「此花家の夜だもんね」
「我々は、外で待機」
* 灰瑠
兄ちゃんは、痛い時に先に笑う。
熱いお皿を持った時も、机の角に足をぶつけた時も、こっちが気づく前に笑って、何でもないと言う。痛くないわけじゃない。あとで一人になった時に、同じところをそっと触っているから分かる。
退院してからは、その順番が少し変わった。
手が塞がっている時は、私やお母さんに声をかけるようになった。何でも一人で運ぼうとはしなくなった。ちゃんと頼めるようになったんだって、嬉しかった。
それなのに、時々、家の外でしか使わない顔をする。
電話が鳴った瞬間に、もう出かけることを考えている目になる。窓の外の音に耳を向けて、話していた続きを忘れる。心配して聞くと、先に笑う。
商店街で見た銀色の人も、声をかけたあと、相手の顔を確かめるみたいに首を傾けた。声は違っていた。身体も大きく見えた。顔なんて全然見えない。
でも、「大丈夫、ゆっくりでいい」と言った時、兄ちゃんが小さい子の靴紐を結んであげていた日のことを思い出した。
ひとつだけなら、偶然だと思える。
動画に映る仕草。家にいない時間。帰ってきた時の汗。いつの間にか増えた、左の袖を引っぱる癖。最近ずっとしている腕時計。時計なのに、兄ちゃんがそれで時間を見ているところを、一度も見たことがない。
全部並べたら、もう気づかなかったことにはできなかった。
食卓には、四人分のお茶碗が揃っていた。お父さんが仕事から戻ってきて、お母さんがお味噌汁の鍋を下ろす。兄ちゃんはお箸を並べながら、何回もお父さんの顔を見た。
「兄ちゃん」
呼ぶと、箸の先が少しずれた。
「今日、話したいこと、ある?」
兄ちゃんは、笑わなかった。
それが、ちょっと怖かった。
「ある。食べ終わったら、時間くれるか」
私は頷いた。
問い詰めるために待っていたんじゃない。自分で言ってくれるのを、待っていたんだと思う。
ご飯の味は、よく分からなかった。
* 奏斗
茶碗を片づけたあと、椅子を引き直した。
母さんが急須を置いて、父さんが携帯を伏せた。灰瑠の前には、昨日買った煎餅の袋がある。挑戦じゃない方だ。それだけで、今日は妹の方が俺より冷静なのが分かった。
「俺が、銀騎士なんだ」
声は、思っていたより小さかった。変身音も光も出ない。現実の告白は、地味だ。左の袖をまくって、腕を机の上に置いた。プロトジャスティスチェンジャーの銀色が、台所の明かりを返した。
「これで変身してる。前に怪我したのも、戦ってて、誰かを庇った時。昨日も、商店街で変身した」
父さんは、装置じゃなく俺の顔を見ていた。母さんは、急須の持ち手から指を離した。灰瑠は小さく息を吐いた。驚いたのと、確かめたくなかったことを確かめたのとが、一緒になった顔だった。
「ずっと?」
「うん。怪我する前から。二年くらい」
「退院してからも?」
「許可が出るまでは、実戦には出てない。それは本当。でも、家で話してないことが、たくさんある」
一度、言葉を切った。
「ごめん。何から言えばいいか分からなくて、ずっと後回しにした」
灰瑠が、煎餅の袋を指で押さえた。かさ、と音がした。
「分からなかったら、分からないって言ってくれてよかった」
「……うん」
「兄ちゃんが怪我したって連絡が来た時、生きてるのは教えてもらえたよ。でも、その前に何してたのかも、次も帰ってこなくなるのかも、ずっと分からなかった」
怒鳴られるより、ずっと痛かった。救護の人が家に連絡して、面会もできた。だからもう心配はかけていない。俺だけが、そう思っていた。
「昨日、先に行ってって言われた時、また置いていかれると思った」
「灰瑠」
「避難はするよ。戻って邪魔したくない。でも、何も聞かないで待ってるのは、怖い」
