「……何なんだ、今のは」
事務室で仮眠を取っていたら、何やら奇怪な夢を見てしまった。にも関わらず、俺の記憶からはもう溶けかかっていた。
鬼が襲いかかってきたと思ったら、その口から喋るトマトが出てきて、その中から猫が……クソ、思い出せない。多分どうでもいいのに気になる。
仕方なく、水を探そうと立ち上がる。……起きた拍子に絶叫したせいで、窓にひびが入っていたのはスルーしておこう。
丁度その視線の下辺りに、腰を抜かしているウマ娘が居た。余程驚いたらしい。俺を、青ざめた顔で口をパクパクさせながら見ている。
面識があるかも怪しい。俺はひとまず、優しく声をかける。
「見ない顔だな。……何奴だ?」
何故か、かえって身を竦ませさせる結果に終わった。おかしい。本当になぜ? 丸メガネを掛けてないからか? あれ効果あったんだな。
いや待て、もしや……俺が事務員になる前に、海で……。
「……思い出した。あの帽子の子か」
「……!」
寝ぼけていてすっかり抜け落ちていたが、この子は以前に声をかけた……名前は何だったか忘れたが、帽子を目深に被る内向的なウマ娘だ。もう二年くらい前の事だったので忘れてしまった。二年もあれば、俺の記憶領域なら五回は更新されている。
帽子の子はコクコクと肯定の意を示す。
「気が付かなくてすみませんね。しかし、何か用なら事前に一言賜りとうございますよ」
俺の完璧な敬語に、帽子の子は何が言いたげだったが、結局何も言わずに頷く。……前も、こんな感じの会話だったような気がする。
「……床は冷たいでしょう。どこか話しやすい場所に行きますか」
俺が手を伸ばすと、その子は躊躇いがちに手を掴んだ。
力強っ。
FILE6 『偉大』
少女が海を眺めていたのは、メイクデビューに出る半年前の話。
彼女は自身の才能の無さを呪っていた。努力不足な己を、どうしようもなく憎んでいた。そんな負の感情が、自分でもどうにもならなくなった時、彼女は練習終わりにここを訪れるのだ。
「……もう、諦めようかな」
すぐに、内心でその言葉自体を責め立てる。
何を言っているんだ。そんなだから、自分は姉と違ってダメなのだ。妹のように、皆に愛されないんだ。自信のなさ、余裕のなさに繋がるのだ。
日常的に、自虐と苦しい鼓舞をし続ける。が、如何せん少女は疲弊し、自身を極限まで追い込んでいる只中である。
───きえてしまいたい。
心から、そう願っていた。
気がつけば、日課のトレーニングをかなぐり捨て、ここに来ていた。彼女の自信は、欠片も残ってはいない。
そんな折。ふと視界に不可解なものが映る。滲んだ視界を擦り、見間違えかともう一度見る。
「───晩飯ッッッ! 2日ぶりの晩飯ッッッ!」
海から勢いよく顔を出したのは、半裸の大男。
男は凶悪な顔つきに、細く屈強な肉体を持っていた。長い髪を顔を振るって退かし、担ぎ上げたソレを喜ばしげに睨む。
サメだった。
少女───シュバルグランは、腰を抜かして動くこともままならなかった。同時に、奇しくもこう思った。
───きえてしまいたい。
「む……こんな時間に何をしておる。はやく帰らないと、親御さんが心配するぞ?」
「……あ」
一足飛びにて、男は海から飛び出した。
願い虚しく、シュバルは男に目をつけられてしまった。狩りをした直後だからかは定かではないが、獰猛な肉食獣のような貌をしている。
優しい家族に、美人ばかりのトレセン学園。それらに囲まれてきたシュバルにとっては遠い存在である。いや、遠くあって欲しかった。切に。
そんな怯えるシュバルを見て何を思ったか、男は顎に手を当て、こう言い放つ。
「……少し離れていなさい。もうすぐ
シュバルは口をぽかんと開ける。
状況は上手く掴めないが、男は既に晩飯と呼ぶ大型の魚類を抱えている。しかも、ウマ娘である自分ですら持ち上げることは難しいであろう、成体の。
となると、もしや───本命は他に?
