プロローグ「青い空の下で」
先生赴任の1年前――キヴォトス、D.U.地区。
空は、どこまでも青かった。
高層ビルの間を抜ける幹線道路を、一台の黒いセダンが走っていた。
車内の後部座席には、一人の男が座っている。
窓の外には、見慣れない街並みが広がっていた。
制服姿の少女たちが行き交い、道路脇には装甲車が停車している。小銃を肩から提げた少女が、飲み物を片手に友人と談笑していた。
「……随分と変わった街だな」
男の呟きに、運転席から明るい声が返ってきた。
「そうですか? D.U.は比較的平和な方ですよ」
運転しているのは、連邦生徒会所属の一般生徒だった。
制服をきちんと着こなし、頭上には淡い光を放つヘイローが浮かんでいる。
「比較的、か。さっきの交差点には機関銃を積んだ車両がいたが…」
「ああ、あれですか。最近ちょっと治安が悪くて。まあ、よくあることです」
「……よくあること?」
「はい!」
少女は何の疑問もなく答えた。
男は再び窓の外に視線を向けた。
この世界では、武装した学生が街を歩くことが日常なのだ。
それも、軍隊や警察のような特別な存在ではない。
ごく普通の学生が、当たり前のように銃を携帯している。
「ひとつ聞いてもいいか?」
「何でしょう、長官?」
「その頭の輪は、全員にあるのか?」
「あ、ヘイローですか?」
少女はルームミラー越しに男を見た。
「基本的にはそうですね。あ、でもロボットの方とかは違いますけど」
「なるほど……」
男は手元の資料に目を落とした。
そこには、キヴォトスの住民について簡単な説明が記されていた。
生徒たちは通常の人間とは比較にならないほど頑丈であり、銃撃を受けても致命傷になりにくい。
だが、資料を読んだだけでは実感が湧かない。
「長官は、やっぱり銃が怖いですか?」
「怖いというより、危険なものだと認識している」
「そうなんですね」
少女は不思議そうな声を出した。
「私たちは撃たれても、結構平気ですから」
「……私はそうはいかないな」
「え?」
「いや、何でもない」
男は資料を閉じた。
常識の違い。
それが、この世界で最初に理解しなければならない問題なのだろう。
やがて車両は、巨大な建造物の前に到着した。
連邦生徒会本部。
キヴォトス全域の行政を統括する組織の中枢である。
「到着しました、長官!」
運転席の少女が振り返った。
「会長がお待ちです。案内の生徒が入口にいますので、そちらへお願いします」
「ありがとう。運転、ご苦労だった」
「いえいえ! それでは失礼します!」
男が車を降りると、少女は軽く会釈して車を走らせていった。
建物の入口では、別の連邦生徒会所属の生徒が待っていた。
「シャーレ長官ですね。こちらへどうぞ」
案内されたのは、建物の上層階にある会議室だった。
扉が開く。
そこには、一人の少女が立っていた。
長い青髪。
静かな眼差し。
そして、どこか不思議な雰囲気を漂わせる少女。
「お待ちしていました」
少女は穏やかに微笑んだ。
「ようこそ、キヴォトスへ。シャーレ長官」
「初めまして、連邦生徒会長」
男は一礼した。
「本日付で着任した。よろしく頼む」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
会議室の机には、数冊の資料が置かれていた。
連邦捜査部シャーレ。
その組織図と権限に関する書類だった。
「まず、シャーレについて説明させてください」
会長は資料を開いた。
「シャーレは連邦生徒会直属の独立した捜査機関です。各自治区の問題に対して、学園の枠組みを越えた活動が認められています」
「つまり、各学園の自治権に干渉できるということか」
「一定の範囲では、そうなります」
「随分と強い権限だな。各学園が反発する可能性もある」
「ええ。ですが、それでも必要なのです」
男は組織図を眺めた。
「……なるほど。だが、このままでは人員が足りない」
「必要な人員については、長官の裁量で整備していただいて構いません」
「予算は?」
「連邦生徒会から支出します。ただし、無制限というわけではありません」
「当然だな」
男は資料に目を通しながら続けた。
「情報部門、国家保安、刑事捜査、サイバー犯罪対策、科学技術、人事管理。それぞれ専門部署を設けたい」
「はい」
「それと、実働部隊が必要だ。調査だけでなく、必要に応じて現場へ出ることになる」
「その点についても、お任せします」
「……随分と自由にやらせてくれるんだな」
会長は微笑んだ。
「あなたには、それだけの権限が必要になると思っていますから」
男は顔を上げた。
「必要になる、か」
その言い方が少し気になった。
まるで、これから起こる出来事を知っているようだった。
「ひとつ、確認しておきたい」
男は資料を閉じた。
「私の役割は、治安維持と捜査活動。それで間違いないな?」
「はい。ただ、それだけではありません」
「ほう?」
「このキヴォトスには、多くの問題を抱えた生徒たちがいます」
会長は窓の外へ視線を向けた。
「学園同士の対立、自治区の問題、そして……誰にも助けを求められない子たちも」
「それは理解できる」
「ですから、長官には、そうした子たちにも目を向けていただきたいのです」
男はしばらく考えた。
「私は教育者ではない。生徒たちの相談に乗ることはできても、全員を導くことはできないだろう」
「それで構いません」
「それに、私の仕事では時に強制力を行使する必要もある」
「……はい」
「必要なら武器も使う。ただし、無意味に生徒を傷つけるつもりはない」
会長は静かに頷いた。
「分かっています」
男は少し眉をひそめた。
「君は、私のことを随分と信用しているようだな」
「そうでしょうか?」
「初対面の人間に、これほどの権限を与えるのは普通ではない」
会長は答えなかった。
代わりに、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「……長官」
「何だ?」
「もし、いつか私がいなくなったとしても……」
男は黙って彼女を見つめた。
「このキヴォトスを、よろしくお願いします」
「……何か事情があるのか?」
「今は、まだお話しできません」
「そうか」
男はそれ以上追及しなかった。
ただし、その言葉は忘れないことにした。
会談を終えた男は、連邦生徒会本部を後にした。
手元にはシャーレの資料と、長官としての権限を証明する書類がある。
仕事は山積みだった。
組織の整備。
人員の確保。
装備の調達。
各学園との関係構築。
そして、この奇妙な世界の常識を理解すること。
だが、男にとって最も気になったのは、会長が最後に口にした言葉だった。
『もし、いつか私がいなくなったとしても……』
それは単なる仮定なのか。
それとも、何らかの警告なのか。
現時点では判断できない。
「……まずは情報収集からだな」
男は小さく呟いた。
青い空の下、キヴォトスの街は今日も変わらず動いている。
その平穏が、いつまで続くのか。
まだ誰も知らなかった。
こうして、初代シャーレ長官の活動が始まった。
彼はその後、独自の情報網と捜査機構を整備し、アンドロイド部隊を中心とする実働戦力を構築していく。
時には各学園の事件に介入し、時には生徒たちと衝突しながら、キヴォトスにおける自らの立場を築いていった。
しかし、彼の着任から1年後。
連邦生徒会長は姿を消す。
そして、キヴォトスには新たな大人が招かれることになる。
その人物の名は、まだ誰も知らない。
やがて生徒たちから「先生」と呼ばれることになる、一人の大人だった。
だが、それはまだ先の話である。
今はただ、一人の長官がキヴォトスに着任したばかりだった。