俺は頷いた。言い訳を急いで、妹の言葉を遮りたくなかった。
*
「その装置で、傷は治るのか」
父さんが聞いた。
「治らない。衝撃は減らせるけど、身体まで直してはくれない」
「昨日のことは、担当の先生に伝えたか」
「本部の救護の人に伝えた。身体は問題なし。照準を切った時に少しふらついたから、それは調べてもらってる」
父さんは、ゆっくり頷いた。
「担当の先生の指示を、都合よく読み替えるなよ。今だけの返事にしないでくれ」
言葉に詰まった。
父さんは、俺の診療記録を全部知っているわけじゃない。ただ、都合のいいところだけ拾って前に進みたがる息子の癖は、よく知っていた。
「止められたら行かない。痛みが増えたら、途中でも引く」
「誰に言う」
「本部の担当と、現場にいる人に。自分だけで大丈夫って決めない」
「それを、守ってほしい」
最後だけ、父さんの声が少しかすれた。
母さんが、俺の前に湯飲みを寄せた。
「医学のことは分からないけど。帰りが遅くなるなら、連絡はして。戦ってる最中に電話しろとは言わないから、安全なところに着いたらでいい。連絡できない時に、代わりに聞ける人も教えて」
用意していた紙を出した。本部の、家族向けの緊急窓口の番号。三人の名前は書いていない。
「俺が帰れない時は、ここから連絡が来る」
「帰れない、って」
灰瑠が顔を上げた。
「遅くなる時とか、病院に寄る時とか。黙って待たせないための番号だよ」
言い直して、紙を妹の方へ向けた。灰瑠は番号を携帯に打ち込んで、母さんにも見せた。指が、いつもよりゆっくり動いていた。
「ジャスティスクルセイダーの人たちも、知ってるの?」
母さんが聞いた。
「俺のことは知ってる。助けてもらってる。でも、俺は正式な四人目じゃない」
「そうなの? ネットだと」
「ネットの俺、本物の俺より出世してるから」
灰瑠の口元が、ぴくりと動いた。笑いかけてくれたのが、ありがたかった。ついでに、これも言っておく。
「あと、追加戦士でもない。三人より前からいた」
言えた。家族が相手なら、最後まで邪魔が入らない。
「……え、追加じゃないの?」
灰瑠が、今日いちばん驚いた顔をした。
「クラスで、前からいた追加戦士だって聞いたよ。先行実装って」
妹の口から、その言葉が出てくるとは思わなかった。
母さんが湯飲みを置いて、心配そうにこっちを見た。
「奏斗。その、先行実装っていうのは、危ないお仕事なの?」
「仕事じゃない」
訂正しなきゃいけないことが、一個増えた。
「ほかの人のことは、俺からは言えない。名前も、学校も。そこは、ごめん」
「分かった」
母さんは、あっさり頷いた。
「私が聞きたいのは、その人たちが誰かじゃなくて。奏斗が一人で全部やろうとしてないか、だから」
湯飲みを持ち上げかけて、止まった。
すぐには答えられない質問だった。
「一人でやろうとしたことは、ある。でもこの前は、座ったまま道を教えてた。俺が行かなくても、助けてくれる人がいる」
机の上の装置に、目を落とした。
「これを作ってくれた人も、直してくれる人もいる。だから、無茶して壊したら、俺だけの問題じゃない」
「その人たちが止めた時も、ちゃんと聞いて」
灰瑠が言った。
「聞く」
「私が言った時だけじゃなくて」
「そんなに妹の言うことばっかり聞いてるか?」
「今日、挑戦の煎餅を食べずに済んでるの、誰のおかげだと思う?」
机の下から、もう一袋出てきた。
父さんが、袋の『挑戦』の文字をじっと見た。
「それは、今夜はやめておこう」
医師の判断が、家庭の平和を守った。
*
決めたことは、三つにした。出る前に、行く地区と、連絡できそうな時間の目安を伝える。痛みや疲れで無理な時は断る。途中で無理になったら、応援を頼んで退く。
帰ったら、安全な場所から連絡する。間に合わない時は、本部の窓口から知らせてもらう。
