クラス替えの名簿は、昇降口の掲示板に貼り出されていた。
人だかりの後ろから背伸びをして、彩葉は自分の名前を探した。酒寄。さ行。二年三組の、真ん中より少し上。視線を少し上にずらすと、綾紬。もう少し下に、諌山。
三つの名前が、同じ列に並んでいた。
「三人そろった〜! 奇跡!」
背後から声がしたと思った瞬間、芦花が両手を広げて、彩葉と真実をまとめて抱きしめた。身長差のせいで、彩葉の顔はちょうど芦花の肩口に埋まる。シャンプーのいい匂いがした。たぶん高い。たぶん案件のやつだ。
「いえ〜。奇跡記念に開けちゃお〜」
真実もいつものゆる〜い調子のまま、カバンからメロンパンの袋を取り出した。普段は理由など用意せずに開けているそれを、今回は律儀に理由を付けて開封し、もむもむと食べ始める。朝の八時十分である。
「真実、それ朝ごはん?」
「二回目の朝ごはん〜」
「二回目」
「一回目はおにぎりだった〜」
彩葉は自分の一回目の朝ごはんを思い出した。小麦粉と水。比べるのはやめた。
「ほら彩葉、顔見せて」
芦花が抱擁を解いて、今度は彩葉の両頬を挟んだ。至近距離でじっと覗き込まれる。
「……クマ」
「ないよ」
「ある。メイクで消してるだけ」
「消えてるなら、ないのと同じでしょ」
「同じじゃない」
芦花は何か言いかけて、口を閉じた。それから彩葉の手に、小さな紙袋を押しつける。
「これ。案件で余ったやつ。アイクリームと化粧水のミニボトル。使って」
「いつも悪いよ」
「余ってるんだって。捨てるのもったいないでしょ。ほら、彩葉が使わないと私の部屋が試供品で埋まる」
毎回同じ理由だった。毎回、余っているにしては量が多かった。
彩葉はそれを、毎回ありがたく受け取っている。これだけの生活をしていて肌が荒れないのは、たぶん半分くらいこの紙袋のおかげだと、本人もうすうす気づいていた。
人体は素直だ。いくら気合いで超人をやっていても、肌は寝不足を正直に申告してくる。それを黙らせているのが、芦花の「余り物」だった。
「……ありがと」
「どういたしまして〜」
芦花はそれ以上何も言わなかった。言いたいことはもっとあるのだろう、と彩葉は思う。でも言わない。言わないでいてくれる。そういうところに、一年間ずっと助けられてきた。
始業式は、体育館で五十分。
校長の話は春の話から始まり、桜の話を経由して、なぜか校長の学生時代の話に着地した。生徒の三分の一は寝ていた。彩葉は寝なかった。寝たら最後、放課後まで起きない自信があった。
教室に戻ると、空気が変わっていた。
新しいクラス。新しい席順。そして、新学期特有の、情報の洪水。
「え、知らないの? サッカー部の佐伯、春休みに告ったんだって」
「誰に」
「二組の」
「うそ、マジで」
「で、オッケーだったらしいよ」
「うわー」
斜め後ろの席から聞こえてくる。前の席からも聞こえてくる。廊下側からも。
「バスケ部の先輩、卒業式の日に——」
「一組の子、塾で知り合った他校の人と——」
「春休み、ディズニー行ったらしくて、二人で——」
二年生。華のJK真っ盛り。
ここは都内でも指折りの進学校で、生徒の大半は東大か京大か医学部を目指している。だが、そんなことはこの季節には一切関係がない。恋の噂は偏差値を問わず、平等に教室を駆け巡る。
彩葉は自分の席で、頬杖をついてそれを聞き流していた。
興味がない、わけではない。ただ、自分の生活のどこにも、その話題が入り込む隙間が見当たらなかった。朝は勉強、昼は授業、夕方からバイト、夜は勉強とヤチヨ。どこに恋愛を挟めばいいのか、物理的に分からない。
「彩葉は〜?」
真実が、隣の席から身を乗り出してきた。二回目の朝ごはんは、いつの間にか三回目の昼ごはんになっていた。
「なにが」
「春休み〜。なんかあった〜?」
「バイト」
「それ以外〜」
「勉強」
「それ以外〜」
「ヤチヨの配信」
「だめだこりゃ〜」
真実は満足そうにメロンパンをかじった。最初から答えは分かっていたらしい。
彩葉は手元のスマホに目を落とした。
