四月十三日、土曜日。
BAMBOOcafeのバックヤードは、狭い。
冷蔵庫と食器棚とロッカーと、従業員用の小さな丸テーブル。それだけで床の八割が埋まる。残りの二割に人間が二人入ると、肩が触れる。
その二割に、彩葉と店長が向かい合って座っていた。
「来週から、新しい子が一人入るのね」
店長は湯呑みでほうじ茶を啜りながら、のんびりと言った。
「はい」
「その子の指導係、酒寄さんにお願いしたいんだけど」
「はい——」
即答しかけて、彩葉の脳裏を、今週一週間の映像が駆け抜けた。
月曜。始業式の翌日から入ってきた高校一年生、東みお。初日、元気よく「よろしくお願いします!」と頭を下げた拍子に、トレーの上の水のグラスを三つまとめて倒した。
水曜。レモン水の入ったピッチャーを、まるごと床に献上した。客席ではなかったのが不幸中の幸いだった。
金曜。昨日。ケーキの名前を読み上げる練習中、「季節のタルト」を「季節のタコ」と三回連続で言い間違えた。本人は真っ赤になっていたが、彩葉は笑いを堪えるので精一杯だった。
みおは、いい子だ。
本当に、いい子なのだ。やる気がある。返事がいい。言われたことはメモを取る。覚えもいい。ただ、やる気に手先が追いついていない。追いついていないまま、全力で前に進もうとする。結果として、毎日なにかが倒れる。
その子を、もう一人持っている。
そこにもう一人。
——その思考が顔に出たのは、コンマ数秒だった。眉間にほんのわずかに力が入って、すぐに抜けた。優等生の顔に戻すのは、十六年の人生で鍛えた技術だった。
「——はい、大丈夫です」
「今、ちょっと顔しかめたね」
「しかめてないです」
「しかめたよ」
店長は湯呑みを置いて、にこにこと笑った。この人は、のんびりしているように見えて、見るべきところは全部見ている。
「みおちゃんのことでしょ。分かるよ、あの子、元気だもんね」
「……元気、ですね」
「だからね」
店長は人差し指を一本立てた。
「酒寄さんの時給、来月から上げる予定だったのを、今月からにしようと思って」
彩葉の背筋が、ほんの少し伸びた。
「それと、まかないの範囲もちょっと見直そうかなって。今は余ったものだけでしょ。これからは、仕込みで出た端っこも持って帰っていいことにしようかなと。ケーキのスポンジの切れ端とか、サンドイッチのパンの耳とか、スープの余りとか」
彩葉の背筋が、さらに伸びた。
頭の中で、電卓が勝手に叩かれる。時給の上昇幅かける今月の残りシフト時間。まかないの拡充による食費の削減見込み。スポンジの切れ端は朝食になる。パンの耳は二日分の昼食になる。スープは——スープは温かい。温かいものを食べられる。
家計簿アプリの「食費・残り」の数字が、脳内で急に輝きを帯びた。
「やります」
「ありがとう〜」
店長は満足そうに頷いた。
文字どおり現金な対価に、まんまと乗せられた。彩葉にもその自覚はあった。あったが、問題はなかった。乗せられて困ることが何もない。
「去年もね、酒寄さん、ちゃんと後輩を育ててくれたでしょ。だから安心して任せられるのよ」
「……ありがとうございます」
去年の秋、半年遅れで入ってきた他校の子を、彩葉は一から教えた。その子は今では一人でホールを回せるようになっている。その経験が認められたのだと、彩葉は解釈した。
悪い気はしなかった。
「どんな方なんですか? 新しい人」
「うーん」
店長は少し考えて、
「二十二歳の男の子。真面目な子だと思うよ」
「大学生ですか」
「ううん、フリーター」
「前はどこで働いてたんですか」
「えーっとね」
店長は湯呑みを持ち直して、ほうじ茶をもう一口啜った。
「まあ、本人から聞いて」
それきりだった。
彩葉はその間を、特に気に留めなかった。
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四月二十日、土曜日。
午後一時五十分。シフト開始の十分前。
