
湖面から伸びた白い腕が剣を掲げ、マーリンに導かれたアーサーがそれを受け取る。そして王が最期を迎えるとき、剣は騎士ベディヴィアの手によって湖へ投げ返され、水中から現れた腕に再び受け取られるのである。
石の中から現れた剣と、湖から授けられた剣。
はたして両者は同じものだったのか。それとも、後世の人々が異なる伝承を一つに結び付けてしまったのか。
その答えは、誰にも分からない。
少なくとも、歴史学者たちの間では。
「――というわけで、皆さんがよくご存じのエクスカリバーにも、実はいくつか異なる伝承があるんです」
流暢な英語でそう締めくくった案内係の青年は、集まった観光客に向かってにこやかに微笑んだ。
「そして、ここからが当館最大の見どころになります!」
青年が両手を広げる。
その先には、一振りの剣があった。
灰色の石で作られた台座に、斜めに突き刺さった古びた長剣。
刀身の大半が石の中に埋まっているため、その全長を窺い知ることはできない。外に露出した部分は黒ずみ、柄には何らかの装飾が施されていたらしいものの、摩耗が激しく、元の意匠を正確に読み取ることは難しかった。
剣を飾る宝石もなければ、神々しい光を放っているわけでもない。
正直に言ってしまえば、街角の土産物屋で販売されている模造品の方が、よほど伝説の聖剣らしい見た目をしているだろう。
だが、そんな剣の前には、今日も大勢の観光客が列を作っていた。
西暦二〇二六年、十月。
英国、ロンドン。
王立境界管理局が運営する公開展示施設は、秋の観光シーズンを迎え、朝から多くの来館者で賑わっていた。
もっとも、展示館そのものが特別に大きいわけではない。建物は十九世紀に建てられた石造りの施設を改修したもので、内部には英国における異常現象対策の歴史を紹介する資料や、かつて各地で使用されていた管理器具の複製品などが並んでいる。
そのほとんどは、一般的な歴史博物館と大差ない展示物だった。
例外は、最奥にある一振りの剣。
エクスカリバーである。
「さて、ここまでの説明を聞いて、皆さんの中には一つ疑問が浮かんだ方もいるのではないでしょうか。伝説上の存在であるはずのエクスカリバーが、どうして現代に残っているのか、と」
青年の言葉に、前列にいた少女が元気よく手を挙げた。
「はい! お兄さん!」
「おや、どうぞ」
「本当にアーサー王が使った剣なの?」
「いい質問ですね!」
案内係は嬉しそうに頷いた。
「実は、その点については現在も分かっていません。そもそも、アーサー王という人物が伝説に語られる通りに存在したのかどうかも、歴史学上では意見が分かれていますからね」
「じゃあ、偽物なの?」
「そうとも限りません。少なくとも、この剣が普通の剣ではないことだけは、科学的に証明されています」
青年は一度言葉を切り、背後の展示品へ視線を向けた。
「何故なら、この剣は現在確認されている限り、如何なる方法を用いても台座から引き抜くことができないからです」
観光客の間に、小さなどよめきが広がった。
とはいえ、そこまで驚くべき話でもない。
この世界では、時折、通常の物理法則では説明できない現象が発生する。
例えば、一定の距離を歩いても目的地に到達できない道路。内部の容積が外形と一致しない建造物。外部からの熱供給がないにもかかわらず、何十年も同じ温度を維持し続ける物体。
こうした事例は世界各地で報告されており、その一部は各国の公的機関によって管理されていた。
当然ながら、一般人がその全貌を知っているわけではない。
テレビで報道されるのは、せいぜい原因不明の局所災害や、立入禁止区域の拡大といった情報が中心だ。危険な現象の詳しい性質や、それに伴う被害については、安全保障上の理由などから公開されない場合も多かった。
だが、そうした異常が実在するという事実そのものは、現代社会において決して荒唐無稽な話ではなかったのである。
そして、その中でもエクスカリバーは極めて特異な存在だった。
