透き通る世界のアイアンマン(偽物) 作:マーベルにハマった人
夜空が、見えた。
ずっと頭上を塞いでいたコンクリートの天井も、赤く点滅する警告灯もない。代わりに広がっているのは、星の瞬く黒い空と、どこまでも続く山の稜線。冷たい風が砕けた装甲の隙間から吹き込み、火薬と焼けた金属の臭いを少しだけ薄めてくれた。
「……ふふっ。やればできるじゃない、私」
笑い声は、耳元で鳴り続ける警報に掻き消された。何しろ地上へ飛び出したのはいいものの、Mark-1はまだ空を上昇している。右腕は完全に動かず、左腕はシャッターを叩き割ったせいで装甲がほとんど残っていない。おまけに左脚の駆動系まで半分死んでいるときた。設計者としては、今すぐ回収して原因を調べたいところだ。
ただし、今はそれどころじゃない。
姿勢制御、異常。背部推進装置、過熱。残燃料、警告域。
「……ええ、全部知ってる。律儀に報告してくれてありがとう」
制御盤の表示を切り替え、残された推進器の噴射角を修正する。右へ傾いた重心を補正しようにも、失った腕の重量は戻らない。補助推進装置には非常用の簡単な姿勢調整機能しか用意していなかったし、そもそも飛行そのものが想定外に近い。
上昇速度を落とし、緩やかに降りる。理屈の上では単純な話だ。だったら、やることも決まっている。
「出力を三割まで下げて……よし、これで――」
乾いた破裂音がした。
機体が右へ跳ねる。警告画面の片隅で、推進器の一基が灰色に変わった。回転を止めるために反対側の出力を絞ろうとしたが、今度は制御装置そのものが命令を受け付けなくなった。夜空と山肌が、視界の中でぐるぐると入れ替わり始める。
「……ちょっと。嘘でしょう?」
故障の原因は分かる。原因が分かっていても、手元に直すための道具も時間もなければ意味がない。少なくとも今の私にできるのは、まだ生きている回路を使って、回転を少しでも抑えることだけだ。
もう一基の推進器から、甲高い音が響いた。
まずい。
「待って、それは止まっちゃ――」
噴射が途切れた。
身体がふわりと浮く。さっきまで全身を押しつけていた加速が消え、代わりに重力が容赦なく鎧を引きずり下ろした。視界の端では高度の数字が猛烈な速さで減っている。地面までの距離を計算し、頭部と胸部を庇うように身体を丸める。
冗談じゃない。あの女の檻を壊して、ようやく空まで出られたんだ。こんなくだらない設計ミスで終わってたまるものですか。
「……もう少しだけ働きなさい、Mark-1!」
緊急用の衝撃吸収機構を作動させる。左脚の駆動部が悲鳴を上げたが、構っていられない。岩肌が近づく。咄嗟に残っていた腕を前へ出し、機体を横向きに倒した。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
*
「……っ、ぐ……」
口の中に、鉄の味がした。
耳鳴り。焦げた配線の臭い。身体を動かすたび、あちこちから遅れて届く痛み。目の前にはひび割れた表示板があり、さっきまで騒がしかった警告音は嘘みたいに途絶えていた。
ああ、なるほど。
故障したのね。見事なまでに。
「……着陸装置の改善、最優先。覚えておかなきゃ」
自分の声が聞こえた。声が出るなら、まだ悪くない。実際、機体の状態を考えれば生存率はかなり低かったはずだ。初号機の実戦試験としては最低の成績だけれど、搭乗者の生還という一点については満点をつけてもいいだろう。
まず生命維持。胸のアークリアクターへ意識を向ける。表示灯は消えていたが、胸の奥では小さな振動が続いている。金属片を固定する電磁石も稼働中。よし。こちらは生きている。
次に脱出。非常用の解除レバーを引く。
――動かない。
「……あら?」
もう一度。今度は力を込める。動かない。背面のロックが墜落の衝撃で歪んでいる。内部電源も停止しているらしく、自動開放機構からは何の反応も返ってこなかった。
「……ふふ。素敵ね。やっと監禁生活から抜け出したのに、今度は自分で作った棺桶の中?」
実に趣味の悪い冗談だ。こんなものを作った技術者がいたら、即刻クビにしてやりたい。……残念ながら、技術者も経営者も私だった。
非常用の工具を探る。左腕側に仕込んでいた細い金属棒が、かろうじて残っていた。固定具の隙間へ差し込み、てこの原理で押し広げる。胸の傷が疼き、息が詰まったが、手を止めるわけにはいかない。
金属が軋んだ。少しだけ隙間ができる。もう一度、力を込める。
