この物語はハッピーエンドにはならない。   作:閲覧は推奨されない

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思ったよりも長くなってしまった。


私たちは繰り返す行動によって作られる。

 

レユニオンとの交戦は、予定より長引いていた。

 

わたしたち後方支援班が配置されたのは、かつて商業施設として使われていた建物の一階だった。正面側の外壁は半分近く崩れ、鉄骨と砕けた硝子が剥き出しになっている。

 

救護所としては随分と心許ない場所だったが、太い柱や倒れた什器が多く、遮蔽物には困らない。前線との距離も近いため、負傷者を拾い上げて応急処置を施し、後方へ送り返す中継地点としては好都合だった。

 

折り畳み式の救護ベッド、輸液器具、止血材、弾薬箱、簡易通信機。必要なものだけが雑然と並び、その隙間を医療オペレーターと支援要員が絶えず行き交っている。少し離れた通りでは銃声が断続的に響き、時折上がる爆発音に合わせて天井から細かな砂埃が落ちる。救護所の中には血と消毒液、それから粉塵の匂いが混ざっていた。

 

作戦指揮のケルシーは中央よりやや後ろに立ち、端末と周囲を交互に見ていた。戦況、負傷者の数、撤退経路、補給の残量。崩れかけた前線を思えばこの場の指揮はほとんど彼女に委ねられていると言って差し支えない。

 

自分のことばかり見ているわたしとは違って、彼女は負傷者の治療と並行して前線の指揮まで担っていた。ただ、その立ち振る舞いに感じられたのは余裕というより、こうした状況を幾度となく潜り抜けてきた者だけが持つ、ひどく静かな慣れのようなものだった。

 

「セストダ。次に搬入される二人のうち、一人は腹部を損傷している。右側のベッドを空けろ。止血材も追加で出しておけ」

 

ケルシーの指示に従い、使い終えた器具を脇へ寄せる。

 

「了解。ちなみに、今ので止血材は残り4。次も同じペースで来たら、補給前に底をつくかも」

 

「把握している。だから無駄に使うな」

 

「人の命って、本当に費用対効果が悪いよね。数分を繋ぐだけでも物資は食うし、人手は取るし、本人だって少なからず苦しい。生命維持ってびっくりするくらい不経済」

 

ケルシーが端末から顔を上げた。

 

「なら、助けるのをやめるか」

 

「まさか。効率が悪いことと、価値がないことは別でしょ」

 

わたしは残数を確認しながら、空になった包装をまとめて脇へ退けた。止血材を惜しんでいるわけではない。むしろこれだけ物資が逼迫してきたのに、わたしのアーツをなるべく温存させようとするケルシーの方針が気にいらなかった。

 

「むしろ効率だけで切り捨てられないから人の命って面倒なんだと思う。少なくともわたしは、そういう面倒臭いものの方が好きだよ。簡単に計算できる価値なんて、値札と大して変わらないし」

 

ケルシーは一瞬だけこちらを見た。

 

わたしがこういうことを言うと、時々この目をする。冗談なのか本気なのか、それとも両方なのかを量るような目。

 

「少なくとも、ケルシーがこの戦線にわたしを配置した理由くらいなら分かってるつもりだよ」

 

「……分かっているなら、余計なことに気を回さず己の役割を果たせ」

 

「はあい」

 

 

 

 

 

負傷者が運び込まれたのは、それから数分後だった。

 

 

一人は肩口に銃創を負い、もう一人は腹部を深く裂かれている。優先すべきなのは明らかに後者だった。わたしはすぐそちらへ回り、処置用の手袋を嵌める。

 

血の匂いにはもう随分と慣れた。だからといって平気になったわけではない。ただ怯えるより先に手を動かすことを覚えただけだ。恐怖というものは考える余地が生まれた瞬間にぐんと育つものだから。

 

「触るね。少し変な感じがするかもしれないけど、我慢して」

 

負傷者が短く頷いた。

 

「……ッ任せ、る」

 

「うん。できれば死なないでね。治療中に死なれると、わたしの自尊心がかなり傷つくから」

 

痛みに顔を強張らせながら、それでも相手は少し笑った。

 

「は、は……変な、やつ……だな?」

 

「あまり力まないで、血が流れるのが早くなるから。……まぁ、否定はしなかな。人を助けたい気持ちと自分が有能でありたい気持ちって、別に互いに矛盾しないでしょ。善意だけで人を救えるほど、わたし自分を清廉だとも思ってないし」

 

通常の処置だけで繋ごうとするにはもう限界が近かった。止血材は目に見えて減り、鎮痛薬も輸液も残量が心許ない。それでも傷口から滲む血は止まらず、負傷者の呼吸は少しずつ浅くなっていく。……流石に次の補給を待っている余裕はない。このまま物資を食い潰しながら時間を稼ぐよりわたしのアーツを使った方が断然早い。

 

「ケルシー」

 

わたしの呼びかけに彼女は視線だけをこちらへ寄越した。その目に焦りはない。負傷者の呼吸や出血量、残された止血材と輸液、周囲を行き交う支援要員の動きまでを一度に拾い上げるように視線がごく短い間だけ逡巡する。確認しているというより、必要な情報を瞬時に切り分けているようだった。

 

何を優先し、何を切り捨てるべきか。その判断は既に彼女の中でほとんど終わっているらしい。

 

「緊急時だ。許可する」

 

その一言が思っていたより深く胸へ落ちた。

柄にもなく、少し嬉しくなる。

 

単に使用を許可されたというだけなのに、まるで「任せる」と言われたような気がしたからかな。わたしのアーツは便利だからという理由だけで気軽に使えるものではない。ケルシー自身がその危うさを誰より警戒していることも知っている。だからこそ、今この場で使うべきだと判断されたことが何だか嬉しかったのだ。

 

信じてもらえたみたいで、駄目になりそうだった。

 

