あの子と出会ったのは、俺がヘリコプターと綱引きをしていた時だった。
ここはトレセン学園近くの小さな公園。その入口に、少女が立っていた。
見る者を圧倒する存在感。
こちらへ向かってくる。彼女の周りの空気が、歪んで見えるような気さえした。
彼女は初め、目を丸くしていた。俺は真後ろに視線を向けるが、何もない。強いて挙げるなら、小型の滑り台くらいである。
彼女が着用するトレセン学園のジャージを見て、何者なのかを思案する。見たところ、高等部の子のようだが。
「あなた、随分と……無茶なトレーニングをしていますのね。しかも、スーツで」
なんと、彼女はいきなり話しかけてきた。一瞬、何を言われたか思案するが、何も分からない。
ヘリに乗る友人に綱を全力で引っ張らせているため、頭を回す余裕がないのである。
彼女は悠然と歩みを進め───やがて、俺の目の前へと迫った。柔軟剤の香りが、鼻腔をくすぐる。
彼女は微笑を絶やすことなく、俺の持つ綱を少し下から握り込む。
紅の瞳が、悪戯っぽく細まった。
「少し、お時間いただけますこと?」
───突如、彼女の身体が鋼のごとく尖った。
思い切り、身体を捻ったわけではない。
まして、強く呼吸を合わせたわけでもない。
何の工夫もない。
ただ、在った。
ヘリコプターの『脚』
綱を括り付けていた部位が外れ、嫌な音を響かせる。
「……あら、力を入れすぎてしまったわ。……あなた、『敢えて壊さないようにもしていたのね』」
クスクスと、少女は可愛らしく笑う。
綱を握っていた手から、ふっと力が抜けていく。
そこで俺は、ようやく事の重大さを理解した。
圧倒的な膂力。筋肉の微細な動きすら見切る観察眼。
俺の眼前には、類稀な『天稟』があったのだ。
落っこちてきた『脚』を掴み、俺は唾を飲み込んだ。……これ、いくらするんだ。
その後喫茶店に連れていかれたが、ティアラ路線志望っぽかったので帰った。俺は短距離以外に興味がない。
FILE2『過去』
「我が君……じゃなかった、伊龍さん。おはようございます」
「む……おはようございます」
ヘリ代が思いのほか高く、そのショックを引きずっていた俺は、ようやく背後からの挨拶に気がつく。
「ええと……な、何をしてらっしゃるんです?」
聞き覚えのある声。あの子だ。
俺は倒立し反転した視界のまま振り返り、その姿を目視する。
「スケボーの使い道について考えていました。なにかトレーニングに使えないかと」
「……あんまり見ないですよ。スーツでスケボー着けたまま、三点倒立する人」
体勢の都合、顔は見えないが呆れている様子だ。
「ところで……何か用でしょうか」
ハンドスプリングの要領で身を翻し───スケボーを着けていたことを忘れ、後頭部から転倒した。
デュランダルは期待のスプリンターだ。
短距離にも関わらず、追込で挑むという変わったウマ娘。
俺が初めて持った担当でもあった。
「あの頃は迷惑をかけましたね」
「……いえ、私も子供だったんです。ただちょっと、あなたが褒めるのがヘッッタクソだっただけで癇癪を起こしたばかりに……」
「いえ、俺の語彙がもっと豊かであったなら、始末書と見つめ合う日々は訪れなかったでしょう」
俺は遠い空に、あの日の幻影を映す。
この俺にも、悲しき過去───
デュランダルは優秀な子だ。俺のトレーニングメニューが噛み合い、素晴らしい成長速度をしていた。
短距離だけでなく、マイルすらも破壊し尽くすだろうと、当時は踏んでいた。
しかし、俺は知らない。
デュランダルは、褒められるのが好きだったこと。
そして俺が、褒めることが不得手だったこと。
過度な賞賛や慰めは毒。
『何も考えなくていいからね。私がずっと守るからね』
だが、最も求めていることをしてもらえないこと。その苦痛は……よくわかる。
『我が君! 『鎧纏い素潜り』、必ずや生還してみせます!』
『我が君〜! 勝ちま……おほん。この勝利、あなたに捧げます』
騎士ごっこが興じて俺を『我が君』と呼ぶ彼女は、我が子のように可愛かった。
『ご苦労さまです。もっと負荷を増やしてもいけそうですね』
『タイムは縮まりましたね。しかし、ラストの詰めが───』
練習終わりや、レースに勝った時。彼女はいつも何かを待っていた。
俺はそれが何なのかわかっていながら、見ないふりをしたのだ。落胆を隠せないデュランダルに、かける言葉が見つからなかった。
───デュランダルが限界を迎えたのは、デビューし、ジュニア級も折り返しといったタイミング。
『もっと褒めてくださいよ! 褒めて褒めて褒め褒め褒め褒め褒めて褒めて!』
壁走りのトレーニング中、急に立ち止まったデュランダルが叫ぶ。駆け寄った俺に泣き喚き、俺の胸をぽこぽこと殴りつける様は、とても普段からは想像もつかない姿だ。
俺は、雷が脳天に落ちたような衝撃を受けた。
俺は過ちを犯してしまったのだと、否が応でも見せつけられた。
今まで彼女にかけた言葉が、どれだけ無味乾燥に感じたことか。
俺はつい、立場を忘れ、彼女を抱き締める。
