この物語はハッピーエンドにはならない。 作:閲覧は推奨されない
こうして手紙を書くのは少し変な気分かな。
あなたはわたしで、わたしはあなたなんだから、本当なら伝える必要なんてない筈なのにね。だって忘れてしまったことも、どうしても忘れられなかったことも、今なら少しだけ違う形で言葉にできそうだから。
あなたはきっと今も人の顔ばかり見ているんだろうね。
誰かが痛そうにしていれば気になるし、悲しそうなら何となく放っておけない。無理をして笑っている人を見るとその笑顔の下が気になって手を差し入れて、隠しているものを取り出してあげたくなる。
結論から言うとそういう所は最後まで変わらなかったよ。
だから安心して。
あなたはこれからも、たくさんの人を助ける。
傷を塞いで、熱を下げて、痛みを取り除いて、眠れない人を安心して眠らせてあげる事もできる。疲れている人がいれば手を握ってあげたりなんかしてね。
あなたの手にはそれができる。
それはとても素敵なことだった。
少なくとも、わたしはずっとそう思ってた。
あなたは近い将来、ラテラーノに嫌気がさしてロドスという場所へ行くことになる。そこにはサンクタではない人がほとんどで、何を考えているのか分からない人たちばかり。
最初は少し怖いかもしれない。
でもすぐに好きになるよ。
笑っている人が本当に嬉しいのか。黙っている人は怒っているのか。優しくしてくれる人が心の底でも同じことを考えているのか。
何も分からない。それがあんなにも嬉しいことだなんて、あなたはまだ知らないんだろうね。
わたしと他人が別々に存在しているという、ただそれだけの自由をそこで初めて知ることになる。
ああ、それから。
ひとり、変な人に会う。
とても長く生きていて、たくさんのことを知っているのに、自分が知っている事の何倍も知らないことがあるような顔をしている人。言葉は難しいし、話は長いし、こっちが誤魔化そうとすると大抵見抜かれる。
欲しい言葉も欲しい時にくれないし、平気だと言っているのに休めと怒る。まだできると言っても必要ないと止めてくるし、あなたはたぶん、最初のうちは少し腹を立てるかもしれない。
けれどきっと、その人のことをいつか特別に思うようになる。
だから。
――ここまで書いて、わたしはペンを止めた。
続きを書こうとしていた筈なのに、そこから先へ進むための言葉が見つからなかった。
机の上には白い便箋が一枚。その周囲だけが照明に照らされ、医療区画の片隅は夜の色に沈んでいる。こんな時間まで起きている人間は少ないらしく、廊下から聞こえてくる物音も随分前から途絶えていた。
長いこと書いていた気がする。
ペンを持っていた手を離し、指先を見る。
傷ひとつない、いつも通りの綺麗な手。
爪の際や手の甲も、手首も。袖を捲って確かめるまでもなく、わたしの身体には不調らしい不調が一切見当たらない。健康そのもの。
人を治せるだけでも十分なのに自分まで丈夫だなんて都合がいい。
今のわたしならそう思うかな。だからこの手紙を読んでいるあなたからすれば、今のわたしが何を考えているのか何一つ理解できないかもしれない。
それでいい。
まだ、分からなくていいよ。
「…………」
静かな部屋では、自分の呼吸がやけに近く聞こえた。
泣いてはいなかった。
泣き疲れているわけでもない。
頭は澄んでいる。悲しみで何も考えられなくなっている訳でも、恐怖で指が震えている訳でもなかった。
むしろ今までで一番、自分が何をしようとしているのか理解できている気がする。
それが少し可笑しくて、何もないまっさらな部屋で1人、わたしは笑った。
「あぁ、もう治っちゃったんだ」
誰に言った訳でもない。
強いて言えば、自分の身体へ向けた言葉だった。
どれだけ傷付いても自浄作用によって元通りになるのはわたしにとっても都合が良かった。何も知らなかった頃からわたしはずっと守られていた。
「ありがとう、っていうのはきっと正確ではないんだろうね」
返事はなかった。
当然だろう。
「あの子たち」はそんなことの為に居る訳ではない。わたしはしばらく自分の掌を眺め、それから指を握った。
この手が好きだった。
人を助けられる手だったから。
泣いている人に触れれば少しだけ楽にしてあげられた。苦しそうな人を抱き締めれば、その人が明日まで生きるための手助けができた。誰かから必要とされる度、自分にもここにいる理由があるような気がした。