「はぁい」

 

なるべく軽く返してから、嵌めていた手術用のゴム手袋へと指を掛ける。血で濡れた表面が僅かに張り付き、外す時に薄い膜が皮膚を撫でるような不快な感触を残した。片方ずつ丁寧に脱ぎ捨て、露わになった手のひらを一度だけ見下ろす。

 

この手で触れる。

 

それだけで人の身体の中へ未知の物質が入っていく。

 

考えれば考えるほどあまり健全な仕組みではないが、それでも今は躊躇している時間の方が惜しかった。

 

「触るよ」

 

半ば意識のない負傷者へ短く告げ、傷口そのものには触れないよう少し外れた位置へ手のひらを添える。皮膚越しに熱が伝わった。失血による身体の震えも僅かに伝わってくるようだった。これが生きているという事なんだろう。

 

指先へ意識を集める。

 

呼吸を一つこぼし、アーツを動かした。

 

最初に来るのは、いつも身体の奥がほどけるような感覚だった。胸の奥とも腹の底ともつかない場所から、細い糸を何本も引き抜かれるような感触が走る。

 

「あの子たち」が動き始める。

 

目には見えない。

 

けれど、そこに「居る」ことだけは分かる。

 

わたしの中を這うように流れ、腕を伝い、掌へ集まってくる。そこから先は境界が曖昧になる。

 

自分の身体の中にいたものが、触れている相手の内側へ移っていく。ほんの一瞬だけぞわりとした違和感が脳へ走った。裂けた組織を探し、出血している場所へ集まり、崩れた部分を少しずつ繕っていく。

 

 

 

「……大丈夫」

 

知っている。この言葉には傷を塞ぐ力も、失った血を戻す力も、ましてや明日を保証する力もない。口にした所で、現実は一つも軽くはならない。

 

事実を述べているんじゃない。そうであってほしいと願う気持ちを事実みたいな顔で口にしているだけだ。

 

だからこれは、相手を安心させるための言葉ですらなかった。自分の中で膨らみ続ける不安に、ひとまず形を与えて黙らせるための、何の効力も持たないただの独り言だった。

 

そうこうしてる内に負傷者の呼吸が少しずつ整っていく。さっきまで止まらなかった血も、目に見えて勢いを失い始めていた。

 

今この瞬間をどうにか繋いで、まだ見えてもいない次の朝へ押し渡す。生きるというのは案外そういうことの繰り返しなのかもしれない。完全な形へ戻すことでも傷付かなかったことにすることでもなく、欠けたものを抱えたまま先へ進ませること。それを教えてくれた人は、もう居ないけれど。

 

 

 

やがて、閉じたままだった瞼が微かに震えた。

 

「……っ」

 

掠れた息が漏れ、焦点の合わない目がゆっくりと開いた。

 

「聞こえる?」

 

問いかけると、数秒遅れて視線がこちらへ向いた。

 

まだ意識は朦朧としている。それでもこちらの声を拾い、言葉として認識するだけの反応は戻っているようだった。

 

「……ここ、は」

 

「救護所。わたしのこと、覚えてるかな」

 

焦点の定まりきらない目が、わたしの顔をしばらく追う。

 

「あ、ぁ……」

 

「無理に起きなくていいよ。まだ辛いなら、もう少し寝てても大丈夫」

 

「……すまない」

 

掠れた声でそう言うと、彼は再びゆっくりと瞼を閉じた。今度の沈黙は意識を失った時のそれとは違う。頼りなく速かった鼓動はまだ弱いながらも少しずつ落ち着きを取り戻している。顔色も僅かに戻り、指先の冷たさも先ほどほどではない。

 

眠った、という方が近いのだろう。

 

完全に治ったわけじゃない。まだ後方での処置も必要だし、経過を見なければならない。それでも、少なくとも今すぐ死ぬ状態からは抜けた。

 

それを確認して、ようやく胸の奥に引っかかっていたものが少しだけほどけた。

 

「……大丈夫」

 

もう一度、今度はさっきよりもはっきりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

そう考えていた時、外で銃声が鳴り響いた。

 

それまでとは明らかに近い。乾いた発砲音が崩れた外壁を抜け、救護所の中まで鋭く反響する。前方に待機していたオペレーターが弾かれたように振り返り、ほとんど同時に叫んだ。

 

「西側! 狙撃手が回り込んでるッ!」

 

空気が一瞬で張り詰めた。

 

負傷者を奥へ運ぶ者、倒れた什器を引き寄せて遮蔽物を作る者、入口側へ駆けて応戦に回る者。それまで辛うじて保たれていた救護所としての秩序が、今度は戦場のそれへと組み替わっていく。

 

ケルシーは端末を伏せた。迷う様子はない。崩れた壁の向こうを一瞥し、銃声の位置と味方の配置を拾い上げるように視線を走らせると、すぐに声を張った。

 

「西側通路を閉じろ! 重傷者から奥へ移せ。射線を切り、正面に立つな」

 

短い指示だったが、必要なものは全て入っていた。しかしその声が飛び終わるのとほとんど同時に、一発目が鳴った。

 

 

 

ケルシーの身体が僅かに揺れた。次いで、彼女の肩口にじわりと赤が滲んだ。

 

撃たれたのだ。

 

それでも彼女は崩れなかった。近くの柱へ片手を付き、乱れた姿勢を最小限の動きで立て直す。痛みに反応するより先に視線だけが外壁の向こうへ走り、狙撃手の位置を探っていた。

 

本当に、どうかしてる。

 

自分の身体へ弾が入った直後ですら最初に確かめるのが傷ではなく敵の位置なのはどうなのって、そう思ったその矢先だった。

 

二射目が来る。

 

