FILE 3『残業』
夜は更け更け。ようよう白くなりゆく山際は、部屋のカーテンによって完璧に遮断してあるので、俺には関係の無い話である。
うかつにも誤字を見逃してしまったせいで先方からこっぴどく怒られた俺は、曲がりなりにもトレセン学園の事務員だ。
「だからといって日報の書き直しをさせられるのは納得がいきません。これは不当な扱いです」
「流石に生徒の名前全間違いは許容範囲超えてますって」
カリカリとシャーペンを滑らせ、我ながら達筆な文字で日報を埋めていく。例のごとく、俺はPCの使用を禁じられているからだ。
横で珈琲を注いでくれているのは、頼れる先輩の駿川たづなさんだ。厳しくも優しい彼女は、自分の仕事は既に完了しているにも関わらず、俺の残業に付き合ってくれている。なんでも、放っておけないのだとか。
「この間は目を離した隙に消えるし、消えたと思ったら事務室をめちゃくちゃにしていましたからね」
「あれは……色々あったんですよ」
「おおかた、怖い夢でも見て驚いたんでしょう」
「…………」
その通りであった。
しかし、俺は異議を申し立てたい。怖い夢を見て驚き、寝惚けて机を台パンで破壊したのは確かだ。
だが……あれ? 異議申し立てる要素無いな。素直に謝ろ。
俺が真剣な表情で駿川さんの方を向くと、駿川さんは訝しげにこちらを見返す。
俺は思わず、口をあんぐりと開けて呆けてしまった。
「……な、何ですか。違うなら違うとはっきり……」
駿川さんの背後には、大きな口だけの女が立っていた。
「……駿川さん、帰りましょう」
俺は至極冷静だった。最近までお化けと人間の区別すら付いていなかった俺だが、ここは一刻も早く逃げるべきだと理解した。
「へっ!? ちょ、ちょっと……!?」
「理由は聞かないでください。さぁ、早く」
駿川さんの両肩を掴み、必死に訴える。しかし、駿川さんは何処か視点が定まっておらず、反応が鈍い。
駿川さんの視線の方へと、ゆっくり視線を向ける。俺の少し後ろだった。
そこには、大きな口だけの女が立っていた。
正面を見直す。
そこには、大きな口だけの女が立っていた。
「───警備員さん!!! 曲者です!!!」
俺は迷いなく、監視カメラに向かって叫んだ。
サイレンが遠慮がちに鳴り響き、近所に居ても快適な睡眠をお届けする。緊急時に気にすることかそれは。
「駿川さん、何をぼーっとしているんですか。……とかく、俺の後ろを見張って……大丈夫ですか? 顔が赤いですよ」
「……何でもないです。後ろの彼女を見張っていればいいんですね?」
上目遣いに睨まれるが、俺はその後ろの口だけ女に視線を注がねばならない。こう囲まれていては、身動きが取れない。どうしたものか……。
五分後。
普通にまだいる口だけ女に、俺は少々辟易としている。何せ、襲ってくるわけでもなく、ただ居るだけなのだから。かと言って、迂闊に動くことも出来ない。ここで暴れたら、事務室に埃が舞ってしまうからだ。
駿川さんは時折、口を開いては、何も言わず閉じる。何か言いたげなのはわかるのだが……。もしや、未だ警備員が来ないことが不安なのかも知れん。
「落ち着いてください。いざとなれば俺が守護りますから」
「……へ? ……え、えぇ。ありがとう、ござます……」
───唐突に、笛の音が響く。
一体何事かと、辺りを見渡す。
後ろからだ。
ちらりと、首だけで振り向く。
口だけ女が、口笛を吹いていた。
「……このメロディはなんだ?」
「……な、なんか、聞いたことある気がしますけど」
どこか切なく、寂しげなメロデー。すると、駿川さんの背後の口だけ女も口笛……と、手拍子を始めた。
ベースと、ドラム? となると、俺の後ろの女はギターか。
寂しげだが、どこか元気が出るような、そんな曲だ。
俺が知る『あの曲』だとは思うのだが……寂しげとはちと違う気はする。
まるで、歌う人によってはトレーナーが脳破壊されるかのような───
待てよ。こいつら、もしや……。
俺たちは仮説に従い、大きく息を吸い込んだ。
そう───『原曲』ではないのだ。
翌日、無事に事務室から出ると、掲示板にこんな張り紙が追加されていた。
『〜生徒からの苦情〜
早朝ランニング中に、事務室から大声で歌う声が聞こえてきて怖かった。
仕事でお疲れかとは存じますが、朝から「めにしゅき♡ラッシュっしゅ(バラードアレンジver)」を熱唱するのはやめて頂きたい』
FILE 4『子犬』
「君、担当に『
「……いや『