「……っ、開きなさいって……!」
鈍い音を立ててロックが外れた。
外気が流れ込んでくる。肩をぶつけながら装甲の裂け目を抜け出すと、砂と小石が頬に触れた。冷たい。土埃まみれで、少し湿っていて、お世辞にも快適とは言い難い。それでも二ヶ月ぶりにまともな地面へ横たわった気がした。
「……最低の旅行だったわ」
返事はない。あるのは風の音と、壊れかけた機械が冷めていく小さな金属音だけだ。
試しに上体を起こす。左腕は痛むが動く。右脚に体重をかけた途端、膝から鋭い痛みが走った。墜落の際に打ったのだろう。歩けないわけではない。少なくとも、そう判断したかった。
周囲には山と荒野が広がっていた。灯りも、道路らしいものも見えない。助けが来るのを待っていたところで、そもそもここに人がいると知っている者はいないのだ。
「……さて。帰宅するまでが遠足、だったかしら」
自分で言って、少し笑った。
そういえば、アツコが外の星を見たがっていたことを思い出す。あの子は私の胸の光を見て、綺麗だと言っていた。今なら、それよりよほど立派なものが頭上にある。星が、いやになるほど見える。
「……外に出たら、見上げてみなさいよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。アツコだけじゃない。サオリも、ミサキも、ヒヨリも。あの子たちが一度くらい、こんな空を眺めていても罰は当たらないだろう。今頃は予定どおり負傷したふりをして、ベアトリーチェの目を誤魔化しているはずだ。
……まあ、心配したところで何ができるわけでもない。私がここで倒れたら、彼女たちが危険を冒してくれた意味までなくなる。まずは帰る。それから、必要なことを考える。
視線を落とすと、岩に半ば埋まるようにしてMark-1が転がっていた。右腕はあらぬ方向へ曲がり、左腕の装甲は砕け、背部の推進器は完全に潰れている。正規の開発ラインであんな欠陥品を提出されたら、私は設計担当を呼び出して三時間は説教していたに違いない。
けれど、地下施設の薄暗い作業場を思い浮かべると、口元が緩んだ。
ろくな材料もない。十分な試験設備もない。おまけに制作に協力してくれるのは、機械の専門家でもない少女たち。お世辞にも恵まれた環境じゃなかったのに、こんなところまで飛んでこられた。
予定より随分と不格好ではあったけれど。
「……ありがと、Mark-1」
装甲の縁に手を置いた。まだ熱い。掌を離すと、指先に煤がついた。
「次はもう少し、まともな身体にしてあげる」
動かなくなった鉄の塊は、当然のように何も答えなかった。
*
問題は通信だった。
捕まったとき、私物はほとんど取り上げられている。普段使っている端末も、ジャーヴィスへ直通する通信装置もない。徒歩で山を下りるには右脚の状態が悪すぎるし、ここがどこなのかさえ分からない。情けないことに、スターク・インダストリーズの社長様は、今やタクシー一台呼べないのである。
幸い、Mark-1には緊急通信用のユニットを仕込んでおいた。制御系統とは別に独立した回路で、外部電源を供給すれば最低限の信号を送れる設計だ。今回の墜落で、それまで壊れていたら笑うしかないけれど。
膝を庇いながら鎧の残骸へ戻り、背部の小さな収納部分をこじ開ける。保護ケースの角は潰れていたものの、基板そのものに目立つ損傷はない。小型の予備電池を取りつけると、赤い表示灯が一度だけ瞬いた。
「……よし。ようやく今日一番の朗報ね」
起動信号を送り、非常回線の接続を待つ。砂だらけの手で機械を握ったまま、耳を澄ませた。
雑音。
無音。
また、雑音。
「……遅いわね。うちの通信網、こんなに頼りなかったかしら」
もちろん、そんなはずはない。スターク・インダストリーズの専用回線だ。衛星中継も、認証システムも、私自身が仕様に口を出した。数ある設備の中でも、特に信頼しているものの一つなのだから。
それなのに、表示が切り替わらない。
「……お願いだから、ここで意地を張らないでちょうだい」
声を出した途端、自分で少し可笑しくなった。機械に向かってお願いだなんて、らしくもない。命令を受け付けないなら原因を調べ、接続できないなら別の経路を探す。それだけでしょう。
指先を動かしかけたところで、ノイズの奥から電子音が聞こえた。
『……緊急回線……認証情報を要求……』
「チハヤ・スターク。本人認証、プライベート・アルファ・ゼロワン。位置情報を付けて接続して」
