透き通る世界のアイアンマン(偽物) 作:マーベルにハマった人
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1 チハヤ・スターク
「二割引き、だそうですよ」
「……何が?」
「次世代誘導ミサイルの納入価格です。カイザーコーポレーションから、二十パーセントの値下げを要求されています」
「なるほど。つまりカイザーの経営陣は揃いも揃って頭を打ったわけね。お気の毒に」
そう結論づけて、手元の端末を閉じた。ガラス張りの窓の向こうにはミレニアムサイエンススクールの街並みが広がり、朝日を受けた高層ビルの間を配送ドローンが飛び交っている。見事な景色だ。科学技術の進歩を眺めるには申し分ないし、くだらない値引き交渉に付き合わされている心を癒やすには、少なくとも役員の顔を見るよりずっといい。
スターク・タワー最上階、CEO執務室。ここは私の城であり、スターク・インダストリーズの中枢であり、できれば無能な取引先の愚痴など持ち込んでほしくない場所でもある。そう。あくまで私の城のはずだった。
「まあまあ。取引先へのお言葉としては少々刺激的ではありませんか? 超天才清楚系病弱美少女ハッカーたる私の前ですから、特別に聞かなかったことにして差し上げますけれど」
ところが、その城には朝から招いてもいない客が居座っていた。
車椅子に腰掛け、膝の上のタブレットを器用に操作する白髪の少女。特徴的な耳に、本人曰く『儚げな』微笑み。ミレニアム三年生、特異現象捜査部の部長にして自称全知の天才美少女、明星ヒマリである。
ちなみに、彼女はスターク・インダストリーズの社員ではない。秘書でも顧問でもない。それなのに当たり前のように私の執務室へ入り、机にあった書類を読み、今は経営上の問題について意見まで述べている。何なのだろう、この自由さは。
「聞かなかったことにするなら、ついでにその書類も見なかったことにしてくれる?」
「おや。千早は私に隠し事ですか?」
「あなた、どこから持ってきたのよ、それ」
「目の前の机に置かれていましたので」
「つまり勝手に読んだと」
「ふふっ。私ほどの美少女ともなれば、書類の方から読んでほしいと訴えかけてくるものなのです」
「とうとう紙と会話するようになったのね。医療班を呼びましょうか」
「まあ。朝から可愛らしい冗談を」
駄目だ。この人には何を言っても通じない。
いや、技術者としての会話は恐ろしいほど通じる。数式をひと目見れば設計思想を読み取り、こちらが思いついたばかりの改良案に平然と問題点を指摘してくる。そんな相手が、どうして日常会話になるとここまで面倒なのか。神様がいるのなら、一度設計意図を問いただしてやりたいものだ。
「それで、千早。カイザーには何と返答を?」
「『寝言は寝て言え』」
「……それをそのまま送るおつもりで?」
「もちろん、もっと丁寧にするわよ。『ご就寝中のご要望につきましては承りかねます』あたりでどう?」
「ふふっ。実に洗練された嫌味ですね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
しかし、笑っていられるのもここまでだ。二割という数字を舐めてはいけない。誘導装置の開発費も、新素材の製造費も、実証試験の費用も、朝起きたら空から降ってくるわけではないのだから。
「値引きしたいなら性能も二割落としてやろうかしら。着弾するたびに五回に一回は外れるとか」
「それでは使われる側が喜んでしまいそうですね」
「素晴らしい。実質的な平和貢献じゃない」
「……兵器を売る企業の社長が口にする言葉ではありませんよ、それ」
呆れたように言いながら、ヒマリは楽しそうに笑う。昔からこうだ。私が少々不謹慎な冗談を言えば、彼女は必ず一段上から返してくる。腹立たしいことに、言い返せないほど上手い場合がある。