たぶん、そういうところも最後まで変わらなかったんだと思う。
机へ視線を戻す。
便箋には、まだ随分と余白が残っていた。
あの人のこと。ロドスのこと。そこで出会った人たちのこと。嬉しかったことや楽しかったこと、腹が立ったことも。今ならまだ一つずつ思い出せる。書こうと思えばきっとこの紙では足りないくらいに書けるだろう。
けれど、今はここまででいい。
昔のわたしには、まだ知らなくていいことがたくさんある。
知らなかったから笑えた日があった。疑う理由を持たなかったから、差し出された手を何の躊躇いもなく握れた日もあった。あの頃のわたしが賢かったとは思わないし、戻りたいとも思わない。ただ、何も知らないということが、あんなにも簡単に人を幸福にしてくれるのなら。
少しくらい、羨ましがってもいいだろう。
わたしはペンを置いた。
便箋は折らなかった。封筒にも入れない。そもそも、これを誰かに届けてもらうつもりなんて最初からなかった。
書きかけの手紙を机の上へ残して立ち上がる。椅子を引いたところでふと足を止め、最後にもう一度だけ、便箋のいちばん上へ目を落とした。
そこには、何も知らなかった頃のわたしへ向けた言葉がある。
続きを書くのは、もう少し先でいい。
――Hello まだ何も知らないわたしへ。
ずいぶん遠くまで来てしまったような気がする。
あの頃のわたしは、誰かを助けられることがただただ嬉しかった。触れた先から痛みが消えて、傷が塞がって、その人が少しだけ楽そうに笑ってくれる。それを疑う理由なんてどこにもなかった。
誰かを救える力ならそれはきっと善いものなのだと信じていた。今思えばそう思いたかっただけなのかもね?
だから、まずはそこから始めよう。
まだ何も知らず、誰かに触れることを怖がりもしなかった頃。
あなたが、自分の手を好きでいられた頃の話から。
ロドスへ来て最初に覚えた感情は安心だった。
歓迎されたからではない。親切にされたからでもない。むしろ、わたしにとって最も大きかったのは誰からも何も流れ込んでこなかった事だった。
艦内は静かではない。駆動音は常に床の下を這っているし、通路には忙しなくオペレーターたちが行き交っている。搬送用カートの車輪が一定の間隔で鳴り、隔壁が開く度に空気の流れが変わるようだった。医療区画へ近付けば薬品と消毒液の匂いが濃くなり、慌ただしく行き交うオペレーターたちの声もそれに重なっていった。
それでも、わたしには驚くほど静かだった。すれ違う人々が何を考えているのか分からない。今朝から機嫌が悪いのか、恋人と喧嘩したのか、見知らぬ異邦人でもあるわたしを見て何を思うのか、そんなものは何ひとつこちらへは届かない。世界がようやく自分と他人を別々の容器へ戻してくれたようだった。
ラテラーノでは感情というものは何処か公共物に近い。もちろん思考まで筒抜けになる訳ではないが、それでも誰かが喜べばその余韻は伝わってしまうし、苛立っていればこちらの胸の内まで少しざらつく。みんなはそれを祝福と呼んだ。孤独を和らげる善い仕組みだ、と。たぶんその評価は間違っていないのだろう。けれど、善いものだから好きにならなければいけないというのは随分と乱暴な話だと思う。だって善意は時々逃げ道を塞いでしまうものだから。
悪意なら嫌いだと他者へと伝え、拒絶も出来るだろう。けれど「分かり合えるのは素晴らしいことです」なんて善意の顔で差し出されたものは、嫌がった瞬間にこちらの人格まで疑われかねない厄介なものだ。感情の共有が祝福なら、それを不快に思うわたしは何なのだろう。欠陥品か、性格の悪いサンクタか。そういう分類をされるくらいなら、いっそ最初から他人と分かり合えない場所へ逃避してしまう方が気楽だった。
すると前を歩いていた案内役が振り返った。
「先ほどから随分楽しそうですね。何か気になるものでもありましたか?」
「ううん。何も分からないなぁーって思ってただけ」
相手は一瞬だけ目を瞬いた。その反応が本物の困惑なのか、単なる社交的な間なのかわたしには分からない。その事実だけでここに来て良かったと嬉しくなった。
「変な意味じゃないよ。むしろ褒めてる。誰が何考えてるのか全然分からないって、かなり高級な環境だと思う」
「高級、ですか」
