午後十時四十二分。
築三十八年、木造モルタル二階建て。外階段の三段目は踏むと鳴る。四段目は踏むと沈む。だから三段目と四段目をまとめて飛ばすのが、この一年で身につけた技術のひとつだった。
酒寄彩葉は、片手にスクールバッグ、片手にまかないの入った紙袋を提げたまま、音もなく二段を飛ばした。
鍵を回す。ドアを開ける。六畳一間の暗闇に向かって、
「ただいま」
返事はない。当然だった。一人暮らしなので。
電気をつける。靴を揃える。紙袋を冷蔵庫に入れる。中身はバイト先の余り物のサンドイッチ二切れで、これが明日の昼食になる。冷蔵庫の中には他に、もやしが半袋と、卵が一個と、栄養ドリンクが五本並んでいた。栄養ドリンクのほうが卵より多い。それについて、彩葉は深く考えないことにしていた。
制服のまま、床に座る。
「……ほんま、疲れたわ」
言ってから、口を押さえた。
「疲れた。疲れたね。うん」
誰も聞いていないのに言い直す。一人のときこそ標準語。気を抜くとボロが出る。出たボロは人前でも出る。だから家でも気を抜かない。それが東京に来て最初に決めたルールで、今のところ、守れている日のほうが少しだけ多い。
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ここで、酒寄彩葉という人間について説明しておく。
京都府出身。高校二年生——になるのは明日から。誕生日は五月なので、今はまだ十六歳。
都内の進学校に通っている。成績は全教科最高評価。理系も文系も関係ない。進路希望調査の第一志望欄には、迷いのない字で「東京大学 文科一類」と書いた。模試の判定はA。体育も音楽もそつなくこなす。ピアノも弾ける。バイト先では新人教育まで任されている。
本人いわく「大抵のことはやれば人並み以上にできる」。
周囲いわく「超人」。
そして、その超人の部屋の勉強机には、エナジードリンクの空き缶が積み上がっている。
正確には、ピラミッドになっている。底辺が五缶、その上が四缶、三缶、二缶、頂点に一缶。合計十五缶。三月の期末考査期間のものだ。捨てるタイミングを逃し続けた結果、なんとなく積み始め、なんとなく完成してしまった。崩すのが惜しい。資源ゴミの日は明後日だった。
口の中には、口内炎が二つある。
目の下には、クマがある。毎朝うっすらピンクのメイクで消している。消えているかどうかは、たまに友人の顔で判断している。
端的に言えば、限界だった。
ただし本人に限界の自覚はない。自覚する暇がない。
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彩葉は机に向かい、ノートを開いた。春休みの課題はとっくに終わっている。今やっているのは、自分で決めた予習だ。明日から二年生。一年生のときに作ったリズムを、一日たりとも崩すわけにはいかない。
崩すわけにはいかない理由は、主に三つある。
ひとつ、奨学金。成績が落ちれば止まる。
ふたつ、授業料の減免。成績が落ちれば止まる。
みっつ、母との約束。
三つ目がいちばん重い。
酒寄家は、厳しい家だった。
正しくは、母が厳しかった。礼儀、勉強、言葉遣い、箸の上げ下ろし。全部に正解があって、正解以外は許されない。幼い彩葉はそれを、そういうものだと思って育った。
兄がいた。
七つ上の兄は、母から彩葉を庇ってくれる唯一の人だった。叱られているときに横から割り込んで、話を逸らして、最後は自分が怒られて終わる。そういう兄だった。
その兄が、ある日いなくなった。
書き置きはなかった。あとで分かった行き先は東京で、職業はプロゲーマーでストリーマーだった。
——プロゲーマー。
―ストリーマー。
当時の彩葉は、その単語の意味をしばらく理解できなかった。兄が家族を置いて選んだのが、ゲームと、配信者。あれだけ厳しい家から。
理解できないまま、彩葉は兄の配信をこっそり見た。
そこで、ツクヨミを知った。
ツクヨミの中で、月見ヤチヨを見つけた。
家族を置いて出ていった兄の配信がきっかけで、世界でいちばん好きなものに出会った。人生は、たまにひどい冗談を言う。
兄とは、今もほとんど口をきいていない。向こうがどれだけ有名になろうと、ネットのトップニュースに顔が出ようと、それはそれ、これはこれだ。
中学の途中で、母とぶつかった。
何がきっかけだったかは、もう細かく覚えていない。覚えているのは、自分が初めて母に向かって大きな声を出したことと、母がそれに一歩も引かなかったことだけだ。似た者同士だった、と今なら分かる。
結論として、彩葉は東京の高校を受けた。受かった。そして家を出た。
条件はひとつ。学費も生活費も、自分で稼ぐこと。
家出同然の上京だった。それでも彩葉は、母のことを嫌いになれなかった。母の生き方を、尊敬している。尊敬しているから、認めてほしい。だから、母と同じ法学部を目指している。
——という経緯を、彩葉は誰にもちゃんと話したことがない。話すほどのことでもない、と思っている。
とにかく、一年が経った。
生きている。
