虎杖成り代わり、縄文時代に立つ【幸せ酒寄一家ルート】   作:夕暮れの家

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12話

 

 

「ヤ────チ────ヨ──────!!」

 

「こ、こらぁっ!」

 

 突然胸いっぱいに息を吸い込んで、ライブ会場に集まった観客、演者すべての視線を此方に集めてしまうほどの大声でヤチヨカップに優勝するなどとのたまい出したかぐやの口を慌てて塞ぐ。出来るだけ素早く反応したけど、それでも時既に遅し。大胆な宣言は会場の皆に、それもヤチヨにまで聞かれてしまっていた。

 

「勝手なことしないって約束したでしょ……」

 

 慌てて口を塞いだ私の腕の中でもがもがと暴れるかぐやの姿を見ながら、そもそもライバーでも無いでしょうに、と深い溜息をついた。

 

 ✿

 

「い〜ろ〜は〜っ」

 

 それなりの会話のざわめきは四方から聞こえてくるものの、静かと言って良いカフェの中に場違いな元気な大声が響く。しかもその声が呼んでいるのが自分の名前だったから、無視するわけにもいかなくて。振り向いてみれば、腰よりも下まで艶やかな髪の毛をおろした少女が、彼女よりも顔二つ分ほど大きい男性と手を繋いで引っ張りながら此方に手を振っていた。

 

「いろはっ、悠仁つれてきたよっ」

 

 ずい、とかぐやに押された悠仁くんが一歩前に出される。彼にとっても予想外の展開なのか、珍しく困惑したような顔を隠しもせずかぐやに向けている。当然それはこちらも同じ事で。私も、芦花も。真実は特に意味がわからないという表情でパンケーキを食べることも忘れて口をぽかんと開けていた。

 

「はい、仲直りしてっ」

 

「えぇ……?」

 

 喧嘩なんてしてないんだけどな。そうこまったように声を漏らして、悠仁くんと顔を見合わせる。なにがあったん? と目だけで聞くも、あちらもよく分かっていないことはその顔を見ればよく分かった。

 

「かぐや、どういうこと?」

 

「だってっ」

 

 悠仁くんの手を掴んでいたかぐやがその手をぱっと離してこちらに走ってくる。そして今度は私の手を掴んで引っ張った。

 

「ちょ、ちょっと」

 

「悠仁が、彩葉がすぐに自分よりも私の事を好きになるって……」

 

 ずきり、と胸の奥に押し込めていたモヤが突然棘の形をとる。何でも無いことのように不思議そうな顔をして首を傾げる悠仁くんをちらりと見て、そのまま目を伏せた。本人にとっては、その表情の通り何気なく出た言葉だったのだろう。でも、私にとっては。

 

「かぐや、だから……」

 

「悠仁も彩葉も、仲良しでしょっ。そんな簡単に自分よりもなんて言わないでよっ!」

 

 ほら、とかぐやに引っ張られて座っていた席から立って一歩前に出る。いつもなら正面から見ることが出来るはずの悠仁くんの顔がなんだかちゃんと見ることが出来なくて、目を伏せたまま顔を上げられずにいた。

 

 かぐやは感情のままに突っ走って来ただけなのだろう。悪気は無いのは分かっている。別に喧嘩しているわけではないし、悠仁くんがなにか変わったわけではない。いつもの、私の知ってる悠仁くんのままだ。だから、これは私の問題で。

 

「……悠仁くんは」

 

 途中まで言いかけて、口ごもる。そんな私の姿が珍しかったのか、隣のかぐやが首を傾げる様子が視界の端に映った。あなたみたいに、あるいは昔の私みたいに。思ったことを直ぐに、無邪気に口に出すことが出来たならどれだけ簡単だろうか。

 

 もしかしたら言えるかも、なんて根拠のない希望を抱いて開いてみた口からは何の音もでてこなくて。また私は、踏み出せないまま。

 