彩葉はいつもより少し早く店に入り、制服のエプロンを結び、髪を整え、バックヤードの鏡の前で笑顔を確認した。
「よし」
今日は新人が来る。第一印象は大事だ。教える側が雑だと、教わる側も雑になる。去年の経験から、彩葉はそれを知っていた。
裏口のドアが開いた。
「おはようございます」
低くて、少しだけ眠そうな声だった。
振り返った彩葉は、まず、背が高いと思った。
次に、黒い髪が目に入った。センターで分けて、額が少しだけ見えている。染めてはいない。整えすぎてもいない。
その下の顔を見て、彩葉は一瞬だけ、言葉を探した。
整っている、という言葉では足りなかった。目鼻の配置に、無駄がない。造形として正しい、とでも言えばいいのか。ツクヨミのアバターでも、ここまで均整の取れた顔はなかなか見ない。
そして、首元。
銀色のチョーカーが巻かれていた。細い鎖を螺旋状に編んだような、繊細なデザイン。飾りは控えめで、主張しすぎない。ただ、目を引く。光を受けるたびに、螺旋の溝が細く光った。
——アクセサリー、いいのかな。
一瞬、思った。BAMBOOcafeの服装規定は緩いが、首元のアクセサリーについての記載は確かなかった。なかったはずだ。店長がいいと言ったなら、いいのだろう。
彩葉はその思考を、優等生の笑顔の裏にしまい込んだ。初日から小言を言う指導係は、嫌われる。
「おはようございます。今日から指導を担当します、酒寄です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
男は軽く頭を下げた。動きに無駄がなかった。
エプロンを渡すと、彼は手際よく結んだ。胸元に名札を留める。名札には、ありふれた苗字が書いてあった。クラスに一人はいそうな、特に珍しくもない名前だった。
着替えたあとの姿を見て、彩葉はもうひとつ気づいた。
細身に見えていたのは、服のせいだった。エプロンの紐を背中で結ぶとき、シャツ越しに肩と背中の輪郭が浮かんだ。厚い。想像していたよりずっと、身体に厚みがある。何かしら運動をしていた人の身体だ、と思った。
思っただけで、それ以上は考えなかった。
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最初の一時間は、店内の案内と基本の説明に充てた。
ホールの動線。テーブル番号。レジの操作。ドリンクの作り方の基礎。オーダーの通し方。皿の下げ方。
男は、メモを取らなかった。
取らなかったが、全部覚えていた。
「三番テーブルのお客様、お冷やのおかわりお願いします」
「はい」
一度説明しただけのテーブル番号を、迷わず覚えている。ドリンクの手順も、一度見せただけで同じように再現した。手つきは丁寧で、急がず、でも遅くない。
左手でピッチャーを持って、右手でグラスを支える。注ぐ水の量も、ちょうどグラスの八分目で止まる。
——覚えがいい。
彩葉は内心で評価を書き込んだ。去年の子よりも、みおよりも、明らかに飲み込みが早い。社会人経験がある人の動きだった。
休憩時間。
バックヤードの小さな丸テーブルで、彩葉と男は向かい合った。店長の采配で、彩葉の休憩と彼の休憩は同じ時間に揃えられていた。指導係だから、らしい。
「どうですか。初日」
「落ち着いてて、いいお店ですね」
男は紙コップのコーヒーを両手で包んで、少しだけ目を細めた。
「ここまで、何駅かかかるんですけど。落ち着いたお店がよかったので」
「近くに他のカフェもありましたよね」
「ありました。でも、ここがよかったんです」
理由は言わなかった。
「前は、どんなお仕事を?」
彩葉は、何気なく聞いた。
「前の仕事で、お世話になった人がいて。その人の紹介でここに」
答えになっているようで、なっていなかった。前の仕事が何だったのかは、するりと抜け落ちている。
彩葉は、追及しなかった。初日から根掘り葉掘り聞くのは失礼だ。それに、言いたくないことの一つや二つ、誰にでもある。自分にだってある。
「将来の夢とか、あるんですか」
