透き通る世界のアイアンマン(偽物) 作:マーベルにハマった人
この世に、私の手に負えない問題など存在するのでしょうか。
ふむ。なかなか興味深い問いですね。無論、世の中には未解明の現象がいくつも存在しますし、現在の技術では実現不可能とされる事柄も少なくありません。しかし、それはあくまで現時点での話。未知の現象を解明し、不可能を可能へと変えることこそ、我々天才に課せられた使命なのです。
そして、この私――ミレニアムに咲く一輪の高嶺の花にして、全知の学位を持つ超天才清楚系病弱美少女ハッカー、明星ヒマリ。情報収集と解析において、私の右に出る者などそうはいません。少々難解な問題に遭遇したところで、それは私の輝かしい経歴に新たな功績が加わるだけのことです。
ですから、一人の少女の居場所を突き止めることなど、そう難しい話ではないはずでした。
どれほど巧妙に痕跡を消したとしても、完全な情報の隠蔽など不可能です。通信記録、監視映像、交通網、物資の流通経路。高度に情報化されたキヴォトスにおいて、人間が何らの痕跡も残さずに移動することはできません。ましてや、その少女が世界有数の巨大企業を率いるCEOであるならば、なおさらでしょう。
ええ。そう考えていました。
あの子が行方不明になったと知らされたときでさえ、私はそれほど心配していなかったのです。
少しばかり厄介な事態に巻き込まれたのでしょう。ですが、何も問題はありません。この私が見つけてあげればいいのですから。無事に帰ってきた暁には、連絡の一つも寄越さなかったことについて、たっぷりとお説教をしてあげましょう。
……本当に。
最初は、それくらいのつもりだったのです。
*
千早と最後に会った日のことは、よく覚えています。
スターク・タワー最上階のCEO室で、私はカイザーコーポレーションから届いた値引き要求書を読み上げていました。正確には、机の上に放置されていた書類を勝手に拝借したのですが、細かなことは気にしないでいただきたいですね。何しろ、天下の超天才清楚系病弱美少女を前にしても、当のCEOは革張りの椅子にふんぞり返り、デスクへ脚を投げ出している始末なのですから。
「次世代誘導ミサイルの納入価格を二十パーセント引き下げてほしいそうですよ」
「二十パーセント? 随分と景気のいい冗談ね。カイザーの経営陣は、兵器の代わりに漫才でも売り始めたのかしら」
「おや。千早の冗談にも困ったものですが、あちらはどうやら本気のようです」
「なら、性能を二割落として差し上げましょうか」
「ふふっ。それでは購入者より、使用される側が喜びそうですね」
「それはそれで平和に貢献できるわね。実に慈善的な会社じゃない」
まったく、あの子の減らず口にはいつも感心させられます。自分の技術に絶対の自信があるからこそ言えるのでしょう。確かに、千早の腕前は誰よりも認めています。ですが、その自信がときに危なっかしいことも、私はよく知っていました。
その朝も、食事について尋ねたところ、返ってきた答えはブラックコーヒー。睡眠時間は三時間半。どうやら植物由来の飲料さえ摂取していれば、立派な朝食を取ったことになるらしいのです。
「……千早。その理屈を医師の前で披露するのはおやめなさい。私まで恥ずかしくなってしまいます」
「失礼ね。三十分も睡眠が増えたのよ。改善してるじゃない」
「ええ、ええ。驚異的な進歩ですね。では次は、睡眠時間を人並みにしていただけると、この清楚で優しい先輩も安心できるのですが」
「私の生活習慣にまで株主総会を開かないでちょうだい」
そんな、いつもどおりのやり取りでした。
少なくとも、ジャーヴィスの報告が入るまでは。
『スターク様。カイザーコーポレーションへの兵器納入記録について、不一致を検出しました』
過去三か月の輸送記録が書き換えられ、複数の兵器が正規の搬入先に到着していない。移送先はトリニティ総合学園の管理区域に隣接する山間部。衛星画像には、スターク・インダストリーズの社章によく似た印をつけた車両まで映っていました。
千早は途端に真剣な顔になりました。兵器事業はあの子の自信の源でもありましたが、何より、自分の技術が自分の知らない場所へ運ばれることを嫌っていたのです。誰よりも強い兵器を作りながら、誰よりもそれを管理できると信じていましたから。