ホームルームまでの隙間時間に、時事問題の把握のための新聞アプリを開く。もちろん無料分だけだ。有料記事は見出しだけ読んで、中身は推測する。それで受験の時事対策は十分に回る。
見出しが並んでいた。
〈ツナミネット、国内利用者数が過去最高を更新〉
〈ツナミ・グループ、旧ジャジメント系列の再編を完了〉
〈大神ナマーズ、新体制二年目の開幕へ〉
〈ツナミ会長、今年も公の場に姿見せず 経営方針は社長名で発表〉
〈ツクヨミ運営、ツナミネットとの相互接続を改めて〉
〈ネットゲーム利用者の行方不明相次ぐ? 警察「事件性は確認されていない」〉
SNSを開いても、似たようなものだった。トレンド欄の下のほうに、ツナミがどうとか、ツクヨミがどうとか、誰かが消えたとか消えていないとか。
彩葉は上から順に目を通して、記憶の棚に収めていく。ツナミ・グループ。去年、ジャジメントとオオガミが統合してできた巨大企業。ツナミネット。その系列のネットワークサービスで、今では世界中で使われている。ツクヨミとは別物。ヤチヨが接続を拒み続けている。
覚えた。
覚えたが、それだけだった。正直、どれも心を惹かれない。『ツナミグループは何処と何処が統合して出来た会社?』などと来年度の受験に出るかもしれないから覚える。それ以上の意味はなかった。
——ヤチヨが嫌がってるなら、ツナミネットはしっかり使わなくていいや。
彩葉の判断基準は、それくらいのものだった。
周りを見渡すと、他のクラスメイトたちはもっとどうでもよさそうだった。恋の噂のほうが百倍大事で、企業の再編も、行方不明の噂も、誰の話題にも上らない。ネットゲームで人が消える、なんて程度の話は、せいぜいアカウントBANが大げさに膨らんだだけ。これくらいは何年も前からときどき流れてきては、すぐに忘れられていく代物。
そういうものだ、と彩葉は思った。
この国では、ちょっと変なことが起こっても、たいていすぐ忘れられる。
放課後。
「はい、連行〜」
「えっ」
帰り支度をしていた彩葉の右腕を芦花が、左腕を真実が、それぞれがっちりと捕まえた。
「待って、今日ほんとにバイト休みなの?」
「休み〜。店長に確認済み〜」
「なんで店長と連絡取れるの」
「前にお店行ったとき、連絡先交換した〜」
「いつの間に」
「彩葉が休憩中だったとき〜」
自分の知らないところで、包囲網は完成していた。
「本日の議題はこちら」
芦花が、スマホのメモを掲げた。
第一回 酒寄彩葉・過酷JK生活一年継続記念
「……なにそれ」
「彩葉が東京で一年生き延びたことを祝う会」
「縁起でもないって昨日も言ったよね」
「縁起でもないから祝うんでしょ」
芦花はさらりと言った。笑っていたが、目はあまり笑っていなかった。
彩葉は何も言い返せなかった。
まず、駅前のクレープ屋に連れていかれた。
「彩葉、どれにする?」
「いや、私はいいよ。見てるから」
「記念だから奢り〜」
「でも」
「選ばないなら、私が一番高いの選ぶ〜」
真実はメニューのいちばん上、いちごとチョコとカスタードとブラウニーが全部乗った、値段が三桁の後半に届いている一品を指差した。
「……バナナチョコで」
「はーい、いちばん高いのとバナナチョコと、いちごカスタードね〜」
「聞いてた?」
結局、三つ全部を三人で分けることになった。いちばん高いクレープは、甘くて、重くて、ちゃんと卵と牛乳の味がした。
「……おいしい」
「でしょ〜」
彩葉は自分の朝食の、あの白くて平たい何かを思い出した。比べるのは、やっぱりやめた。
次は、ゲームセンターのプリクラ。
芦花が手際よく撮影モードを選び、真実がポーズを指示し、彩葉は言われるがままに三人の真ん中に収まった。
「彩葉、もうちょっと笑って」
「笑ってるよ」
「目が死んでる」
「デフォルトだよ」
「デフォルト死んでるのは問題でしょ」
撮影後の落書きで、芦花は彩葉の頭の上に大きく「一周年」と書き込んだ。真実はその横に、なぜかおにぎりのスタンプを三つ並べた。
「なんでおにぎり」
「お祝いといえばおにぎり〜」
「聞いたことない」