「この剣は、王立境界管理局が正式に異常性を認定している管理品です。現在知られている異常物品の中で、一般の方が直接手を触れることを認められているものは、ほとんどありません」
案内係はそう説明すると、台座の手前に設けられた低い柵を指し示した。
「ですが、エクスカリバーに限っては例外です。これまで長い年月にわたって、大勢の方が剣を引き抜こうと挑戦してきました。しかし、剣が動いたという記録は一度もなく、接触そのものによって負傷した事例も確認されていません」
その言葉に、観光客の表情が明るくなった。
「つまり、皆さんにも挑戦していただけます!」
案内係がそう宣言した瞬間、周囲から歓声が上がった。
もっとも、これも展示館では毎日繰り返されている光景である。
観光客が順番に柄を握り、力いっぱい引っ張る。隣では家族や友人が写真を撮り、周囲からは冗談交じりの声援が飛ぶ。
それでも剣は動かない。
肩を落とした挑戦者が笑いながら退き、次の人物が同じことを繰り返す。
そんな何の変哲もない日常が、この展示館では何十年も続いていた。
今日も、そうなるはずだった。
「ほら、パパ! 早く!」
「分かった、分かったから引っ張るなって!」
列の中ほどで、少女に腕を引かれていた男性が苦笑する。
ダニエル・モリス、三十二歳。
ノッティンガムに住む、ごく普通の会社員である。
彼がロンドンを訪れた理由は、娘のエミリーがどうしても博物館へ行きたいと言い出したからだった。
実際、エミリーが本当に興味を持っていたのは歴史などではない。先月、テレビで放送されたアーサー王を題材にした映画を見てからというもの、彼女はすっかり騎士や魔法使いの物語に夢中になっていたのである。
そして、そんな娘からの熱烈な要望に根負けした結果、ダニエルは貴重な休日を使ってロンドンまでやって来ることになった。
「ねえ、パパが抜けたらどうなるの?」
「さあな。王様になれるんじゃないか?」
「えー! じゃあ私、お姫様!?」
「そういうことになるな」
無邪気にはしゃぐ娘に笑いかけながら、ダニエルは前方の台座を眺めた。
どう見ても古びた剣である。
これが本物のエクスカリバーなのかどうかは分からないが、少なくとも何十年もの間、誰にも動かせなかったという話は本当らしい。
展示室の壁には過去の実験映像が流れており、そこには特殊な機材を用いた引き抜き試験の様子が紹介されていた。
無論、肝心な部分は公開されていないようだったが、それでも人間の腕力程度ではどうにもならないことは十分に理解できる。
ダニエルは欠伸を一つ噛み殺した。
別に、本気で剣を抜けると思っているわけではない。
ただ、娘が喜ぶならばそれでよかった。
「次の方、どうぞ!」
案内係の声が響く。
「ほら、エミリー。スマホを持っててくれ。パパが剣を抜いてるところ、ちゃんと撮るんだぞ?」
「うん!」
娘にスマートフォンを手渡し、ダニエルは柵の内側へ足を踏み入れた。
近くで見ると、剣は思っていた以上に古めかしい。
柄に巻かれていた革のようなものは大部分が失われており、金属部分には長年の接触によって磨かれたような光沢が浮かんでいる。
台座の表面にも細かな傷が刻まれていたが、それらは観光客によって付けられたものではなく、元々存在していたものらしい。
それにしても、不思議な剣だった。
見た目だけなら簡単に折れてしまいそうなのに、これまで誰にも動かせなかったというのだから。
「パパー! こっち向いて!」
「おう!」
娘に向かって笑顔を作り、ダニエルは剣の柄へ手を伸ばす。
冷たい。
金属特有のひんやりとした感触が、掌に伝わってくる。
彼は柄を握り直すと、娘のカメラに向かって大げさに胸を張った。
「見てろよ、エミリー! パパが英国王になるところを!」
「頑張れー!」
周囲から笑い声が上がる。
ダニエルも笑った。
そして、ほんの少しだけ力を込めて――。
カチリ。
小さな音がした。
「……ん?」
ダニエルは首を傾げた。
何かが、動いたような気がした。
剣そのものが動いたのか、握っていた手が滑ったのか。