そこで私は、以前から気になっていたことを尋ねました。兵器がどれほど優れていても、使う人間の意思まで制御できるわけではないでしょう、と。
「道具が悪いんじゃない。使う人間が悪いのよ」
「そうでしょうね。ですが、千早。あなたが作っているのは、単なる包丁ではありませんよ」
「圧倒的な力があれば、戦争を始める理由は減るわ」
「では、その力を手にした側が、何も考えなかったら?」
あの子はすぐには答えませんでした。私たちは技術者であり、考え方の違いについて議論することも珍しくありません。ですが、あのときばかりは、少しだけ言葉が尖ってしまったように思います。
それでも千早は引き下がらず、現地を自分で調べると言い出しました。
「ジャーヴィス。護衛機を四機起動して」
『承知いたしました。スターク様』
「見てのとおりよ。小さな軍隊を連れていくようなものね」
「機械の性能を疑っているわけではありません。千早が、自分の技術を頼りすぎていることを心配しているのです」
「頼れるものに頼って何が悪いの?」
「それが万能ではないと覚えていてくだされば、何も」
そう言うと、千早は面倒そうに「はいはい」と手を振りました。ああ、実にいつもどおり。人の忠告を頭では理解しても、自分が失敗するところまでは想像しない。そもそも、失敗するつもりならあれほど立派な発明などできないのでしょうけれど。
彼女がジャケットを羽織ると、ジャーヴィスまで遠隔調査を勧めました。私たちが揃って反対するものですから、千早は「二人で示し合わせたんじゃないでしょうね」と眉を寄せたものです。
私は、次からぜひそうしましょう、と返しました。
あの子は呆れた顔をしていましたが、その口元は笑っていました。
「千早。帰ってきたら、きちんと食事を取ってくださいね」
「ええ、分かってるわよ」
「それと今夜は、最低でも六時間は眠ること」
「注文が多いわね。お土産も買ってこいって?」
「ふふっ。では、美味しい紅茶でもお願いしましょうか」
「高くつくお遣いになりそうね」
そこで終わるはずでした。いつものように出かけて、いつものように生意気な口を利きながら帰ってくる。夜にはあの子が用意したお菓子をいただき、私は紅茶の選び方にも文句をつける。そんな未来を、疑っていませんでした。
ですが、扉を出る直前、どうしても一言だけ伝えたくなったのです。
「千早。必ず、無事に帰ってきてくださいね」
「当然でしょう。私を誰だと思ってるのよ」
「……そうでしたね」
「帰ったらお茶に付き合ってあげる。あなたの好きなお菓子も用意するわ」
「では、まずは千早に朝食を食べていただくところからですね」
「まだ言うの?」
「ええ。約束は守っていただきたいので」
「分かったわ。無事に帰るし、ご飯も食べる。それで満足?」
「ふふっ。ええ。約束ですよ」
「ええ、約束」
軽く手を振って出ていく背中に、私は小さく笑いました。
あの子が約束を破るとは、思わなかったのです。
……いいえ。
守りたくても守れなくなる日が来るなど、考えもしなかったのですね。
*
異変に気づいたのは、その日の夕方でした。
特異現象捜査部の部室で調査資料を整理していた私は、ふと千早のことを思い出しました。出発から随分と時間が経っているというのに、進捗報告が一度も届いていなかったのです。
もっとも、あの子が研究や調査に夢中になると連絡を忘れてしまうことは、今に始まった話ではありません。以前など、丸一日連絡がつかないので心配していたら、研究室で新型エンジンの試験をしていただけ、ということもありました。困った後輩ですが、ある意味では平常運転と言えるでしょう。
それでも、今回は少し気になりました。
「……ジャーヴィス。千早の調査は順調に進んでいますか?」
『申し訳ございません、ヒマリ様。現在、スターク様との通信が途絶えております』
「……通信が?」
『はい。最後の通信から数時間が経過しております。護衛ドローン四機との接続も、すべて失われました』
指が止まりました。
護衛ドローンが四機とも通信不能。通常の電波障害だけで説明するには、少々不自然な状況です。千早の設計した機体には複数の通信手段が用意されていたはずですし、故障であれば何らかの記録が残るでしょう。
「最後に確認できた位置情報を送っていただけますか?」
『承知いたしました』