 たった一年で随分臆病になっちゃったなと胸のうちで一人、笑った。

 

「ごめん、芦花、真実。わたし、この子を連れて帰らないと」

 

 埋め合わせはするから、と頭を下げて。かぐやと悠仁くんの腕を取って早足で歩き出した。

 

「彩葉、いろは」

 

 不意に腕を引かれる。は、と気づくともう既に店の外で。うだるような暑さが私の肌を焼いている。立ち止まった私の額から、思い出したかのように雫が一つ、ぽとりと落ちた。

 

「……怒ってる?」

 

 不安そうに、確かめるようにおずおずとかぐやが私の顔を覗き込んでくる。怒っているわけではない。もし仮に怒っているとしてもかぐやに対してではないから。

 

「かぐや」

 

 手を伸ばす。ピトリとかぐやの額に手を当てた。ぺたぺたと確かめるように顔を触った後、安堵したように大きく息を吐いて見せた。

 

「悠仁くんが一緒だったから大丈夫だとは思うけど、熱中症になってない?」

 

 ねっちゅうしょう? と分かってないような声を出して目を白黒させているかぐやの代わりにいつのまにか此方に日傘を傾けてくれていた悠仁くんに目を向けると、手に持ったバッグからは冷やされたスポドリなどがぽんぽんと出てくる。流石。

 

「夏の暑さは怖いからしっかり気をつけること。それと──ー」

 

 かぐやを引っ張って悠仁くんに一歩近づく。私たちの方に傾いて全く彼の役にたっていなかった日傘を、本来あるべき場所に戻るようにとぐい、と押した。

 

「私と悠仁くんは喧嘩なんてしてないから」

 

 ほら、仲良しと、悠仁くんの手を取って見せる。小さい影の中、二人の間に挟まれるように押し込まれたかぐやが目をぱちぱちさせながら私と悠仁くんのことを交互に見上げる。

 

「ほんとぅ?」

 

 もう言わない? と服の裾を引っ張るかぐやに、悠仁くんが悪かった、と謝って。そうしてやっと、かぐやの顔がじわじわと輝きを取り戻し始めた。

 

「そっかっ! えへへぇ」

 

 みんな仲良しね、と狭い影の中に更に押し込むように両手で私たちを抱え込んで、かぐやが笑う。暑いよ、と私は呆れたように笑って、悠仁くんは何も言わずに腰に引っ付いたかぐやが転ばないように、と片手で支えてあげていた。

 

「影の中の方が涼しいんです〜っ!」

 

「限度ってもんがあるでしょ……」

 

 先ほどかぐやに見せるために握った悠仁くんの手をゆっくりと放す。そのまま、私たち2人に少し屈むようにして両手を腰に巻き付けて着ているかぐやの頭に手を置いた。

 

「ほら、離れな? 歩きにくいでしょ」

 

「歩きにくくてもこれがいい〜」

 

 流石に三人すし詰めの状態では周りからの視線も集めるし、何より歩きづらい。日傘があるとしても炎天下の中で長時間この状態では先程注意した私が熱中症になりかねない。

 

 困り果てて悠仁くんの方を見ると、何を思いついたのか薄く笑って。日傘を私に渡したかと思うと、意外に強い力でしがみついてきていたかぐやをどういうわけか一瞬で剥がしてひょいと持ち上げた。

 

「どわっ」

 

 そんな女の子が上げて良いのかと思うようなかぐやを簡単そうに肩辺りまで持ち上げて。肩車しようとしたのかもだが、かぐやがスカートであることを思い出したのか寸前のところで止まり、代わりにそのまま右肩に座らせるようにぽん、とおいた。

 

「おぉ〜っ! すげぇ! 高い!」

 

 先程まで離れないと駄々をこねていたことがすっかり頭からすぽんと抜け落ちてしまったのか、片手を悠仁くんの頭に置いてはしゃいだ声を上げるかぐや。そして、それは結局注目を集めるのは変わらないのでは、と白い目を向ける私。

