透き通る世界のアイアンマン(偽物) 作:マーベルにハマった人
エレベーターの扉が開いた。
磨き上げられた大理石の床。壁際に飾られた、値段を聞くのも馬鹿馬鹿しい絵画。最上階の大窓に映るミレニアムの夜景は、二ヶ月前と少しも変わっていない。あれだけ帰りたかった場所なのに、いざ目の前にすると、どうにも足を踏み出しづらかった。
汚れた靴を見下ろす。ここは私の家だ。……何よ。帰宅の作法を忘れたわけじゃあるまいし。
廊下の真ん中に、一台の車椅子が停まっていた。
白い髪。尖った耳。膝に置いたタブレット。高嶺の花だの、全知の天才美少女だの、面倒な肩書きを増やし続ける先輩。世話焼きで、騒がしくて、過保護な厄介者。
明星ヒマリ。
……ああ、いた。
たったそれだけで胸の奥がぎゅっと縮んだ。こんなときは、気の利いた冗談でも言って、いつもどおりの顔を見せてやればいい。
「……ヒマリ?」
返事がない。彼女は大きく目を見開いて、まるで画面越しの映像でも確かめるようにこちらを見ている。やれやれ。この私が二ヶ月も顔を見せなかったからといって、そんなに驚くことかしら。
「何よ、その顔。可愛い後輩が帰ってきたのに、歓迎の言葉もないわけ? 超天才清楚系なんたら美少女の看板が泣くわよ」
「……千早」
「ええ、そうよ。スターク・インダストリーズのCEOにして、ミレニアムが誇る天才発明家。まさか忘れたとは言わせないわよ?」
「本当に……千早、なのですか?」
「他の誰に見えるのよ。私の偽物がいるなら、むしろそっちを見てみたいものね」
悪くない。ちゃんと喋れている。冗談だって、いつもどおり。
なのに、ヒマリは笑わなかった。
タブレットを脇に置き、車椅子を動かす。一度、車輪が妙な方向へ動きかけた。あのヒマリが操作を間違えるなんて。からかう前に、彼女は目の前まで来ていた。
「……少し、屈んでいただけますか」
「何よ。まさか本物かどうか、顔でも調べるつもり?」
「……お願いします」
その声には、いつもの芝居がかった調子がなかった。仕方なく膝を曲げると、ヒマリは恐る恐る手を伸ばし、私の頬に触れた。指先が髪へ移り、頬の小さな傷に差しかかったところで止まる。
「……温かい」
「そりゃそうでしょう。幽霊じゃないんだから」
「……ええ。そう、ですね」
彼女の唇が、ほんの少し動いた。
「……生きていたんですね」
何よ、それ。
当たり前じゃない。あの女に首輪をつけられたまま終わるなんて、冗談じゃない。部品も時間も足りなかったけれど、逃げ道を作った。
勝った。
だから、もう大丈夫だと笑ってみせればいい。そうすればヒマリだって安心する。いつものように説教でも始めて、私はそれを適当に聞き流して……。
「……随分と心配をかけたみたいね。でも見てのとおり、私はぴんぴん――」
ふ、と景色が傾いた。
「……あれ?」
伸ばした右脚が、床を踏んだはずなのに踏ん張れない。とっさに壁へ手を伸ばす。指が大理石の継ぎ目を滑り、支えるものを失った身体が沈んだ。次の瞬間には、廊下に尻餅をついていた。
「千早!?」
「……うるさいわね。少し足がもつれただけよ」
何でもない顔で立ち上がれば済む。手をつき、膝に力を込める。右脚が震えた。左脚へ重心を移しても、身体はちっとも持ち上がらない。もう一度。結果は同じ。
……どういう冗談よ。
地下施設を脱出し、爆発の中を走り、空から墜ちて、それでも帰ってきた。なのに、家の廊下で立てないなんて。
「ジャーヴィス、医療班を――」
「ヒマリ、騒がないで。疲労か、栄養不足か、その程度よ。原因なら分かってる」