端末に地図が表示されます。トリニティ郊外の山岳地帯。その一角に、赤い印が付けられていました。
通信の妨害、制御系統への侵入、あるいは直接的な攻撃。考えられる可能性はいくつもありますが、現時点で一つに絞るのは早計でしょう。まずは記録を精査し、何が起きたのかを特定する必要があります。
「ジャーヴィス。最後に受信した通信記録とドローンの状態を確認しましょう。私は周辺の監視網を調べます」
『既に解析を開始しております』
「ふふっ。さすがですね。では、手分けして進めましょうか」
このときの私は、まだ落ち着いていました。
通信が途絶えた程度で、千早がどうにかなったと考える必要はありません。何らかの妨害を受けているのなら、その痕跡を見つければいい。彼女が捕らえられているというのなら、居場所を突き止めて救出すれば済む話です。
何しろ、この私が調べるのですから。
……まさか。
その日から二ヶ月もの間、千早を捜し続けることになるとは、思ってもいませんでした。
*
三日が経過しました。
千早の居場所は、まだ判明していません。
スターク・インダストリーズによる捜索活動は既に始まっており、私も独自に通信記録や周辺の監視映像を解析しています。いくつか興味深い情報も見つかりましたが、決定的な手掛かりには至っていませんでした。
特に奇妙だったのは、通信妨害の方式です。記録に残されていた信号は、特定の通信方式を狙って発生した形跡がありました。しかも、その発生時間は極めて短く、周辺の一般的な通信網にはほとんど影響がありません。
まるで、スターク・インダストリーズの通信技術を熟知した何者かが、狙いを定めて攻撃したかのようです。
「……ふむ。なかなか手強い相手のようですね」
端末へ新しい解析条件を入力します。
何者かが意図的に千早を襲ったのであれば、目的があるはずです。身代金なのか、技術の奪取なのか、それとも別の事情があるのか。今のところ判断できませんが、相手が行動した以上、必ず何らかの痕跡が残されているでしょう。
その痕跡を拾い集めることこそ、私の得意分野です。
「……ヒマリ」
部室の入口から、エイミが声をかけてきました。
「おや、エイミ。どうしました?」
「まだ千早を捜してる?」
「ええ。あと少しで有力な手掛かりが見つかりそうですので」
「……昨日もそう言ってた」
「まあ。私の発言をそこまで正確に覚えているとは、感心ですね」
「……寝てる?」
「もちろん。私ほどの天才ともなれば、休息の重要性は十分に理解していますから」
エイミは机の上に置かれた空のカップを眺めました。
「……本当に?」
「……多少、時間は短くなっていますが」
「そっか」
彼女はそれ以上追及せず、私の前へ温かい飲み物を置きました。
「これ、飲んで」
「おやおや。私のような可憐な美少女を気遣うとは、実に感心な行いですね」
「そう」
「……もう少し反応していただいてもよろしいのですが」
まったく、エイミは相変わらずです。
けれど、こういうときには彼女の存在がありがたいものでした。必要以上に心配することもなく、ただ近くにいてくれる。何か仕事を頼めば黙って引き受けてくれますし、私が集中している間は余計な邪魔もしません。
飲み物を受け取り、車椅子の操作盤へ手を伸ばします。
そのとき、指先に触れた小さな金属部品が目に入りました。
……ああ。
そういえば、これも千早が作ってくれたものでしたね。
*
私が千早と出会ったのは、まだお互いに幼かった頃のことです。
当時から、私の身体はあまり丈夫ではありませんでした。少し無理をすれば疲れてしまいますし、長時間の移動には車椅子が欠かせません。もっとも、それを理由に自分を哀れんだことなどありませんよ。多少身体が弱いからといって、私の素晴らしい頭脳や美貌が損なわれるわけではありませんからね。
とはいえ、不便なものは不便です。
当時使っていた車椅子は、今ほど高性能ではありませんでした。特に操作盤の配置が悪く、長時間使用していると腕や指が疲れてしまうことがあったのです。慣れているとはいえ、快適とは言い難いものでした。
そんなある日、千早が私の車椅子をじっと眺めていました。
「……ヒマリ」
「はい? どうかしましたか?」
「それ、使いにくくない?」
突然の質問でした。
「……まあ、多少は。ですが、慣れていますから」
「ふーん」