これも、何気なく聞いた。指導係として、本人の方向性を把握しておくのは悪いことではない。
男は、少し考えるような顔をした。
それから、真面目な声で言った。
「のんびり暮らしたいです」
「…………」
「のんびり暮らしたいです」
「二回言いましたね」
「大事なので」
彩葉は、どう反応すればいいのか分からなかった。冗談なのか本気なのか、表情からは読み取れない。たぶん本気だ。本気で、のんびり暮らしたいのだろう。
二十二歳。フリーター。前職不明。夢は、のんびり暮らすこと。
彩葉の脳内で、指導係として見過ごせない何かが、ぴくりと動いた。資格とか、正社員登用とか、将来設計とか、言いたいことが喉元までせり上がってきた。
飲み込んだ。
初日だ。会ったばかりだ。小言は、まだ早い。
「……いいですね、のんびり」
「でしょう」
男は、少しだけ嬉しそうに笑った。
なんだろう、この人。
彩葉は、紙コップのほうじ茶を一口飲んだ。真面目で、覚えがよくて、礼儀正しい。それなのに、どこを掴めばいいのか分からない。手を伸ばすと、指の間をすり抜けていく。雲みたいな人だ、と思った。
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「あ、そうだ」
休憩の終わり際、彩葉は思い出したように言った。
「呼び方なんですけど。私は名字で呼ばせてもらって大丈夫ですか?」
名札を見ながら、その苗字を口にしかけた。
「あ、それ」
男が、少しだけ困ったような顔をした。
「名字は、ちょっと。できれば別の呼び方で」
「え?」
「すみません。理由は、特にないんですけど」
理由が特にないのに、嫌らしい。
彩葉は首を傾げた。名字で呼ばれるのが嫌な人は、たまにいる。家庭の事情とか、昔のあだ名とか。深く聞くことではない。
「じゃあ……」
下の名前で呼ぶのは、さすがに馴れ馴れしい。会って三時間の年上の男性を、下の名前で呼ぶ度胸はなかった。
なら、こうしよう。彩葉は教育係らしく提案した。
「……じゃあ、私が先輩って呼びます」
「え」
「年上ですし。人生の先輩なので。先輩」
「バイトでは後輩ですけど」
「人生では先輩です。それでいきましょう、先輩」
男は、少しだけ目を見開いた。それから、ふっと息を吐くように笑った。
「じゃあ、俺は酒寄さんで」
「はい」
こうして、呼び方が決まった。
彩葉から彼へ、「先輩」。
彼から彩葉へ、「酒寄さん」。
バイトの先輩が後輩を先輩と呼び、後輩が先輩をさん付けで呼ぶ。客観的に見れば、ねじれている。だが、二人ともそれで落ち着いてしまったので、誰も直さなかった。
ホールに戻る途中、店長とすれ違った。店長は二人を見て、何か言いたげに目を細めて、結局何も言わずに厨房へ消えていった。
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その夜。
彩葉は布団の中で、片耳にイヤホンを入れていた。今日は疲れた。予習は三十分で切り上げた。あとはヤチヨを聴いて寝るだけだ。
「——そういえば、聞いてくださいよ〜」
ヤチヨの声が、少し弾んでいた。
「弟くんがね、今日から新しいことを始めたんです〜。ヤチヨさん、心配で心配で、朝からずっとそわそわしてて〜」
〈弟くん!〉
〈何始めたの〉
〈姉バカ〉
〈ヤチヨがそわそわしてる〉
〈照明ずっとピンクで草〉
「何を始めたかは、ヒミツです〜。でもね、ちゃんとやれたみたいで。よかったぁ〜」
画面の中のツクヨミの照明が、柔らかい桃色に揺れていた。
彩葉は、半分眠りかけた頭で、ぼんやりと思った。
ヤチヨの弟設定、今日は新しいことを始めたらしい。
自分も今日、新しい後輩ができた。
なんだか、少しだけ似ているな。
——そこまで考えたところで、彩葉の意識は、すとんと落ちた。
春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく、まだ夜の、その手前。