今のところは。
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午後十一時五十分。家計簿アプリを開く。
今月の家賃、払い済み。光熱費、見込み。食費、残り二千四百円。四月は始業の物入りがあって、三月より少し苦しい。
「……いける」
いける、という判断に根拠はなかった。だが彩葉の「いける」は、たいてい本当にいけてしまう。いけてしまうので、修正されないまま一年が過ぎた。
アプリを閉じる。時計を見る。
五十八分。
彩葉はノートを閉じ、シャーペンを置き、背筋を伸ばし、スマホを両手で持ち直した。片耳にイヤホンを入れる。もう片方も入れる。
午前零時。
画面の中に、月の光が差した。
〈ヤオヨロ〜!〉
〈ヤオヨロ〜!〉
〈きたああああ〉
〈今日の衣装春だ〉
〈桜!!!〉
「ヤオヨロ〜! 今夜もツクヨミに来てくれてありがとう〜。月見ヤチヨです」
声を聞いた瞬間、肩から何かが抜けた。
月見ヤチヨ。ツクヨミの管理人にして、トップライバー。AIでありながら、ツクヨミで最も多くの人に愛される存在。彩葉がなけなしの貯金で買った缶バッジは、通学カバンの内側、誰にも見えない位置に留めてある。
「明日から新学期の人も多いよね。ヤチヨさんも、新しい季節にぴったりの一曲を持ってきました〜」
〈新曲!?〉
〈え待って〉
〈新曲です!!!〉
前奏が流れた。
彩葉は動かなくなった。
両手を胸の前で組み、目を閉じ、わずかに天を仰ぐ。呼吸は浅く、表情は穏やかで、魂だけがどこかに行っている。
乙女のポーズである。
感動すると自動的にこうなる。本人も自覚している。自覚していても止められない。最後の一音が消えるまで、彩葉は一ミリも動かなかった。
〈泣いた〉
〈泣いた〉
〈新学期がんばれる〉
〈ヤチヨありがとう〉
「……好き」
無意識に呟いて、我に返る。
「いや、オタクじゃない。オタクじゃないから」
部屋には誰もいない。誰に向かって否定しているのかは、本人にも分からなかった。
そういえば、と彩葉は思う。
ヤチヨには昔、推している野球選手がいた。中学のころ、ヤチヨが高校野球の同時視聴配信を始めて、彩葉もなんとなく画面の端の中継を眺めていた。左投げの投手で、打席に入る前に必ず同じ仕草をする人だった。切り抜きで何度も見た。去年、引退したと聞いた。
それきり、ヤチヨは野球の話をあまりしなくなった。
少しだけ寂しいな、と思ったところで、スマホが震えた。配信の上に、通知がひとつ被さる。
芦花:起きてるでしょ
見透かされている。
芦花:明日、放課後空けといて
真実:一年耐え記念
真実:やります
彩葉:なにそれ
芦花:彩葉が東京で一年死ななかった記念
彩葉:縁起でもない
彩葉:バイトあるかも
真実:シフト見た
真実:明日休み
彩葉:なんで知ってるの
真実:店長に聞いた
彩葉:なんで教えるの店長
既読が二つつく。返事はない。決定事項らしかった。
彩葉はスマホを伏せて、天井を見上げた。
綾紬芦花と、諌山真実。高校に入って最初にできた友人で、気づけば一年、隣にいた。二人とも、彩葉の生活のことを根掘り葉掘り聞いてこない。聞いてこないくせに、なぜかだいたい知っている。
ありがたかった。
ありがたいと思っていることを、ちゃんと伝えたことはなかった。
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午前二時四十七分。就寝。
午前五時四十五分。アラーム。
「…………」
一回目は止めた。
午前五時五十分。スヌーズ。
「……あかん」
身体を起こしてから、言い直す。
「だめ。起きる。起きます」
洗面所の鏡に映った顔は、昨日よりクマが一段濃かった。口内炎は三つに増えていた。
「増えとる……」
増えてる、と言い直す気力はなかった。
台所に立つ。ボウルに小麦粉を入れる。水を入れる。混ぜる。以上。
材料はこれで全部だった。卵は明日のために残す。砂糖はない。牛乳もない。フライパンに薄く油を引いて焼くと、パンケーキと呼ぶには少し勇気の要る、白くて平たい何かができあがる。
味は、小麦粉の味がする。
それを栄養ドリンクで流し込む。朝食完了。所要時間六分。
制服に着替える。ピンクのメイクで、クマを塗り込める。鏡の前で笑顔を作ってみる。
「……よし。人間」
判定は甘かった。
カバンを持つ。缶バッジの位置を確認する。ピラミッドに一礼する。理由は特にない。
外に出ると、四月の朝の光が眩しかった。外階段の三段目と四段目をまとめて飛ばして、地面に降りる。アパートの前の小さな桜の木から、花びらが一枚、肩に落ちた。
払おうとして、やめた。
駅までの道を、早足で歩く。イヤホンからは、昨夜のアーカイブのヤチヨの声。
色は匂へど、散りぬるを。
古文の授業で習った一節が、なぜか頭に浮かんだ。花は咲いても、いつか散る。去年の春、同じ道を歩いたときは、そんなことを考える余裕もなかった。
今年は、少しだけある。
ほんの少しだけ。
酒寄彩葉、十六歳。
明日——いや、今日から、高校二年生。