ほんの一瞬の出来事だったため、正確には分からない。
だが、先ほどまで感じていた抵抗が、僅かに緩んだような気がする。
「……あれ?」
もう一度、柄を引いてみる。
今度は動かなかった。
まるで最初からそうだったかのように、剣は石の中に固定されている。
周囲の観光客も、特に気付いた様子はない。
娘のエミリーなど、スマートフォンを構えたまま楽しそうに笑っていた。
「パパ、全然抜けてないよ!」
「いや、ちょっと待て。今、何か動いた気が……」
そう言いかけたところで、背後から声がした。
「お客様」
振り返る。
そこには、先ほどまで笑顔で案内をしていた青年が立っていた。
ただし、その顔からはすっかり笑みが消えている。
「……申し訳ありませんが、そのまま手を離していただけますか?」
「え?」
「剣から、手を離してください」
妙に硬い声音だった。
ダニエルは反射的に柄から手を離した。
青年はそれを確認すると、耳元に取り付けられた小型の通信機へ手を伸ばす。
「展示管理室、応答願います。第一区画で……」
そこで一度、言葉が途切れた。
青年は剣を見つめ、何かを確かめるように唇を動かした。
「……対象に変位が生じた可能性があります」
その瞬間だった。
展示室の奥で、小さな電子音が鳴り始めた。
それは一般の観光客に向けられた警報ではなかった。
壁際の職員用端末に表示された赤い警告。
そして、案内係の耳元へ届いた、通信相手の切迫した声。
『繰り返してください。何を確認したんですか?』
「……剣が、動きました」
『…………』
「対象E-01、エクスカリバーです。現在、目視で確認できる範囲では――」
『触るな!!』
通信機から漏れた怒声に、青年の肩が跳ねた。
『誰にも触らせるな! 直ちに展示を中止しろ! 全職員に第一種保全手順の実施を命じる!』
青年の顔色が、見る間に青ざめていった。
ダニエルは呆然とその様子を眺めていた。
周囲からも、何事かと訝しむ声が上がり始める。
「あの……?」
恐る恐る声をかける。
「何か、まずかったんでしょうか?」
青年は答えなかった。
代わりに、展示室の入口から複数の警備員が駆け込んでくる。
そのうちの一人が青年に何かを告げると、彼は小さく頷き、観光客へ向き直った。
「皆様、大変申し訳ありません。設備に不具合が発生したため、展示を一時中止させていただきます。係員の誘導に従い、速やかにご移動ください!」
「えー!? まだ僕、引いてないんだけど!」
「何かあったの?」
「今の人、抜けたのか?」
困惑した観光客たちの間に、ざわめきが広がる。
その中で、エミリーだけが嬉しそうに父親のもとへ駆け寄ってきた。
「パパ! すごい! ほんとに動いたよ!」
「……え?」
「ほら、見て!」
差し出されたスマートフォン。
画面には、つい先ほど撮影したばかりの動画が映っていた。
剣を握り、笑顔で力を込めるダニエル。
そして――。
ほんの僅かに、剣が石から浮き上がった。
たった、それだけ。
しかし、その瞬間に周囲の光景が微かに揺れたようにも見えた。
ダニエルは眉を寄せ、もう一度動画を再生した。
やはり動いている。
間違いない。
剣が、石から数ミリほど抜けたのである。
「……マジかよ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
エミリーは満面の笑みを浮かべていた。
「ねえ、パパ! これってパパが王様になったってこと!?」
「いや、そんなわけ……」
「お客様!」
突然、背後から呼び止められる。
振り返ると、先ほどの案内係とは別の女性が立っていた。
四十代半ばほどだろうか。
黒いスーツを着用し、胸元には王立境界管理局の職員証が下げられている。
彼女はダニエルとエミリーを交互に見つめると、努めて穏やかな口調で告げた。
「私は当館の展示管理責任者、ヘレン・ウォードと申します。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「……あの、何が起きたんですか?」
