恩人の悲鳴は、廊下にまで届いたらしい。
通りかかった医師が司令室を覗き、俺の顔とレイマの顔を見比べた。
「今日は、この辺りにしましょう」
「そうだな! 怪我人を長く拘束するのは感心しない!」
「此花さんのお話です。あなたにはあとでお願いします」
レイマの勢いが、扉に挟まったみたいに止まった。
俺は笑いかけて、胸の奥に痛みが走り、途中でやめた。笑うのにも身体を使う。当たり前のことを、ここへ来てから一つずつ思い知らされている。
「ほら、戻ろう。続きは私たちが聞いておくから」
「いや、俺の話なのに」
「当事者が寝ても、社長は消えない。逃げ道がないともいう」
「逃げる前提で話をしないでもらえるかね!」
車椅子が回る。事務員の人が扉を押さえてくれた。
通り過ぎる時、目が合ったので頭を下げる。
「お仕事、増やしてしまって」
「あなたが謝ることではありません」
即答だった。
後ろで、紙を揃える音が妙にはっきり聞こえた。
*
翌朝、ベッドの横に小さな机が運び込まれた。
昨日、医師に言われた通りに寝て、その合間に家へ電話をした。母さんは俺の声を聞くと一度黙り、それから、よかった、と何度も言った。
灰瑠には、帰ったら話がある、とだけ言われた。
声はいつも通りだった。それが一番、こたえた。
その机に置かれたのは、書類の山ではない。
丸い台座と、薄い端末だった。
「先に言っておく。昨日は悪かった」
レイマは、椅子へ座る前にそう言った。
後ろでレッドが何か言いかけ、やめる。ブルーは壁際に立ち、イエローは飲み物を置く場所を空けてくれた。
「君が盗んだと決めつける言い方をした。あれは、私が確認を怠った結果だ」
「思い出したんですか?」
「それが、まったく」
胸を張って答えられても困る。
「そこはもう少し小さい声で言いません?」
「ただし、思い出せないことと、なかったことにするのは別だ」
端末がこちらへ向けられた。
表示されているのは、日付と、短い記号の列だった。俺があの夜を思い出しながら伝えた時刻の近くに、印がついている。
「保管庫から出した記録は私のものだった。持ち出し時の点検記録もある。君がそこへ入った形跡はない。そして、装置に残っていた最初の装着時刻が、君の話と合う」
「それだけで、大丈夫なんですか」
「それだけではない。君が話した外装の傷と、渡した時の状態は、公開したことがない。持ち出す前の点検記録にある傷まで一致している」
あの夜、縁にあった小さな擦れ。
足元のふらついたレイマが落としかけ、俺が両手で受け止めた時、親指に引っかかったところだ。
「関係する記録を確かめた。少なくとも、君を窃盗犯として扱う理由はない。私が引き渡した事実と、経緯を思い出せないことを分けて、管理記録を訂正する」
「お酒のせいじゃ、なかったんですか」
「その日は飲んでいない。体調を崩したのか、別の原因か。そこは、まだ決めつけないで調べる」
酔っていたから忘れた。俺は、そういう話だと思っていた。
あの夜に見たふらつきまで、説明がつかなくなった。
「この試作機は、私が保護管理を任されたものを安定させるために作った。持ち出したのは私だ。管理元へも現状を報告し、引き続き私が責任を持つことを確認した。君が勝手に盗んだ、という処理にはしない」
レッドが、俺の顔を覗いた。
「もう、そのことで心配しなくていいって」
息が出た。
胸の傷が痛むほど深くではなかった。それでも、昨日から腹の底に残っていた硬いものが、少しだけほどけた。
「よかった。……正直、返せって言われるのかと思ってました」
「返せと言われたら、どうするつもりだった?」
左手首を見る。
薄い傷の入った、丸い装置。
これがなければ助けられなかった人の顔を、全員分覚えているわけではない。暗かった時も、煙が濃かった時もある。助けたあと、走って別の場所へ向かったこともあった。
それでも、手を離した時の感触はいくつか残っている。
小さな手。冷えた手。俺の手首を握ったまま離れなかった手。
「……困ります。でも、あなたが作ったものだから」