睡眠不足、外傷、筋力の低下。原因は挙げられる。取り乱す理由なんてない。
……なのに。
膝に置いた手が、かすかに震えていた。握りしめても止まらない。指先が冷たい。喉が渇く。胸の奥でアークリアクターが規則正しく働いているのを確かめても、どうしてか落ち着かなかった。
「……千早」
「だから、平気だって。もう少し座ってれば――」
「もう、頑張らなくていいんですよ」
続きが出てこなかった。
何を言っているのだろう、この人は。
頑張る? 私が? ふざけないでほしい。私はただ、目の前の問題を片づけただけだ。命を握られたなら、その手を切り離す方法を考える。武器がなければ作る。誰も助けに来ないなら、一人で帰る。全部、できた。できたじゃないか。
「……別に、頑張ってなんか――」
「ええ。千早は、そうおっしゃるでしょうね」
ヒマリは私の目線に合わせるように、少しだけ身を屈めた。
「ですが、今はここにいます。あなたの家です。もう、誰かの顔色を窺って生き延びる方法を考えなくてもいいんですよ」
「……誰が、そんなこと」
「私の前でくらい、平気なふりをしなくてもいいんです」
まったく、余計なお世話だ。
それなのに、否定しようとした言葉が喉の奥で引っかかった。目の前の白い髪も、馴染みのある声も本物だ。ヒマリも、ジャーヴィスもいる。兵士も、あの女もいない。
……そうか。
もう、あそこじゃないんだ。
地下施設では、次の手順だけを考えていた。金属片が動いたら。バッテリーを奪われたら。脱出に失敗したら。考えるのをやめたら、その隙間から何かが押し寄せてきそうだった。
だから、考え続けた。笑った。あの女に皮肉を浴びせてやった。そうしている間だけは、自分が何を恐れているのか、見なくて済んだ。
ヒマリが、私の手を取った。
「……お帰りなさい、千早」
その言葉を聞いた途端、もう一度、立ち上がろうとする気力さえ失せた。
「……ヒマリ」
「はい。ここにいますよ」
手を引いた。自分でも何がしたいのか分からないまま、車椅子へ身体を寄せ、彼女の肩へ腕を回す。抱きついてから、やっと自分が何をしたのか理解した。
「……っ、千早?」
ああ、最悪。普段なら頭を撫でられただけでも抗議するのに、自分から彼女の服を掴んでいる。離さないように、子供みたいに。
「……別に。ちょっと、疲れただけよ」
声が震えた。呼吸も、うまく整わない。頬を彼女の肩へ押しつける。見られたくなかった。こんな顔も、どうにも言うことを聞かない身体も。
ヒマリは何も尋ねなかった。
代わりに、そっと背中へ腕を回してくる。傷に触れないよう、慎重に。もう片方の手が髪を撫でた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ああ、もう。
そういうことをされると、本当に困る。
指先に力が入った。ヒマリの服を皺だらけにしていると分かっても、どうしても手を放せない。何だってこんなに震えるのよ。装甲服の中では、少なくとも最後まで笑っていられたのに。
「……ヒマリ」
「はい」
「……もう少し」
返事を待つあいだ、喉がからからに乾いた。
「……もう少しだけ、こうさせて」
格好悪い。天下の千早・スタークが、年上の先輩にしがみついて何を言っているんだろう。
でも、手を放したくなかった。
「……ええ。もちろんです」
ヒマリの腕が、少しだけ強くなる。
「千早がいいと言うまで、こうしていますよ」
目を閉じた。