「───おおッ! 早い! もう来たのか!」
それは異形であった。
波打ち際を跳ね除け、日常風景を破壊し尽くすような光景が視界を埋め尽くす。
シュバルは意識を投げ出そうと必死だったが、悲しいことに都合よく気絶など出来はしない現実である。
『ダイオウイカ』。容貌に近しいのはソレであった。しかしサイズ感はもはや恐竜。神話とかその辺の域である。声すら出ないまま、固まるシュバルは突然の浮遊感に襲われた。
浮き上がる身体。目に映るのは、サメを食い散らかすダイオウイカの姿。腹には分厚く、大きな肩肉の感触。
「食い意地を張っておるわ。だが、苦労した甲斐あったな。アレを食い切るには少し手間取るだろう」
シュバルは男に抱えあげられていた。まるで米俵を持つように。
人生で初めて、男性に抱き上げられる。その感想は、全くもってロマンチックではない。───恐怖一色。
「あ、ああああああああああああ!!!」
シュバルは産まれたばかりの子供のように、大泣きする羽目になった。
「……あれから半年か。筋肉がついたな。強くなった証拠だ」
あまり思い出したくない部分だけ切り抜かれて語られたその内容は、実話である。シュバルは若干トラウマを刺激された気分で青ざめた。
あれから海に行く機会が減ったのは、大体はそれが原因だ。なので、トラウマ克服も兼ねて件の海へと向かっている。
「……あの件で、ちょっとだけ前向きになれて、トレーナーさんにも見つけてもらって……そしたら、丁度貴方がここに赴任したことを聞いたんです」
「ほう、トレーナーが見つかったんですね。まさか、あの時は天下のトレセン学園の生徒とは夢にも思いませんでしたよ」
デリカシーのない発言だが、サメを餌にダイオウイカ擬きを釣り上げるような変人にそもそも期待するのが間違いだ。シュバルは潮の香りを遠くに感じながら、緩く深呼吸する。
「きっと、貴方は励ますつもりなんてなかっただろうけど、あの時の僕は貴方の言葉で前に進めました。……ありがとう、ございます」
「……ああ」
目をしっかり見据え、感謝を述べる。すぐに逸らしてしまったものの、シュバルは1つの真実にたどり着く。
……絶対、何言ったか覚えてないなこの人。
あの沈みかける夕日に照らされた、宗教画のような光景。
臓腑が飛び散った血なまぐさい、お気に入りの海辺。
それは戦いと呼ぶには熾烈すぎた。スポーツではない、本当の命の駆け引き。
「綺麗ですね」
「え?」
どきりと心臓が跳ね、シュバルは顔をあげる。
笑顔。あの日の獰猛な笑みではない。嘲笑でもない。
「淡く、消えてしまいそうなほど遠い願い。その苦難を受け入れ、進み続ける者は美しい」
シュバルはチクリと胸が痛む感覚を覚える。
それはシュバルの夢のことを言っているようで、男自身の後悔にも見えた。
海に着いた二人は、すっかり綺麗に整備された浜辺に座り込む。浜には風紋が刻まれており、夕陽も相まって幻想的な雰囲気を醸し出していた。
シュバルは、男が言っていた言葉を思い出す。
『差し出した物が大きいほど、得られるものも大きい! ……あ、ダメだこいつ腐ってるタイプのバケモンかよ食えね───』
この人は、何を差し出したのだろう。
僕の夢は、僕のすべてを捧げたら、叶えられるかな。
シュバルが再出発する燃料は、その日を全力で生きる男に与えられた。
鼓動音が首まで響く。顔が熱い。
伝えたい想いは、もう一つあった。
「シュバルさん」
「……へっ!?」
口ごもっていると、男が先に口を開いた。
つい、何かを期待して、シュバルは男の話を待つ。
「やはり汁は不要です。麺のコシ、艶、長さ。それを熱でほがし、不快な油を纏わせることを俺はよく思いません。海苔の風味で良いではないか。食感が足りぬなら、葱を載せればいいではないか。しょうゆバリカタ汁なし濃いめ。これが至高なのです。何故か理解されませんが、我らはこの道を進み続けましょう。シュバルさん、知っていますか? 現存する中で最も創業が長い店は、110年あまりらしいですよ。凄いですよね! この間食べたラーメンは汁こそ絶品でしたが、麺はパサパサでクッソ不味くて頭がおかしくなりました。あ、今になってムカついてきました。食べログ評価で最低値つけてやるわ。……話が脱線しましたが、昔落ちぶれていた店が、今のトップオブラーメン屋らしいのです。詳しくは省くが嘘ではありません。
ラーメン一筋で、我ら汁なし一派とて、一大ブームを築くことが出来るのです」
幻想的な空気に当てられ、妄言を発する男。
シュバルの行動は早かった。あの頃とは、弱かったあの頃とはもう違う。
「……汁なしラーメンって、結局のところ水で練った小麦粉では?」
ツッコミを入れることが出来る。出来るのだ。
しかし、その言葉は男にとって───
固まってしまった男を躊躇いがちに置いて帰ったシュバル。
男の顔は、ずっと微笑んだままだった。怖い。
笑顔とは本来攻撃的な(ry