 

「彩葉もやるか?」

 

 好きだったろ、と首を傾ける悠仁くんに対して何歳だと思ってるの、と答えて首を振る。確かに好きだった。肩車でも、今のかぐやと同じような体勢でも。いつも見上げないと見ることが出来ない、それでも遠くにある悠仁くんの顔が近くにあって。はしゃいだ声を上げた私に答えるような悠仁くんの笑い声も、とても近くに聞こえたから。

 

 でも、随分前の事だ。今の私は、そんなことしなくても昔よりもずっと背が伸びて、歩幅も大きくなって。近づけているはず。それなのに。

 

 悠仁くんの瞳に映る私は、本当の私よりもずっと小さくて、一生懸命に下から手を伸ばす昔の私のまま。ただ無邪気に悠仁くんの後ろをついて回って、視線が自分に向けられるだけで嬉しくて笑っていた、あの時のまま。

 

「いけいけーっ!」

 

 はしゃいだかぐやが拳を振り上げる。それに応えるように歩く速度を少し上げた悠仁くんから一歩下がって。2人から見えないところで、ほんの少しだけ視線を下げた。

 

 ✿

 

「……なに、それ?」

 

 かぐやが取り出してみせた見覚えの無い真新しいスマコンのケースを指差してゆっくりと問う。それを見せられてすぐ確認した私のウォレットの残高に変動はなかった。それなら残る選択肢は一つになってしまうのだが、万が一ということもある。その場合責任を取らなければ行けないのは私ということになってしまうから。

 

「ぴゅ、ぴゅ〜」

 

「目そらさないの」

 

 よく分かっていないなりに、私の態度から何かしらまずいらしいと察したかぐやは下手くそな口笛を吹きながら目を反らしてごまかしを図ろうとするが、そんなものが通るはずもなく。

 

「ごまかさないの」

 

 此方向きなさい、というと、恐る恐るといったふうにかぐやが私と目を合わせてくる。

 

「どうやって手に入れたの?」

 

「悠仁が、くれたよ……?」

 

 そう言われてもう一度よく確認してみる。悠仁くんのスマコンはどんなものか知っている。物持ちの良いほうだけど流石に何年も使い込んだそれは、ケースにいくつかの細かいキズが見て取れていた。でも、今眼の前にあるものにはそんな傷は一つも確認することは出来なくて。そこから察するに、これは新品だ。

 

「……悠仁くん」

 

 やっぱりか、と頭を抱える。昔私にぽんと買い与えようとしてお父さんに諌められたことを忘れてしまったのだろうか。これはそんな簡単に上げていい値段のものではないと私は思うのだが。

 

「ちゃんとお礼言った?」

 

「うんっ!」

 

 そう言って元気よく頷くかぐやの頭を撫でる。犬や猫ではないが、拾ったものの責任としてせめて半分は払わなきゃな、と考えて溜め息をついた。

 

 悠仁くんは受け取ってくれないだろうな。きっとなんだかんだと理由をつけて、するりと躱してしまう。「自分がやりたいからやっただけ」だなんて言って、本当は私が背負うべきだった責任という重荷までひょいと横から取り上げてしまうのだろう。自分ばかり、背負って。私には苦しそうな顔の一つも、見せてくれない。

 

「これがあったら、彩葉といっしょに遊べるって悠仁が言ってた!」

 

「私と? まぁ確かにツクヨミなら……」

 

 ツクヨミなら時間もほとんど関係ないし、お金も全然かからない。学校やバイトから帰った後でも簡単に入れるし。しかし、だからってともう一度かぐやの手にあるスマコンに視線を落とす。かぐやにアマすぎではないのか。

 

「彩葉がいつも見てる配信? も大きい画面でみれるんでしょ?」

 

 一緒に見ようねぇ、とかぐやが片手に持ったケースを振って笑う。

 

「ヤチヨのこと?」

 

「そう! ……彩葉あの人のこと好きなの?」

 