「うん。秘密が秘密のままでいられるって、結構贅沢なことだから」
案内役は少し考えてから笑った。今度の笑顔も本当に面白がっているのか、気を遣っているだけなのかすら分からない。
理解というのはいつでも正しい事ではない。分からないまま放置してくれる方が時として気が楽な事もある。聞かないこと、踏み込まないこと、誤解を訂正する権利を本人へ残しておくこと。そういう不完全さや不燃焼さの方がわたしにはずっと他人を尊重しているように見えた。
医療部の一室へ通されると、机の向こうにフェリーンの女性がいた。
彼女はケルシー。資料で顔や名前は既に知っていた。医療部門の責任者。極めて高い専門知識を持ち、ロドスの運営にも深く関わる人物。事前に渡された経歴は十分すぎるほど立派だったけれど、実際に会って最初に思ったのは、随分と人の機嫌を取らなさそうな人だな。といった、ともすれば失礼な感想だった。
「ケルシーだ。君がセストダだな」
「はい。今日からお世話になる予定のセストダです。なるべく長く置いてもらえると助かるかな」
「何か問題を起こす予定なのか?」
「可能性の話。人って自分の将来を保証しすぎない方が誠実でしょ」
女性、ケルシーは返事をせず資料へ目を落とした。
笑わず、愛想もない。こちらが軽口を叩いても、それを処理するためだけの笑顔を出さない。そういう所に少し惹かれるものがあった。
やがて案内役が退室し、扉が短い音を立てて閉まる。部屋には紙を捲る音だけが残った。彼女はわたしの経歴と検査結果を確認しているらしく、こちらへ気を遣って会話を繋ぐ様子もない。
ラテラーノでは黙っていても完全な沈黙にはならない。相手の感情の輪郭がこちらへ触れてくる。ところが机を挟んで目の前に人間がいるのに、その無粋な内側はなに一つ見えてこない。
だから、つい聞きたくなってしまった。
「ねえ。今のところ、わたしについてどう思ってる?」
ケルシーが顔を上げる。
「その質問は範囲が広過ぎる。少なくとも現時点では好悪を判断する為の情報が不足している」
「好きでも嫌いでもない?」
「どちらかを決める必要性も感じていないという意味だ。私は君を採用面談の対象として見ている。故に第一印象に感情的な結論を求める理由はない」
思わず笑った。
「いいね、その言い方。理解できない部分を欠陥みたいに埋めようとしないんだ」
「他者を理解できないことを、好ましく感じるのか」
「理解できないこと、というより……理解しきれないことかな」
言葉にしながら、自分でもその違いを確かめるように続ける。
「他人が何を考えてるのかは知りたい。だから今みたいに聞く事もあるし、観察もする。でもどれだけ知った所でそれが全部にはならないものだよ。その人の中には、わたしの理解が届かないXが必ず残るでしょ? わたしは多分、それが好きなんだと思う。理解できないものが残ってる限りその人はわたしの中の解釈じゃなくて、ちゃんとわたしの外側にいる他人で居てくれるから」
ケルシーの視線が、わずかに深くなる。
「君は不可知であることを、他者性の根拠としているのか」
「そんな感じ。全部分かっちゃったら、その人が独立して存在してる感じが薄くなるでしょ。わたしの理解の中に収まった誰かじゃなくて、理解の外側にもちゃんと続いてる人の方が安心する」
「理解することそのものを拒んでいるわけではない、と」
「むしろ逆。知りたいから、分からない方がいいんだと思う。全部分かるなら、知ろうとする必要もなくなるから」
そこで一度言葉を切った。
「サンクタの共感ってあるでしょ。わたし、あれが嫌いなんだよね。……ああ、いや、嫌いというより生理的に気持ち悪い、の方が近いかも」
普通なら少し言いにくい話なのに、ケルシーを前にすると不思議と口が滑った。こちらが言葉にしない限り彼女には何も伝わらない。その不自由さのおかげでわたしの感情が最後までわたしのものとして残っている気がしたからだろうか。きっと全部本当で、全部嘘だ。
「みんなは“分かり合えるから孤独じゃない”って言うけど、わたしはそうは思えない。分かり合えることって、場合によっては孤独を奪取してしまうものだから。ひとりで悲しむ権利とか、理由を説明しない自由とか。あるいは機嫌が悪いまま放っておかれる権利とか。そういうのまで善意で剥がされたらどこまでが自分なのか重なり過ぎてなにも分からなくなっちゃう」