銃口そのものが見えたわけではない。ただ、一発目がケルシーの肩を穿った角度と崩れた外壁の開口部、それから狙撃手が確保できる射線を重ねれば、自ずと次に弾が通る場所はある程度絞れたというだけの話。

 

ケルシーも同じ結論に辿り着いたのだろう。

 

身体を横へ逃がそうとする。しかし踏み出した足は思うように地面を捉えず、わずかに重心がズレていた。

 

撃たれた側の肩は落ち、体幹も僅かに崩れている。足を踏み替える動きにも、普段ならまず見せない鈍さがあった。このままでは射線を外れる前に次弾が届いてしまう。

 

そこから先に思考が入り込む余地はなかった。気付いた時には、身体の方がすでに動いていたから。

 

 

 

わたしはケルシーへ駆け寄り、横合いから肩と腰へ腕を回した。

 

「――っ、セストダ!」

 

返事をする余裕はない。

 

そのまま勢いを殺さず、身体ごと彼女を射線の外へ押し出した。二人分の重みが床へ崩れ落ちる、その直前だった。

 

乾いた発砲音が響く。殆ど同時に、胸の下へ鈍く鋭い衝撃が突き抜けた。

 

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 

痛みより先に、身体の内側で何かが強く弾けるような感覚がある。肺から空気を叩き出され、ぐっと息が詰まった。視界の端が白く明滅し、音だけがさざ波のように遠ざかっていく。

 

その後から、遅れて熱が押し寄せた。

 

焼けた鉄を身体の奥へ押し込まれたような、逃げ場のない熱。

 

わたしはケルシーを抱え込んだまま床へ転がり、その勢いを利用して瓦礫の陰まで滑り込む。衣服越しに床の硬さと砕けた破片の感触が伝わったが、それを気にしている余裕などなかった。

 

直後、先程までケルシーが立っていた壁面が弾けた。乾いた破砕音と共に細かな破片が散り、遅れて味方側から応戦の銃声が重なった。

 

誰かが狙撃手の位置を叫んでいる。

 

まだ終わっていない。

 

 

すると、別のオペレーターがこちらへ駆け寄ろうとするのが見えた。

 

瓦礫の陰から身を乗り出し、こちらへ一直線に向かおうとしている。けれど狙撃手の位置はまだ完全には割れていない。さっきまでケルシーが立っていた場所にも弾が飛んできている以上、ここへ近付けば同じ射線に晒される可能性が高い。

 

「来ないで! まだ射線が切れてない!」

 

考えるより先に声が出た。

 

相手は足を止め、すぐ近くの遮蔽物へ身を滑り込ませる。その動きを確認して、ようやくほんの少しだけ息を吐いた。

 

思ったより大きな声が出た。

 

けれど、その直後に胸の奥が強く引き攣る。息を吸おうとしても十分に入ってこない。呼吸の度に傷の周囲が内側から押し広げられるように疼き、服の下へじわじわと温いものが広がっていく感触があった。

 

これは、結構まずい場所に入ったな。

 

さっきまで衝撃に押し隠されていた痛みが、ようやく輪郭を持って追いついてきた。

 

 

 

「セストダ。傷を見せろ」

 

ケルシーが身体を起こし、わたしの肩を支えた。普段の彼女からは想像しにくいほど語気が強い。その焦りを隠しきれていない感じが、こんな時なのに少しだけ可笑しかった。

 

「……そんな声も出せるんだ」

 

「喋るな。呼吸だけに意識を向けろ」

 

「無理。黙ってたら、痛みの実況しかすることなくなるから」

 

「なら呼吸だけ数えろ。吸って、吐け。意識をそれ以外へ向けるな」

 

「それ、一番痛みに集中しちゃうやつじゃん」

 

自分の腹部へ視線を落とす。

 

服はもう赤く染まっていた。傷口から溢れた血が布地へ吸われ、それでも追いつかずにじわじわと範囲を広げている。まるで栓を失った蛇口みたいだと思ったけれど、笑えるほど余裕のある光景でもなかった。

 

それでも幸いと言うべきなのだろう。

 

身体の奥では、すでに修復が始まっている。

 

損傷した場所へ「あの子たち」が集まり始める。熱とも痺れとも違う。もっと曖昧で、身体の内側を細いものが一斉に這い寄っていくような感触があった。

 

裂けた組織を探し、出血している場所へ集まり、壊れたものを塞ごうとしている。

 

ケルシーもわたしの傷を確かめようとしたのだろう。こちらへ伸びてきた手を、逆に手首のところで掴んだ。

 

「あなたが先」

 

「馬鹿なことを言うな。君の方が損傷は大きい」

 

「それは分かってる。でも、わたしの方は放っておいても既に修復が始まってる。でもケルシーはそうじゃないでしょ。……それに、今ここであなたが動けなくなったら困るのはわたしだけじゃない。ここの指揮系統全体の混乱へと繋がってしまうよ」

 

ケルシーは掴まれた手を無理に振りほどこうとはしなかった。こちらの意図を量るように、わたしの顔をまっすぐ見据えている。

 

「その判断は、君自身の損耗だけを低く見積もることで成立している」

 

「低く見てるわけじゃないよ。比べてるだけ」

 

呼吸を整えようとする度、傷の奥が引き攣った。肺へ空気を入れるという当たり前の動作さえ、いまは身体のどこかを内側から押し広げるみたいに痛い。それでも掴んだ手は離さなかった。

 

「……全部の命は等しく尊い、なんて話と……いま誰を先に治すべきかは別でしょ。平等って便利な言葉だけど、扱い方を間違えると判断を放棄するための、免罪符になる……。違う状態にあるものを同じように扱ったところで、それで公平になったことにはならない、よ……」

 

ケルシーの目が僅かに細くなる。

 

「君は、自分を後回しにする時だけ驚くほど理路整然としているな」

 

「それって褒めてる?」

 

「批判している」

 

「じゃあ……半分くらいは褒められたことにしておく」

 

