痛いところを動かさなければ、痛くない。
そんな立派な発見をしたところで、人間の身体は一か所だけ都合よく休ませてくれなかった。
「肩を上げないで。ここまでで大丈夫です」
療法士の指が、俺の右肘の少し下を支える。
ゆっくり動く腕に、頭の中だけが先回りした。
このくらいなら、もう少し。
「今、『これくらいなら、もう少しいけそうだ』って思いましたね?」
「……顔に出てました?」
「肩に出ています」
そっちか。
余計なことを考えると、身体の方から告げ口されるらしい。
オメガとの戦いから二週間が経っていた。
胸の痛みは、最初の頃よりずっと薄い。ベッドから起きる時に人を呼ばなくてもよくなり、短い距離なら自分の足で歩ける。
右肩だけは、まだ俺の予定に付き合ってくれなかった。
着替える時には右袖から通す。先に左を着ると、あとから右腕の逃げ道がなくなる。
階段では手すりを左で持ち、急ぐ人に道を譲る。足には三階まで駆け上がる力が残っていても、上半身を揺らすだけで痛む。
動かす範囲を決められ、負荷をかけるなと言われ、調子がいい日にこそ欲張るなと念を押される。
毎日、少しずつだ。
変身して装甲を着れば、この腕だって持ち上がるのかもしれない。
そんな考えが浮かぶたびに、固定の跡が残る肌を見る。
動かしてもらうのと、治るのは違う。
父さんの声が、頭の中できっちり言った。
療法士に礼を言って、休憩用の椅子へ座った。
壁際で待っていたブルーが、卓上の台に端末を立てる。
「先輩、自分の映像って見たことある?」
「ない。戦って、帰って、寝るので精いっぱいだったから」
「二年近く、ずっと?」
「うん。何かまずい映り方してた?」
ブルーは少し考え、俺の右腕ではなく顔を見た。
「まずは、座ったまま見て」
「今、座ってるけど」
画面には、黒騎士が映っていた。
オメガ戦ではない。まだ三人が現れる前、俺も別の地区を走っていた頃の配信の記録だ。黒い拳が迫る敵を押し返し、巨体が画面の外へ消える。
その下を、当時のコメントが流れた。
「言い方……いや、分かるけど!」
息が漏れた。口元を押さえても、次の行でまた笑ってしまう。
あの黒い拳が頼もしいのは分かるけど、怪人の心配までしなくてもいいだろう。
「肩、動かさないでね」
「分かってる。あいつにこれ、見せたらどんな顔するんだろ」
顔を知らないので想像できない。それもおかしかった。
ブルーが、三人が現れてからの別の日の配信へ切り替えた。
今度は、三人についての書き込みが並んでいた。
「いや、レッドにその名前は……」
ひどいだろ、と言いかけて止まった。
前に一緒に戦った時、俺が避難路を確かめて戻ると、レッドの剣が怪人を押し込んでいた。装甲に跳ねた返り血も気にせず一歩。相手が下がれば、もう一歩。
さっきまで威張っていた怪人の方が、間合いを取りたがっていた。
「何か思い出した顔」
「……助かったなって」
「否定は?」
「本人には、俺が黙ったところまで言わないで」
頼もしいのは本当だ。だからこそ、呼び名を笑うだけで済ませられない。
自分だけは関係ない顔で画面を眺めていられたのも、そこまでだった。
映ったのは、銀色の俺だった。
映像の俺は、敵の突きを剣の根元で外へ逃がし、その腕を戻させずに胸を斬り抜いていた。さらに足元へ伸びた尾を踵で止め、振り返りざまの一太刀で二体目を倒す。
そこで初めて剣先を下げ、崩れた壁の奥へ顔を向けた。逃げ遅れがいないか、確かめていたのだ。
覚えている。別の通りでも戦ったあとだった。安全を確認してから、建物の角まで行って座った。
「……これ、息が上がって、剣を持ち上げてられなかった時だ」
「余裕、なかった」
「座りたい、とは思ってた。あそこまで終われば座れるって」
さらに別の日。銀の仮面がゆっくり横を向く。
「違う。帰る方向が分からなくなって、案内板を探してる」
「待っていたのは道案内」
「俺の必死な二年が、すごく落ち着いた人の記録になってる」
さっきまで笑っていた口が、閉じた。
