超かぐや姫ポケット!   作:それいゆ

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【二】「いろはにほへと」2030年4月8日

 

 

 午後十時四十二分。

 

 築三十八年、木造モルタル二階建て。外階段の三段目は踏むと鳴る。四段目は踏むと沈む。だから三段目と四段目をまとめて飛ばすのが、この一年で身につけた技術のひとつだった。

 

 酒寄彩葉は、片手にスクールバッグ、片手にまかないの入った紙袋を提げたまま、音もなく二段を飛ばした。

 

 鍵を回す。ドアを開ける。六畳一間の暗闇に向かって、

 

「ただいま」

 

 返事はない。当然だった。一人暮らしなので。

 

 電気をつける。靴を揃える。紙袋を冷蔵庫に入れる。中身はバイト先の余り物のサンドイッチ二切れで、これが明日の昼食になる。冷蔵庫の中には他に、もやしが半袋と、卵が一個と、栄養ドリンクが五本並んでいた。栄養ドリンクのほうが卵より多い。それについて、彩葉は深く考えないことにしていた。

 

 制服のまま、床に座る。

 

「……ほんま、疲れたわ」

 

 言ってから、口を押さえた。

 

「疲れた。疲れたね。うん」

 

 誰も聞いていないのに言い直す。一人のときこそ標準語。気を抜くとボロが出る。出たボロは人前でも出る。だから家でも気を抜かない。それが東京に来て最初に決めたルールで、今のところ、守れている日のほうが少しだけ多い。

 

---

 

 ここで、酒寄彩葉という人間について説明しておく。

 

 京都府出身。高校二年生——になるのは明日から。誕生日は五月なので、今はまだ十六歳。

 

 都内の進学校に通っている。成績は全教科最高評価。理系も文系も関係ない。進路希望調査の第一志望欄には、迷いのない字で「東京大学 文科一類」と書いた。模試の判定はA。体育も音楽もそつなくこなす。ピアノも弾ける。バイト先では新人教育まで任されている。

 

 本人いわく「大抵のことはやれば人並み以上にできる」。

 

 周囲いわく「超人」。

 

 そして、その超人の部屋の勉強机には、エナジードリンクの空き缶が積み上がっている。

 

 正確には、ピラミッドになっている。底辺が五缶、その上が四缶、三缶、二缶、頂点に一缶。合計十五缶。三月の期末考査期間のものだ。捨てるタイミングを逃し続けた結果、なんとなく積み始め、なんとなく完成してしまった。崩すのが惜しい。資源ゴミの日は明後日だった。

 

 口の中には、口内炎が二つある。

 

 目の下には、クマがある。毎朝うっすらピンクのメイクで消している。消えているかどうかは、たまに友人の顔で判断している。

 

 端的に言えば、限界だった。

 

 ただし本人に限界の自覚はない。自覚する暇がない。

 

---

 

 彩葉は机に向かい、ノートを開いた。春休みの課題はとっくに終わっている。今やっているのは、自分で決めた予習だ。明日から二年生。一年生のときに作ったリズムを、一日たりとも崩すわけにはいかない。

 

 崩すわけにはいかない理由は、主に三つある。

 

 ひとつ、奨学金。成績が落ちれば止まる。

 

 ふたつ、授業料の減免。成績が落ちれば止まる。

 

 みっつ、母との約束。

 

 三つ目がいちばん重い。

 

 酒寄家は、厳しい家だった。

 

 正しくは、母が厳しかった。礼儀、勉強、言葉遣い、箸の上げ下ろし。全部に正解があって、正解以外は許されない。幼い彩葉はそれを、そういうものだと思って育った。

 

 兄がいた。

 

 七つ上の兄は、母から彩葉を庇ってくれる唯一の人だった。叱られているときに横から割り込んで、話を逸らして、最後は自分が怒られて終わる。そういう兄だった。

 

 その兄が、ある日いなくなった。

 

 書き置きはなかった。あとで分かった行き先は東京で、職業はプロゲーマーでストリーマーだった。

 

 ——プロゲーマー。

 

 ―ストリーマー。

 

 当時の彩葉は、その単語の意味をしばらく理解できなかった。兄が家族を置いて選んだのが、ゲームと、配信者。あれだけ厳しい家から。

 

 理解できないまま、彩葉は兄の配信をこっそり見た。

 

 そこで、ツクヨミを知った。

 

 ツクヨミの中で、月見ヤチヨを見つけた。

 

 家族を置いて出ていった兄の配信がきっかけで、世界でいちばん好きなものに出会った。人生は、たまにひどい冗談を言う。

 

 兄とは、今もほとんど口をきいていない。向こうがどれだけ有名になろうと、ネットのトップニュースに顔が出ようと、それはそれ、これはこれだ。

 

 中学の途中で、母とぶつかった。

 

 何がきっかけだったかは、もう細かく覚えていない。覚えているのは、自分が初めて母に向かって大きな声を出したことと、母がそれに一歩も引かなかったことだけだ。似た者同士だった、と今なら分かる。

 

 結論として、彩葉は東京の高校を受けた。受かった。そして家を出た。

 

 条件はひとつ。学費も生活費も、自分で稼ぐこと。

 

 家出同然の上京だった。それでも彩葉は、母のことを嫌いになれなかった。母の生き方を、尊敬している。尊敬しているから、認めてほしい。だから、母と同じ法学部を目指している。

 

 ——という経緯を、彩葉は誰にもちゃんと話したことがない。話すほどのことでもない、と思っている。

 

 とにかく、一年が経った。

 

 生きている。

 

 今のところは。

 

---

 

 午後十一時五十分。家計簿アプリを開く。

 