もっとも、この人に気を遣って言葉を選ぶ必要がないのは楽だった。会社の役員たちは、私が机にコップを置くだけで何かの意思表示ではないかと身構える。こちらはただ喉が渇いただけだというのに。ヒマリはそんな面倒な顔をしない。褒めるときは褒めるし、気に入らなければ正面から文句を言う。実に結構なことだ。
……少し、口数が多すぎるという欠点はあるけれど。
「それはそうと、千早」
「何? カイザーへの返事ならもう決めたわよ」
「朝食は?」
「…………」
「おやおや。今朝は随分と分かりやすい反応ですね」
来た。
この世で最も厄介な尋問が。
「ちゃんと摂ったわよ」
「何を?」
「健康にいいもの」
「具体的には?」
「……コーヒー」
「それは食事ではありませんね」
「豆でしょう? 植物由来よ。世間の健康志向にも沿ってるじゃない」
「ふふっ。では、植物由来の食事を推奨する超天才清楚系病弱美少女として申し上げましょう。朝食を召し上がってください」
「話が通じてないんだけど!」
ヒマリは微笑んでいる。にこにこと、それはもう楽しそうに。こっちは世界有数の企業のCEOで、向こうは一介の学生のはずだ。それなのにどうして、食パン一枚の有無でここまで追い詰められなければならないのか。
「それから睡眠時間も確認させていただきましょうか」
「……三時間半」
「まだ何も尋ねておりませんよ?」
「先回りしただけ。あなたが何を言い出すかくらい分かるわ」
「おや。以心伝心というやつですね。長いお付き合いの成果でしょうか」
「違うわよ。取り調べの手順を覚えただけ」
「ちなみに昨日は?」
「三時間」
「なるほど。では明日は四時間、その次は四時間半と増やせばよろしいのですね?」
「そういう進歩的な考え方、嫌いじゃないわ」
「私は大いに嫌いです」
即答だった。
……本当に、この先輩は遠慮というものを知らない。
どうして彼女がここまで私の生活習慣に口を出してくるのか、理由は知っている。十歳で両親を亡くしてからだ。あの頃、会社を引き継いだばかりの私は毎日のように働いていたし、食べることも眠ることも後回しにしていた。ヒマリはそのたびにやって来て、食事を用意させたり、研究室の電源を勝手に落としたりした。
誰よりも仕事を理解してくれるくせに、仕事を続けさせてくれない。矛盾した人だ。
「千早。優秀な頭脳をお持ちなのは十分承知していますが、身体の方は残念ながら特別製ではないのですよ?」
「あなたに言われたくないわね。自分の体調はどうなのよ」
「おや。私をご心配いただけるとは、今日は何という素敵な日なのでしょう。麗しの清楚系病弱美少女、感激してしまいます」
「違う。倒れられたら困るの。技術の話ができる人間をまた探さなきゃいけないでしょう」
「……ふふっ」
「何よ」
「いえ。千早は相変わらず、可愛らしい子だと思いまして」
「は?」
「何でもありませんよ♪」
絶対に何でもなくない。
満足そうに頷くヒマリを睨んでみたが、涼しい顔で紅茶を口に運ばれて終わった。せめて一回くらい言い負かしたいものだ。いっそ討論用の人工知能でも作ろうかしら。
『スターク様。少々よろしいでしょうか』
「……ジャーヴィス。今の会話、記録してないでしょうね」
『ご安心ください。お二人の会話を録音する必要はないと判断しております』
「そう。それなら――」
『なお、スターク様の栄養摂取状況につきましては、健康管理記録に反映済みです』
「裏切り者!」
「まあ。ジャーヴィスも私と同意見のようですね」
天井のスピーカーから聞こえてくる穏やかな声。J.A.R.V.I.S.――ジャーヴィス。父が遺した人工知能であり、現在は私が改良を重ね、スターク・タワーの設備から研究開発、会社の管理業務まで任せている相棒だ。仕事の速さ、判断の正確さ、そして時折見せる妙に人間くさい返答。欠点を挙げるとすれば、ヒマリと結託して私の食事を監視するところくらいだろう。
『それとは別件で、カイザーコーポレーションへの兵器納入記録に不一致を検出いたしました』
「……不一致?」
冗談を引っ込める。ジャーヴィスがわざわざ会話に割り込んで報告してくるなら、単なる入力ミスではないはずだ。