千早は車椅子の周囲を一回りすると、操作盤を覗き込みました。いくつかの部品を指先で確かめ、何やら考え込んでいます。そうしてしばらく調べた後、彼女は顔を上げました。
「……これ、直した方がいいわね」
「直す、ですか?」
「ええ。この位置じゃ手が疲れるでしょう? 反応も遅いし、もっといい方法があるはずよ」
そう言って、どこかへ行ってしまいました。
そして、数日後。
千早は小さな箱を抱えて戻ってきたのです。
「……はい、これ」
差し出された箱は、随分と不格好でした。包装紙はところどころ曲がっており、リボンの結び方も少々怪しい。恐らく、自分で包んだのでしょう。精密機械の組み立てにはあれほど優れた才能を発揮するというのに、どうしてこういうことになると不器用なのでしょうか。
「……これは?」
「開ければ分かるでしょう?」
言われたとおりに箱を開けると、中には小さな金属製の装置が入っていました。
車椅子の操作盤へ取り付けるための補助ユニットです。指先の小さな動きを検知し、少ない力でも正確に操作できるようにするものらしく、位置を調整するための機構まで付いていました。まだ粗削りな部分もありますが、子供が独力で作り上げたものとしては驚くべき完成度です。
「……千早。これを、あなたが?」
「ええ。何か問題ある?」
「いえ……むしろ、素晴らしい出来です」
「当然でしょう? 私が作ったんだから」
千早は得意げに胸を張りました。
……ああ、もう。
このときの千早が、どれほど可愛らしかったことか!
今よりもずっと小さな身体で、自分には少し大きすぎる箱を抱えてやってくるのです。しかも、本人は精一杯平然を装っているつもりなのでしょうが、こちらの反応が気になって仕方がない様子でした。少し目が合うたびに顔を逸らし、何か言いたそうに口を開きかけては、結局黙ってしまうのですから。
そんなものを見せられて、喜ばない人間などいるでしょうか。
いいえ、いるはずがありません。もしいるというのなら、ぜひとも私の前に連れてきていただきたいものですね。この超天才清楚系病弱美少女ハッカーが、その審美眼の欠如についてじっくりと説いて差し上げましょう。
「……ありがとうございます、千早。とても嬉しいです」
「……そう」
千早は少しだけ顔を逸らしました。
「まあ、ヒマリの車椅子、あんまり使いやすそうじゃなかったし」
「私のために、わざわざ作ってくださったのですか?」
「別に、大した手間じゃなかったわよ」
そう言いながら、彼女の指先には小さな傷がいくつも付いていました。
恐らく、部品を加工しているときにできたものなのでしょう。まだ幼い少女が慣れない道具を扱い、何度も試行錯誤を繰り返したに違いありません。その労力を大したことではないと言い切るのですから、本当に可愛げのない子ですね。
……ええ。もちろん、褒め言葉ですよ。
「……それに」
千早は、小さな声で続けました。
「ヒマリが我慢する必要、ないでしょう?」
「……え?」
「使いにくいなら、直せばいいじゃない。ヒマリが悪いわけじゃないんだから」
その言葉に、しばらく何も言えませんでした。
私の身体を気遣ってくれる人は、それまでもたくさんいました。無理をしないように、気をつけるように、できるだけ休むように。そうした言葉をかけられることも珍しくありませんでした。
ですが、千早は少し違ったのです。
彼女は私を可哀想だとは言いませんでした。車椅子が必要なことを、不幸なことのようにも扱いませんでした。ただ、使いにくいなら直せばいいと。そんなことは当然なのだと言わんばかりに、私のために機械を作ってくれたのです。
「……ふふっ」
気づけば、笑っていました。
「……何よ」
「いえ。千早は本当に、優しい子ですね」
「……は?」
千早は露骨に嫌そうな顔をしました。
「別に優しくなんかないわよ。気になったから直しただけ」
「そうですか。では、そういうことにしておきましょう」
「……何よ、その言い方」
ますます不機嫌そうになる千早を見て、私は堪えきれずに笑ってしまいました。
生意気で、素直じゃなくて、ちょっぴり照れ屋で。そのくせ、誰かのために一生懸命になってしまう。こんなに愛らしい後輩がいてよいものかと、思わず天に感謝したくなったほどです。
……もっとも、本人には絶対に言いませんけれど。
それ以来、千早は私にとって、特別な存在になりました。