そして腕の中で泣くデュランダルに、できる限り最大級の賛辞を送った。
『君の走りは……海から飛び出したトビウオを捕らえるウミネコのようだ』
『ヘタクソ!!!』
俺は初めて、親父以外に殴られた。
───ノックアウトされ、暗転した視界が現在に舞い戻る。
俺を支えるデュランダルが、ひとつ咳払いをした。頭を打った衝撃で、幻覚を見ていたようだ。
「……また練習、見に来てくださいね。お、お忙しいでしょうが……」
照れるように、デュランダルは笑う。
その笑顔は、担当になって始めの頃に見たものと同じ───和解を意味していた。
「ありがとうございます……必ずや」
俺は絞り出したものの、少し言葉につまる。
その理由を、彼女は知っているだろうか。
どうか、知らずにいて欲しい。
保健室に着くと、彼女は足早に立ち去る。
曲がり角に消える直前、彼女は可愛らしく手を振った。
俺はそれを、どこか遠い目で見ていた。
もう、俺が教えることはない。
それが嬉しい。
それと同時に、少し寂しかった。
思わず、追いかけるか迷い、やめる。
彼女には、もう彼女の道がある。
俺はそう自分に言い聞かせた。ここで止めては、母と同じになってしまう。
俺は丸メガネをくいと上げ、保健室のドアを開けた。
───俺はトレセン学園のグラウンド出禁である。
♢『旧友』
自室で手紙の整理をしていると、見事に身内のものと、眼鏡ショップの年始のご挨拶しか無かった。
眼鏡を使わないにも関わらず、だ。
身内のものと見比べてみると、意外と紙にも違いがあるものだと感心する。
「紙会社に感謝でも伝えに行くか……善は急げ。今行こう」
そう思い立ち、玄関まで行くと手紙が刺さっていた。
『───校舎裏に来い』
ただ、それだけだった。差出人は不明。
……カツアゲか?
俺は背筋に冷たいものを感じながら、いそいそと着替える。
念の為、アレは持っていくとしよう。
「あ、我が君……じゃなかった、伊龍さん! おはようございます」
通りがかりにこっそりグラウンドを覗いてみると、そこにはデュランダルが練習をしている姿があった。
俺を見つけるなり、昔と同じ呼び方をしようとしたので呆れる。まるで久しぶりに会った飼い犬のようだ。
俺は手を挙げ、挨拶を返す。
「おはようございます。ランニング中ですか?」
「ええ。トレーナーさんがどこかへ行ってしまわれたので、待ってる間にと」
「なるほど……フォームは崩さないように気を付けて。それと、好き嫌いなく食べていますか?」
「…………き、騎士に好き嫌いなどありませんよ?」
ただでさえ消費カロリーが異次元のウマ娘が、選り好みしていては事だ。
トレーナー時代、口酸っぱく言っていたのが懐かしい。
しかし、俺はもう託してしまった。
この子の未来は、あのトレーナーに───
「というか、何ですかその長い日本刀───」
「───早く来なさいよ! 何道草食ってるわけ!?」
その声は件のトレーナーのものだった。
あまりに小柄すぎて、俺の真後ろに来るまで気が付かなかった。
───驚いた俺は、十メートルほど飛び上がる。
「しまった、でかい図体の割に繊細な奴なのを忘れてた……」
結論から言おう。あの手紙の送り主は、デュランダルのトレーナー、そして俺の同期、古賀藤子であった。
真面目な彼女が、一体どういう意図であんなメッセージを? 取り越し苦労で銃刀法違反してしまったじゃないか。傍らに刺さる日本刀が、没収されないことを切に願った。
俺は着地した衝撃で半身を埋めたまま、古賀に話を促す。
古賀は悔しいやら、憎らしいやら。
顔を歪め、拳を握りしめた。
「デュランダルに……関わるのをやめて」
俺は鼓動が跳ねるのを感じた。
───『至極ごもっとも』である。
俺が関わることが、彼女にとってプラスに働くとは思えないからだ。
「……承知し」
「何で! 何でですか?!」
俺が答えようとすると、デュランダルが割って入った。
その勢いで俺の顔に、愛らしいしっぽが叩きつけられる。
「……だって、ズルいんだもの」
「……へ?」
「顔がちょっと怖い以外に特に欠点もない癖に、デュランダルの心まで独り占めしちゃってさ! デュランダルに先に目をつけていたのは私なのに!」
「ト、トレーナーさん!? ……ひ、独り占めなんてされてませんよ?」
涙ぐむ古賀。慌てふためくデュランダル。
突如として湧いた混沌に、練習中だったウマ娘たちが思わず立ち止まる。
古賀は元来、人をこき下ろすことは不得手という、俺とは真逆な人間である。
彼女の激情が珍しく、俺は面食らう。
「嘘おっしゃい! 昨日の練習中だって、目線が事務室の方に十五回くらい向いてたわ! ……伊龍。この間のレース、見たでしょう。デュランダルの成長率は、はっきり言っておかしいわ」
強い怒り。
しかし、それは俺に対してではない。
「そんな素晴らしい才能の持ち主に……こんな私がついていけるわけがない。そう言いたいんでしょ!」
「す、素晴らしいだなんて……へへ」
こいつ、褒められれば何でもいいのか?