「……まぁね」

 

 昔からずっと追い続けている。スマコンを手に入れてからは、もっと。ヤチヨのデビュー曲を聞いて衝撃を受けたあの日。初めてツクヨミにログインした時。内緒だよ、とヤチヨのライブチケットをもらったあの日。ヤチヨを追い続けた今までの道のりのすべてが、積み重なって私になっている。

 

「AIで、8000歳って設定でね──。……こら」

 

 お〜、と声を上げながらケースから取り出したスマコンを照明のヒカリに透かして見ているかぐやを声だけで制する。指の先に収まってしまうような小さなモノだけどそれだけで幾らすると思ってるんだ。もっと丁重に扱え。

 

 壊さないように、と慎重にその手をおろさせて詳しい使い方を説明する。説明と言っても利用者登録が出来たなら後は眼に入れて起動するだけ。まぁその目に入れるという行為が一番むずかしいんだけどね、と手早く登録を済ませて洗面所に連れて行こうと立ち上がると、そんな私の行動を尻目に鏡も見ずにかぐやは目にスマコンを一直線に突き入れてみせた。

 

「ちょっ……っ、大丈夫!? 怪我してない!?」

 

 慌てて駆け寄っても、かぐやは何のこと? とでもいいだけな顔で首を傾けるばかり。その目につけられたスマコンはぼんやりと光を発している。

 

 問題なくつけられているようだし、かぐやの目にも特に異常は見られない。念のため前で手を振ってみると何がおかしかったのか笑われてしまった。

 

「いい? 目なんて怪我したら大変なんだから──」

 

「これどうやって使うのー?」

 

「あんたねぇ……」

 

 装着している側は光っている自覚はないので、手鏡で見せてやるとすごい、とはしゃいでいた。

 

 ✿

 

 面白そうなものばかり、と右に左に目移りして直ぐにふらふらとそちらに足が吸い寄せられて行くかぐやをその度に繋いだ手を引いて止める。そうでもしないとすぐに何処かに行ってしまって迷子になりそうで不安だからだ。

 

 実際はずっと現実の方で隣にいるものの、ツクヨミ内ではぐれたらそれはそれでまた合流するのが大変だし。それに、この後ヤチヨのミニライブという大事な予定があるから他のことにそんなに時間を割いてもいられないのだ。

 

 手元に表示させたチケットを見てほんの少し笑う。そこには確かに握手券付き、という文字が記されている。何度も応募してようやくあたった1枚だ。絶対に遅刻なんて許されないんだ。

 

「かぐや、行くよー!」

 

 露店に並んだ商品を前かがみになってしげしげと眺めているかぐやに声をかける。ログインしたばかりの初心者であるかぐやでは欲しいものがあってもふじゅ〜が足りないんじゃないかな、と思うが、かぐやにとっては見てるだけでも楽しいらしい。

 

 笑顔で此方に振り向いたかぐやの目に映るものは、全てがキラキラ輝いているようで。かぐやの見ている世界をほんの少し覗いてしまったような気がして思わず目を反らしてしまった。

 

 その世界の、かぐやの瞳の真ん中に私が映っていて。きらめく世界の中心に私を据えたその視線をずっと見ている事ができなかった。

 

「彩葉、これ欲しいっ!」

 

「……どうするの、そんなの買って」

 

 両手で抱え込むようにして持った大きな犬のぬいぐるみ。大層気に入ったのか、白くてもふもふなそれに頬ずりしている。

 

「犬DOGEがいるでしょ、ほら」

 

 かぐやの足元を指さすと、そこには尻尾を振りながらかぐやの足にじゃれつく犬をデフォルメしたマスコットキャラクターのような小さな生き物がいた。その指摘を受けたかぐやがむ、と唇を尖らせる。

 

「犬DOGEだってお友達欲しいよねぇ」

 

 そう言ってわしゃわしゃ撫でるかぐやと、元気よく一つ鳴いて答えて見せる犬DOGE。今度は一人と一匹が揃って私の方を見上げてきた。

 