「都合のいい解釈だ」

 

「自分の人生、なんだから、自分に都合よく生きてもいいでしょ」

 

ケルシーの眉間に浅い皺が刻まれた。

 

納得していないのは分かる。わたしだってこの理屈で彼女を言い負かせたとは思っていない。いま必要なのは正しさの決着じゃない。互いの主張を丁寧に並べている間にも血は流れるし、敵は待ってはくれない。

 

「はい、この話はあとで続きをしよう」

 

一方的に議論を切り上げ、掴んでいた手を離す。そのまま血に濡れた彼女の肩へ掌を添えた。

 

「少し我慢して。かなり力任せに始めちゃうから」

 

「セストダ。自分の治療を優先しろ」

 

「やだ」

 

「君の理屈は理解している。自浄作用が既に発動していることも承知している。だが、それと治療の優先順位は別問題だ。損傷が大きい以上、先に安定化させるべきなのは君の方だ」

 

 

 

 

「……だって、痛いから」

 

ケルシーが一瞬、黙った。

 

「……何?」

 

「自分の痛みに集中したくないの。だからケルシーを先に治すし、ついでにいっぱい喋る。黙ったら、痛みの事しか考えられなくなるから。だったら他人の傷を見て、別のこと喋って、意識の置き場所をずらした方が楽でしょ。結構合理的だと思わない?」

 

全部本当で全部嘘。痛みから気を逸らしたいのは本当。ケルシーを先に治した方が、この場全体にとって都合がいいというのも本当。

 

でも、それだけならこんなに頑なになる必要はない。

 

そこから先には、まだ言葉にしたくなかった。わたしはそれごと押し込めるように、アーツを流した。

 

身体の内側で「あの子たち」が動き始める。わたしの中から腕を伝い、掌の先を越えて、ケルシーの身体へ移っていく。銃弾に抉られた筋肉や傷付いた血管を探し当て、そこへ群がるように集まりながら損傷した組織を少しずつ繋ぎ直していく。

 

その間にも自分の痛みは消えない。

 

むしろ意識を逸らそうとすればするほど、呼吸のたびに傷の奥から鋭い痛みが追い縋ってくる。胸郭が動くたび、身体の内側へ薄い刃を差し込まれるようだった。

 

だから、言葉は切らさない方がいい。黙ってしまえばまた痛みが世界の中心に戻って来てしまうから。

 

 

「……人って不思議だよね。痛い時に“痛い”って考えると、それだけで痛みが世界の主役になる。でも別のことに意識を向けてる間は少しだけ脇へ追いやれる。意識って、かなり独裁的な照明係だと思う……自分が照らしたものだけを大きく見せて、それ以外は平気で暗がりに沈めるから」

 

ケルシーがこちらを見る。

 

「その為に私へ話しかけているのか」

 

「半分はね。もう半分は……ケルシー相手だと考えてることが割とそのまま口に出ちゃうから」

 

「何故だ。私と君は、まだ数えるほどしか言葉を交わしていないだろう」

 

「うーん……だからじゃない?」

 

ケルシーの目が僅かに細くなる。

 

「まだわたしのことを分かったつもりになってないし、何を言っても勝手に感情まで拾われない……多分ね、そこが楽なんだと思う」

 

少し笑う。

 

「サンクタ相手だと、言葉にするより先に“この人いまこういう気分なんだな”って輪郭が伝わっちゃうからきらいー……感情って自分の私有地だと思ってるから、見せるかどうかくらい、自分で決めたい……」

 

「以前にも似た話をしていたな」

 

「うん。もちろん、理解されること自体が嫌なわけじゃないよ。理解したいと思われるのはむしろ好き。……ただ、理解したことにされるのが嫌なの」

 

ケルシーは少し間を置いた。

 

「だが君は、他者との境界を強く求める一方で、その相手からの反応も必要としているように見える」

 

「あは……そうだよ。でも、全然矛盾しないと思う」

 

「どういう意味だ」

 

「相手がわたしとは別の人間だから、その人に褒められることに価値があるの」

 

本当は好かれること、と言いたかった。

 

でも、それをそのまま口にするのは少しだけ生々しい気がして、ひとつ手前の言葉へ置き換えた。そうしてみると、思っていたより簡単に口から出た。言葉って便利だなぁ。

 

 

「自分と同じものから肯定されても、自家発電っぽくてあんまり信用できない。わたしが自分に“あなたは素晴らしいです”って言ったところで、採点者と受験者が同じじゃ、賄賂どころか癒着だよ」

 

「自己評価そのものを信用していないのか」

 

今だって自分のことをこうして開示することで、少しでもケルシーに理解してもらおうとしている。

 

「……うん。だから外から返ってくるものが欲しいの。ありがとうとか、助かったとか、必要だとか。そういう言葉がひとつあるだけで、少なくともその日は“わたしがここにいたことには意味があった”って思えるから」

 

「意味がなければ?」

 

「その日は外れの日ってことになるかな。何かして、誰かに必要とされて、それでやっと“今日はいてよかった”って思えるから」

 

「自分の価値を日単位で切り分けるのか」

 

「分かりやすいでしょ? 存在ガチャ。今日は当たり、今日は外れ。毎朝無料で一回引けるの」

 

ケルシーの表情は、見事なくらい動かなかった。

 

冗談として受け流すでもなく、呆れた様子を見せるでもない。ただ、こちらの言葉をそのまま受け取って、その奥に混じったものまで見定めようとしているようだった。

 

「……冗談だよ。半分は」

 

「なら、残り半分はなんだ」

 

「……ほんと、そういう所は律儀だよね。いつもはもうちょっと流してくれるのに」

 

隠したいから冗談にしているのに、その薄い包装ごと丁寧に剥がされてしまうのは少々困った。

 

「それは君が流してほしい部分ほど、流すべきではないように見えるからだ」

 