至近距離でそう詰め寄ってくる事務員に、俺ことシリウスシンボリのトレーナーは心底震え上がっていた。ガンの付け方がカタギではない。
「そう固くならないでください。かの高名なサターンシンボルさんと契約を結ばれたのでしょう? もっと自信をお持ちなさい」
「その言い間違いだと魔王と契約を結んだみたいになりますけど……! というか、初対面なのに距離近ッ」
とても凶悪な顔つきに気圧され、俺の寿命がゴリゴリと削られていく気分になる。
「……失礼。俺も昔は担当に『我が君』などと呼ばれていましてね。あだ名で呼び合うあなた方にシンパシーを覚えたのです」
鼻を擦りながら、得意げに話す事務員。
色々と聞き捨てならないが、触れやすいところから話を広げてみることにした。
「え、ええと、元々はトレーナーをされていたんですね……?」
「はい。デュランダルという子をご存知ですか?」
「えっ……!? あ、あの!?」
───デュランダル。ここに居れば一度は耳に入る、稀代のスプリンター。短距離なのに、追い込みで挑む独特さが特徴だ。
新人の俺でさえ、聞いたことのある名ウマ娘の元トレーナーと聞いては、冷静でいられるはずもなかった。
「よ、よければ話を聞かせてください!」
「……! も、もちろんです。俺で良ければ」
彼の仏頂面が、少しだけ柔らかくなる。
RINEのアイコンが壁に刺さった木刀なのは気になるが、これ以上の情報量が俺の頭に入ると破裂してしまうので無視した。
「俺はまだまだ未熟者でして……トレーニングで最も大切なことは何か、教えていただけませんか?」
我ながら現金なことに、まるで部活動の先輩にアドバイスを求めるような態度を取ってしまった。事務員はふむ、と顎に手を当て───俺を見る。
「まずは自身の健康ですね」
「……!?」
「慢性的な寝不足。それは思案試作のクオリティを下げ、担当ウマ娘に心配をかける可能性を持つ悪手中の悪手。あなたはこのクラシック期までに、幾度かシリウスさんにも指摘されませんでしたか?」
図星だった。俺はうぐ、と呻き声を出すしかない。
「睡眠は最低七時間。しかし、より良いトレーニングメニューの発案は、睡眠だけでは生まれません。そこで……ココを鍛えることを提案します」
事務員は、白く鋭い歯を剥き出しにし、指さした。
なんと、綺麗で整った歯列か。俺は思わず見惚れる。
「顎を鍛えることで、食事の効率や消化吸収の助けになります。とにかく、よく噛みましょう。強くしたくば……強くなりたくば、喰らうのです」
要はいっぱい寝ていっぱいご飯を食べようということか。
俺は慌ててメモを進める。
「あなたがシリウスさんのことを大切にしているのは、初対面でも見ればわかります。ライバルも多い上、プレッシャーも相当でしょう。それすら喰らってのけるのです。……あなたなら土佐犬にだってなれます」
事務員の不器用な笑みに、俺は固まった。
凄い……どうして、あの導入でここまでマトモなこと言えるんだ……? 褒め方ヘッタクソだけど。
俺が感動のあまり弟子入り志願でもしそうになった、その時───トレーナー室のドアが、スパンと開いた。
そこには、大切な担当ウマ娘、シリウスシンボリが息を乱して立っていた。
「───嫌な気配がしたと思えば……とんだ野良犬が家に入ってきたらしいな。あまり、ウチの子犬を誑かしてくれるなよ」
シリウスは余裕なく、事務員を睨む。俺は何故か、心臓が締め付けられるような気分だった。嬉しいやら、申し訳ないやら、よく分からない。
すると、事務員はムッとした表情で返した。
「失礼な……俺は犬ではありません」
その言い分に、俺は少し思うところがあった。
───至近距離での威嚇。キツイ表情。鋭い歯。
この人、どちらかといえば人の形をした犬なんじゃないか? などと現実逃避をする。
「いいや、アンタは人の家に土足で入り込んだケダモノだ。話が済んだなら、さっさとお山に帰りな」
「失敬な! 俺は多分人間です!」
「なら、アンタ。三回回ってワンと鳴いてみろ。人間なら出来るよな?」
「……あまり人を舐めないでいただきたい。いきますよ!!!」
やるんかい。
あと、目をかっぴらいて笑わないで欲しい。こわいから。
───事務員が回り始める。
華麗な一回転。バレリーナのような、軽やかな回転であった。
そして、高らかに事務員は叫んだ。
「───3ッッ!!!」
「このバカ犬が」
シリウスの冷たい罵倒が、俺にも飛んできたような錯覚を覚えた。
※めにしゅきにギターパートはない