「現在、確認中です」
「でも、剣が動いたんですよね?」
そう尋ねた瞬間、ヘレンの表情が僅かに強張った。
彼女は一度、台座へ視線を向ける。
そこには、先ほどまでと何ら変わらないように見える、一振りの古びた剣があった。
だが、その剣を監視するために設置された測定装置には、これまで一度も表示されたことのない数値が記録されていた。
変位量、二・八ミリメートル。
測定誤差ではない。
複数の独立した計測系統が、ほぼ同じ値を示している。
それでも、ヘレンはすぐに答えることができなかった。
何故なら、彼女は知っていたからだ。
この剣が動くということが、決して一振りの剣だけの問題では済まないかもしれないということを。
◇
王立境界管理局は、英国政府の下で異常現象の調査、封鎖、保全を担当する国家機関である。
その歴史は古く、中世の王権や宗教施設が保持していた管理網を前身としている。
もっとも、現代における役割は、伝説に登場する魔術師のようなものではない。
異常現象を観測し、必要に応じて危険区域を封鎖し、回収された物品を適切な環境で保管する。場合によっては軍や警察と連携し、人命救助や異常域の制圧にも従事する。
要するに、通常の災害対策機関と大差ない。
ただし、彼らが相手にしている災害は、時として人類の理解を大きく超える性質を持っていた。
それゆえに、管理局には一つの基本原則が存在する。
理解できないものを、理解したつもりになって扱ってはならない。
その原則を、ヘレン・ウォードは入局以来、何度となく叩き込まれてきた。
「……もう一度、確認を」
展示館地下の管理室。
普段は監視員が数名詰めているだけの部屋に、現在は十数名の職員が集まっていた。
壁一面に並ぶ監視画面には、展示室の映像や各種計測機器の数値が表示されている。
その中央で、ヘレンは腕を組んだまま、椅子に座る技術職員を見下ろしていた。
「本当に動いたの?」
「はい。映像記録、光学測距、台座の位置監視、いずれも変位を確認しています」
「装置の故障は?」
「独立した系統で同時に発生しています。全機器の故障を仮定するより、対象そのものが動いたと考える方が合理的です」
技術職員は一度言葉を切ると、キーボードを操作した。
画面に、ダニエルが剣を引き抜こうとする瞬間の映像が映し出される。
再生速度が落とされ、問題の瞬間が拡大された。
ダニエルの手に引かれ、剣が上方へ移動する。
僅か二・八ミリ。
そして、停止。
誰の目にも明らかな変化だった。
「……あり得ない」
ヘレンの口から、思わず呟きが漏れた。
その言葉を聞いた技術職員が、小さく息を吐く。
「我々が扱っているものは、そもそもあり得ないものばかりですがね」
「冗談を言っている場合じゃないでしょう!」
「申し訳ありません」
ヘレンは額に手を当てた。
王立境界管理局において、エクスカリバーは極めて有名な管理品だった。
その理由は、何も伝説の聖剣と呼ばれているからではない。
長期間にわたる安定性。
接触による危険性の低さ。
そして、現代科学の技術をもってしても、その固定状態を再現することも解除することもできないという特異性。
これらの性質が、エクスカリバーを他の異常物品とは一線を画す存在にしていたのである。
剣に使用されている物質は、通常の金属材料だけでは説明できない構造を持っていた。
刀身の一部からは、既知の物理モデルでは十分に説明できない測定結果が得られている。外見上は摩耗した古代の武器でありながら、少なくとも確実な観測記録が残る時代以降、その形状や重量に有意な変化は確認されていない。
何より不可解なのは、剣の固定方法だった。
エクスカリバーは台座に刺さっている。
しかし、台座そのものが剣を固定しているわけではなかった。
過去の調査では、台座とは独立した複数の観測点に対しても、剣が通常の力学では説明できない位置関係を維持していたことが確認されている。
当初、研究者たちは未知の力によって剣が固定されているものと考えた。