やっぱりその言い方が少しだけ嬉しかった。

 

ちゃんと見てくれているんだと分かるから。冗談で包んだ所まで含めて、わたしの言葉を雑に扱わないところ。

 

同時に、少し困った事でもある。流してほしいから軽く言って、深刻な顔で差し出せないものを冗談の形のように小さく畳んで、相手が笑って通り過ぎられる程度の大きさにしている。それなのにケルシーは、わざわざ立ち止まって拾い上げる。包装が冗談だからといって、中身まで軽いとは限らないことを知っているみたいに。

 

 

 

 

「……役に立てない日は、少し居心地が悪いかな。誰にも必要とされてないなら、わたしがここで場所を取ってる意味って何だろう、くらいは考える」

 

ケルシーはすぐには返さなかった。わたしの言葉を一度そのまま受け取ってから、確かめるように口を開く。

 

「つまり君は、自分が存在していい理由を、有用であることによって確かめようとしているのか」

 

「そこまで綺麗に一本化してるつもりはないよ。ただ、分かりやすい指標ではある。誰かが助かったとか、必要だったとか、そういう結果なら目に見えて分かりやすいでしょ? 自分の価値なんて曖昧なものを信じるより、ずっと扱いやすい」

 

「だが指標と主張する割には、その基準を他人にも適用しているようには見えない」

 

少し考えてから、首を横に振る。

 

「確かに、しないね。誰かが役に立たなかったからってその人がいる意味までなくなるとは思わない」

 

「矛盾していると分かっていて、それでも修正する気はないのか」

 

「修正する気がないっていうより、分かってることと直せることは別ってだけ。故障箇所を把握してることと、その場で修理できることは同義じゃないでしょ」

 

口元だけがほんの僅かに緩んだ。笑おうとしたというより、あまりに自分らしい結論に辿り着いたことが可笑しくなったのだと思う。傷の痛みで呼吸は浅いままなのに、それでも喉の奥からかすかな息が漏れた。

 

「そういう意味では、わたし、自分がどこか壊れてることくらいはちゃんと分かってるよ」

 

ケルシーはすぐには答えなかった。ただ、こちらの言葉をそのまま飲み込むでもなく、かといって軽く流すでもなく、何かを見極めるような静かな視線を向けている。

 

その目が少しだけ居心地悪くて、わたしは誤魔化すように口元を緩めた。

 

「……そんな顔しないでよ。全部、痛みを我慢するための冗談なんだから」

 

ケルシーは何も返さず、自分の傷の状態を確かめるように肩へ僅かに力を入れた。さっきまで滲み続けていた血はほとんど止まり、傷口も目に見えて塞がり始めている。少なくとも、今すぐ動けなくなるような状態ではなくなっていた。

 

 

「君は、自分の将来について話す時はいつもそうだな」

 

不意に言われて、思わず目を瞬いた。

 

「え?」

 

「“今は”“たぶん”“その日”“明日の自分は知らない”……君は先のことを口にする時、継続してそこにいる自分を前提に置くことを避けたがる傾向にある」

 

一瞬、返す言葉が見つからなかった。

 

そこまで意識して使い分けていたつもりはない。だからこそ他人から輪郭を与えられると妙に居心地が悪かった。

 

ケルシーは答えを急かさない。わたしが何か言うのを待つ代わりに、これまで拾っていたものを一つずつ並べるように続けた。

 

「自己評価の低さだけなら、先ほどまでの話である程度は説明はできる。だが、君は自分の損耗を容易に治療の優先順位から外す。役に立てた日には存在した意味があったと言い、そうでない日は外れと呼ぶ。その一方で、将来の君自身がその損失を引き受けることには、驚くほど無頓着だ」

 

そこで一度、言葉が切れる。

 

「承認を求めているだけの人間なら、普通はその承認を受け取り続けるために、自分が明日も存在することをある程度は望む。だが君には、その前提が極端なまでに薄い」

 

さすがだなあ、と思う。

 

気付かないふりをしていたところへ、余計な肉を傷付けずに刃だけ差し込んでくる。痛い場所を探すというより、最初からそこにあると知っていたみたいに正確だった。

 

「……今、診察始める? わたし撃たれてるんだけど」

 

「だからこそだ。痛みと疲労で思考を取り繕う余力が落ちている。平時なら君自身が避ける話題について、今は随分とよく喋っている」

 

「怖いこと言うね」

 

「君が自分から話し始めたんだろう」

 

「そうでした」

 

逃げ道にした軽口まで、きちんと塞がれた。

 

少しだけ黙る。

 

その途端、さっきまで言葉の陰へ押しやっていた痛みが待っていたとでも言うように輪郭を取り戻した。呼吸に合わせて傷の奥が引き攣り、胸の下へ鈍い熱がじわじわと広がっていく。

 

やっぱり嫌だ。

喋ろう。

 

 

「……じゃあ、何から聞きたい?」

 

ケルシーはわたしを見た。視線は静かだったが、穏やかとは言い難い剣呑な雰囲気があった。

 

「君は、自分が長く生きることを当然の前提としているか」

 

何を確かめようとしているのかは分かる。露骨な言葉で結論を迫る代わりに、わたしが未来をどう扱っているのか、その前提を確かめようとする様な聞き方だった。

 

いかにもケルシーらしい聞き方だ。

 

「人が長く生きることって、そんなに当然の事かな。事故でも病気でも、あるいは今日みたいな流れ弾でも。未来なんて案外、呆気なく幕を下ろすものでしょ。だからわたし、自分だけは当然そこまで辿り着くって前提の中で生きていないだけ」

 

「一般論へ逃げるな。私は人間一般の話をしているんじゃない。君自身が、自分の将来をどれだけ当然のものとして扱っているかを聞いているんだ」

 

「手厳しいなぁ」

 