動画の題名には銀騎士名場面集とある。一本ではない。続きが何本もあり、再生数の桁を数え直すうちに、ブルーが古い掲示板の記録を開いた。
『黒の拳派』
『銀の装甲と電子音派。武器換える音まで入れてくれ』
『ライダー派とメタルヒーロー派、今日も平行線』
「派閥あるの!?」
少し大きな声が出た。療法士に目を向けて、すみません、と小声で謝る。
日付は、三人と初めて会うよりずっと前だった。
俺たちは別々の場所で必死に戦っていたのに、知らないところで対決までしていたらしい。
「こっちは最近のまとめ。私たちが出てきてから」
『黒騎士は別枠。銀騎士は正規追加戦士』
『並んだ時の収まりがよすぎる』
『三人より先にいたのに追加とは』
『先行実装』
「俺、いつ入隊した?」
「してない」
「正規って書いてある」
「掲示板に人事権はない。あったら怖い」
治療と整備だけでは入隊にならないと、この前ちゃんと確かめた。
その間に、画面の俺だけ採用されていた。
「黒騎士のこと、笑ってる場合じゃなかった……」
端末の銀騎士は、俺の都合など知らず、堂々と剣を下ろしていた。
その下には、助けてもらった、ありがとう、という短い言葉もあった。
そこだけは、読み飛ばせなかった。
嬉しい。でも、嬉しいのと、ずっと余裕だったことにされるのは別だ。
ブルーは、動画の下から三人の投稿を開いた。
公開されているのは、戦っている俺への言葉ばかりだ。顔も、名前も、今どこで何をしているかも書かれていない。
「最後の説明で、また所属が増えてない?」
「助っ人は所属じゃない。便利な言葉」
「便利に使ってる側が言うんだ、それ」
指を止め、もう一度、最初の投稿へ戻してもらった。
ありがとう、と書いたのはレッドだ。いつも誰かを助けているあの三人に、俺の方がそう言われている。
画面越しなのに、どんな顔で返せばいいのか分からなくなった。
「これ、全部は見きれないな」
「見きらなくていいよ。休む時間だから」
俺は頷いた。書き込むこともせず、画面を閉じてもらう。
銀騎士の中の人として訂正を始めたら、余計に休めなくなる。
知らないところにいた、やけに格好いい俺。その正体を知っているのは、今のところ、この部屋の俺たちだけで十分だった。
そこへ、レッドが覗きに来た。
「終わった? 今日、社長が見てもらいたいものがあるって」
「新しい検査?」
「装置の方。先輩は座って見るだけでいいって、三回言ってた」
「前にも三回、注意されたことあるな」
「今回は私も聞いたから、忘れたことにはできないよ」
笑ってから、レッドは俺の歩幅に合わせた。
廊下を早く歩かせないように、というより、早く歩く必要がないように。
こういう気の遣い方をされると、礼を言うタイミングを逃す。
「……ありがと」
「ん?」
「なんでもない。あとで説明する」
「それ、気になるんだけど」
結局、隣を歩いてくれていることだと説明した。
今さら、なんでもないとごまかすのは無理だった。
*
作業室の画面には、銀色の俺が映っていた。
今の俺より、ずっと元気だ。
赤い線が入った肩を振り、長い剣を引いている。
以前、商店街で戦った時の映像だった。店の防犯カメラと、道の向こうから撮られた動画が、同じ時刻に揃えてある。
「映像と、装置内の動作記録を合わせた。身体を使った試験ではない。今日は仕組みを知ってもらう」
持参したプロトジャスティスチェンジャーを、点検のために机へ置いてもらった。
外縁の大きな傷は浅くなっている。それでも完全には消えていなかった。内部に影響しない部分は、削りすぎず残したのだという。
「ありがとうございます」
「礼は、話を聞いてからでも遅くない」
レイマが椅子を引いた。
俺が座ってから、画面を動かす。
映像の俺は、左手首へ右手を伸ばした。
ダイヤルを回す。中央を押す。
赤い線が消え、青い光が胸を走る。
録音の電子音が、小さく部屋へ流れた。
右手にあった長剣が光の粒へほどけ、代わりに銃の輪郭が組み上がる。