灰瑠が、紙の端に一行書き足した。
避難した人は戻らない。
「これ、私の分」
顔を上げると、灰瑠はまっすぐこっちを見ていた。
「兄ちゃんがいるって知ってたら、探しに戻りたくなるかもしれないから。先に約束しとく」
胸の奥が、熱くなった。
帰ってくる約束を俺に求める妹が、自分も帰るための約束をしている。俺だけが守る側のつもりで座っていたのが、恥ずかしかった。
「助かる。……本当に」
「でも、あとで小言は言うからね」
「それは減らしてくれない?」
「減らさない」
父さんが頷き、母さんまで頷いた。家族会議は多数決を採用すると、俺が負ける。
話し終わっても、すぐにいつもの夜には戻れなかった。
母さんは湯飲みを何回も並べ直して、父さんは窓口の番号を登録したあと、登録名を三回確認していた。灰瑠は装置を見て、俺を見て、また装置を見た。
「触っていい?」
「外側だけ。ボタンは押さないで」
妹の指が、銀色の縁に触れた。
「冷たくないんだ」
「ちょっと温かいだろ」
中のコアのことを、どこまで話せばいいのかは、俺にもまだ分からない。長い話はできないし、心も読めない。
「大事なものなんだ。俺の都合だけで使っていいものじゃないと思ってる」
「じゃあ、大事にしてね。兄ちゃん自身も、その中に入れて」
灰瑠が指を離した。
左手首の温かさが、妙にはっきり感じられた。
「ねえ、変身のポーズって決まってるの?」
「今ここでやるのは、なしだぞ」
「やってとは言ってないよ。写真、ないかなって」
「何に使うんだ」
「家族アルバム」
湯飲みを置いた。
「遠足の写真の隣に、銀騎士を貼るのか?」
「兄ちゃんの成長記録だから」
「成長の方向、おかしくない?」
灰瑠が、やっと声を立てて笑った。母さんも笑って、どの写真にしようかという話を始めた。ネットの画像は家の中で見るだけにしてくれ、と俺は慌てて付け加えた。
父さんはまだ硬い顔をしていたけど、湯飲みを持つ肩は、さっきより下がっていた。
*
洗い物の途中で、灰瑠がぽつりと言った。
「前にさ、同級生の話したの覚えてる?」
「どの話?」
「自分のことは後回しにして、人を助けちゃう子がいたって。……兄ちゃんの話聞いてたら、その子のこと思い出して」
覚えている、と言いかけた。夕飯の時に聞いて、相槌を打った覚えはある。話の形も、なんとなく残っている。
肝心のところだけが、掴めなかった。どんな子だったのか。名前は何だったのか。思い出そうとすると、そこだけ白く滲む。
「……ごめん。名前、何だっけ」
「それがさ」
灰瑠が、拭いていた皿を持ったまま止まった。
「私も、出てこないんだよね。変なの。毎日教室で見てたはずなのに」
台所の換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえた。
灰瑠は首を振って、皿を棚に戻した。
「まあいいや。たぶん、そのうち思い出す」
俺は曖昧に頷かなかった。分からないものを、分かったふりで片づけたくなかった。かといって、聞き返す言葉も見つからなかった。
「兄ちゃん」
次の皿を拭きながら、灰瑠が言った。
「ちゃんと帰ってきてね」
絶対に怪我しない、とは言えない。
それでも、帰るためにできることを省かないとは、約束できる。
「うん。無理な時は、頼れる戦友と後輩たちに助けてもらって帰ってくるさ」
乾いた皿を、いつもの棚に戻した。
灰瑠は隣で、もう次の一枚を拭いていた。
「家族アルバムの件、本当に貼るのか?」
「灰瑠、もう候補を三枚まで絞ってたで」
「なんで知ってるんだ」
「友達やもん。見せてもろた」
「……どれ」
「振り返って案内板探してるやつ」
「よりによって、一番かっこよく誤解されてるやつ」