『直近三か月間の輸送記録と車両の実際の移動履歴を照合した結果、一部の兵器が正規の搬入先へ到達していない可能性があります。また、関連する記録には事後改竄の形跡が認められます』
「なるほど。値引き交渉だけじゃ飽き足らず、今度はかくれんぼまで始めたわけね」
「千早、具体的には何が?」
『携行式対装甲兵器、誘導弾、無人攻撃機用武装ユニットなど複数品目です。移送先はトリニティ総合学園の管理区域に隣接する山間部と推定されます』
「……随分と物騒なお買い物ですね」
「山で花火大会でも開催するのかしら。招待状が来てないのは残念だわ」
口ではそう言いつつ、表示された一覧に目を走らせる。兵器の数、搬出日時、書き換えられた伝票。いずれも、少人数が気まぐれに盗み出して済む規模ではなかった。誰かが組織的に流している。それも、追跡されることを承知の上で。
不愉快だ。
我が社の製品を勝手に転売することも、その記録を雑に改竄することも、もちろん腹立たしい。何より、私の目を欺けると思われていることが気に入らない。
「ジャーヴィス、搬入先の周辺記録も洗って。車両の軌跡、倉庫の所有権、通信障害。使える情報は全部よ」
『既に解析を開始しております、スターク様』
「いい子ね」
『恐れ入ります』
ヒマリの指がタブレットの上を滑った。やがて表示されたのは、トリニティとゲヘナの情勢をまとめた資料だった。エデン条約。長く続いた両学園の対立に、一応の決着をつけようという試み。聞こえは素晴らしい。もっとも、『仲良くしましょう』の一言で済むなら、そもそも誰も苦労しないのだけれど。
「この時期に、出所の不明な兵器がトリニティ周辺へ集まっている……偶然と片づけるには気になる話ですね」
「条約を台無しにしたがってる連中でもいるのかしら」
「まだ断定はできません。ただ、状況が状況ですので」
「平和のための条約にミサイルを持ち出すなんて、随分と熱烈な反対運動ね」
嫌な予感がした。
ただし、それは命の危険を察知したからではない。ここから面倒な仕事が増えるという、経営者としての極めて現実的な予感だ。製品が流出していれば企業としての責任を問われるし、内部に協力者がいるなら一人残らず見つけて処分する必要がある。
……まったく。カイザーからは値引きではなく、慰謝料を請求してやりたい。
「千早」
「何?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「さっきから何度も尋ねてるじゃない」
「今度は、あなたが作る兵器についてです」
思わず顔を上げた。
ヒマリはいつの間にか笑みを消していた。先ほどまで朝食がどうのと騒いでいた人物と同じとは思えないほど、静かな表情だった。
「あなたの技術が優れていることは、私もよく存じています。ですが、その兵器がどのように使われるのかまで、千早は考えていますか?」
「当然でしょう。取引先は審査しているし、販売後の管理規定も作ってあるわ」
「その規定を破る者がいたら?」
「見つけて潰す。それだけよ」
「では、見つからなかった場合は?」
「……何が言いたいの?」
「今、あなたの目の前で起きていることです」
嫌なところを突いてくる。
ヒマリは私の会社の人間ではない。利益率も株価も、背負う必要がない。だからこそ、言いたいことをそのまま口にできるのだろう。正論というものは、責任を取らずに済む人間の口から出ると、とりわけ美しく聞こえる。
「道具の善悪を決めるのは、それを使う側よ。包丁で人が刺されたからといって、鍛冶屋を逮捕するわけにはいかないでしょう?」
「ふふっ。見事な例えです。でも、千早。あなたが作っているのは、包丁ではありません」
「知ってるわよ。ミサイルでしょ? 私が設計したんだから」
「ええ。遠くにいる誰かの命を、使い手が顔すら見ないまま奪えるものです」
窓の外へ目を向ける。ドローンがビルの間を飛び、人々が地上を歩いている。今日もミレニアムは平和だった。少なくとも、私が知る限りは。
けれど、その平和が何もせずに保たれているとでも?