ところが、調査が進むにつれ、その仮説にも問題が生じた。
固定された物体へ力を加えた場合、本来ならば、その力は何らかの形で周囲へ伝達されるはずである。
しかし、エクスカリバーでは、そうした力の伝達を通常のモデルで説明することができなかった。
剣は動かない。
ただ、それだけの現象が、何百年にもわたって研究者たちを悩ませ続けていたのだ。
そして、今日。
その剣が、動いた。
「……現時点で、何か二次的な異常は?」
「確認されていません。ただし、展示室周辺の複数の独立時計に、ごく小さな同期誤差が発生しています」
「原因は?」
「分かりません。対象の変位と関係しているかどうかも不明です」
「外部への影響は?」
「現在、周辺区域で追加の観測を実施しています。少なくとも建物外部で異常域が成立したという報告はありません」
ヘレンは黙って頷いた。
安心できる材料ではない。
単に、まだ分からないというだけのことだ。
「本局には?」
「既に報告済みです。内閣府の担当部署にも第一報が送られています」
「それと……」
別の職員が、気まずそうに口を開いた。
「先ほどの映像ですが、既にインターネット上へ投稿されています」
「…………は?」
「観光客が撮影した動画が複数確認されています。そのうち一件が、かなりの速度で拡散しているようです」
ヘレンは思わず天井を仰いだ。
「……最悪ね」
もっとも、これは予想できた事態でもあった。
現代社会において、大勢の観光客が集まる場所で発生した異常現象を、完全に隠蔽することなど不可能に近い。
ましてや、相手はエクスカリバーである。
伝説の聖剣が動いた。
そんな話題が、世間の関心を集めないはずがない。
「動画の削除を要請しますか?」
「無理よ。既に複製されているでしょうし、下手に隠そうとすれば余計に騒ぎになるわ」
ヘレンは大きく息を吐いた。
「広報部門に連絡して。映像の真正性は確認中、現時点で周辺住民に危険は確認されていない。発表できるのはそこまで。それと、絶対に王位継承の話なんて持ち出さないで」
「……分かりました」
職員が慌ただしく部屋を出ていく。
ヘレンは再び、監視画面へ視線を戻した。
映し出されているのは、誰もいなくなった展示室。
石の台座。
そして、古びた長剣。
その光景だけなら、これまでと何も変わっていない。
だが、彼女は知っている。
エクスカリバーが本当に恐ろしいのは、誰にも抜けないからではない。
何故、抜けないのか。
その理由が、未だに分かっていないからだ。
「……ヘレン管理官」
背後から声がした。
振り返ると、年配の男性職員が一冊の資料を抱えて立っていた。
管理局本部から派遣されてきた文献調査官、アーサー・グレイである。
皮肉なことに、伝説の王と同じ名を持つこの老人は、管理局でも数少ない中世の管理記録を専門とする研究者だった。
「本局から、古記録の照合作業を優先するよう指示がありました」
「何か見つかったの?」
「いえ、むしろ……確認していただきたいことが」
老人は資料を机の上へ置いた。
そこに挟まれていたのは、古い写本の複製だった。
羊皮紙に記された文字は、ヘレンにはほとんど読み取れない。
「これは?」
「現在の管理局が成立する以前、この剣を管理していた組織に関する記録です。十七世紀の写本ですが、内容の一部はさらに古い時代の資料に由来していると考えられています」
アーサーは眼鏡を直し、該当する一文を指差した。
「興味深いことに、当時の管理者たちは、この剣を武器として扱っていませんでした」
「……どういうこと?」
「文字通りです。彼らの記録には、刃の鋭さや切断能力についての記述がほとんどありません。その代わり、繰り返し登場するのが、位置や境界に関する記述なのです」
老人は別の資料を開く。
そこには、現代英語へ翻訳された文章が記されていた。
『剣は、その場に留まるために据えられたものにあらず。剣が留まることによって、他のものもまた、その場に留まる』