彼女の才能を認め、同じ技術者として意見を交わす一方で、どうにも放っておけないのです。何かを完成させれば誰よりも得意げに報告してきますし、失敗すれば悔しそうに次の設計図を広げる。その姿を見るたびに、少しずつ愛おしさが増していきました。
そして、あの日の補助装置は、今でも大切に保管しています。
何度も改良を重ね、現在ではもっと優れた機構へ置き換えられていますが、その一部は今も車椅子の操作系統に残してありました。性能だけを考えれば、取り外すこともできるでしょう。
ですが、そのつもりはありません。
何しろ、私にとっては世界に一つしかない、かけがえのない贈り物なのですから。
*
失踪から二週間が経過しました。
相変わらず、千早の居場所は分かりません。いくつか有力な情報も得られましたが、そのたびに調査は行き詰まっていました。古い倉庫群、使われなくなった軍事施設、記録の残っていない輸送経路。調べられるものは片端から調べましたが、どれも決定的な手掛かりには至らなかったのです。
かつて私が部長を務めていたヴェリタスにも、必要な範囲で照会を行いました。今は副部長のチヒロたちが動いていますから、私はあくまでも外部から協力をお願いする立場です。彼女たちはそれぞれの仕事を抱えながら、可能な限り情報を探してくれました。
……それでも、見つからない。
助けてくれる人が増えるほど、私一人の力ではどうにもならない現実を認めなければならなくなる。感謝すべきことなのに、私は少しばかり情けない気持ちになってしまいました。
……ふむ。どうやら、私の想像以上に厄介な問題のようですね。
とはいえ、諦める理由にはなりません。手掛かりがないのなら、まだ調べていない情報を探せばいい。仮説が間違っているなら修正する。研究とは、そういうものですから。
そんな折、スターク・インダストリーズから会議への出席を求められました。
千早の失踪に伴う今後の対応について、意見を聞きたいとのことです。私は社員ではありませんが、捜索に協力している立場である以上、断る理由もありません。何より、会社側がどのような情報を持っているのか確認するよい機会でもありました。
会議の内容は、あまり愉快なものではありませんでした。
代表者不在の長期化に伴う経営体制の見直し。保留されている取引の処理。主要事業への影響。そして、千早が戻ってこなかった場合の対応方針。
……なるほど。
企業として、必要な議論なのでしょう。スターク・インダストリーズには大勢の社員がいますし、千早がいないからといって事業を停止するわけにもいきません。経営陣としては当然の責務と言えるでしょう。
ですが、少々気になることがありました。
「……一つ、よろしいでしょうか?」
私が口を開くと、役員たちの視線が集まりました。
「先ほどから、千早が帰ってこない場合のお話ばかりされていますね」
「……ヒマリ様。それはあくまで、最悪の事態を想定したものでして」
「ええ。理解しております。危機管理としては正しい判断でしょう」
私は微笑みました。
「ですが、そろそろ本題に戻っていただけませんか?」
「……本題、ですか?」
「千早を見つけるために、これから何をするかというお話です」
会議室が静まり返りました。
「彼女の不在を前提とした計画も必要でしょう。ですが、それだけでは何の解決にもなりません。捜索に利用できる設備や情報は、まだ残されているはずです」
「しかし、既に相当な予算を投入しておりまして……」
「予算ですか」
私は少しだけ首を傾げました。
「では、これまでの捜索費用と今後の事業支出を確認させてください。資金配分の見直しが必要なのであれば、私からもご提案できることがあるでしょう」
「……それは」
「ふふっ。ご安心ください。私は数字の扱いにも自信がありますので」
相手は言葉に詰まっていました。
……まったく。こういうときばかりは、千早の普段の態度が少し理解できますね。
あの子なら、恐らくもっと辛辣なことを言っていたでしょう。もっとも、私ほどの美少女が同じことをしてしまっては、少々品格に欠けてしまいますからね。ここは優雅に、そして冷静に話を進めることにしましょう。
会議を終えた後、私はしばらく最上階に残りました。
そして、何となく千早の私室へ向かったのです。
*
扉を開けると、見慣れた部屋が広がりました。
