「まだ誰も呼んでないよ?」
「……」
「自分から来た」
休憩室の自動販売機と、三分ほど睨み合っていた。
欲しい飲み物は下から二段目。問題は買うところではなく、取り出すところだった。右肩をかばって左手だけで屈むと、身体の支えがひとつ足りない。膝を曲げればいいだけなのに、妙に慎重になる。
缶ジュース一本取ろうとして転んで再入院、は避けたい。担当の先生に合わせる顔がない。
「何やってんだ」
扉のところに、男が立っていた。
顔を見るのは初めてだった。声の方は、戦場で何十回も聞いている。短く怒鳴られただけで、俺がどっちへ抜ければいいか分かる声。最後に背中を引っ張られた時の感触まで、一緒に戻ってきた。
「……黒騎士?」
「ここでもその呼び方かよ」
「ほかに知らないから」
男は俺の右腕に目をやって、自販機の前まで来た。
「どれだ」
「いや、自分で取れる」
「選べるかどうか聞いてんだよ」
選べる。
大変失礼しました。
俺が指した缶のボタンを押して、男は取り出し口に手を突っ込んだ。財布を開こうとすると、あとでいい、と先に言われる。
「あとでって、忘れるだろ」
「じゃあ今」
左手で小銭を出して渡した。待っている間、男は何も言わなかった。
急かされないだけで、こんなにやりやすいのか、と思った。
オメガとの戦いから三週間。翌週には退院が決まっている。通院は続くし、変身しての実戦も許可は出ていない。ただ、家の布団で寝られる日は、もう見えてきた。
目の前の黒騎士が今どういう扱いになっているのか、俺は知らない。ただ、両脇を誰かに掴まれているわけでも、手錠をかけられているわけでもないのを見て、少しほっとした。
「座る?」
「お前が座れ」
ごもっともだった。
俺が窓際の椅子に腰を下ろすと、黒騎士はひとつ空けて隣に座った。缶の蓋を開けようとして、指が滑った。無言で手が出てくる。缶を渡すと、開いて戻ってきた。
「悪い」
「さっきからそればっかだな」
「ありがとうに変える。ありがとう」
返事はなかった。
でも、立ち上がる気配もなかった。
*
「なんで、あそこに入った」
先に口を開いたのは、黒騎士の方だった。
聞かれるだろうとは思っていた。本人に会う日が来たら、いつか。
「俺が行けると思ったから」
「そういう話じゃねぇ」
「分かってる」
窓の外に、街の屋根が並んでいる。崩れてもいないし、逃げる人もいない。あの日とは違う屋根だ。
「お前の後ろに、逃げ遅れた人が見えたんだ。そこへ横から光が来て……このままじゃ間に合わないって思った」
思い出しながら、言葉を探す。
「お前ならどうにかできたのかもしれない。でも、あの時は、俺が助けたかったんだよ」
「それでお前が寝込んでどうすんだ」
「うん。そこは、悪かった」
黒騎士は腕を組んだまま、こっちを見ていた。
いつもみたいに言い返す気には、なれなかった。
「次は、俺も無事に戻れるようにする」
「次がある前提で話すな」
「……それもそうだな」
苦笑すると、黒騎士はようやく目を逸らした。
「分かったなら、さっさと治せ」
缶を持ち上げて、一口飲んだ。
「でもさ。黒騎士がいるから、俺は何もしなくていいってのも、違うと思うんだ」
黒い目が、こっちに戻ってきた。
「別の場所で誰かが困ってたら、そっちは俺が行きたい。前からそうしてたし」
「……好きにしろ」
いつもなら、突き放されたと思う言い方だった。
でも、続きがあった。
「こっちまで来て、余計に怪我すんな」
俺は笑った。胸にはもう響かなかった。
「そっちもな。俺、まだ走れないから」
「頼んでねぇ」
頼まれてはいない。確かにそうだ。
ただ、別々の方角へ行っていい、と言われた気はした。
「……それと」
黒騎士は、窓の外を見たまま言った。
「借りは、まだ返してねぇからな」
「借り?」
「庇われた分だ。勝手に貸しといて、勝手に寝込みやがって」
貸したつもりはなかった。
そう言ったら怒られる気がしたので、黙って頷いた。
「あ、そうだ。ブルーに動画見せてもらったんだけど。『黒と銀、正義の最強コンビ』ってやつ」
「忘れろ」
