「先輩の学校、私らと同じやけどな」
「足元に、ご注意ください」
放課後の廊下で、俺は携帯の画面と睨み合っていた。
『学校の近く。まだ警報は出てないけど、本部から確認の連絡あり。様子を見てまた連絡する』
家族宛ての文を、三回読み直す。長すぎるか。短すぎるか。昨日決めたばかりの約束は、いざ守ろうとすると、一行の長さから難しかった。
送ると、母さんからすぐ返事が来た。
『分かった。無理しないで』
灰瑠からは少し遅れて。
『私は友達といる。警報が出たら、そのまま避難するね』
画面を閉じた。
心配をかけるための連絡じゃない。どこにいるか、知っておくための連絡だ。
昇降口には、まだ何人も残っていた。部活に向かう足音、下駄箱を閉める音、誰かが忘れていった傘。
その普通の音に、遠くから硬い破裂音が混ざった。
さっきの本部の連絡は、学校の近くで不審な小型機の反応を拾った、というものだった。古い機器を積んだ回収車を調べに来た職員さんのカメラに、細い脚が写っていたらしい。
その脚が今、校門の向こうの塀を越えた。黒いケーブルが金網を擦る。胸の窓が開いて、壁の設備の方へ光が動いた。
警報が鳴った。先生の声が廊下のざわめきを切った。
「校庭側へ! 門の方には行くな!」
俺も人の流れに乗った。教室に鞄を取りに戻ろうとする一年生に、今はそのまま行こう、と声をかける。踊り場で立ち止まった子が歩き出すまで、手すりのそばを空けておく。
左手首は袖の下にある。ここでボタンを押せば、いちばん早い。
その考えは一秒で捨てた。正体がばれるからだけじゃない。光と音で生徒が立ち止まって、俺の周りに人が集まってしまう。避難の真ん中で変身ショーを開いてどうする。
渡り廊下の向こうに、灰瑠が見えた。小学校からの友達のミオちゃんと並んで歩いていて、一度だけ、こっちを見た。目が合う。妹はこっちには来なかった。隣の子の袖に軽く触れて、先生の示す出口へ歩いていく。
俺も立ち止まらずに、反対側の通路へ進んだ。
昨日の約束、二人ともちゃんと守れてる。……ちょっと誇らしい。
*
裏門を出た先の路地は、もう職員さんが避難の確認を済ませていた。校舎から見えない塀の裏に入って、曲がり角の先にも人がいないことを見てから、通信を開く。
「こちら銀騎士。学校の裏、これから起動する。避難は校庭側から東へ進んでる」
「周りの端末はこっちでも追ってる。大通りに出さないで。応援も向かってるから」
左手首を低く出して、中央を押した。
「変身!」
下地が服の上を走り、銀白の装甲が脚を覆っていく。
その時、ふと足元に目が行った。
上履きだった。
昇降口の騒ぎで履き替えそびれて、そのまま裏まで来てしまったらしい。踵に、マジックで自分の名前まで書いてある。
慌てる間に、装甲の靴が上から閉じた。外から見えるのは、銀色の足首と硬い靴底だけになった。大丈夫。装甲の中だから、外履きとしては成立している。
自分でも、どういう理屈なのか分からなかった。
「起動に異常は?」
「ない。靴の問題が少し」
「靴?」
「戦闘には支障ない。あとで説明する」
仮面が閉じて、胸の青緑が灯った。
今ここで説明したら、たぶん一生言われる。
*
塀の角を曲がると、ノットの端末がこっちを向いた。細い人型の背中で、ケーブルが二本揺れている。片方は機器を引きずって、もう片方は、避難している生徒の列へ伸びていた。
――そっちは、駄目だ。
走って、塀とケーブルの間に身体を入れた。左腕で線を横に弾く。金属音が耳の奥に響いて、肘まで痺れが走る。受け止め続けるんじゃなく、向きをずらすだけ。線の先が地面に叩きつけられた。
「こっちだ!」
胸の窓が俺を向いた。
『回収対象、照合』
その声を聞くのにも、少し慣れてしまった。慣れたい相手じゃない。
俺が一歩引くと、端末が一歩来る。なのに背中の線はまた生徒の方へ伸びた。俺がそっちに足を向けた瞬間、線が止まる。代わりに、細い腕が俺の左手首めがけて突き出された。