壁際に並ぶ本棚、研究資料の積まれた机、ソファに放り投げられた上着。何もかも、最後に見たときと変わっていません。必要な掃除以外は行わないようにしているのでしょう。千早が帰ってきたとき、いつもどおりに過ごせるように。
……本当に、片付けが苦手な子ですね。
これほど優れた頭脳を持ちながら、身の回りの整理整頓となると途端に無頓着になる。以前も何度か注意したことがありますが、そのたびに「必要なものは全部把握してるから問題ない」と言い返されました。
今なら、その声が聞こえてきそうです。
私は机の前へ車椅子を進めました。見慣れた字で数式や設計上の問題点が書き込まれた資料が、いくつも積まれています。途中には何かを思いついたらしい走り書きもありました。
……今度は、何を作るつもりだったのでしょうか。
ふと、机の端に置かれた写真立てが目に入りました。
そこには、幼い千早と彼女の両親が写っていました。今よりもずっと幼い顔をした千早が、二人の間で少し照れくさそうに笑っています。
……ああ。
この写真は、まだ残してあったのですね。
それを見ているうちに、ある日の光景が頭に浮かびました。
千早が十歳の頃。
両親を失った、あの日のことです。
私は、あの子の顔を忘れたことがありません。
*
千早の両親が亡くなったという知らせを受けたとき、私は最初、何かの間違いだと思いました。
つい数日前まで、あの子は新しい装置の設計図を嬉しそうに見せてくれたのです。私は欠点を三つ指摘し、千早は「二つはもう直してあるわ」と得意げに反論しました。残りの一つも、次に会うときには直してやると約束していたはずでした。
なのに、次に会ったのは葬儀場だったのです。
黒い服を着た千早は、弔問客の間に立っていました。まだ十歳の子供が、誰に教わったのか丁寧なお辞儀を繰り返している。大人が口にするお悔やみの言葉へ「ありがとうございます」と答える声には、まるで抑揚がありませんでした。
私は、少しでも休ませてあげたかったのです。
「千早。少し、こちらで休みませんか?」
「……平気よ」
「ですが、朝からずっと立ちっぱなしでしょう?」
「平気だって言ってるじゃない」
顔を上げた千早は、いつもの生意気な笑みを浮かべませんでした。それどころか、差し出した手を避けるように一歩退いたのです。目の下には濃い隈があり、唇には噛んだ跡がついていました。
そのとき、少し離れた場所で役員らしい大人たちが話す声が聞こえました。
「今後の経営権については……」
「まだ幼いですからね。代理の体制を――」
千早の指が、私の目の前で強く握り込まれました。
十歳の少女の両親が亡くなったばかりだというのに、会場のあちこちで会社の話が交わされている。もちろん、企業を維持するために必要な議論もあるのでしょう。ですが、せめて今日くらい、その小さな肩から重荷を降ろしてあげられなかったのでしょうか。
「……千早。あちらは気にせず、今は……」
「気にしてないわ」
こちらを見ないまま、彼女は答えました。
「誰が何を考えてるかくらい、分かってる」
声の端に、冷たいものが混じっていました。続きを尋ねようとした私は、結局何も言えませんでした。子供らしく泣きなさい、などと言えるはずがありません。けれど、泣かずにいられるから平気なのだと思うことも、私にはできませんでした。
それから数日後。
スターク・タワーの最上階では、葬儀の黒い服を脱いだ千早が、今度は会社の書類に埋もれていました。
まだ十歳なのに。
いいえ、十歳だからこそ、周囲の大人たちに舐められないよう必死だったのでしょう。会議で使われる難解な用語を調べ、議決権の比率を確認し、契約書に記された小さな条件まで洗い出している。机の片隅には、冷め切った飲み物と、ひと口も手をつけていない菓子が置かれていました。
「千早。きちんと眠れていますか?」
「ええ」
「昨夜は何時間ほど?」
「いちいち覚えてないわよ」
「……それなら、せめて食事を」
「あとで食べる」
その「あとで」が来ないことは、数日も見ていれば分かりました。彼女は会社に現れ、仕事をして、いつの間にか夜を迎える。誰かが手助けを申し出れば、相手が善意であるかどうかを調べるために時間を費やす。そのせいで自分がますます疲弊していることに、気づく余裕もないようでした。