「圧倒的な力は争いを抑えるのよ。相手が反撃してくると分かっていたら、そう簡単には攻撃できない。戦争を始める前に、二度考えさせる。それが抑止力ってものでしょう」
「では、その力を手にした側が、二度考えなかったら?」
「……何?」
「力があるからこそ、何をしてもよいと考える者が現れたらどうしますか。あなたの意図と、使い手の意図が同じとは限らないでしょう?」
「だから取引先を選んでるって言ってるじゃない」
「それでも、今回のようなことは起こります」
言葉が止まった。
……まったく。この人は本当に、遠慮がない。
間違ったことを言っているとは思わない。実際、今回の流出が証拠だ。管理規定なんて紙切れ一枚では、悪意を持った人間の行動までは止められない。だが、それと兵器を作ることが悪だという話は別だ。
「私に何をしろっていうの? 兵器事業を閉じて、明日からフライパンでも作れと?」
「おや。それはそれで興味深いですね。千早の技術でしたら、料理の腕前まで補ってくれる素晴らしい製品ができそうです」
「笑い事じゃないわよ」
「……ええ。笑い事ではありません」
静かな返事だった。
「兵器を開発することそのものを責めるつもりはありません。千早が、誰かを守るための技術だと信じていることも知っています。ただ、その力が誰かを傷つける可能性から、目を逸らしてほしくないのです」
「私が現実を見てないとでも?」
「いいえ。あなたは賢い子です。だからこそ、心配なのですよ」
それで会話は終わった。
怒鳴られるより、よほど厄介な終わり方だった。ヒマリは私を責めていない。責めないからこそ、いくらでも言い返せるはずなのに、妙に後味が悪い。
……賢い子、ね。
私を子供扱いするのは、この人くらいだろう。
十歳のとき、両親が死んだ。事故だと説明された。書類にはそう書かれていたし、誰もが同じ顔で『お気の毒に』と言った。その翌日には、経営権をどうするだの、研究資産を誰が管理するだの、まるで私の父と母が残したものを分け合う会議が始まっていた。
以来、人の善意ほど安くて高くつくものはないと思っている。
だから、誰かに何かを任せるのは嫌いだ。必ず確認する。必ず疑う。自分の頭で考え、自分の手で作る。それなら少なくとも、最後に裏切るのは自分自身だけで済む。
……では、ヒマリは?
もちろん、信用しきっているなどと答えるつもりはない。相手はミレニアム屈指のハッカーだ。疑おうと思えば、いくらでも理由を挙げられる。それでも幼い頃、彼女の車椅子が使いづらそうだったからと補助装置を作って渡したら、随分と大袈裟に喜んでくれたことを覚えている。
それからも、この部屋へ何度もやってきた。私が研究に行き詰まると余計な口を挟み、完成すれば一緒に喜び、過労で倒れそうになると容赦なく説教する。別に頼んだわけでもないのに、ずっと。
鬱陶しい人だ。
……本当に、どうしようもなく。
『スターク様。追加の解析結果がまとまりました』
ジャーヴィスの声に、思考を切り替える。
「聞かせて」
『推定搬入先付近に、所有者情報の確認できない倉庫を三棟発見しました。また、周辺では過去二週間に十七件の通信障害が報告されています』
「十七件? 随分と気前よく妨害電波をばら撒いてるのね」
『加えて、衛星画像に不審な輸送車両が確認されました。映像を表示します』
デスクの上に青白い地形図が浮かび上がった。山間部を通る細い道路、その先に並ぶ倉庫群。補正された画像の中に、何台かの大型車両が映り込んでいる。うち一台の側面には、見慣れたロゴがあった。
スターク・インダストリーズ。
「……はあ?」
思わず声が漏れる。持ち出しただけでは飽き足らず、うちの名前まで堂々と掲げているらしい。会社のロゴを宣伝に使うなら、まず広告料を払ってほしいものだ。
「千早、まさかとは思いますが」