痛みから意識を逸らすために始めた筈の会話は、気付けば随分と深い所まで降りてきていた。しかもケルシーはこちらが曖昧に投げた言葉を一つずつ拾い上げ、その度に逃げ道を容赦なく削っていく。

 

追い詰められているのはわたしの筈なのに不思議と嫌ではなかった。

 

むしろ、少し興奮している。

 

逃げ道を塞がれていること自体が嬉しいわけではない。

 

ケルシーはわたしが冗談に紛らせて曖昧にした部分まで丁寧に拾い上げその奥に何があるのかを確かめようとしている。

 

当然、怖さはある。

 

そこはわたし自身が普段あまり触れない場所だ。見られたくないから軽口に包み、拾われなくとも困らない形にしていたは筈のに、ケルシーはそれを暴こうとしていた。

 

けれどそれは、追い詰められているというよりは隠し方そのものを見抜かれている感覚に近かった。その窮屈さが妙に心地よくて、癖になりそうな高揚感に少し酔いかける。

 

 

「……長く生きたいかって聞かれると、そこまで強い希望はないかな。……ああ、でも、生きることへの執着が薄いっていう方が近いかも」

 

少し考えてから、言葉を継ぐ。

 

「明日が来れば普通に起きるし、ご飯も食べる。仕事だってするし、美味しいものを食べればちゃんと嬉しいよ。生きてる間に楽しいことがない訳じゃない。ただ、“何があっても絶対に明日まで行きたい”ってほど強く思えない日があるだけ」

 

ケルシーはすぐには答えなかった。否定する訳でも、安易に慰めるでもなく、ただ今の言葉をそのまま受け取るような沈黙が落ちる。

 

 

「いつからだ」

 

ケルシーの問いにすぐには答えられなかった。

 

正確な始まりなんて自分でもよく分からない。ただ、今のわたしに繋がる出来事を一つ挙げるなら、きっと1つしかない。

 

「子供の頃かな。ラテラーノにいた時、感染者のサルカズに助けてもらったことがあるの」

 

ケルシーは口を挟まず、続きを促すようにこちらを見ている。その沈黙がありがたくて、わたしは少しだけ呼吸を整えた。

 

「ヴァルドって名前の変な大人だった。別に有名な人じゃないよ。立派な肩書きがあったわけでもないし、本人もそういうのを欲しがるような人じゃなかった。……ただ、物事の見方が少し変な人だったの」

 

ケルシーはわずかに眉を動かした。

 

「君がわざわざ“変”と表現する以上、単に風変わりだったという意味ではないんだろう。何を見て、そう感じた?」

 

ケルシーはそう問いながらも、急かす様子はなかった。

 

「なんて言うんだろ……。何を聞いてもすぐには答えてくれないというか。わたしが欲しがってる答えをそのまま渡すんじゃなくて、“どうしてそう思った”とか、“その考えで本当に知りたいものに辿り着けるのか”とか、まずこっちの考え方をひっくり返そうとしてくるの。子供相手にも容赦なくね」

 

記憶の奥で、ヴァルドという男の姿が少しずつ輪郭を取り戻していく。

 

いつも、少し埃っぽい外套を羽織っていた。何かを尋ねても、すぐに答えることはない。まずはこちらをじっと見返し、子供相手だからと話を簡単にすることもなく、むしろこちらが言葉に詰まるのを待つような、何処か性格に難ありな輪郭が、今になってはっきりと思い出せる。

 

ここは、ケルシーが話の構造から先を読んだことを、セストダが少し可笑しく感じるようにすると自然です。

 

「たぶん、今のわたしの考え方って、かなりあの人に影響を受けてると思う。サンクタとサルカズのことを聞いた時も、“どちらが悪いかで考えるな”って釘を刺されたっけな……。被害者だった側が、次には加害する側へ回ることもある。その逆だって起こり得る。だから種族とか歴史とか、そういう大きな括りだけで、目の前にいる人間まで決めつけるなってさ」

 

ケルシーはわずかに目を細めたものの、そこへ評価を差し挟むことはしなかった。代わりに話の先を見据えるような静かな視線がこちらへ向けられる。

 

「それで、その男はどうなったんだ」

 

ああ、もうこの話がどこへ辿り着くのか分かっちゃったんだ。

 

わたしがわざわざ昔の話を持ち出したことも、それを今の自分と結びつけていることも、その先にあまり穏やかではない結末が待っていることも。ケルシーは、たぶんとっくに察している。

 

 

「……あれは事故みたいなものだった。細かい部分はもう随分と曖昧だけど、突然上から瓦礫が崩れてきて、わたしが巻き込まれたところをヴァルドが庇った。お陰でわたしはせいぜい片脚を痛めた程度で済んだけど、当のヴァルドは身体の半分を血で濡らして、まともに起き上がることすらできなかった。どちらを先に治療すべきかなんて、子供のわたしにだって分かるくらい明白だったのに――先に運ばれたのは、わたしの方だった」

 

そこまで話したところで、不意に喉の奥が乾いた。昔のことを話しているだけの筈なのに、当時の埃っぽい空気まで吸い込んだような気がして、酷く気分が悪くなった。

 

「子供だったから。サンクタだったから。あの人は感染者で……サルカズだったから」

 

誰かが明確に悪かったわけではない。誰も彼を見殺しにしようとしていた訳ではない。分かっている。

 

それでも、いくつものもっともらしい判断が積み重なった先で、助かるべき人間の順番が入れ替わった事実を恨まずにはいられない。

 

あの時のわたしには、その理不尽さを覆すだけの言葉も力もなかった。自分より遥かに重傷だった人が後回しにされていくのを、ただ見ていることしかできなかった。

 

それに名前を付けるなら、絶望だったのだと思う。

 

 

「君を先に治療する理由について、彼らから何か明確な説明はあったのか」

 