それでも私が訪ねると、最初はまだ返事をしてくれたのです。
「おやおや、今日は随分と難しい資料を読んでいますね。よろしければ、この超天才美少女が少々お手伝いを――」
「結構よ」
「遠慮はいりませんよ。私と千早の仲ではありませんか」
「遠慮じゃない。必要ないって言ってるの」
翌日も、その次の日も同じでした。私は、どうにかいつもの千早を取り戻したかったのです。冗談を言えば、また呆れた顔で突っ込んでくれるかもしれない。車椅子の新しい調整案を相談すれば、少しは研究の話に夢中になってくれるかもしれない。
ですが、机へ置いた設計資料には見向きもせず、千早はひたすら会社の数字を追いかけていました。
彼女が私に最初にくれた補助装置は、今も車椅子の一部に組み込まれています。あの日、千早は「不便なら直せばいい」と言ってくれました。私も、同じように考えていたのかもしれません。この子を苦しめるものがあるのなら、取り除けばいい。人の気持ちまで、故障した機械と同じように扱えるわけがないのに。
「千早。今日だけでも、お仕事を切り上げませんか」
「……またその話?」
「一日休んだからといって、すべてが駄目になるわけではありませんよ。私もできる限りお力になりますから」
「そう。じゃあ、その『できる限り』って何?」
千早は端末を閉じ、初めてまともに私を見ました。
「会社の取締役でも引き受けてくれる? 役員の票を集めて、私の代わりに署名してくれる? それとも、父さんと母さんを連れ戻してくれるの?」
「……千早」
「できないでしょう? だったら構わないで」
その返事がどれほど酷なものだったか、当時の私は考えました。ですが、あの子がそんな言い方をするのには理由がある。頭では分かっていたのです。それでも、ここで放っておいたら本当に一人きりになってしまうようで、私は何度も声をかけてしまいました。
それが、よくなかったのでしょう。
ある夕方、訪ねた執務室には千早しかいませんでした。机には何枚もの契約書が並び、そのうち一枚には赤い印がいくつも書き込まれていました。書面の端に見えたのは、経営権の委任に関する文言。小さな文字の一つ一つに、千早は針を刺すような目を向けていました。
「……千早。今日は少し顔色が悪いようですが」
「だから?」
「せめてお水を飲んでください。ほら、手もこんなに――」
書類を持つ手が、細かく震えていました。
気づかないふりをするべきだったのかもしれません。でも私は、どうしても見過ごせなくて。いつもなら嫌がられると知っていても、そっと手を伸ばしたのです。
ぱしん、と乾いた音がしました。
千早が、私の手を叩き落としたのです。
「……触らないで」
今まで聞いたことのない声でした。
「千早……?」
「何回言わせるのよ。放っておいてって、言ったでしょう」
「ええ。ですが、私は――」
「うざったいのよ!」
机の上のペン立てが倒れ、金属のペンが床に散らばりました。千早は立ち上がっていました。椅子を後ろへ蹴り飛ばした拍子に、何かが大きな音を立てましたが、そんなものは耳に入っていないようでした。
「私を心配するふりなんかしないで! 分かってるのよ! おまえも、私の会社を奪おうとしてるんでしょう!」
「……え?」
「知らないとでも思った? みんなそうよ! 父さんと母さんが死んだ途端、急に優しくなって、私のためだって、助けてやるって! そう言いながら、私に書類を渡してくるの。こっちが何も分からないと思って!」
机から一枚の書類を引っ掴み、千早はそれを床へ投げつけました。ページが滑り、私の車椅子の足元に止まります。小さな手は今にも折れそうなほど震えていました。
「千早、私はあなたの会社など――」
「嘘!」
返事は、途中で遮られました。
「お前だって同じに決まってる! あんなに優しかった役員も、みんな最初はそう言ってた! 私がちょろいと思ったら大間違いよ! 何も知らない子供だから、慰めてあげれば何でも言うことを聞くと思ってるんでしょう!?」
違います。その一言が喉元まで出かかりました。
ですが、違うと口にしたところで、あの子の目に映っている私が変わるでしょうか。何度も裏切られた子供に、私だけは違うと信じなさいと言うことが、どれほど残酷な要求になるでしょうか。
「パパとママが作り上げた会社なの……!」
声が裏返りました。