『……照合中……』
音が途切れた。画面の小さなランプだけが点滅している。数秒が経過する。認証手続きに、こんなに時間がかかるはずがない。
「……ちょっと。聞こえてるなら返事を――」
『認証を確認いたしました』
静かな声だった。
『スターク様』
胸の中に、何かが引っかかったような気がした。
父が残した人工知能。毎朝、勝手にカーテンを開け、朝食を取れと小言を言い、こちらが仕事に夢中になると予定をずらそうとしてくる、少々生意気な執事。私はその声を、物心ついたころから聞いてきた。
「……ジャーヴィス?」
『はい、スターク様。ご本人との通信を確認でき、大変安堵しております』
「……随分と遅いじゃない。社長が行方不明になってるっていうのに、優秀な秘書は何をしてたわけ?」
『申し訳ございません。通信が途絶えて以降、捜索網を拡大しておりましたが、所在地の特定には至りませんでした。現在までの捜索記録を――』
「いいわ、後で」
思ったより強い声が出てしまった。通信機の向こうが静かになる。ジャーヴィスなら、こちらの言葉を額面どおりに処理しているだけだろう。叱りつけられたから黙り込むような人間臭い設計にはしていない。……いや、父なら何か余計な機能を仕込んでいてもおかしくないけれど。
どうだっていいことを考えるのは、後にしよう。
「迎えをお願い。今の私は車を運転できる状態じゃないの」
『既に位置情報を取得いたしました。回収機を出動させます。現在の身体状態をお教えいただけますか』
「右脚、左腕、脇腹に損傷。頭部は……まあ、私の頭脳が健在なのは話し方で分かるでしょう。胸の生命維持装置は正常稼働中」
『承知いたしました。搬送機には自動医療設備を搭載し、医療担当者へ情報を共有いたします』
「それから、あんまり大騒ぎしないで。取締役会を開くのも、私が帰ってからにしてちょうだい」
『社内へのご帰還の通知は必要最小限といたします』
「そう。助かるわ」
機械に背中を預けると、錆びた金属が冷たかった。やるべきことは済んだ。救助を待つ間にも確認したい数値はいくらでもあるけれど、通信機の電力を無駄に使う必要もないだろう。
『スターク様』
「……何?」
『本当に、ご無事で何よりです』
変な言い方をする。
いつもなら「ご帰還を確認しました」で済ませるところなのに。父が作った人工知能が、わざわざそんな言葉を選ぶ必要があるのだろうか。
「……大袈裟よ。多少予定が狂っただけでしょう」
『二ヶ月以上の通信途絶は、通常の予定変更とは大きく異なります』
「はいはい。分かったわよ。帰ったら、報告書を山ほど書いてあげる」
『ありがとうございます。お待ちしております』
それがいつものジャーヴィスらしくて、少し笑った。笑った拍子に脇腹が痛む。仕方なく深呼吸をして、通信機を膝の上へ置いた。
……そうね。
報告書でも、設計図でも、好きなだけ書けばいい。もう、時間ならあるんだから。
*
夜の荒野に、細い光の筋が現れた。
見上げると、山の稜線を越えて小型輸送機が飛んでくる。側面には見慣れたスターク・インダストリーズの企業ロゴ。何の変哲もない回収機だ。普段なら、そこらの格納庫で埃をかぶっていても気に留めない。
それが今は、やたらと立派に見えた。
「……悪くない趣味ね、ジャーヴィス。もう少し派手な機体でもよかったけど」
『社長専用の救難装備を優先いたしました。外観の改装につきましては、帰還後にご検討ください』
「本気にしないでよ」
輸送機が着陸し、機内から無人搬送台と医療機器が展開される。歩けると主張する間もなく、足元へ補助具が差し出された。試しに右脚へ体重をかけると痛みが走り、私はすぐに考えを改めることにした。
「……いいわ。今日は特別に、運んでもらってあげる」
『光栄です、スターク様』
「皮肉を覚えたなら、まず開発者へ報告するべきね」
『承知いたしました。報告先はスターク様でよろしいでしょうか』
「……ええ、そうなるわね」
乗り込んだ機内は、薬品と新品の布地の臭いがした。簡易診察装置が起動し、身体の表面へ細い光を走らせる。左腕には打撲、脇腹には深い痣、右脚には強い炎症反応。長期間の栄養不足と脱水も指摘された。どれも分かっていたことばかりだ。
ただ、一つだけ厄介な問題が残っていた。
『スターク様。胸部に未登録の電源装置を検出いたしました。詳細な構造の確認が必要です』
「触らないで。あれが止まったら、洒落じゃ済まない」