それについてはケルシーは口を挟まなかった。
だから少しだけ身を乗り出す。
「わたしは、他人って半分くらい分からない方がいいと思ってる。全部分かったらその人のことを理解したんじゃなくて、自分の中で再構成しただけになる気がするんだよね。“この人はこういう人”って完成させた瞬間、相手そのものより、自分が作った説明書だけを見つめてるイメージかな」
「理解が支配へ変わる可能性を警戒している、と?」
「そんな感じかな。愛情と理解と所有欲って、結構ご近所さんだと思うんだよね。表裏一体とまでは言わないけどさ」
それから体の奥がじわりと沈む感覚があって、少し冷静になる。
「だから、好きな人のこと全部知りたいって台詞、わたしにはちょっと怖いかな。全部知らなくても好きでいられる方が、よっぽど信頼っぽいと思うんだよね」
ケルシーは数秒こちらを見てから、やがて資料へと目線を落とした。
「少なくとも、共感そのものを否定したいわけではなさそうだな」
「全然。好きな人は好きでいればいいし、助けられてる人もいる事実までは無視するつもりはないよ。わたしが嫌いだからって世界から消えてほしいとは思わないし、そういうのって自分が嫌だったものを今度は他人に押しつけるだけでしょ?」
そこで一度息をついた。
「わたしはただ、自分の感情くらい自分名義で持っていたいだけ」
ケルシーの目が少し細くなる。
「なるほど、興味深い」
「あ、褒めてくれるんだ」
「ただの評価だ」
「じゃあ、都合よく褒められたことにするね」
「好きに解釈しろ」
好きだなぁ。目の前の人物は慰めるために事実を曲げることも、安心させるために分かったふりをすることもない。欲しい言葉と必要な言葉をきちんと分けて扱える人はそれだけで貴重だから。
「では、医療部を志望した理由を聞こう。提出書類には『人の役に立ちたいから』とある。だが、君のアーツは医療以外にも応用できる。少なくとも、それだけでは医療を選ぶ理由にはならない」
ケルシーは書類から目を上げた。
「君の志望理由はなんだ?」
「感謝されやすいから」
ケルシーが少し黙った。
堪らず、わたしは笑った。
「あ、今品がないと思った?」
「いや、率直だとは思ったが」
「うーん、なんて言うのかな。善意って、あんまり神聖化しない方がいいとわたしは思うんだよね」
椅子の背へ軽く身体を預ける。
「確かに人を助けると気分いいし、ありがとうって言われると嬉しいし。必要とされると自分がちょっと上等な人間になった気がする。そういう報酬込みでやってる方がわたしは健全だと思う。だって、“何も求めずに人を助けています”って人の方が、あとで無自覚に見返り請求してきそうじゃない?」
「君は自分の価値を他者の反応によって確認する傾向を否定しないんだな」
「否定する理由もないからね。褒められたいし、必要とされたいし、できれば大事にもされたい。わたしからすれば、そういうのを否定する方が不健康に見えるかな。確かに欲しくないふりをした方が奥ゆかしくは見えるんだろうけど、見栄えの為に自分の欲求を無視し続けるのって虚しいじゃん」
「欲しがることと、それに依存することは別だと?」
「正確には別であってほしい、かな。境界がそんなに綺麗じゃないことくらいは分かってるけど」
指先で自分の爪の縁をなぞる。
「褒められたい。でも褒められなきゃ動けない人にはなりたくない。好かれたいけど、その為に相手の望む人格へ自分を作り替えるのはちょっと嫌。必要とされるのは嬉しいけど、必要とされることだけが生きる理由になったら、多分それはもうわたしが誰かを求めてるんじゃなくて、誰かに求められることへ縋ってるだけに思うからそれも嫌かな」
「随分と細かく線を引くんだな」
「引いておかないと混ざるからね。欲望って、放っておけば自分に都合のいい理屈をいくらでも作っちゃうし。それに矛盾してるくらいが丁度良いよ。愛されたいのに自由でいたいし、必要とされたいけど縛られたくない。人間の欲望がそんなに綺麗に一つの方向を向いてたら、たぶん感情なんてとっくに廃れてるよ」
向かいに座るケルシーは何も挟まない。ただ続きを促すように、静かな視線だけがこちらへ向けられている。その沈黙が心地よくてわたしは少しだけ口元を緩めた。