「そうだねぇ……誰もそんな露骨なことは言わなかったかな。“子供を優先すべきだ”とか、“感染の危険がある”とか、“搬送しやすい方から処置する”とか。ひとつひとつ取り出せばそれなりに筋の通った理由だったかな。……少なくともあの場にいた人たちは、自分たちなりに正しい判断をしているつもりだったと思う」

 

一度だけ瞬きをして、視線を膝元へ落とす。言葉を探しているというより、胸の内側に浮かんだものをそのまま口に出してしまわないよう、短い間を置かなくてはならなかった。

 

「だから余計に、怒りの向け先がなかったの。誰か一人が悪意で決めたことならその人を嫌えば済んだのかもしれないけど。でも実際には、みんなそれぞれ自分の判断を正しいと思って動いていて、その積み重ねの先で、あの人だけが後回しにされた。……そうなると、何を憎めばいいのか分からなくなるんだよね」

 

ケルシーはしばらく黙っていた。わたしも、すぐに続きを口にする気にはなれなかった。

 

昔の光景は鮮明な記憶として残っている訳ではない。むしろ、所々欠けた断片ばかりが妙に生々しく残っている。

 

誰かの白い手袋。担架が運ばれるたびに揺れる視界。自分から遠ざけられていくヴァルドの身体。それから、何度も「大丈夫」だと叫び続けた、幼い自分の声。

 

「善意に裏打ちされた、きっと正しいはずの言葉ばかりだったよ。だから誰も自分が誰かを殺しているなんて思わなかった。……そうして、幼くて無知なサンクタだけが助けられて、物知りで、最後まで運の悪かったサルカズは死んだの」

 

口にしてしまえばたったそれだけの、酷くありふれた話。

 

 

 

「誰か一人の悪意に還元できる話ではない。個々の判断には、それぞれ相応の理由があった。だが、そのどれもが結果を免責するわけではない。……君が今も忘れられないのは、彼が死んだことそのものより、彼だけが切り捨てられたという事実か」

 

すぐには答えなかった。

 

問いの体裁を取りながら、ケルシーの言葉は既にかなり核心へ近付いている。自分でも長い間曖昧なまま扱ってきた感情に、外側から輪郭を与えられていくようで少しだけ居心地が悪かった。

 

膝の上で重ねていた指先へ、僅かに力を込める。

 

ヴァルドの死そのものを悲しいと思わなかった訳ではない。年月の中で少しずつ摩耗して、いつかは記憶の一部として静かに沈んでいくこともできたと思う。

 

今もなお残っているのは、ひどく素朴な疑問と消化しきれない怒り。それから、誰かを助けたあの人の選択だけが何ひとつ報われないまま途切れてしまったように思えた、その不平等さだった。

 

 

「誰かの役に立つことで、あの日わたしが助けられたことに意味を与えたいの。わたしが生き残った先で誰か一人でも助かるなら、少なくともあの人が命を使って選んだことまで無駄じゃなかったって思えるから」

 

ケルシーの視線が僅かに鋭さを帯びる。

 

「彼の選択は、その後の君の成果によって正当化されるものではない。たとえ君が誰も救えなかったとしても、彼が君を助けたという事実まで損なわれることは断じてない」

 

その言葉が落ちた直後、胸の奥へじわりと冷たいものが染み込んでくる。

 

いつの間にか、ケルシーへの治療は終わっていたらしい。彼女の身体へ渡っていた「あの子たち」が、役目を終えてこちらへ戻ってくる。それに伴って自浄作用が働き始め、銃創の痛みだけでなく、さっきまで不規則に波立っていた感情までが少しずつ本来の正常値へと正されていく。

 

昂っていたものが鎮まり、胸を締め付けていたものまで薄れていく。

 

「分かってるよ。随分おかしな理屈を振り回してることくらい、とっくの昔から」

 

あーあ、せっかく嬉しかったのに。

 

人間らしく感情を乱している所へ頼んでもいないのに平静を取り戻させるなんて。「あの子たち」も随分と無粋なことをするなぁ。

 

 

「……たぶん、あの人も望んでないだろうね。むしろ怒ると思う。“助けたのは俺の勝手だ。お前が勝手に返済義務を作るな”って。でも分かってる事と、やめられる事は別だから」

 

ケルシーは少し間を置いてから、静かに言った。

 

「君は……自分の生を与えられた資源のように言うんだな。残された以上、何かに還元しなければならないものとして」

 

「そう聞こえる?」

 

問い返しながら、一度だけ考える。

 

反論しようと思えば、たぶんいくらでも言葉は並べられた。でも、そうやって尤もらしい理屈を増やしたところで、自分を誤魔化しているだけなのも分かっている。困った事にケルシーの言い方はわたし自身の説明よりずっと正確だった。

 

「……じゃあ、たぶんそうなんだと思う。長く生きたいというより、ちゃんと使い切りたい。誰かを助けて、必要とされて、今日わたしがここにいたことで何かが少しでも良くなったなら、それでいい」

 

そこで一度、言葉を切った。

 

「じゃないと、あの人が何の意味もなく死んだことになっちゃうからさ」

 

ケルシーはしばらく黙っていた。

 

その沈黙は、同意を探しているようには見えなかった。むしろこちらの言葉をどこから切り崩すべきか慎重に選んでいるようで、やがて彼女は僅かに眉を寄せる。

 

「それは、君が決めることではない」

 

静かな声だった。

 

「彼が君を助けたという事実は、その後の君が何を成したかによって価値を得るものではない。まして、君自身の有用性を証明し続けなければ維持できないようなものでもない。よって、彼の選択を君の生き方によって事後的に正当化し続ける必要はない」

 

言葉を挟む隙がないほど強い口調ではなかった。それでも、その声音には珍しく明確な拒絶があった。

 

たぶん、ケルシーは本気で否定している。

 