ヘレンは眉を寄せた。
「……何よ、これ」
「私にも分かりません。宗教的な比喩の可能性もあります。ただ、過去に行われた位置関係の実験と合わせて考えると、単なる迷信として片付けることはできないでしょう」
アーサーは静かに言葉を続けた。
「管理局が長年研究してきたのは、どうすればこの剣を抜くことができるか、という問題です」
「ええ」
「ですが、かつての管理者たちは、別のことを心配していたのかもしれません」
そこで老人は一度、口を閉ざした。
管理室の中には、機器の動作音だけが響いている。
「……つまり?」
「この剣が、何を固定しているのか」
ヘレンの背筋を、冷たいものが這い上がった。
それは、彼女が今まで考えようとしなかった可能性だった。
エクスカリバーは、抜けない剣である。
だが、もしもそれが、何者かによって抜けないようにされた剣ではなかったとしたら。
剣そのものが、何らかの役割を果たすために、その場所へ固定されていたのだとしたら。
そして、その固定が、今まさに緩み始めているのだとしたら。
「……確認する必要があるわね」
「ええ」
アーサーは頷いた。
「ただし、今のところは仮説です。古い文章は解釈を誤ることがありますし、実際に剣が何かを固定しているという証拠もありません」
「分かっているわ」
ヘレンは空いている椅子に腰を下ろすと、その背もたれに身体を預けた。
そのとき、机の上に置かれた電話が鳴った。
表示された発信元を見て、彼女の顔が強張る。
王立境界管理局、本局長室。
ヘレンは受話器を取った。
「ウォードです」
『状況を説明してくれ』
受話器の向こうから、低い男性の声が聞こえた。
「現在、対象E-01の変位を確認しています。変位量は二・八ミリメートル。二次的な異常については調査中です」
『引き抜いた人物は?』
「現在、館内の保護区域で事情を伺っています。健康状態に異常は認められていません」
『いいか、ウォード』
男性の声が、一段低くなった。
『これは非常に重大な事態だ』
「承知しています」
『いや、君はまだ理解していない』
受話器の向こうで、何かを置くような音がした。
『首相官邸から連絡があった。既に内閣府の危機対処部門が動いている。国防省にも情報が共有され、王室の担当部署からも問い合わせが相次いでいるそうだ』
「……そんなに早く?」
『早いも何もあるか! エクスカリバーが動いたんだぞ!』
怒声が響く。
『我々は何百年もの間、この剣が何であるかすら理解できていない! それが突然動いたとなれば、何が起こるか誰にも予想できん!』
ヘレンは唇を噛んだ。
『現在、国内の関連管理施設に追加観測を指示している。外国の協力機関へ照会する準備も進めているが、正式な通報にはまだ踏み切っていない』
「他の管理品にも影響がある可能性を考慮しているんですね」
『そうだ。無論、何も起きない可能性の方が高い。だが、もし何かが起きた場合、最初に気付けなかったという言い訳は通用しない』
声が僅かに落ち着いた。
『それと、剣を動かした人物についてだが……』
「はい」
『絶対に帰すな』
ヘレンは黙り込んだ。
『少なくとも、現段階では国外への移動は認められない。本人の安全確保も含めて、必要な措置を講じろ』
「……法的な根拠は?」
『本局の法務担当が整理している。だが、違法な拘束をしろと言っているわけではないぞ。本人の協力を得て、必要な調査を実施するんだ』
「協力が得られなかった場合は?」
短い沈黙があった。
『……そのときは、改めて相談する』
通話が切れる。
ヘレンは受話器を置くと、両手で顔を覆った。
思わず、深い溜息が漏れる。
「……勘弁してよ」
相手は、ただの観光客である。
剣を抜いたところで金貨が貰えるわけでもなく、ましてや王位継承権が発生するわけでもない。
それなのに、ほんの数ミリ剣を動かしてしまったというだけで、国家の安全保障に関わる重大事案の当事者にされてしまったのだ。
しかも、本人には何の落ち度もない。
展示館が、剣に触れることを許可していたのだから。