「理性って欲望を消す装置じゃないと思うんだよね。“今わたしこれ欲しがってるな、かなり必死だな”って実況するだけ。実況できるから制御できる時もある。でも実況してても暴走する時だって普通にある」
するとしばらく黙っていたケルシーが口を開く。
「自分の危うさを認識しているなら、なぜ承認を得やすい職を選ぶ」
「効率がいいから」
「その環境が、むしろ依存を強化する可能性は考えないのか」
「もちろん考えてるよ。でも、それだけで後方支援を選んだ訳じゃない。仕事そのものを好きでいられるかは、わたしにとって結構大事だから」
椅子の背から身体を離し、少しだけ前屈みになる。膝の上で組んでいた指をほどきながら、どう説明したものかと考えた。
「人を治すの、普通に好きなんだよ。傷が塞がって、さっきまで辛そうにしていた人の顔から力が抜ける瞬間とか。自分がしたことと、その結果がちゃんと繋がって見えるでしょ? あれが好き」
「成果が明確だからか」
「それもある。少なくとも『役に立てた気がする』で終わらない所とかね」
自分の手へ目を落とした。何の変哲もない、小さくて白い手だった。これに触れられた人の傷が治る。その単純さをわたしは昔から気に入っている。
「承認されることだけが目的ならもっと手軽な方法はいくらでもあるでしょ。わざわざ血と傷の近くで働く必要なんてない。褒められたいのは本当だけど、それだけで職業まで決めるほど短絡的でもないよ」
「なるほど」
ケルシーは短く答え、手元の書類へ何かを書き加えた。肯定でも納得でもなく、単に一つの情報として受け取ったらしい。その扱われ方がわたしには好ましかった。
「わたしにとって感謝って副産物なんだよね。感謝されたくて善いことをする人より、善いことをした結果として感謝される人の方がみんな好きでしょ。わたしは感謝されたいし、嫌われたくもない。だったら副産物として貰うのが一番都合がいいんだよ」
「随分と君に都合よく整理された理屈だな」
「自分の人生に適用する理屈なんだから、多少は自分に都合よくていいと思ってるよ。別に自分を苦しめる理屈ほど正しい、なんてこともないでしょ」
ケルシーは僅かに目を細めた。呆れているというより、今の言葉をどこまで額面通りに受け取るべきか吟味しているように見える。机の上にはわたしの提出書類が開かれたままで、彼女の指先がその端を静かに押さえていた。
「自分に都合のいい解釈を持つこと自体は珍しくない。人間は完全に中立な立場から自分自身を評価することなどできないからだ。だが、君の場合は少し事情が異なるようだ。自分の欲求が判断に介入していることも、それによって認識が歪む可能性も理解している。その上で、歪みを排除するのではなく、自分で許容できる範囲を定めて共存しているのか」
「そうだね。少なくとも今のわたしはそう判断してる」
「だが、その許容範囲を定めているのもまた、君自身だろう」
「そこはどうしようもないね。観測する側とされる側が同じ以上、完全な公平性なんて端から期待できない」
自分を裁く側も弁護する側もわたしなら、どれほど慎重に考えたところで完全な中立など期待できない。だからといって、自分について考えることそのものを放棄する理由にもならないけれど。
「でも、それは自己評価そのものが抱えてる問題でもあるんじゃないかな。自分に都合がいい事と、論理として破綻してる事は同義じゃない。逆に、自分にとって苦しい結論を選んだからって、それだけで誠実になれるわけでもない」
「その点には同意する。問題は結論ではなく、君がどの段階で検証を終えるかだ。人間は自分にとって心地の良い説明を得た時点で、それ以上考える必要がないと判断する。君ほど自分の内面を言語化することに慣れている人間なら、なおさら注意すべきだろう」
「言語化できること自体が、正しく理解できてる証明にはならないもんね。最もらしい説明を作れる分、自分を納得させるのもeasyだから」
「そういうことだ」
「自分を知ろうとして身につけたものが、そのまま自分を騙す道具にもなるんだ。厄介だね」
口ではそう言いながら、不思議と嫌な気分にはならなかった。ケルシーはわたしの考えを否定しているのではなく、その考えが成立するために見落としてはいけないものを増やしている。それは議論というより、検査により近かったから。
「それなら、わたしが感謝を副産物として扱ってること自体はどう思う?」