「ねぇ、彩葉。おねが〜い」

 

「……うぐぅ」

 

 買った。

 

「きゃはーっ!」

 

 やったやったと両手にぬいぐるみを持ってくるりくるりと回るかぐやを見て少し笑う。現実であの大きさのぬいぐるみを買うならまだしも、ツクヨミ内でふじゅ〜で買うならばそこまで痛い出費でも無い。あの顔が見れただけでも満足ってことにしようかな、と気持ちを切り替えた。

 

「ほら、行くよ。ライブ始まっちゃう」

 

「ライブ?」

 

「うん。ヤチヨのライブ」

 

 手元にチケットを実態化させてひらひらと振る。そろそろ時間だ。カウントダウンが始まる前に会場内に入っておきたい。

 

 ✿

 

「こ、こらぁ!」

 

 突然胸いっぱいに息を吸い込んで、ライブ会場に集まった観客、演者すべての視線を此方に集めてしまうほどの大声でヤチヨカップに優勝するなどとのたまい出したかぐやの口を慌てて塞ぐ。出来るだけ素早く反応したけど、それでも時既に遅し。大胆な宣言は会場の皆に、それもヤチヨにまで聞かれてしまっていた。

 

 ヤチヨカップの情報に情緒を乱されたり、実兄の演じる俺様キャラを見て笑いをこらえたりなんてしていたからか、かぐやから意識がそれてしまっていた。

 

「勝手なことしないって約束したでしょ……」

 

 慌てて口を塞いだ私の腕の中でもがもがと暴れるかぐやの姿を見ながら、そもそもライバーでも無いでしょうに、と深い溜息をついた。

 

 ✿

 

「……いろは」

 

 慌てた様子でログアウトして行ってしまった後の誰もいない空間を手を握っていたままの姿勢でじっと見つめる。記憶の中のそれと同じだった。ヤチヨがヤチヨカップと銘打ったイベントを告知して、黒鬼が乱入してきて。そして、私が周りの注目を全て集めてしまうほどの大声で優勝する、などと宣言して。それを彩葉が慌てて止めて。

 

「おなじ、なのかな」

 

 うつむいて、ぽつりと零す。私の足元でヒカリで形作られた魚が一匹音を立てて跳ねた。

 

 そんなはず無い、私は知っている。今の彩葉はお母さんとの摩擦もなく、家族との接し方で苦しむことも、限界ギリギリまで生活レベルを落として、睡眠時間を落としてもいないことを。

 

 でも

 

「期待して、いいのかな」

 

 思い描く。もう一度彩葉に名前を呼んでもらえた私の姿。彩葉は今の私を見たら何というのだろうか。ドジだね、なんて言って笑って私の手を取ってくれるかな。それとも、また会えて嬉しい、と抱きしめてくれるだろうか。それとも、それとも。

 

 思い始めたら、期待し始めたら止まらなくて。

 

「……また」

 

 また、彩葉と悠仁の手を握って一緒に歩ける日が来るのだろうか。私が真ん中で、両隣に2人がいて。馬鹿な事を言った私を見て彩葉が呆れたように笑って。悠仁もそんな私たちを見て目を細めていて。そんな、未来が。

 

「彩葉」

 

 分かってる。分かってるんだ

 

「……いろはぁ」

 

 何度も呼んでみても、応える人はいない。分かってる。今日ここに本当は悠仁もいたはずだった。どんなにごまかそうとしてみても、その事実は変わらなくて。悠仁が無理やりに戻そうとしてくれた流れが、またほんの少しずつずれ始めていることは、私が一番分かっていた。

 

 雫が一滴、私の足元に音を立てて落ちる。周囲のざわめきにかき消されたその音は、きっと私以外の誰の耳にも入ってはいなくて。そんな私のことを見る人も、手を取ってくれる人も、誰一人としてその場にはいなかった。

 

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