「まだ何も言ってない」
「忘れろ」
二回言われた。
この話題は、たぶん二度と出さない方がいい。
*
帰り際、男が扉の前で振り返った。
「穂村克己だ」
「え?」
「名前。黒騎士って、いちいち呼ぶな」
穂村克己。
どこかで聞いた気がした。けれど、いつ、誰から聞いたのかを考えると、そこだけ指の間をすり抜けるみたいに掴めない。名前だけが引っかかって、その先が出てこなかった。
「俺は此花奏斗。奏斗でいいよ」
「此花か。知り合いと同じ名字だ」
「そうなんだ。珍しい名字なのに」
握手しようとして右手を出しかけ、固定具を見て止まった。克己も同じところを見ていた。
「その腕で握手しようとすんな。痛ぇだろ」
「握手を断る理由が、妙に具体的だな」
返事の代わりに、扉が開いた。
出ていく背中に、今度は間に合わせた。
「缶、ありがとう」
向こうを向いたまま、片手だけが上がった。
顔も名前も、今日まで知らなかった。それでも、あいつが戦っている街なら任せていいと思えるまでには、二年近くの積み重ねがある。今日は、何度も同じ戦場に立った戦友と、初めて素顔で話しただけだ。
次に会った時に呼べる名前が、ひとつ増えた。
ふと、灰瑠が学校の話をしていた夜のことを思い出した。同じクラスの子がどうしたとか、席が近い子と何を話したとか。夕飯の時に聞いて、俺も相槌を打っていたはずだ。
その中に、似た名前があった気がする。思い出そうとすると、そこだけが白く滲んだ。食い違った記憶を無理に重ねようとしているみたいで、気味の悪い違和感だけが残る。
缶をもう一口飲んだ。
考えすぎだ。今日分かったのは、黒いスーツの中身が克己という名前だってこと。それで十分だ。
*
退院の日、玄関で灰瑠に言われた。
「おかえり。お風呂、今日は私が先ね」
感動の再会は、入院中の面会で済ませたらしい。
いや、これでいい。家に帰ってきた実感が、一気に来た。
「どうぞ。俺、時間かかるから」
「知ってる。着替え、上に置いといた」
自分の部屋に戻ると、机の上にプリントが積まれていた。出発前より明らかに背が伸びている。俺の身長はそこまで伸びなかったのに、こいつらときたら。
「灰瑠ー。これ、全部?」
「うん。出すのと、読んどくの、分けてある」
親切だった。親切すぎて逃げ道がなかった。
しおりを本に戻した。病室で先に届いた小さな紙が、ようやく本来の仕事に戻る。机の引き出しに柔らかい布を敷いて、チェンジャーをしまった。家の中でずっと着けていると、さすがに目立つ。
装置を家に持って帰れても、勝手に出ていっていいとは誰も言っていない。病院で、何度も念を押された。
翌日から、短い時間だけ学校に顔を出した。
荷物は減らして、混む階段は避けて、肩にぶつかりそうな人が来たら立ち止まる。何があったのか聞かれると、戦いに巻き込まれて怪我をした、と答えた。それだけで十分驚かれた。
銀騎士だと付け足したら、廊下の端まで騒ぎになるだろう。
実際、なりかけた。
二時間目のあと、隣の席の男子が携帯を突き出してきたのだ。
「此花、見た? 銀騎士、公式に追加戦士になったって」
「追加じゃない」
口が先に動いた。
「前からいたんだよ。三人より先に、別の街で。二年くらい」
「……詳しいな」
詳しいに決まっている。本人なので。そいつが、じっとこっちを見た。俺の右肩の固定具を見て、もう一回顔を見た。
「お前、ネット見ないって言ってなかった?」
「……入院中に、見せられた」
「あー。入院って暇だもんな」
勝手に納得してくれた。助かった。そいつは満足そうに携帯をしまって、前の席の友達に「銀騎士、前からいた追加戦士なんだって」と伝えた。
追加戦士の件は、何ひとつ訂正されなかった。むしろ、一人分広まった。
それでも、正体よりはましだ。学校と家は、俺が銀騎士じゃなくていられる場所だった。そこでくらいは、名前で呼ばれる、ただの此花でいたい。
昼休み、携帯に写真が一枚届いた。レッドからだった。学校の裏手の、段差を避けて通れる通路が写っている。文章は短い。こっち、空いてるよ。