涙は出なかった。代わりに呼吸が詰まり、何度か息を吸い直した。ヒマリはそのたびに背中を撫でてくれた。慰めの言葉を並べるでもなく、いつもの大袈裟な自慢話を始めるでもなく、ただそこにいてくれた。
どれくらい経っただろう。
身体の震えが少しおさまったころ、肩口へ顔を埋めたまま口を開いた。
「……ただいま、ヒマリ」
帰ったら軽口の一つも叩いてやるつもりだった。なのに、考えていた挨拶は全部どこかへ行ってしまった。
「……お帰りなさい、千早」
彼女の声が、すぐ耳元で聞こえた。
「本当に……よく、帰ってきてくれました」
それに返せる皮肉は、どうしても思いつかなかった。
*
「……このこと、誰にも言わないでよ」
ようやく腕をほどいたところで、まず念を押した。ヒマリは目元を少し赤くしたまま、何やら嬉しそうに微笑んでいる。こちらとしては全く笑えないのだけれど。
「ふふっ。何のことでしょう? この清楚にして慎み深い天才美少女、他人の秘密を軽々しく吹聴するような真似はいたしませんよ」
「……本当に?」
「もちろんです。可愛い後輩が珍しく甘えてくれたことなど、私だけの宝物にしておきますとも」
「全部覚えてるじゃない!」
抗議すると、ヒマリはようやく声を立てて笑った。聞き慣れた、少し得意げな笑い方。そうそう。ヒマリはこういう厄介者だった。
「それはそうと、立てそうですか?」
「当然。少し休めば何とでも――」
床に手をつく。膝は見事なまでに笑っていた。結果を見届けたヒマリが、小首を傾げる。
「……もう少し休みましょうか?」
「……そうね。今だけ、あなたの提案を採用してあげる」
「まあ。光栄ですね。ではジャーヴィス、搬送用の補助機をお願いできますか?」
『承知いたしました、ヒマリ様。まもなく到着いたします』
「……ちょっと。いつの間に話をつけたのよ」
「ふふっ。私たちは優秀な共同研究者ですので」
『スターク様の安全を最優先とする点で、意見が一致いたしました』
「私抜きで勝手に協定を結ばないでちょうだい」
文句を言うと、二人は揃って何食わぬ顔をした。……まったく、帰ってきて早々これだ。少なくとも、退屈する心配だけはなさそうね。
*
私室のソファに座らされたころには、身体の震えもだいぶ収まっていた。
テーブルの上には温かいスープと水。着替えも用意されているらしい。廊下での一件さえなければ「私は患者じゃない」と抗議するところだけれど、あんな姿を見せたあとでは立場が悪い。仕方なく、差し出されたスプーンを受け取った。
「……それで、どこから説明していただけますか?」
ヒマリは私の向かいで、膝の上に手を揃えていた。いつもなら最初に飛び出すはずの華美な自己紹介もない。妙に静かなのが、かえって落ち着かない。
「感動の再会から切り替えが早いわね。もう少し余韻ってものを楽しんだら?」
「ええ、もちろん楽しみたいところですが……二ヶ月ぶりに帰ってきた千早が廊下で倒れたのですよ。これを見過ごすほど、私は薄情な先輩ではありません」
「……ごもっとも」
スープを口へ運ぶ。温かい。塩加減もちょうどいい。たったそれだけのことに、喉の奥が妙に詰まった。食事なんて、生きるために必要な栄養を摂取する作業のはずだったのに。
「……美味しい」
「ふふっ。当然です。この私、清廉にして可憐なる全知の美少女が厳選したものですから」
「あなたが作ったわけじゃないでしょう?」
「おや。久しぶりに再会したというのに、相変わらず厳しいですね」
「二ヶ月くらいで性格が変わってたまるものですか」
そう言い返して、少しだけ黙った。
……変わっていない。
本当に?