手首を低く抜いて、左肘で長い腕の内側を押す。端末の胸が横を向いたところで、その足の甲を踏んで離れた。
「……人の方を狙えば、俺がそっちに動くってことか」
端末は答えない。
こいつが覚えているのは、俺の名前じゃない。動き方だ。逃げる人にケーブルを向ければ、銀騎士は間に入る。それだけ分かれば、俺を好きな場所へ動かせる。
また胸の窓が生徒の列を向いた。今度は待たなかった。長い腕の内側に入って、左の掌底を窓の縁に叩き込む。のけぞった胴を膝で押して、線の向きを塀の方へ戻した。
「人を狙えば俺が来る。そこは当たりだ」
端末の正面に立った。今度はこっちから詰める。
「だから、お前の相手は俺だ」
列の先で、先生が生徒を連れて角を曲がっていく。そっちを追おうとする腕を押し返して、俺の知っている道へ、敵の足を向けさせた。
*
校庭の端に、古い体育倉庫がある。設備の入れ替えで、今朝、用具を全部別の棟に運び出したばかりだ。授業のあとに、扉の使用停止の札を見た。
ただ、見たから空っぽだと決めつけるのは違う。
「本部、校庭西の体育倉庫。中に人がいないか、学校に確認して」
確認を待つ間、背中を向けて走るわけにはいかない。走れば、端末はまた生徒を狙って俺を引き戻す。目の前で俺を追わせたまま、行ける方向だけを絞っていく。
「無人、確認できた。周りの避難も完了。東側には近づけないで」
「了解」
倉庫までの間に、背の低いコンクリートの壁がある。そこへケーブルを誘った。線が壁の向こうへ回り込む直前に、反対側へ滑り込んで、ダイヤルを紫へ。
銀白の間を細い紫が通り、脚の加速器が開く。左手に、シフトブレードが一本。
切り替えの一秒はコンクリートの壁が受けてくれる。
壁の端で、わざと一度だけ足音を鳴らした。今日の端末は、俺の身体が見えるより前に、爪を突き出してきた。やっぱり。切り替えの「次」まで覚えている。
最初から残していた後ろ足に、重心を戻した。空振りした爪に短刃の背を添えて、壁の縁へ滑らせる。長い腕が、壁と端末の間で邪魔なつっかえ棒になった。
「そこに来るなら、こっちは空くぞ」
加速は使わない。壁の反対の端から回って、倉庫へ誘い込める角度を取った。
開けておいた引き戸の幅は、俺と端末が並んで入れるほど広くない。空の倉庫の中には、床に残った用具の跡と、壁沿いの白い粉と、高窓から差す夕方の光だけがあった。
何もないことがこんなに助かるとは思わなかった。
*
ケーブルが入口の柱に巻きついた。端末は半歩だけ中に入ったところで止まり、腕を広げた。俺を奥へ押し込んで、退路を線で塞ぐつもりだ。
正面からは向き合わなかった。床のケーブルを踏まないように、左の壁に沿って横へ動く。シフトの胸の装甲は薄い。受け止めるより、かわすための型だ。
見るのは、端末の背中の接続部。柱に巻いた線を張るたびに、肩甲骨みたいな板が浮いて、根元が一瞬だけ見える。
そこまでの道を、先に決めた。壁に沿って半円。左の柱の手前で角度を変えて、端末の背中を横切る。急には止まらず、そのまま入口から外へ抜ける。
「短く行くぞ。無理なら止めてくれ」
左手首が一回、弱く震えた。すぐには動かず、表示を見た。温度は範囲内。脚にも異常はない。振動の意味はまだはっきりしない。
張り出したケーブルが一本、さっき決めた道の途中を横切っていた。
「……そっちか。そこは通らないな」
道を、ケーブルの外側へ一本ずらした。
振動はもう来なかった。
中央を、長く押す。
電子音を追い越すように、紫の光が短刃の縁を走った。
刃を腰の横に寝かせ、左足を半歩前へ。低く沈めた腰から、入口までの道を見据える。構えが決まったところへ、端末が正面から爪を突き出してきた。
そこには、もう立っていなかった。
加速器が床を蹴って、身体が壁沿いを流れる。二秒。柱の手前で、足の向きを小さく変える。三秒。張ったケーブルの下に身体を沈めて、短刃を接続部に添えた。