それが少しだけ可笑しくて、同じくらい嬉しかった。

 

「……うん。分かってるよ」

 

そう言って笑った瞬間だった。

 

不意に手首を掴まれる。

 

「え」

 

考えるより先に身体が引かれた。傷口へ庇うように添えていた腕を外され、そのままケルシーの方へ強引に向け直される。

 

「ちょ、ケルシー?」

 

「話は終わりだ」

 

「終わってないよ。わたし今、かなり大事な告白を――」

 

「君の傷の方が大事だ」

 

有無を言わせない調子で遮られ、そのまま胸元の傷へ手を伸ばされる。こちらが身を引こうとした所で掴まれた手首に僅かに力が増しただけだった。

 

「待って待って、今そこ触ると普通に痛――」

 

遅かった。

 

「っ、いッ、たァ……!」

 

反射的に身体が強張る。逃れようと肩を引いた所で、掴まれた腕はびくともしなかった。

 

「私は先に治療すべきだと忠告した筈だ。従わなかったのは君だ」

 

「説得に失敗したから実力行使って、随分と身も蓋もない話じゃない?」

 

ケルシーは取り合わない。傷の状態を確かめる指先だけが必要な箇所を容赦なく辿っていく。

 

「君が従わない以上、手段を変えるしかない」

 

ケルシーの指先が傷の状態を確かめ、圧迫と処置を重ねる度、それに呼応するように「あの子たち」の動きまで目に見えて活発になっていった。損傷した組織へ集まり内側から修復を進めていく。その働きに押されるように、焼けるようだった痛みは少しずつ遠のいていった。

 

けれど治されているのは傷だけではない。さっきまで胸の奥に澱んでいた感情まで、自浄作用の波に均されていく。せっかく、もう少しだけ浸っていたかったのに。

 

「……ケルシーって、余韻を殺すのも上手だね」

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

「褒めてないよ」

 

「承知している」

 

間を置かない返答だった。

 

思わず笑うと、その振動だけで傷口の奥がまだ鈍く疼いた。

 

「痛っ」

 

「笑うな。傷に響く」

 

「無茶言うね」

 

「無茶をしたのは君だ」

 

返す言葉も見つからない。

 

しばらくして、ケルシーはようやく手を離した。傷口の状態を確かめるように一度だけ視線を落とし、問題がないと判断すると、そのまま何事もなかったかのように立ち上がった。

 

「治療は終わりだ。次からは、他人の生に意味を持たせる前に、自分の損傷を正確に把握しろ」

 

「……それ、もしかしてわたし用のブレーキ?」

 

「そう考えてくれて構わない。君は判断そのものは冷静だが、自分が対象に含まれた途端に一般の基準値から遠ざかる傾向にあるようだ」

 

「そこまで言われると、さすがに否定したくなるなぁ」

 

「否定できるならしてみろ」

 

その言葉に返す前に、遠くで短く銃声が続いた。

 

さっきまでとは違う。断続的に散っていた発砲音が、今度は明確な間隔を持って前へ押し返されている。通信機の向こうでも乱れていた報告が少しずつ整理され、退避や救援を求める声より位置確認と進行方向を告げる短い応答の方が増えていった。

 

西側へ回り込んでいた狙撃手もどうやら仕留められたらしい。

 

やがて前線から、敵部隊の抵抗が崩れたとの報告が入る。それを境に戦場の音がゆっくりと変わっていった。

 

銃声は遠のき、代わりに瓦礫を踏み越える足音や負傷者を運ぶための指示が目立つようになる。張り詰めていた救護所の空気もほんの僅かに緩んだ。誰かが息を吐き、別の誰かが壁際へ預けていた身体を起こす。

 

程なくして前線から最後の連絡が届いた。

 

敵影なし。

残存戦力の掃討完了。

 

短い報告だったが、それでもその言葉が救護所の中へ落ちた瞬間、ようやく全員が同じ現実へ辿り着いたのだと分かった。

 

戦闘は終わった。負傷者は残っているし、血の匂いも消えていない。床には使い終えた包帯や薬剤の包装が散らばり、崩れた壁の向こうではまだ誰かが瓦礫を退かしている。

 

それでも次の銃弾に怯える必要は、もうない。

 

ケルシーは通信機から流れる最終報告を聞き終えると、短く息を吐いた。安堵と呼ぶにはあまりに僅かな変化だったが、それまで張り詰めていた肩の力がほんの少しだけ抜けているように思えた。

 

けれど、その静けさも長くは続かなかった。

 

すぐに視線を救護所の中へ戻し、負傷者の状態、残った医療資材、動ける支援要員の数を順に確認していく。その目はもう戦闘の終わりではなく、戦闘の後に残されたものを見ていた。

 

やがて、その視線がこちらで止まる。先ほど途中で切り上げた話をまだ終えていないとでもいうように、ケルシーは一拍だけ間を置いてから、改めて口を開いた。

 

「……どれだけ理屈を重ねようと、君が現在ロドスのオペレーターである事実は変わらない。私は職員の状態を管理し、継続して任務に従事できるよう維持する責任がある。君一人の自己評価で、その管理対象から勝手に外れられては困る」

 

「……あ、まだ続けるんだ。ほんと、律儀だね」

 

「話はこれで終わりだ」

 

ケルシーはそれ以上こちらに言葉を重ねなかった。傷の状態を最後に一度だけ確認すると、すぐに視線を救護所の奥へ移し、待機していた支援要員へ短く指示を飛ばす。そのまま歩調を乱すこともなく、次の処置が必要な負傷者のもとへ戻っていった。

 

 

残されたわたしは、しばらくその背中を目で追った。それから、治りかけた胸元へそっと手を当て、小さく息を吐く。

 

「……余韻がないなぁ」

 

けれど、口元はどうしても緩んでしまっていた。

 

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