考えかけたところで、ヒマリにおかわりを勧められた。ありがたく受け取る。今は結論の出ないことを考えるより、食べる方が先だ。
「では、改めて。何があったのか、聞かせていただけますか」
「長くなるわよ。あなたの自慢話を三回分くらい聞く羽目になるかもしれない」
「まあ。でしたら今夜は、随分と短いお話になりそうですね」
「……本気で言ってる?」
「ふふっ。さて、どうでしょう」
思わず呆れた顔になる。やっと、いつもの調子が戻ってきたらしい。
私はトリニティ郊外での出来事を、順を追って話し始めた。横流しされた兵器を調べに向かったこと。護衛ドローン四機が通信干渉を受け、次々と破壊されたこと。装甲車を襲った爆発と、アリウスの地下施設で目を覚ましたこと。
敵の配置、設備の構造、補給の経路。そういう情報なら整理できる。語るのが自分の体験だと忘れてしまえば、ただの調査報告だ。
「……未販売の試作兵器も、そこにあったのですね」
「ええ。カイザーが流しただけでは説明できないものもある。社内の誰かが関わっている可能性は高いわ」
「調査が必要ですね」
「当然。私の知らないところで私の技術を使うなんて、いい度胸してるじゃない」
久しぶりにCEOらしい気分になった。やるべきことは山積みだ。問題があるなら調べ、責任者を特定し、必要な措置を取る。それでいい。いつもどおりだ。
「……千早」
「何?」
「胸の怪我について、聞いてもよろしいですか?」
……ああ。そこに来るのね。
「……装甲車が攻撃されたとき、金属片が刺さったの。場所が悪くてね。心臓の近くよ」
スプーンを置いたヒマリの指が止まる。
「手術で取り除くのが難しくて、電磁石で固定することになった。最初は外付けのバッテリーを使ってたんだけど、管理権限を握っていたのが、ベアトリーチェっていう女でね」
「……つまり、その女が電源を切れば……」
「ええ。私が死ぬ。実に趣味の悪い仕掛けでしょう?」
笑ってやったつもりだった。ヒマリは笑わない。
「でも、それで終わる私じゃないわ。あんな女に命を握られ続けるくらいなら、自分で電源を作ってやる。その結果がこれよ」
襟元を少しずらす。薄い服の下から、青白い光が溢れた。
「アークリアクター。なかなか綺麗でしょう? 性能だって折り紙付きよ」
胸に埋め込まれた円形の装置を、ヒマリはじっと見つめていた。
「……今も、必要なのですか?」
「ええ。金属片を除去できるようになるまでは、ずっとね」
「停止したら……?」
「危険ね。最悪の場合、命に関わるわ」
空調の音ばかりが、妙に耳についた。
「……そんな状態で、装甲服まで?」
「ええ。正直、部品の質には不満があるけど、よくできたと思うわ。次はもっとまともな設備で――」
「千早」
ヒマリが私の言葉を遮った。
「どうして……そんな危ないことを……!」
「他に方法がなかったのよ。あそこで黙っていたら殺されてた。なら作るしかないでしょう?」
予想以上に強い声が出た。ヒマリがわずかに身を引く。それが見えて、急に腹の底が冷えた。
……違う。
この子に怒るつもりはなかった。ただ、選択肢がなかったことを分かってほしくて。それなのに、どうしてこんな言い方しかできないんだろう。
「……ごめん」
「……千早」
「怒鳴るつもりじゃなかった。あれは……本当に、仕方なかったの」
ヒマリは首を横に振った。
「分かっています。あなたが生きるために、必要なことだったのでしょう」
指が胸の光に近づく。
「……触れても、よろしいですか?」
「ええ。絶縁はしてあるし、多少触れた程度で壊れるような設計じゃないわ」
慎重な指先が装置の縁に触れた。青い光が白い肌を照らす。ヒマリはしばらく無言のまま、その小さな熱を確かめていた。
「……本当に、よくできていますね」
「でしょう? もっと褒めてもいいのよ」
「ええ。褒めますとも。あのような場所で、ここまでのものを作り上げたのですから」
そこで、彼女はようやく目を上げた。
「ですから、これからは私にも手伝わせてください」
「……え?」
「異常検知に、予備電源の切り替え。制御系統を冗長化する余地もありそうです。私であれば、多少はお役に立てるでしょう?」