レイマはすぐには返事をしなかった。
俺の手首から右肩へ、視線が移る。
「無茶をするな、と言ったそうだね。私は」
「はい」
「その説明で済ませた私が、君の使い方だけを責めるわけにもいかない。今回は点検のため、一時的に預かりたい。君から取り上げるためではない」
取り上げるのではなく、預かる。
その違いをわざわざ言ってくれたことが、ありがたかった。
右手を動かしかけて、止めた。
装置の留め具は左手首の内側にある。いつもなら何も考えず外せるのに、今は右腕の固定が邪魔をする。
レイマが手を差し出し、途中で止めた。
「触っても?」
「お願いします」
留め具が外れた。
手首が軽くなる。こんなに軽かったか、と一瞬だけ落ち着かなくなった。
台座へ置かれた中央部に、淡い光が灯る。
俺の指が離れる間際、縁がほんの少し温かかった。
「……寂しそう」
「俺が?」
「どっちも」
ブルーは装置を見ていた。
俺も見たけれど、もう光は小さくなっていた。
「反応の理由は、今の段階では断言できない。勝手な解釈で操作を増やさないように」
「分かりました」
「社長にも、そう言ってくれる人が必要だったんじゃない?」
「今後は持ち出しの確認を必ず入れる!」
今後。
俺のところへ来た経緯はひどいものだったけれど、誰かに同じ思いをさせずに済むなら、その言葉にも意味がある。
「それで、その……俺はジャスティスクルセイダーの人間になるんですか」
三人が、揃って俺を見た。
「ここで治療も整備もしてもらってるので。入隊したら、あの変身ポーズも必須なのかなって」
「心配してたの、そっち!?」
レッドの声が裏返った。
イエローは笑顔のまま固まり、ブルーは静かに目を伏せた。
「この前は言い方が悪かったです。皆さんがやるのはいいんです。ただ、俺が隣で同じことをするのは、ちょっと……」
「謝るついでに、もう一発入れんといて」
「好きでやってるんじゃないからね! あの口上、言わないとマスクの中で警報が鳴るの!」
「……ますます参加したくない」
「せやから、こっちも好きで言うてるんちゃうって!」
ポーズを揃える話だと思っていたら、台詞の方には装置からの催促まであるらしい。
俺は台座の腕輪を見た。今まで、そんなことを要求された覚えはない。
そこは、本当に助かった。
ブルーが小さく息を吐いた。
「追撃はもう十分。私たちのライフはもうゼロよ。……少しは回復するまで待って」
怪我人は俺のはずなのに、三人とも何かを耐える顔になっている。
「……治療のお礼に入隊しなくていいし、私たちのポーズを君にもやって、なんて頼まないから」
「よかった」
「そこ、今日いちばん安心した顔せんでもええやん」
「整備を受けることと、組織へ入ることは別の話だ。まずは君の怪我を治す。その後、どう関わるかを考えればいい」
レイマが台座を持ち上げる。
その手つきは、あの夜に見たものより、ずっと丁寧だった。
*
午後、家族が来た。
父さんが一番先に部屋へ入り、母さん、灰瑠と続く。
俺は、いつもの調子で片手を上げようとした。
上がったのは左手だけだった。
「よう」
「よう、じゃないよ」
灰瑠がベッドの横まで来て、俺の顔をじっと見た。
笑っていない妹は、少しだけ他人みたいに見えた。俺と似ていると言われる目元も、今は違っていた。
「電話、短すぎ」
「長く話すなって言われてたから」
「うん。知ってる。でも、短かった」
言い返せなかった。
正しい理由があれば、心配させた時間まで消えるわけじゃない。
母さんが左手を取った。
いつもなら、いい年なんだから、と引っ込めるところだ。今日は動かせなかった。
「……あったかい」
母さんが言った。
俺の手が温かいことなんて、これまで何度も確かめてきたはずなのに。
「ごめん」
「うん。帰ってから、もう一回聞く」
怒鳴られた方が楽だった、とは思わなかった。
どんな言い方をされても、たぶん、同じように胸が詰まった。
父さんは、右腕の固定をしばらく見ていた。
仕事でこういう怪我を診る人だ。だからこそ、口を開くまでが長かった。