印刷されたシールを、芦花は三等分して、いちばん写りのいい一枚を彩葉の分に入れた。
最後は、カラオケ。
三時間パック。もちろん奢り。彩葉はもう抵抗するのをやめていた。
芦花は流行りの曲を、ちゃんと上手く歌った。真実はアニメの曲を、ちゃんとゆるく歌った。彩葉の番が回ってくると、二人は示し合わせたように同じ曲を入れた。
月見ヤチヨの、去年の冬の曲だった。
「……ずるい」
「ずるくない〜。彩葉の得意分野〜」
マイクを押しつけられる。前奏が流れる。
歌い終わったとき、彩葉は少しだけ息が上がっていた。二人は拍手をして、芦花は「やっぱ上手いね」と言い、真実は「ミカド様の次くらいに上手い〜」と言った。
「比べる対象がおかしい」
「ミカド様はね〜、歌も上手いんだよ〜。こないだの配信でね〜」
真実の目が、急に光を帯びた。
諌山真実は、プロゲーマー集団ブラックオニキスのリーダー、帝アキラの熱狂的なファンである。本人いわく、名前を呼ばれただけで気絶できる。実際、イベントで一度気絶した。
「ミカド様がね〜、こないだの大会で〜、最後の最後に逆転してね〜、そのときの台詞がね〜」
始まった。
真実のミカド様語りは、だいたい十五分続く。止める方法はない。止める必要もない。芦花はドリンクバーのメロンソーダを飲みながら相槌を打ち、彩葉は黙って聞いた。
黙って聞きながら、彩葉は心の中で蓋をした。
帝アキラ。本名、酒寄朝日。
七つ上の、兄である。
真実はそれを知らない。彩葉は、言っていない。言うつもりもない。家族の話は、しない。それに、目の前で推しの話をしている友人に「それ私の兄」と告げる勇気は、さすがの超人にもなかった。
「——でね〜、そのとき言ったのがね〜」
真実の話を聞いているうちに、彩葉は少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。
真実は、こういう役回りだった。好きなものの話を、心ゆくまで、ゆるく、長く、楽しそうにする。聞いているほうは何も考えなくていい。相槌だけ打っていればいい。それが、なぜか彩葉にはいちばんの息抜きになった。
気づけば、十五分が経っていた。
「——というわけで、ミカド様は最高なんだよ〜」
「うん」
「彩葉、ちゃんと聞いてた〜?」
「聞いてたよ。最後に逆転したんでしょ」
「そう〜!」
真実は満足そうに、四回目のおやつを開けた。
芦花が、彩葉の横顔をちらりと見た。
「……彩葉、ちょっと顔色よくなった」
「そう?」
「うん。朝よりマシ」
芦花はそれだけ言って、またメロンソーダを飲んだ。
本当は、もっと言いたいことがあるのだろう。ちゃんと寝ろとか、ちゃんと食べろとか、一人で抱え込むなとか。芦花は世話を焼きたがる性格で、それでいて、彩葉が世話を焼かれるのを嫌がることも知っている。だから我慢している。試供品を「余り物」と言い張るのも、たぶんそのせいだ。
彩葉はそれに気づいていて、気づいていないふりをしている。
お互いに、そうやって一年やってきた。
カラオケを出ると、外はもう暗かった。
駅前の桜並木が、街灯に照らされて白く浮かんでいる。風が吹くたびに、花びらが少しずつ散っていく。
「来年もやろうね」
芦花が言った。
「二周年記念〜」
真実が続けた。
「……縁起でもない」
彩葉は三度目の同じ台詞を言って、それから少しだけ笑った。今度はちゃんと、目も笑っていた。
改札の前で二人と別れて、彩葉は一人で電車に乗った。カバンの中には、芦花の紙袋と、三等分されたプリクラと、真実がくれたおにぎり形の飴が入っていた。
スマホを開く。ヤチヨの配信はまだ始まっていない。
窓の外を、夜の東京が流れていく。
いろはにほへと、ちりぬるを。
色は匂えど、散りぬるを。
どんなに美しく咲く花も、いつかは散ってしまう。
二〇三〇年、春。
酒寄彩葉。高校二年生。十六歳。あと一ヶ月で十七歳。
今日も平気な顔をしていた。
この年、彼女の人生はある二人に根こそぎひっくり返されることになる。
——けれどそれは、まだ少しだけ先の話。