「ジャーヴィス、現地調査の準備」
『調査部隊の編成を開始します』
「いいえ。私が行くわ」
「……千早?」
空気が一段冷えた。気がした。
ヒマリが、ひどく優雅な動作でタブレットを置いた。あれはまずい。あの人が本当に怒ったときほど、動きが丁寧になることを私はよく知っている。
「念のためお尋ねしますが、今の『私』とは?」
「私よ。千早・スターク。あなたの目の前にいる美少女CEO」
「なるほど。とうとう冗談の腕前も素晴らしくなりましたね」
「褒めても何も出ないわよ」
「では、その冗談を撤回していただけますか?」
「残念。本気なの」
ヒマリの微笑みが消えた。
「所有者不明の倉庫、通信妨害、行方不明になった兵器。それらが集まる場所へ、あなた自身が向かうのですか?」
「そうよ。自分の製品なんだから、私が見た方が早いでしょう」
「早いことと、安全なことは同義ではありません」
「護衛を連れていくわ」
「何名です?」
「四機」
「……四機?」
「ジャーヴィス、見せてあげて」
『承知いたしました』
空中に機体の設計図が四つ並んだ。小型自律護衛ドローン。索敵、迎撃、目標識別、それぞれに独立した制御機構を備えた私の傑作だ。通信を絶たれても単独行動が可能で、四機が連携すれば小規模な部隊程度なら一方的に制圧できる。
これを『護衛四名』と呼ばないなら、何と呼べばいいのだろう。随分と人間より役に立つというだけの話だ。
「ふふっ。なるほど。実に見事な設計ですね。索敵範囲も、冗長性も申し分ありません」
「でしょ?」
「ですが、千早」
「……また『ですが』?」
「機械の性能を疑っているわけではないのです。あなたが、それを信じすぎていることが心配なのですよ」
「信じて何が悪いの。私が作ったんだから」
少なくとも、人間よりずっと信用できる。
設計図は嘘をつかない。回路が突然、善意を装って利益を横取りすることもない。故障するなら兆候を残すし、問題があるなら修正できる。人間関係もこうだったら、どれだけ楽だったか。
「……そうですか」
ヒマリが短く答えた。何か言いたそうにしていたが、それ以上は続けなかった。
どうやら、ここは私の勝ちのようだ。
『スターク様。私からも遠隔調査の優先を推奨いたします』
「……ジャーヴィス、あなたまで?」
『安全性を考慮した判断です』
「二人で示し合わせたの?」
「おや、それは素敵な提案ですね。ジャーヴィス、今後の千早の健康管理についても、ぜひ協議しましょう」
『喜んで協力いたします、ヒマリ様』
「やめなさい。私の生活を勝手に管理する委員会を作らないで」
……まあ、これくらい賑やかな方が落ち着く。
言うつもりは、絶対にないけれど。
ジャケットを羽織り、壁の表示を切り替える。現地へは防護装甲を備えた専用車両で向かう。ドローンを先行させ、周囲の安全を確認してから倉庫へ近づく。危険があれば即座に引き返す。通信は常時監視、撤退経路も複数確保。
どう考えても十分な準備だ。
そもそも、本当に危険な相手だったところで、護衛機を突破されるような状況などまず想像できない。世界有数の頭脳が考案した警戒網なのだから、当然だろう。
「ジャーヴィス、車を回して。帰るまでの予定も調整しておいて」
『既に手配済みです、スターク様』
「さすがね。あ、それとカイザーには『二割安く買いたいなら、代わりに二割くらい性能の低い会社を探せ』と伝えて」
『その文面をそのまま送信してもよろしいでしょうか』
「……もう少し丁寧に直して」
『かしこまりました』
「ふふっ。千早は本当に、お仕事熱心ですね」
「誰かさんが朝から邪魔してくれなければ、もっと効率的なんだけど」
「おや。では、私はそろそろ失礼しましょうか。可愛い後輩の健闘を祈りながら、紅茶でもいただくことにします」
「他人事だと思って」
扉へ向かう。