「現時点では、君が治療そのものに価値を感じていることも、他者からの感謝を強く求めていることも事実なのだろう。その二つが両立している以上、どちらか一方を偽物と見なす必要はない」
そこでケルシーは一度言葉を切った。書類へ落ちていた視線が持ち上がり、まっすぐにこちらへ向けられる。
「ただし、人を治した結果として感謝されることを望むのと、感謝されるために治すべき誰かを必要とするのとでは、外から見える行動が同じでも意味は大きく異なる。前者は欲求と職務が両立しているだけだが、後者では他者の苦痛そのものが君の自己評価を維持するための条件になり得る」
すぐには答えず、その言葉を頭の中で一度組み直す。
感謝を欲しがること自体が悪いわけではない。誰かを助けたい。その結果として感謝もされたい。それなら、まだ何も矛盾していない。
問題は、いつの間にか順番が入れ替わることだ。助けたから必要とされるのではなく、必要とされたいから、自分を必要とする誰かを求めるようになる。
そうなれば、他人の不幸さえ、自分の価値を確かめるための材料になってしまう、と。ケルシーが言いたいのはそういう事だろう。
「……ああ、そっか。『誰かを救いたい』と『救う対象がいてほしい』って、見てくれは殆ど同じなんだ」
「行為だけを見れば区別できない場合もある。どちらも負傷者を治療し、苦痛を取り除き、結果として感謝を受け取る。違いが現れるのは、その状況が存在しない時だ。前者にとって治療を必要とする人間がいないことは望ましい。だが後者にとっては、自分の役割を失うことになる」
思わず眉を下げる。
「誰も怪我してないのに不満を覚えたら、医療従事者としてだいぶ終わってるね」
「極端に表現すればそうなる。だが実際には、もっと曖昧な形で現れるだろう。必要とされない状況への不安や、自分以外の人間によって問題が解決された時の不満としてな。本人がそれを他者の不幸への願望として認識するとは限らない」
「しかも本人は善いことしてるつもりなんだもんね。そういう自分になっても普通に気付かなそうなのが最悪かな」
「君は自分の欲求を正しく認識しているが、自己認識の精度と自己統制の能力は同一ではないという事もまた認識するべきだ。自分の偏りを説明できることは、その偏りから自由であることを意味しないからだ」
「知ってるだけじゃダメ、ね。確かにね。それについては同意見」
軽く笑ってから、ふと考える。
「でもさ。そこまで疑い始めると、逆に何も欲しがらない方が安全って話にならない? 感謝されたいとか、必要とされたいとか。そういうの全部なくせたら、一番綺麗ではあるでしょ」
「綺麗である必要がどこにある」
一瞬、瞬いた。
ケルシーは変わらない顔で続ける。
「誰かを救ったことで満足する。それ自体に問題はない。利他的な行為に利己的な動機が含まれていたとしても、それだけで行為の価値が失われるわけではないからだ。人間の行動を単一の動機へ還元し、その純度によって善悪を判断する方が不自然だ。君が感謝を求めていたとしても、その欲求と相手の利益が両立している限り、片方を偽物として扱う必要はない」
「……へえ」
ちょっと意外だった。
「人を助けるなら見返りなんて求めるな、とか言わないんだね。わたし、ああいうの嫌いなんだよね。善意だけ急に聖人向けの規格を要求されるの、なんだか気持ち悪いなって」
「見返りを求める事と、見返りを得るために他者を手段化することは別だ。混同する理由はない」
「そう、そこ」
指先でケルシーを示しかけて、さすがに失礼かなと思って途中で引っ込めた。
「わたしが誰かを助けて、その人が嬉しい。感謝されて、わたしも嬉しい。二人とも得してるならそれでいいじゃん。そこで『でもあなたも満たされてますよね?』って減点されるの、意味分かんないし」
「その理解自体は間違っていないが、君が満たされているという事実を相手も満たされている筈だという推論にすり替えるな。双方の利益は、それぞれ独立して確認される必要がある」
「あ、まだ続くんだ」
「当然だ」
「ふふ。わたしを気持ちよく帰らせる気ないでしょ」
「これは面接だ。君を気持ちよく帰すことは目的に含まれていない」
「知ってる。だからあなたのこと、好きになっちゃった」