「多少、ね。随分と控えめじゃない」
「ふふっ。何しろ、清楚で慎み深い天才美少女ですので」
いつもの調子に戻った口元を見て、少しだけ安心した。
「……でも、これは私の命がかかってる装置よ。簡単に他人へ任せられるものじゃないわ」
「任せていただかなくても構いません。一緒に考えたいのです」
「……一緒に?」
「ええ。千早の頭脳を疑っているのではありません。むしろ、その逆。あなたの才能を誰よりも信じているからこそ、隣に立っていたいのですよ」
ずるい。そんなふうに言われたら、断るこちらが馬鹿みたいじゃない。
「……設計図を見せるだけなら、構わないわよ」
「まあ。本当ですか?」
「ただし、勝手に改造するのは禁止。特に制御プログラムには触らないで。ジャーヴィスと私で詰めた部分が多いんだから」
「ふふっ。承知いたしました。超天才清楚系病弱美少女ハッカーの名にかけて、慎重に拝見しましょう」
「その名にかけられても不安しかないんだけど」
ヒマリが笑った。先ほどまで強張っていた顔が、ようやくほころんだ。
……その顔を見られただけでも、帰ってきた甲斐はあったかもしれない。
*
「ジャーヴィス。会社の状況を報告して」
『承知いたしました、スターク様。ただし、現在の健康状態を考慮した場合、まずは医療検査と休養を優先することを推奨いたします』
「……あんたまで?」
情報端末を開こうとした途端の、この仕打ちである。帰宅してからまだ数時間も経っていないのに、私は既に二人がかりで自由を奪われようとしていた。
「ふふっ。ジャーヴィスもそうお考えですか。でしたら結論は出ましたね、千早」
「勝手に結論を出さないで。私はここのCEOよ?」
「ええ。存じております。ですが、どれほど優秀な経営者でも、体調を崩していては本領を発揮できないでしょう?」
『ヒマリ様のご意見に同意いたします。スターク様には明朝の医療検査まで、通常業務をお控えいただくことを推奨いたします』
「……はいはい。分かったわよ」
ジャーヴィスまでヒマリと手を組んだらしい。
でも、声は変わらない。
聞き慣れた、落ち着いた声。幼い頃から何度も聞いた、父が残してくれた声。両親がいなくなっても、朝になれば私を起こし、夜になれば仕事を切り上げるよう促してきた声。
あの地下施設で、どれほどこの声を聞きたかったことか。
「……ジャーヴィス」
『はい、スターク様』
「……ただいま」
遅れた挨拶だった。
『お帰りなさいませ、スターク様』
自然に口元が緩んだ。
「……明日は、朝から報告をお願い。必要なら私も動くわ」
『承知いたしました。ただし、医療検査の結果が確認されるまでは、通常業務への復帰を推奨いたしません』
「……本当に、融通が利かないんだから」
「ふふっ。そこがジャーヴィスの素晴らしいところでは?」
「あなたまで褒め始めないでちょうだい。調子に乗るでしょう」
『私は人工知能ですので、調子に乗る機能は実装されておりません』
「……そういうところよ」
ヒマリが声を立てて笑った。
笑い声を聞いて、やっと少し安心した。
*
寝室の扉を開くと、二ヶ月前に置いていったものが、そのまま残っていた。
読みかけの本。机の上に積まれた設計メモ。脱ぎ捨てたままの上着。几帳面なジャーヴィスのことだから、きっと私が戻るまで手をつけないようにしてくれていたのだろう。
「……変わってないのね」
「ええ。千早の物を勝手に動かすと、後で怒られてしまいますから」
「よく分かってるじゃない」
ベッドへ腰を下ろす。柔らかなマットレスが身体を受け止め、思わず声が漏れた。
「……ああ、最高。これを作った人間に勲章をあげたいくらいだわ」
「まあ。随分と大袈裟ですね」
「二ヶ月間、硬い寝台で寝てたのよ。これくらい言わせてちょうだい」
ヒマリはベッドの脇に車椅子を寄せ、枕元の明かりを少し落とした。
「今夜は隣の部屋にいます。何かあれば、すぐに呼んでくださいね」
「……泊まるつもり?」
「ええ。こんなに可愛い後輩を一人にして帰るほど、この全知の美少女は薄情ではありませんから」
「……過保護なんだから」