「私が考えるメニューより、伊龍が考えたメニューを改良した方が効率もいいし……何なのよヘリコプターと綱引きって! どんな頭脳をしてたらそんなこと思いつくのよ!」
「落ち着いてください。それはこの人がおかしいんです」
俺は知っている。
優しい人間は、ストレスを極限まで溜め込む。
俺は頃合いを見て、口を開いた。
「……古賀さん、確かに、あなたは小さくて小柄、そのうえ歩いていれば視界にも入りません」
「ばかにして……」
俺はその、普段は理知的な瞳をしかと見つめる。
切り揃えられた黒髪から覗く、強く、真心に満ちた眼。
俺は彼女のその眼が、昔から好きだった。
「あなたは……上手く言えないな。例えるなら───俺は牛鬼、あなたは座敷わらし、と言った具合です」
静寂。
まずい、言葉選びを間違えたか。
その静寂を打ち破りしは───
「───つまり、お互いに違う、良いところがあるって言いたいのね」
古賀の言葉に俺が首肯すると、デュランダルは目を丸くした。
「じゃあそう言えばいいのに……」
「……俺の語彙はどうでもいいのです。 ……その、とにかく。あなたは! 自信を持ってデュランダルさんのトレーナーをすればいいのです!」
はっきり、そう伝える。
慎重に、傷付けないよう、ゆっくり。
俺にとっての『毒』は、必ずしも害になるとは限らない。それを教えてくれたのは、またしてもデュランダルだった。
古賀の気持ちはよくわからない。
なぜそこまで自分を卑下するのか。
断片的にだが、俺は見ていた。
誰よりも丁寧に、デュランダルのストレッチの補助をしていたこと。
自分はダメだと言い張りながら、次の日にはより洗練された練習メニューを仕上げていたこと。
力が弱い。身体が小さい。
そんなもの、大した問題ではない。
古賀が視線を彷徨わせる。すると、先に口を開くのはデュランダルだ。
「古賀トレーナー。……この人の言う通りです。私は……いえ、あなたを選んだのは、他でもない私なのです。だから……そんなに自分を貶めないでください」
「……デュランダル。でも───」
「───でもじゃないです! 私はあなたが良い!」
ぽかんと、呆気にとられる古賀。
デュランダルは泣きそうな顔で、真っ直ぐ古賀を見つめていた。
「いくらでも褒めて欲しい! 何故なら嬉しいから! そのためなら何だってやれます! だから……」
声が、途切れる。
普段からは想像もつかない言動は、きっと紛れもなく本心なのだろう。
二の句は無い。だが、それだけで充分だろう。
「あなたは、デュランダルが一番求めていることを無自覚に出来ている。……何より、結果が出ている。それの何が不満なのか、俺はわからん」
ちょっと本音が漏れた。
「───ッ」
古賀の涙腺が脆く崩れ去った。
「……伊龍。……ごめんなさい。私、不安に耐えられなくて……あなたに原因を求めてしまったのだわ。指導者として情けない……ッ!」
デュランダルが後ろから、古賀の肩を支える。
その目は、最早真っ赤である。
こうして並んでいると、背丈もほとんど同じだし、姉妹のように見えた。
「デュランダルもごめんね。……あなたの成長スピードが異次元だったから、置いていかれるかもと不安になっていたわ」
「んふっ……い、いいんですよ、トレーナーさん。これからも二人三脚で精進していきましょう」
「うう……、デュランダル〜!」
古賀は感極まったのか、デュランダルをすっと抱え上げ、くるくると回り始めた。
まるで、元々わだかまりなど無かったかのように。
遠巻きに見ていたウマ娘たちも、うんうんと感動しているように見える。
───その時、ふっと肩から重みが抜ける感覚に見舞われた。
……そうか、俺はずっと、二人のことが心配だったのだ。
だが、もう問題無さそうだな。
俺は安堵し、笑う。
俺を唯一負かした女が、こんなことで悩むんじゃない。
暫しの間、担当とトレーナーの友情を見せつけられることとなった。
暫くしてトレーニングを終えた二人を見送り、俺はため息をつく。
まったく、少し妬けるな。
だが、これで良かったのだ。まぁ、ひとつ文句があるとするなら───
───なんで誰も、俺が埋まってることに触れない?
褒められなさすぎて禁断症状