そう口にしたら、ケルシーは物言いたそうな目でこちらを睨み付けてくる。
欲しい言葉をくれる人は好きだ。褒められるのも、肯定されるのも好きだし、できることなら毎日たくさんそうした実感が欲しい。
でも、欲しがったからという理由だけではくれない人も、それとは別の意味で好きだった。
少なくともその人から何かを貰えた時だけは、わたしが欲しそうな顔をしていたからじゃないって信じられるから。
この人はこちらを安心させるために肯定しないし、反対するために否定もしない。わたしが自分なりに筋通った答えを用意しても、それを正しさとして扱わず、まだ検討できる余地があるなら当然のようにそこへ手を入れてくる。
それが妙に心地よかった。
分かったふりをされないことも、自分で分かったつもりになったところを止めてもらえることも、案外同じくらい貴重なのかもしれない。なんてね。
「でも開き直ってることを自覚してる分、まだマシかなって。自分を正当化してる人ほど、自分こそがそうだって気付いてないし」
ケルシーは資料を一枚取り出した。
「ではアーツについて。接触した対象の損傷を修復する。接触時間と面積に比例して効果が高まる。ここまでは相違ないか」
「うん。軽い傷なら手を握るくらいでいいし、酷かったら長く触る。だから抱き締めるのが一番効率いいかな」
「作用機序は?」
「蟲」
「……それだけでは説明にならない」
「ごめんごめん、ちょっと言ってみただけだから怒らないでよ」
もちろん、それで説明を終えるつもりはない。けれど、あまりにも間を置かずに返されたものだから、少しくらい困らせてみたくなったのだ。案の定、ケルシーは眉一つ動かさない。冗談が通じないというより、冗談だと分かった上で付き合う必要がないと判断した様子だった。
わたしは小さく笑って、膝の上で片方の手を開いた。見たところ何の変哲もない手のひらだ。傷も痕もなく、ここから何かが生まれているようには到底見えない。
「すごく小さい構造体がわたしのアーツで生まれるの。わたしは『蟲』って呼んでる。触れたところから相手の体内に入って、悪いところを見つけると正常な状態に戻るまで勝手に修復してくれる。とってもシンプルでしょ? わたし自身の体内にもいるみたいで、こっちはわたしの意思とは関係なく壊れたところを見つける度に直しちゃうんだけど」
「では治療後、構造体が対象の体内に残留しているのか、それとも消滅しているのかは分かるか」
「分からない」
「長期的な副作用については?」
「十分に調べられてないね」
「それでも治療に使用すると」
「必要なら使うよ。便利だからね」
即答すると、ケルシーの視線がわずかに鋭くなった。言葉の軽さだけを咎めているわけではないらしい。少し考えてから、彼女は短く問い返してきた。
「理由を聞こう」
「使わないことにも危険はあるから」
今度は少しだけ真面目に答えた。
「目の前に怪我人がいて、わたしがアーツを使えば助かる可能性がある。でも、まだ分からないことがあるからって使わないでその人が死んじゃったら、それは安全を選んだことにはならないと思うんだよね。結局、アーツを使う危険と、使わない危険を比べて、よりマシな方を選んでるだけ」
「つまり、君は未知の副作用が存在する可能性を認識した上で、それを治療しないことによる危険と比較しているわけだな」
「そういうこと。危険か安全かを選べるなら簡単なんだけどね。実際はだいたい、危険Aと危険Bのどっちを取るかでしょ?」
ケルシーは否定しなかった。ただ、そのまま続きを促すようにこちらを見ている。
「もちろん、分からないままでいいとは思ってないよ。あなたの言うように、使うなら何が起きてるのか調べる責任はある。でも全部分かるまで絶対に使わないって決めるのも、それはそれで患者に危険を負わせることになると思うんだよね。他に助ける方法がない時は特にね」
「不確実性が残っていることと、使用すべきでないことは同義ではない、と」
「うん。分からないから使わない、で思考を止める方がよっぽど怖いかな。分からない部分は分からないまま、使った場合と使わなかった場合を比べて決めるしかないと思う」
「だが、その比較そのものが成立しているとは限らない」
「どういうこと?」