自動診察装置のアームが停止する。
『承知いたしました。非接触計測のみ実行いたします。生命維持に関わる装置と判断してよろしいでしょうか』
「ええ。アークリアクター。私の新しい発明品よ。胸に残った金属片を電磁石で固定してる。詳しい説明は後でしてあげる」
『……電磁石への電力供給を継続する必要があるのですね』
「そういうこと。なかなか優秀でしょう?」
『極めて高度な設計と推測されます。ただし、安全性の評価を優先すべきです』
「褒めるか説教するか、どっちかにしてちょうだい」
胸元では、青白い光が規則正しく点っている。応急処置用の包帯を巻かれ、冷たい水を飲み、柔らかい座席へもたれかかると、身体のあちこちが一斉に文句を言い始めた。
ああ、うるさい。
生きて帰るために散々働かせてきたのだから、少しは黙っていてくれてもいいでしょうに。
「ジャーヴィス。会社の状態は?」
『経営陣による暫定管理体制が継続中です。主要事業への影響は限定的ですが、一部契約は保留されております』
「保留? 誰の判断で?」
『暫定経営会議です。関連資料を表示いたしますか』
「見せて。……いえ、やっぱり要点だけでいいわ」
ホログラムに並んだ数字を追っていると、目が乾いてきた。面倒な報告ばかり。値引き交渉に棚卸し、研究予算の調整。二ヶ月もトップが不在だった割には、案外よく持ちこたえたものだ。あの役員たちにも、少しは褒め言葉を用意してやってもいいかもしれない。
ただ、どの資料も今すぐ結論を出すには足りなかった。
「カイザー関係の取引記録を、過去半年分まとめておいて。兵器の製造番号と納入先、それから未販売の試作品についても調べてほしい」
『承知いたしました。何か問題がございましたか』
「……ちょっとね。うちの製品が、想像していたより面白い場所を旅行しているらしいの」
『詳細をお伺いしてもよろしいでしょうか』
「帰ってから話すわ。今、聞いたらあなたまで説教を始めそうだから」
『必要に応じてご助言することは可能です』
「だから、それが嫌なんだってば」
端末の表示を閉じる。瞼が重くなってきた。身体が疲れているのは当然だけれど、考えることならまだいくらでもできる。帰宅したら設備を点検して、制御プログラムの冗長化を進めて、それから――。
『スターク様。休息を推奨いたします』
「……何時間寝てないと思ってるの?」
『長時間の連続活動が記録されております』
「だったら少し、黙っていてちょうだい」
『承知いたしました』
座席を倒して目を閉じた。
胸元から聞こえる微かな作動音。車内の温度。身体にかかる穏やかな加速度。全部、正常だ。試運転中の機械と同じで、一つずつ確認していればいい。
……次に目を開けたら、少しはまともなところに着いているでしょう。
*
『スターク様。ミレニアム中央特区へ入りました』
「……ん。もう?」
目を開けると、窓の向こうに見慣れた光が流れていた。巨大な広告映像、高層ビルの間を走る高架道路、空を横切る輸送路。夜のミレニアムは二ヶ月前と何も変わっていない。少し眩しく感じるのは、地下に長くいたせいだろう。
その中央に、一本だけやたらと目立つ塔がある。
スターク・タワー。
「……相変わらず、趣味のいい建物ね」
『設計責任者はスターク様です』
「知ってるわよ。だから褒めてるんじゃない」
笑いながら、ガラスに映った自分の姿を確かめた。黒い髪は乱れ、服は破れ、頬には傷がある。顔色もひどい。これで会社に顔を出せば、社員たちが必要以上に騒ぎ立てるのは目に見えていた。
なるほど。ならば、堂々としていればいい。
多少見た目が酷くたって、私は私だ。死んだと思われた社長が突然帰ってきて、平然と業務命令を出す。実に劇的じゃない。新聞の一面にするには、少々もったいないくらいだ。
「……ジャーヴィス。広報にはまだ正式発表しないで。明日までに、私自身が説明する内容を決める」
『承知いたしました。現在、社内の限られた担当者にのみ帰還を通知しております』
「結構。今は大勢に囲まれる気分じゃないの」
立ち上がろうとすると、右脚がずきりと痛んだ。私は顔をしかめる前に腰を戻し、補助具を握り直した。痛みの程度を確認する。歩行は可能だろう。支えを使えば、少なくとも最上階までは行ける。
『なお、明星ヒマリ様にも既に連絡済みです』
「……は?」
思わず声が裏返った。
「ちょっと、今『限られた担当者』って言ったでしょう。あの人、うちの社員じゃないんだけど?」