腕力で叩き割らない。走る勢いと、刃の角度を揃えるだけ。
ギィン、と鋭い音が倉庫の中で跳ねた。黒い線の根元に、紫の斬線が残る。爪を伸ばしたまま、端末が一瞬固まった。
次の瞬間、接続部が裂けて、背中から青白い火花が噴き出した。俺はもう入口を抜けて外に出ていて、五秒台で加速を切った。外の土を二歩、三歩と踏んで止まる。
振り返ると、端末は柱に腕を伸ばした格好のまま崩れていた。
残っていた小型機は駆けつけたブルーが止めた。二丁の銃で別々の足元を撃って、逃げる方向を変えるたびに、脚を一本ずつ止めていく。
「はい、そこまで。勝手に校外に出ない」
最後の一体が転がって、ブルーは銃口を残骸に向けたまま、短く息を吐いた。
* 体育教師
避難の点呼が終わったあと、体育の権田は生徒に囲まれた。
「先生、体育倉庫って今朝空にしたんですよね」
「ああ。用具の入れ替えでな」
「銀騎士、そこに敵を誘い込んでたんですよ。空っぽだって、知ってたみたいに」
生徒たちの目が妙に輝いていた。
「今朝の入れ替えを知ってたのって、先生と、手伝った運動部くらいですよね」
「扉の札を見た奴なら誰でも知ってる」
「先生、避難の途中で、ちょっといなくなってませんでした?」
「倉庫の鍵を確かめに行っただけだ」
言ってから、しまったと思った。倉庫だ。否定するほど、生徒の目が輝いていく。違うと言うたびに、何かを隠している大人の顔に見えるらしい。
権田は四十六歳で、膝に古傷がある。銀色の鎧で校庭を駆け回れる体ではない。それを説明したら、「正体を隠すための設定ですね」と言われた。
路地の奥で変身を解くと、制服の首元に冷たい空気が入ってきた。
携帯に、灰瑠からメッセージが届いていた。
『みんなで避難先に着いた。友達も無事。私は戻らないから、兄ちゃんも連絡してね』
画面を見たら、倉庫の中では一滴も出なかった汗が、手のひらににじんだ。
『引き継ぎ終わり、安全な場所にいる。確認が済んだら帰るよ』
すぐに、二文字だけ返ってきた。
『了解』
何回も無事かって聞いてこない。そこが、たぶん灰瑠なりに頑張ってるところだ。
帰る前に、靴を取りに学校へ寄った。昇降口に残っていた体育の権田先生に、上履きで外に出たことを注意された。避難で慌ててしまって、と答える。嘘ではないが全部でもない。
先生はなぜかひどく疲れた顔をしていた。
履き替えたところで、葵から個別に連絡が来た。
「で、靴は?」
「解決したわ、もう大丈夫」
「よかった。戦闘記録と一緒に、足元をすくわれた事例として残しておくね。件名は『上履きフォーム』」
「残さなくていい」
「あと、先輩の学校の掲示板。体育の先生が銀騎士ってことになってる」
さっきの、疲れた顔。
訂正したい。ただ、訂正したら、本物が誰かを名乗り出ることになる。学校で名前を呼ばれる、ただの三年生ではいられなくなる。今まででいちばん、訂正できない誤解だった。
「……明日、権田先生に何か差し入れする」
「正体がばれない範囲でね」
やっと笑えた。いや、笑ってる場合じゃないんだけど。
帰り道、壁の端で空を切ったあの爪を、もう一度思い返した。
今日は相手の予測を外せた。ただ、空振りしたという記録も、たぶんどこかへ持ち帰られる。次はそこまで計算して来るだろう。
家の前まで来たところで、レイマさんから通信が入った。
「今日の端末だがな。最後に送った記録の宛先が、一瞬だけ読めた」
「どこですか」
「川の方だ。それ以上は、まだ絞れん」
川。
ノットの帰る場所が初めて地図の上に現れた。
「戦闘記録の件名、正式に『上履きフォーム』で登録しました」
「残さなくていいって言ったよな」
「待て。上履きの上から装甲が閉じたのなら、靴底の厚みを測り直す必要が」
「真面目に検討しないでください」
「名前、踵に書いてあったんやろ?」
「……なんで一番見られたくないところを知ってるの」
「上履きフォーム。ここすき」