学年も教室も違う俺たちは、同じ学校でもそうそう顔を合わせない。そのかわり、こういう助けられ方があった。
礼を返してから、三人のツムッターを開いてみた。入院中、葵に「公式の一次情報」と言われて登録させられたものだ。
プリンの写真には、九万を超えるハートが付いていた。黒騎士の機嫌は、たぶん今日も悪い。
俺の伝言には、いつ、どこで言ったのかが一つも書かれていなかった。正体を守るための、きららの気遣いだろう。
それから、入院中に教わった動画のページを開いた。俺より評判のいい俺がいる場所だ。ついでに、その動画について話している掲示板も覗いてみた。
覗いてしまった、と言うべきかもしれない。
*
【黒と銀、最近どうしてる? 公開映像だけで話すスレ】
181:名無しの観測者
銀、最近見ないな
昔の切り抜きばっか上がってくる
182:名無しの観測者
オメガの時に吹っ飛んでたのは見えた
そのあとは知らん
勝手に殺すなよ
183:名無しの観測者
そもそも毎日怪人出なくていいだろ
休ませろ
184:名無しの観測者
戦隊が出る前、黒派と銀派で毎晩殴り合ってた頃が遠い昔に感じる
185:名無しの観測者
黒が殴れば終わる派です
今もです
186:名無しの観測者
銀の装甲が開いて色が変わるのがいい派です
今もです
187:名無しの観測者
仮面ライダー好きとメタルヒーロー好きが同じスレにいる時点で終わらないんだよ
188:名無しの観測者
そこに戦隊が来て余計に終わらなくなった
189:名無しの観測者
銀は追加戦士でしょ
武器も色も変わるし、あの三人と並んで違和感なさすぎ
190:名無しの観測者
待て
銀は三人が出てくる前からいた
先にいた人を追加するな
191:名無しの観測者
先に登場する追加戦士
概念として強い
192:名無しの観測者
本人の承諾は?
193:名無しの観測者
知らん
194:名無しの観測者
急にまともになるな
195:名無しの観測者
ていうか黒がいる地区と銀がいる地区、同じ時刻で分かれてる日けっこうあるぞ
争ってたんじゃなくて普通に分担してただけでは
196:名無しの観測者
争ってたの俺たちだけかよ
197:名無しの観測者
それはそう
*
携帯を伏せた。
勝手に争って、勝手に納得している。俺が寝ている間にも追加戦士の採用手続きが進んでいるのかと身構えたが、最後の方は意外と正しかった。
承諾は、していない。誰にも聞かれていないので。
それから、二か月が過ぎた。
その時間は、訓練動画みたいに気持ちよく早送りできるものじゃなかった。上がった腕が翌朝には重い日があった。課題を片づけたら次の課題が来た。病院では可動域を測り、本部では出力を絞った試験を繰り返す。痛みが出た日は中断して、日付を書いて、次に回す。
装甲の見た目は、思っていたより早く元に戻った。
中に入る身体の方は、そうはいかなかった。
レイマさんは毎回、数字と一緒に俺の顔を見た。三人も、出力を上げてみようとは一度も言わなかった。
変身の動作も少し変えた。左手首を低く持ってきて、右肘は身体のそばに寄せたまま、中央に指を届かせる。派手なポーズにはならない。
でも、装置はちゃんと応えてくれた。
瓦礫の回収現場で部品の数が合わない、という報告は、その間も時々上がってきた。
あの細い腕が何だったのかは、まだ分かっていない。
そして、次の診察が復帰判定になると言われた夜。プリントの最後の一枚を閉じたところで、携帯が鳴った。レイマさんからだった。
『明日の判定が通ったら、その足で沿岸の待機車両へ来てほしい』
続けて、もう一通。
『海に沈めたマグマ怪人が、戻ってくる。黒騎士と三人で沖を叩く。君には陸側の避難路を頼みたい』
引き出しの中で、丸い装置がひとつ、光った。
まだ、取り出さない。
「判定が通ってから」
装置に言ったのか、自分に言ったのか。
どっちでもよかった。
「おい。後書きにまで呼ぶな」
「缶のお礼、ちゃんと言えてなかったから」
「言ってただろ、扉のとこで」
「……聞こえてたんだ」
「……」
「片手だけ上げて帰ったところ。ここすきを押す準備はできてる」
「押すな」