「……あの人、どうなるんですかね」
傍らにいた若い職員が、小さく尋ねた。
ヘレンは答えなかった。
答えられなかった。
これまで王立境界管理局は、数え切れないほどの異常現象に対応してきた。
中には、数百人の住民を避難させた事例もあれば、都市の一区画が長期間にわたって封鎖された事例も存在する。
それらの災害では、避難した住民が帰還できるまでに何年もかかることがあった。
そして、帰還が許されなかった土地もある。
異常現象とは、そういうものなのだ。
たった一度、通常の物理法則から外れた現象が発生したというだけで、それまで当たり前だった日常が、二度と取り戻せなくなることがある。
そのことを、彼女は誰よりもよく知っていた。
◇
「……それで、僕はいつ帰れるんでしょうか?」
ダニエル・モリスは、目の前に座る職員へ尋ねた。
案内された部屋は、想像していたような取調室ではなかった。
柔らかな照明に、落ち着いた色合いの壁紙。中央には木製のテーブルが置かれ、その上には紅茶と菓子が用意されている。
窓の外には小さな中庭が見え、植え込みの間を一羽の小鳥が飛び回っていた。
随分と待遇の良い場所である。
ただし、部屋の出入口には警備員が立っており、ダニエルが外へ出ようとすると、必ず行き先を尋ねられる。
その事実が、この部屋の本当の役割を雄弁に物語っていた。
「現在、管理局の専門職員が状況を確認しています。もう少しだけご協力いただけませんか?」
「いや、協力するのは別に構わないんですけど……」
ダニエルは隣の椅子へ視線を向けた。
娘のエミリーは、職員から渡された塗り絵に夢中になっている。
描かれているのは、どうやら円卓の騎士らしい。
彼女は色鉛筆を握り、騎士の鎧を派手なピンク色に塗りたくっていた。
「娘もいますし、あんまり遅くなると困るんですよ。明日は学校もありますから」
「……申し訳ありません」
職員は小さく頭を下げた。
「でも、もう一度確認させてください。本当に、特別なことは何もしていないんですね?」
「何回目ですか、その質問……」
「申し訳ありません」
「普通に引っ張っただけですよ。皆さんと同じように。それに、別に思いっきり引っ張ったわけでもないんです」
ダニエルは右手を見つめた。
何度確認しても、そこには何の変化もない。
掌に傷ができているわけでもなければ、妙な模様が浮かび上がっているわけでもなかった。
ただ、剣を握ったときの冷たい感触だけが、妙にはっきりと記憶に残っている。
「……僕、何か悪いことをしたんでしょうか?」
職員は即座に首を横へ振った。
「いいえ。モリスさんに責任があるとは考えていません」
「じゃあ、何で帰れないんです?」
「それは……」
言葉が途切れる。
ダニエルは苦笑した。
「……分からないんですね」
職員は何も答えなかった。
それを見て、ダニエルは天井を仰ぐ。
まったく、ひどい休日になってしまった。
娘を連れて博物館へ行き、写真を撮って、昼食に少し贅沢なものでも食べて帰る。
その程度の予定だったはずなのに。
「……パパ?」
隣から声がする。
エミリーが色鉛筆を置き、父親を見上げていた。
「どうした?」
「パパ、王様になったの?」
ダニエルは思わず吹き出した。
「いや、なってないよ」
「えー! でも、剣が動いたじゃん!」
「あれは、たまたまだよ。きっと何かの間違いだったんだ」
「でもでも、テレビで見たよ? 剣を抜いた人が王様になるんでしょ?」
娘は不満そうに頬を膨らませた。
ダニエルは困ったように笑い、彼女の頭を撫でる。
「そうだな。でも、王様になるのは大変なんだぞ?」
「そうなの?」
「ああ。毎日お仕事しなきゃいけないし、休みだって少ないだろうし。それに、パパは今の仕事だけで十分忙しいからな」
「じゃあ、王様にならなくていい!」
「そうだな」
二人は笑い合った。
その様子を、向かいに座る職員が黙って見つめていた。
やがて彼女は静かに立ち上がり、部屋の隅へ移動すると、携帯端末で何かを確認し始めた。