何度もやってきた動きだ。
その途中で、映像が止まった。
「ここだ」
俺は身を乗り出しかけ、右肩をかばって戻った。
銀の前腕に、細い隙間が見える。
いつもの可動部とは違う。装甲が開いて、次の形に噛み合う直前の状態だった。
「武器だけではない。出力の振り分けも、装甲の配置も変わっている。切り替えは一瞬に見えても、完全に繋がったままではない」
「どのくらいですか」
「今の構成では、およそ一秒」
一秒。
短い、と思った。
次に、あの車の陰で膨らんだ光を思い出した。
短いかどうかなんて、誰が何をしている一秒かによる。
「武器が消える時間は、相手の踏み込み一歩分で見てました。装甲のどこまで開くか、そこを知りたいです」
俺は画面の肘と肩を指した。
次の映像では、敵の腕を払い上げてから切り替えている。別の映像では、相手を角の向こうへ蹴り戻してから。武器が使えなくなる間に攻撃されないよう、敵が体勢を立て直している隙に切り替える。
ずっとそうしてきた。ただし、中身の仕組みまで見えていたわけではない。
「主に肩の外縁と前腕だ。君が間を作ってきたことは記録にも出ている。問題は、その間へ飛び込める相手だ」
「この破片、剣で防げないだけじゃなくて、装甲の継ぎ目まで通ってる」
ブルーが、商店の庇から破片が飛んだ場面を止めた。
敵の腕は届いていない。だが、肩板の閉じる直前に破片が挟まっていた。
「なるほど。相手を止めるだけじゃなく、周りから飛ぶものも遮る必要があるのか」
「こっちの援護を入れるなら、その肩側だね」
「頼む。俺が前なら、そっちの死角を潰す」
実戦で一秒ほどだと感じていた間隔が、図面でも確かめられた。
経験がなくなったわけではない。知らなかった穴を、今なら埋められる。
オメガ戦の映像も、短く確かめた。
紫へ切り替え、跳び出している。
肩に被弾した時には、切り替え自体は終わっていた。
それを見て、ほっとした自分が情けなかった。
原因が一つ見つかれば、そこを直せば済む気がしていたのだ。
「あの負傷を、切り替えの隙だけで説明することはできない。紫の構成は軽く、速い。その分、正面から受け止めることには向いていない」
止まった画面の銀色が、こちらを向いていた。
右腕を伸ばし、黒い背中との間へ入ろうとしている。
「速く行かなきゃ、間に合わないと思ったんです」
「そう判断したことと、そこからどう受けるかは、別に考えなくてはならない」
静かな声だった。
俺は膝の上の左手を開いた。
あの時、黒騎士が本当に間に合わなかったのかは分からない。
俺には、間に合わないように見えた。
だから動いた。
そこまでは、今でも間違いだったと言い切れない。
けれど、同じことを同じやり方で繰り返していいとは思わなかった。
「受け流す角度まで足りなかった。次は、進入する線から変えます」
「うん。戻ってくるところまでね」
レッドが、画面から俺へ目を移した。
俺は頷いた。
*
レイマは、三つの小さな模型を並べた。
赤い剣。青い銃。紫の短い刃。
ひとつの武器の、三つの姿だという。
「同時に全部を握ることはできない。型を変えて使う。映画のように剣を地面へ置いて銃を取り出すと、置いた剣の方が消えるので気をつけたまえ」
「最初の頃、やったことあります」
レイマの指が止まった。
「足場にしようとして」
「えっ、乗った?」
「乗る前に消えた」
「未遂でよかった」
あの時の俺は、とても賢いことを思いついた気でいた。
乗っていたら、足場を自分で消して転ぶところだったらしい。
赤は、エッジ。
長いエッジブレードを振るために、腕と胴を支える。殴られて平気になるわけではないが、踏ん張って刃を通す時には頼もしい。
青は、スコープ。
スコープライフルで遠くを狙う。ただし、見えないものが見えるようになるわけではない。照準を追い続けると頭が重くなるのも、気のせいではなかった。
「高出力は続けて三発まで。その後は、最低でも二十秒の冷却が必要だ。熱が逃げない場所では、もっと待つ」