「今さらでしょう?」
返す言葉がなかった。
両親がいなくなったときも、会社の役員と初めて大喧嘩した夜も。頼んでいないのに、この子はいつも近くにいた。
「……好きにすれば」
「ふふっ。では、遠慮なく」
満足そうに微笑んで、ヒマリは部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
背中をマットレスへ沈めると、天井が見えた。胸のアークリアクターの光が、薄い寝間着の下から淡く滲んでいる。規則正しい駆動音。安定した磁場制御。異常なし。数字にすれば、そういうことだ。
なのに、目を閉じると、耳の奥に別の音が響く。
金属の扉が閉まる音。靴音。知らない女の、柔らかすぎる声。
……もう、終わったのよ。
何度言い聞かせても、しばらくは眠れなかった。
*
目が覚めたとき、何かが胸の上に乗っているような気がした。
「……っ!」
身体を起こし、暗闇の中で胸元を探る。指先に、硬い装置の縁が触れた。青い光が点滅したように見え、心臓が跳ねる。
「……ジャーヴィス」
『はい、スターク様』
「リアクターの状態を確認して」
『承知いたしました。出力、冷却系統、磁場制御、すべて正常です』
「……そう」
当たり前だ。何しろ私が作ったんだから。設計上の問題も把握しているし、異常停止の確率だって計算済み。ここはスターク・タワーで、設備も材料も揃っている。心配する理由なんて、どこにもない。
「……もう一回、確認して」
『承知いたしました。すべて正常です、スターク様』
「……分かったわ」
分かっている。
それでも、手が胸元から離れなかった。
さっきの夢では、装置の光が消えていた。いや、本当に夢だったのだろうか。ベアトリーチェの声がした気がする。電源が切れる音も。あのときの痛みまで、まだ身体に残っている。
……馬鹿みたい。
理屈で片づく話なら、とっくに片づいているのに。
「……千早?」
控えめな声とともに扉が開いた。
ヒマリだった。薄手の上着を羽織り、車椅子をゆっくり進めてくる。まだ寝ていなかったのか、それとも物音に気づいたのか。どちらにしても、実にタイミングがいい。
「……ヒマリ。こんな時間に何よ」
「ジャーヴィスから、あなたが何度もリアクターの状態を確認していると聞きまして」
……あの人工知能。
あとで守秘義務について、じっくり話し合わないとね。
「……少し気になっただけよ。別に何でもないわ」
「そうですか」
ヒマリはそれ以上、聞こうとしなかった。ただベッドのそばに車椅子を止め、私の手元に視線を落とした。
「……眠れませんか?」
「一度は寝たわよ。ちょっと嫌な夢を見ただけ」
「そうでしたか」
無理に理由を聞き出そうとしない。その代わり、私の手に自分の手をそっと重ねてくれる。少し冷たい指先。さっき廊下で掴んだのと同じ、よく知っている感触。
「……ヒマリ」
「はい」
「……隣の部屋にいるって、言ってたわよね」
「ええ。もちろんです」
「……だったら」
言いかけて、口を閉じた。
昼間に一度、あんな格好悪いところを見せている。なのに今度は、夜中に手まで握ってもらおうとしているなんて。さすがに甘えすぎじゃない?
それでも、離れたくなかった。
「……もう少しだけ、ここにいてくれる?」
ヒマリは一瞬だけ目を丸くし、それから静かに微笑んだ。
「……ええ。もちろんですよ、千早」
手を包むように握り返される。
「眠れるまで、おそばにいます」
「……そう。助かるわ」
胸の光は規則正しく点っている。明日は予備電源を設計して、傷の治療方法を探して、会社の仕事も片づけなくてはならない。不安が消えたわけじゃない。
けれど、今は。
彼女の手の感触が残っていた。
「……おやすみ、ヒマリ」
「ええ。おやすみなさい、千早」
しばらくして、もう一つ声がした。
『おやすみなさいませ、スターク様』
……まったく。
この家は、少々お節介な連中が多すぎる。
だけど、今はそれがありがたかった。
私は手を握り返したまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。