 今月の家賃、払い済み。光熱費、見込み。食費、残り二千四百円。四月は始業の物入りがあって、三月より少し苦しい。

 

「……いける」

 

 いける、という判断に根拠はなかった。だが彩葉の「いける」は、たいてい本当にいけてしまう。いけてしまうので、修正されないまま一年が過ぎた。

 

 アプリを閉じる。時計を見る。

 

 五十八分。

 

 彩葉はノートを閉じ、シャーペンを置き、背筋を伸ばし、スマホを両手で持ち直した。片耳にイヤホンを入れる。もう片方も入れる。

 

 午前零時。

 

 画面の中に、月の光が差した。

 

〈ヤオヨロ〜!〉

〈ヤオヨロ〜!〉

〈きたああああ〉

〈今日の衣装春だ〉

〈桜!!!〉

 

「ヤオヨロ〜! 今夜もツクヨミに来てくれてありがとう〜。月見ヤチヨです」

 

 声を聞いた瞬間、肩から何かが抜けた。

 

 月見ヤチヨ。ツクヨミの管理人にして、トップライバー。AIでありながら、ツクヨミで最も多くの人に愛される存在。彩葉がなけなしの貯金で買った缶バッジは、通学カバンの内側、誰にも見えない位置に留めてある。

 

「明日から新学期の人も多いよね。ヤチヨさんも、新しい季節にぴったりの一曲を持ってきました〜」

 

〈新曲!?〉

〈え待って〉

〈新曲です!!!〉

 

 前奏が流れた。

 

 彩葉は動かなくなった。

 

 両手を胸の前で組み、目を閉じ、わずかに天を仰ぐ。呼吸は浅く、表情は穏やかで、魂だけがどこかに行っている。

 

 乙女のポーズである。

 

 感動すると自動的にこうなる。本人も自覚している。自覚していても止められない。最後の一音が消えるまで、彩葉は一ミリも動かなかった。

 

〈泣いた〉

〈泣いた〉

〈新学期がんばれる〉

〈ヤチヨありがとう〉

 

「……好き」

 

 無意識に呟いて、我に返る。

 

「いや、オタクじゃない。オタクじゃないから」

 

 部屋には誰もいない。誰に向かって否定しているのかは、本人にも分からなかった。

 

 そういえば、と彩葉は思う。

 

 ヤチヨには昔、推している野球選手がいた。中学のころ、ヤチヨが高校野球の同時視聴配信を始めて、彩葉もなんとなく画面の端の中継を眺めていた。左投げの投手で、打席に入る前に必ず同じ仕草をする人だった。切り抜きで何度も見た。去年、引退したと聞いた。

 

 それきり、ヤチヨは野球の話をあまりしなくなった。

 

 少しだけ寂しいな、と思ったところで、スマホが震えた。配信の上に、通知がひとつ被さる。

 

芦花:起きてるでしょ

 

 見透かされている。

 

芦花:明日、放課後空けといて

真実:一年耐え記念

真実:やります

彩葉:なにそれ

芦花:彩葉が東京で一年死ななかった記念

彩葉:縁起でもない

彩葉:バイトあるかも

真実:シフト見た

真実:明日休み

彩葉:なんで知ってるの

真実:店長に聞いた

彩葉:なんで教えるの店長

 

 既読が二つつく。返事はない。決定事項らしかった。

 

 彩葉はスマホを伏せて、天井を見上げた。

 

 綾紬芦花と、諌山真実。高校に入って最初にできた友人で、気づけば一年、隣にいた。二人とも、彩葉の生活のことを根掘り葉掘り聞いてこない。聞いてこないくせに、なぜかだいたい知っている。

 

 ありがたかった。

 

 ありがたいと思っていることを、ちゃんと伝えたことはなかった。

 

---

 

 午前二時四十七分。就寝。

 

 午前五時四十五分。アラーム。

 

「…………」

 

 一回目は止めた。

 

 午前五時五十分。スヌーズ。

 

「……あかん」

 

 身体を起こしてから、言い直す。

 

「だめ。起きる。起きます」

 

 洗面所の鏡に映った顔は、昨日よりクマが一段濃かった。口内炎は三つに増えていた。

 

「増えとる……」

 

 増えてる、と言い直す気力はなかった。

 

 台所に立つ。ボウルに小麦粉を入れる。水を入れる。混ぜる。以上。

 

 材料はこれで全部だった。卵は明日のために残す。砂糖はない。牛乳もない。フライパンに薄く油を引いて焼くと、パンケーキと呼ぶには少し勇気の要る、白くて平たい何かができあがる。

 

 味は、小麦粉の味がする。

 

 それを栄養ドリンクで流し込む。朝食完了。所要時間六分。

 

 制服に着替える。ピンクのメイクで、クマを塗り込める。鏡の前で笑顔を作ってみる。

 

「……よし。人間」

 

 判定は甘かった。

 

 カバンを持つ。缶バッジの位置を確認する。ピラミッドに一礼する。理由は特にない。

 

 外に出ると、四月の朝の光が眩しかった。外階段の三段目と四段目をまとめて飛ばして、地面に降りる。アパートの前の小さな桜の木から、花びらが一枚、肩に落ちた。

 

 払おうとして、やめた。

 

 駅までの道を、早足で歩く。イヤホンからは、昨夜のアーカイブのヤチヨの声。

 

 色は匂へど、散りぬるを。

 

 古文の授業で習った一節が、なぜか頭に浮かんだ。花は咲いても、いつか散る。去年の春、同じ道を歩いたときは、そんなことを考える余裕もなかった。

 

 今年は、少しだけある。

 

 ほんの少しだけ。

 

 酒寄彩葉、十六歳。

 

 明日——いや、今日から、高校二年生。

 

 

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