ダニエルには、その画面を見ることができなかった。
だが、もしも見ることができたならば、そこに表示された文章を理解することができただろうか。
王立境界管理局、本局から送信された緊急通達。
対象E-01の異常変位に伴う、接触者の一時保護及び健康監視に関する指示。
その末尾には、小さな文字でこう記されていた。
『対象の状態が安定したと判断されるまで、接触者に対する移動制限の解除は推奨しない』
安定したと判断されるまで。
つまり、いつまでなのかは分からない。
そして、その判断を下すための基準も、まだ存在していなかった。
部屋の外では、既に管理局の職員たちが慌ただしく行き交っていた。
施設の閉鎖。
観測記録の複製。
周辺区域の追加調査。
国内の管理拠点への通達。
王室関係者への説明準備。
首相官邸への報告。
さらには、伝説上の聖剣が動いたことによって巻き起こるであろう、世論や報道への対応。
英国政府は、たった二・八ミリメートルの変化によって、未曾有の混乱へと突き落とされつつあった。
もっとも、ロンドンの街並みには何の変化もない。
赤い二階建てバスは普段通りに走り、地下鉄は人々を運び、街角のカフェでは観光客が紅茶を楽しんでいる。
街の人々は、いつも通りの一日を過ごしていた。
中には、インターネットに投稿された奇妙な動画を見た者もいただろう。
だが、彼らのほとんどは知らなかった。
何百年もの間、動くはずのなかった剣が動いたという、その事実が何を意味するのかを。
そして、その変化が何を意味するのか、人類は未だに理解していなかった。
その日の夕方。
展示室の安全確認を終えた技術職員から、管理局本部へ新たな報告が送られた。
対象E-01、エクスカリバー。
変位後の状態に変化なし。
追加の移動を確認せず。
外部への直接的な影響については、現時点で不明。
報告を受けた本局の担当者は、深夜まで続くことになる会議の中で、ある質問を口にしたという。
「……ところで、我々は剣が動いたと報告しているが、そもそも何を基準にして、その剣が動いたと判断しているんだ?」
会議室に沈黙が落ちた。
台座に対して、剣は二・八ミリメートル動いた。
その事実に疑いはない。
だが、エクスカリバーが保持しているのは、必ずしも台座との位置関係だけではなかった。
ならば、その二・八ミリメートルは、他の何に対して生じた変化なのだろうか。
あるいは。
剣が移動したことによって、それまで固定されていた何かが、同時に動いてしまったのだろうか。
回答できる者は、誰一人として存在しなかった。
かつて、人々はその剣を引き抜く者こそが、正統なる王であると信じた。
それから幾世紀もの時が流れ、人類は神秘を科学へと置き換え、王権を法律によって定め、宇宙へ人工衛星を送り出すまでに発展した。
もはや、石に刺さった一本の剣が、国家の命運を左右する時代ではない。
誰もが、そう信じていた。
だが、その日の夜。
英国政府の機密会議では、一つの決定が下された。
エクスカリバーに対する一切の接触試験を、無期限で凍結する。
再開の条件は、未定。
そして、翌朝。
ロンドンの公開展示館には、臨時休館を知らせる張り紙が掲げられていた。
その傍らには、昨日まで使用されていた案内板が、取り外されないまま残されていた。
『あなたも、伝説の王に挑戦してみませんか?』
誰かが、その案内板を撤去することを提案した。
しかし、責任者の許可が下りるまで、案内板はそのままにしておくよう命じられたという。
理由は、単純だった。
エクスカリバーが何を固定しているのか、未だに誰も理解していなかったからである。
その剣が動いた以上、周囲にある何が、どのような影響を受けているのかも分からない。
そして、何が起こるか分からない以上、たとえ一枚の案内板であっても、不用意に動かす許可など下ろせるはずがなかった。
そして、その日以降。
エクスカリバーは、再び一ミリたりとも動くことはなかった。
少なくとも、観測できる範囲においては。