『スターク様の捜索に際し、最も継続的に情報提供を求められていた人物の一人です。ご本人への通知は必要と判断いたしました』
「……余計なことを」
『ご希望であれば、以後の通知設定を変更いたします』
「いや、そういう問題じゃないのよ……」
ヒマリ。
白い髪の、やたらと口数が多くて、自分のことを天才だと紹介しないと気が済まない先輩。何かと私を子供扱いし、勝手に食事の時間を決め、研究中でも平気で部屋へ入ってくる、世界一面倒な人間の一人。
二ヶ月。
最後に会ったのは、出発前のあの日だ。帰ったら見せたいものがある、と私は確かに言った。ヒマリは呆れたように笑い、帰る時間だけは守れと念を押していた気がする。
……うわ。
絶対怒ってる。
「……ヒマリは、今どこ?」
『スターク・タワー最上階にいらっしゃいます。到着をお待ちです』
「そう……。それなら、逃げ道はないわね」
対戦車ロケットを何発も撃ち込まれた装甲服を作り、敵の目を誤魔化して脱出した。そのくせ、幼い頃から知っている先輩の説教は避けられそうにない。いや、逃げようと思えば逃げられるけれど。たぶん、余計に面倒なことになる。
それに――。
……いや。今はいいか。
輸送機がスターク・タワーの専用着陸設備へ降下する。ドアが開くと、見慣れた制服を着た警備担当者と医療スタッフが駆け寄ってきた。先頭の社員がこちらを見たまま固まる。
「……社長、ですか?」
「そうよ。もしかして、二ヶ月も経つと私の顔を忘れるの?」
「い、いえ! ただ、その……本当に、ご無事で……!」
「ええ。見てのとおり。ただ、制服よりは着替えが欲しいところね。誰か、私のサイズを覚えてる?」
気の利かない質問だったかしら。社員たちは困ったように顔を見合わせてから、一斉に動き始めた。医療スタッフが追加の検査を申し出たので、最低限の確認だけ受ける。転んだら危険だと何度も言われたけれど、補助具を使えば歩けるのだから問題ないだろう。
「社長、念のため搬送台を――」
「いらない。私の部屋まで大した距離じゃないもの」
「ですが、お怪我が……」
「この状態で、まだ社員の相手をしてるのよ? 意識がはっきりしていることくらい証明できたでしょう」
強引に話を切り上げ、専用エレベーターへ向かう。右脚を庇っているせいで歩幅が小さい。背中には汗が滲んでいたが、幸い誰も余計なことを言わなかった。社員たちの顔を見たら、いつものように命令を出せた。それでいい。
『スターク様。車椅子をご用意することも可能ですが』
「ジャーヴィス、今すぐ私を年寄り扱いするのをやめなさい」
『承知いたしました』
「……まったく。久しぶりに帰ってきた社長に対して、歓迎の仕方がなってないわね」
扉が閉じる。上昇する箱の中には、私と、青白く光る胸の装置と、聞き慣れた人工知能の声だけが残った。
外ではミレニアムの灯りが足元へ流れていく。自宅へ戻るのに、こんなに長い時間がかかったことなんてなかった。研究室も、寝室も、書類の積み上がった机も、上に行けば全部ある。まずはシャワーを浴びたい。温かい食事も欲しい。それから、リアクターの安全装置を――。
『スターク様』
「何?」
『まもなく、最上階に到着いたします』
「分かってるわよ」
ガラスに映る姿をもう一度確認する。乱れた前髪を指で整え、汚れた襟元を直した。包帯も、頬の傷も、今さらどうにかなるものじゃない。だったらせめて、背筋くらい伸ばしておこう。
どうせあの先輩のことだ。こちらが黙っていれば、延々とお説教を続けるに決まっている。最初の一言で主導権を取ってしまえばいい。帰宅した可愛い後輩を歓迎する言葉もないのか、とでも言ってやろう。きっと、いつものように大袈裟な自己紹介で返してくる。
そうすれば、何も変わらない。
あの人は呆れ、私は笑い、またいつもの口喧嘩が始まる。
「……よし」
小さく呟いた。胸の装置は正常。脚は動く。冗談も思いつく。何の問題もない。
到着を知らせる電子音が響いた。
エレベーターが停止する。
私は、口元に笑みを作った。
そして、扉が開き始めた。
そして、扉の向こうには。
車椅子に座る、見慣れた少女の姿があった。
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第1話の後書きに、主人公チハヤ・スタークの簡易プロフィールを追加しました!
基本設定や好き嫌いなどをまとめていますので、気になる方はぜひご覧ください!