「痛みは」
「じっとしてれば。動かすと、まだ」
「息苦しさは?」
「今はない」
父さんが頷く。
それから、医療者ではなく、父親の顔になった。
「担当の先生の指示を守りなさい。自分で治ったと決めないこと」
「うん」
「私が医者だからって、担当の先生の話も聞かずに決めていいわけじゃない。詳しいことを聞く時は、お前にも確かめてからにする」
俺はもう一度頷いた。
父さんが医者でよかった、と子供の頃から何度も思った。今日はそれとは別に、父さんがここで勝手に全部を決めないでいてくれることに、ほっとした。
家族には、戦闘に巻き込まれて負傷し、ここで救護されたと伝わっていた。
それは嘘ではない。
けれど、俺が何を着て、どこに立っていたのかは言っていない。
言えないまま、母さんの手を握り返した。
自分が銀騎士だと言えば、怪我をした理由は説明できる。
その代わりに、これまで何度も帰りが遅くなった日の理由まで、一度に変わってしまう。
今ここで、安心して、と言いながら全部を渡せる気がしなかった。
「学校のことは、連絡してあるから」
母さんが、鞄からプリントの入った袋を出した。
「あと、着替え。食べ物は先生に聞いてからって言われたから、持ってこなかった」
「ありがと」
「兄ちゃんの充電器は、こっち」
灰瑠が小さな袋を置いた。
中には充電器と、イヤホンと、家の机に置きっぱなしだったしおりが入っていた。
「本は?」
「重いから、今日はなし。読めるようになったら持ってくる」
しおりだけ先に来たのか。
妙におかしくなった。笑うと胸に響くので、口元だけ動かす。
それを見て、妹も少しだけ笑った。
「……やっと、いつもの顔になった」
そう言ったのが俺だったのか灰瑠だったのか、少しの間、分からなかった。
*
面会が終わる頃、父さんと母さんが医師の説明を聞くために廊下へ出た。俺にも聞いてよい範囲を確かめてくれたうえで、今後の生活の相談をするらしい。
灰瑠は少しだけ部屋に残った。
「兄ちゃんさ」
「うん」
「大丈夫って、言いすぎないでね」
左手に持った携帯を、裏返したり表にしたりしている。
「大丈夫じゃない時も、そう言うじゃん」
俺は返事を考えた。
大丈夫、と言いかけて、飲み込んだ。
「……今、右肩は結構痛い」
「うん」
「起き上がるのも手伝ってもらってる。笑うと胸が痛いから、面白い動画は送らないでほしい」
「最後の、難しくない?」
「難しいなら、治ってからまとめて」
灰瑠が、やっと携帯を鞄へしまった。
「分かった。ためとく」
笑って帰った。
扉が閉まってから、俺は枕へ頭を戻した。
助けた人の手を、いくつか覚えている。
今日、俺の手を握った母さんの手も、きっと忘れない。
机の上には、まだ本のないしおりが残っていた。
先に帰り道だけ置いていったみたいだ。
夕方、レイマが装置を返しに来た。
検査はひとまず終わり、これからは通院に合わせて記録も確かめるという。本人が預かり、使うのは医師の許可が出てから。その順番を二人で確かめた。
「ひとつ、混同しないでほしい。この中核は、既存の装置から抜き取って移したものではない」
中央に、淡い光が灯った。
「黒騎士用のものとは別個に、後から別の経路で得た独立したコアだ。同じ性能ではない。黒騎士ができることを、そのまま君ができるとは思わないように」
「こいつは、こいつなんですね」
「そういうことだ」
俺がそこにない力を当てにしないように、言ってくれたのだろう。
どこから来たのかについては、話は続かなかった。俺も、今ある温かさを確かめるだけにした。
左手首へ、重さが戻る。
でも、これを外していた間に守るものが減ったわけではなかった。
机の上のしおりを見て、俺はもう一度、家へ帰る順番を考えた。
まず治す。隠れて出ていかない。
面会の最後に父さんと交わした約束を、装置の戻った手でも守るつもりだった。
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