これで終わり。いつもどおり、私が悪態をつき、ヒマリが大袈裟に嘆き、ジャーヴィスが仲裁をする。そんな、何の変哲もない朝だった。
「千早」
「何? まだ何かあるの?」
「帰ってきたら、きちんとお食事を取ってくださいね」
「はいはい」
「それから、睡眠も。最低六時間は確保していただきます」
「注文が多いわね。お土産も必要?」
「まあ。では、せっかくですから美味しい紅茶をお願いしましょうか」
「呆れた。私をお遣いに使う気?」
「ふふっ。全知の天才美少女から直々にお願いされたのですよ? 光栄に思っていただかなくては」
最後まで調子のいい人だ。
けれど、ドアノブに手をかけたところで、もう一度名前を呼ばれた。
「……千早」
振り返る。
ヒマリは笑っていた。さっきと同じ、上品で、余裕たっぷりな微笑み。ただ、その指先はタブレットの端をじっと掴んでいて、こちらを見る目も、いつもとは少し違っていた。
「……必ず、無事に帰ってきてくださいね」
何よ、そんな顔をして。
ただの現地調査じゃない。相手がどこの誰だろうと、見つけて、証拠を押さえて、必要ならカイザーから違約金をむしり取る。それだけの話だ。そんなに心配することなんて、一つもない。
「当然でしょう。私を誰だと思ってるのよ」
「……ふふっ。そうでしたね」
「帰ったら、紅茶に付き合ってあげる。お菓子も用意するわ。それでいい?」
「まあ。千早からお茶のお誘いとは。明日は雪でも降るのでしょうか」
「……やっぱり取り消そうかしら」
「いけません。今のは聞きましたよ。しっかり覚えておきますから」
「はいはい。約束ね」
「ええ。約束です」
軽く手を振ると、ヒマリも手を振り返した。
エレベーターへ向かう廊下には、柔らかな照明が落ちていた。壁面のガラスに映る自分は、いつもどおりの顔をしている。自信満々で、少々生意気で、どう見ても世界を相手に商売できる顔だ。
ああ、そうだ。
帰りに紅茶を買わなければ。ヒマリは茶葉の好みに妙にうるさい。どうせなら、あの人が文句をつけられないくらい上等なものを用意してやろう。顔を見て驚く様子が少し楽しみだった。
そんなことを考えながら、エレベーターへ乗り込む。
私には才能がある。金も技術も、必要な設備も揃っている。ジャーヴィスが情報を集め、四機のドローンが身を守る。失敗を想定しないのではない。失敗する要因を、ひとつずつ潰せるだけの力がある。
だから、怖がる理由がない。
……そう信じていた。
エレベーターの扉が閉まる直前、執務室の方からヒマリの笑い声が聞こえたような気がした。
いつもの声だった。
帰ってきたら、また聞ける声だ。
――その程度のことさえ、このときの私は疑っていなかった。
チハヤのプロフィールを書いて無かったので簡易的な物を書いてみました。
名前 チハヤ・スターク(千早・スターク)
所属学園 ミレニアムサイエンススクール
学年 1年生
身長 151cm
所属 スターク・インダストリーズ
役職 最高経営責任者(CEO)
趣味 発明、研究開発
好きなもの ジャーヴィス、ヒマリ、自由、平和
嫌いなもの 裏切り、束縛、偽善、無力な自分
【人物紹介】
ミレニアムサイエンススクールに在籍する天才発明家にして、巨大企業スターク・インダストリーズの若きCEO。
幼くして両親を亡くし、父親から会社を引き継いだ。
小柄な容姿とは裏腹に、卓越した頭脳と技術力を持ち、自分の才能に絶対の自信を抱いている。皮肉屋で自由奔放、他人に指図されることを何より嫌う性格。
兵器による抑止力こそが平和を守ると信じており、その思想に基づいて数々の兵器を開発してきた。
他人を信用することには極めて慎重だが、幼少期から付き合いのあるヒマリと、相棒の人工知能ジャーヴィスには特別な信頼を寄せている。
なお、本人に好きなものを尋ねても、上記の回答が得られるとは限らない。