「治療しなかった場合の危険は観測しやすい。出血、感染、臓器損傷。少なくとも既知の経過から一定の予測はできる。だが君のアーツによる危険は違う。作用機序も、生成された構造体の消失時期も、長期的な影響も分かっていない。比較しようとしても片方の秤に何が載っているのかさえ把握できていないということだ」
「それでも、秤には載せなきゃいけないでしょ。分からないからって無限に重いことにしたら、結局ずっと使えないままだよ」
「私は未知の危険を無限に大きく見積もれと言っているわけではない。未知である以上、既知の危険と同じ精度では扱えないと言っている。君の論理は判断を迫られた現場では有効だろうが、それを一般的な使用の正当化にまで拡張すれば、不確実性そのものを過小評価する原因となる」
「でも逆も同じじゃない? 慎重であることを優先し過ぎるあまり、今助けられる人を未来の安全のために見捨てることになるよ」
「その可能性は否定できない」
ケルシーはあっさり認めた。
「故に私は使用するなとは言っていない。使用する条件を限定すべきだと言っているんだ。既存の治療で十分に対処できる患者にまで未知のアーツを使用する理由はない。一方で、他に有効な手段がなく、使用しなければ重大な結果が予想される状況であるならば、未知の危険を受け入れる合理性は理解出来る」
「……なるほど。わたしは『助けられるなら使う』で、あなたは『使わないと助けられないなら使う』なんだね」
「概ねそうだ」
少し考えてから、頬杖をつく。
「随分違うね」
「当然だ。君は目の前の患者を見ている。私はその患者と、君が次に治療する患者まで考慮する必要がある。今日一人を救えたという事実は同じ方法を明日も使用していいという証明にはならない」
「わたしは今ここにいる一人を見捨てる理由には、未来の誰かを使いたくないけどね」
「今ここにいる一人を救えたという成功を理由に、君は未来の患者へ未知の危険を無自覚に引き継がせることを許容できるのか?」
「だからロドスに来たんだよ」
ケルシーが僅かに目を細める。
「それは、管理を受けるために?」
「それもあるかな。わたし一人だったらたぶん『今回も大丈夫だったし』って使い続けちゃうから。便利なものって、使ってるうちに危険を小さく見積もるようになるでしょ?」
「慣れによるリスク認知の低下か」
「それそれ。しかも自分のことなら言い訳なんていくらでも作れるしね」
「君は自制を信用していないのか」
「信用してるよ。でも自分を信用してることと、自分だけに任せることは別かな」
少し考えてから、笑う。
「間違えるかもしれないって分かってるなら、最初から他の人にも見てもらった方がいいでしょ。だから、わたしのアーツをちゃんと調べてくれる場所が欲しかったの」
言葉を選びながら続ける。
「ブレーキ一個だけの車って怖くない? しかも、そのブレーキを踏む人間が自分に都合のいい時だけ『今回は例外』って言い始めるタイプだったらより最悪でしょ。だから外から止める人が欲しかったの」
「自分で定めた基準であっても必要と判断すれば自ら例外を設ける。その可能性まで織り込んだ上で、外部から判断を制限する仕組みが必要だと考えているわけか」
「委ねたいっていうより、勝手に走り出した時に止めてほしいかな。運転するのはわたしでいたいし」
「随分と注文が多いな」
「大事なところだからね。自制を信用してないからって、意思決定まで全部渡したいわけじゃない」
ケルシーはしばらくこちらを見ていた。その視線には、先ほどまでとは少し違う種類の慎重さがあった。
「それで、私にその役割を求めているのか」
「今のところ候補一位かな」
「君と私はまだ会ったばかりだ」
「だから暫定一位」
ケルシーは小さく息を吐いた。
たぶん呆れている。でも彼女は候補から降りるとは言わなかった。
「では最初の制止だ。今後、十分な検証を経ていないアーツを『便利だから』という理由で使用するな。少なくとも作用機序と残留性について一定の評価が済むまでは、使用の可否を君一人で判断することも認めない。必要な場合は私に報告し、許可を得ろ」
「あ、もしかして採用?」
「暫定的な管理措置を、君の人選への同意と解釈するな」
「でも仕事はもう始めてくれるんだ」
「放置する理由がないだけだ」
「仕事が早いね」
「セストダ」
「はぁい」
初めてちゃんと名前を呼ばれた。
声の温度からして、たぶん記念すべき瞬間として喜ぶところではない。