「三発撃つ前に止めれば?」
「余裕は残る。ただし、前の戦闘で何をしたかにもよる。弾数だけ数えて熱を忘れないように」
紫は、シフト。
足を押し出す速さは頼りになる。でも、止まる地面も曲がる距離も必要だ。
強く加速できるのは最大八秒。
その先で無理をすれば、膝と平衡感覚が先に悲鳴を上げる。
「最初に八秒近く使った時、足元がふらついたんです。それからは六秒で切り上げてました。さっきの上限の話、あれだったんですね」
「その記録も渡してほしい。今の身体に合わせた安全域を測り直そう」
「説明を受ける相手が、道端で倒れそうになってたので」
沈黙。
「今のは、先輩の勝ちかな」
「勝ち負けの問題ではない! 今、説明している!」
その通りなので、俺は素直に続きを聞いた。
身体で覚えた限界を、数字と照らし合わせる。
二年使ってきた俺の記録と、作った人の知識が、ようやく同じ机に揃った。
*
最後に、装置を左手首へ戻してもらった。
右手が使いづらいので、今度も留め具はレイマに頼んだ。
中央が短く明るくなる。
手首に、熱というほどではない温かさが戻った。
「ただいま、でいいのかな」
「戻ったのは、そっちだけど」
「おかえりか。そうだな」
言い直すと、レッドが小さく笑った。
変身の動作はしない。
俺は左腕を膝へ置き、固定の外れた時間だけ動かせる右肘を、身体のそばに寄せた。中央へ指を伸ばす代わりに、少し手前で止める。
押すだけなら簡単だと思っていた。
今は、そこまでの姿勢にも意味がある。
指を伸ばすために肩を捻らない。手首の方を低く近づける。痛いなら、やめる。
「実際に操作するのは許可が出てからだ」
「分かってます。今日は、届く場所を見るだけ」
レイマが頷く。
そのあと、避難路の図面を見せてもらった。
商店街の裏に、狭い段差がある。現場へ走っていた頃は何でもなかったけれど、今の俺ならそこで足を止める。
車椅子なら、もっと困る。
「こっちの通路、迂回した方がいいです。荷物が積まれてる時もあるので」
係の人が印をつけ、現地確認の欄へ書き込んだ。
続いて、本部の地図と俺が現場で使う呼び方を照合する。同じ裏口でも、車が通れる側と人だけが抜けられる側がある。俺が二つを分けて伝えると、係の人は地図の記号を変えた。
変身していない俺の声で、誰かが迷わず動ける。
それを確かめる仕事なら、今日もできた。
帰り際、レッドが作業室の扉を押さえた。
「一秒、どうする?」
俺は廊下の先を見た。
開いたままの扉。
曲がり角。
人が立っていたら、向こうからは見えない場所。
「今まで通り、先に相手を崩す。飛んでくる破片もあるなら、壁の位置まで使う」
「誰かに守ってもらうのも、ありだと思うよ」
「なら、合図を決めよう。俺が敵の腕を押さえてる間に、そっちが斬り込む時も使える」
「いいね。そこまで開けてくれるなら、私も思いきり行ける」
レッドが、空いた手で短く剣を振る真似をした。もう、斬り込む場所を決めているような顔だった。
一人で切り抜ける方法は持っている。
並んで戦えば、一人では作れない攻撃する隙も作れる。その相談だった。
廊下へ出たところで、胸の傷がわずかに引きつった。
歩幅を小さくする。
レッドも同じだけ遅くなった。
今も、もう頼っていた。
気づくのに、一秒どころではなかったけれど。
その日の夕方、現場の回収記録が追加された。
職員の人が、部材の数が合わないと言っていた。
端末で映像を確認していたレイマが、一度だけ再生を止めた。
瓦礫の下に、細い腕のようなものが映っている。人の腕にしては、関節の位置がおかしかった。
「……回収用の機材か?」
画面を進めると、粉塵の向こうへ消えた。
その時はまだ、それが何かを見ていたことまでは、誰にも分からなかった。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。
浮かんだことがあれば、まとまった文章でなくても気軽にどうぞ。