「私のものなの! 私が守らなきゃいけないの! じゃないと、私の居場所は、もう、これしか……っ」
そこで千早は言葉を詰まらせました。
ふと、部屋の片隅にあった写真立てへ顔を向けたのです。そこには、まだ幼い千早と、笑っている二人の大人の姿がありました。あの写真の三人は、どれほど待っても元には戻らない。
「……誰にだって奪わせはしない」
口の中で押し潰したような声でした。
「絶対によ……絶対、渡さない……!」
私は何かを言わなければと思いました。大丈夫ですよ、と。千早は一人ではありません、と。ですが、どんな言葉も、あの子の耳には届かないような気がしたのです。
「千早。あなたを信じてほしいとは言いません。ですが、私は……」
「出ていって」
しん、と部屋が静まりました。
「……千早」
「出ていけって言ってるの!!」
机の端にあったマグカップが落ち、床で割れました。飛び散った破片にさえ、千早は目を向けません。私が動こうとすると、彼女は怯えたように後ずさりました。まるで、私が何かを奪い取るために近づいているかのように。
そこまで拒まれて、ようやく分かりました。
あの子は私を信じられないのではありません。誰を信じればいいのか分からなくなっているのです。そして私も、その「誰か」の一人にすぎませんでした。
「……分かりました」
できる限り、いつもの声で答えたつもりでした。
「ですが千早、床の破片にはお気をつけください。怪我をしてしまっては――」
「……お願いだから、出てってよ……!」
最後の声だけは、怒鳴り声ではありませんでした。
私は、何も言わずに車椅子を出口へ向けました。振り返りませんでした。振り返ったら、また余計なことを言ってしまう気がしたからです。
扉が閉まる間際、小さな声がしました。
「……父さん……母さん……」
それ以上は、聞いてはいけない気がしました。
*
廊下に出てから、自分の手が震えていることに気づきました。
……ああ、これは困りました。
天下の超天才清楚系病弱美少女が、年下の子供に怒鳴られたくらいで、こんなに情けないことになるなんて。いつもなら冗談の一つでも返して、相手の勢いを削ぐことだってできるでしょうに。
ですが、私は何も返せませんでした。
あの子が言った「お前も同じ」という言葉は、今でも耳に残っています。怒りで我を忘れた子供の言葉なのですから、まともに受け取るべきではないのでしょう。それでも、どうしても胸に刺さって抜けませんでした。
その日の夜、ジャーヴィスに連絡しました。
『はい、ヒマリ様』
「千早は……その後、どうしていますか?」
『スターク様は現在、執務室で作業を続けておられます』
「……食事は?」
『お召し上がりになっておりません。休養もお勧めしましたが、お聞き入れいただけませんでした』
私は端末を握り直しました。
「……ジャーヴィス。ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
『何でしょうか』
「千早は……私がそばにいることを、迷惑だと思っているのでしょうか」
我ながら、ひどく馬鹿げた質問でした。人工知能に人の心の答えを求めるなんて、全知の学位を返上した方がよいのではありませんか。ですが、誰にも聞けなかったのです。
『スターク様はここ数日、非常に強い心理的負荷の下におられます』
それは分かっています、と言いかけました。
『なお、ヒマリ様より贈られた本は、今もご自身の机に置いておられます』
「……本、ですか?」
『はい。先月お渡しになった技術書です』
そういえば、以前二人で議論したあと、続きはこれで勉強なさいと渡した本がありました。千早は「借りなんか作らない」と言いながら、翌日には付箋だらけにして持ってきたものです。
彼女の本音を、ジャーヴィスが代わりに教えてくれるわけではありません。それでも、その本をまだ捨てていないと聞いて、私はどうしようもなく救われてしまいました。
翌日、私はスターク・タワーへ行きませんでした。
その次の日も。
避けていたわけではない、と言えば嘘になるでしょう。もう一度、出ていけと言われるのが怖かったのです。あれほど偉そうに、誰にでも答えを示せるなどと自負していたくせに。大切な後輩一人の前では、見事なまでに臆病でした。
数日後、ジャーヴィスから、千早が車椅子の操作補助ユニットの新しい部品を発注したと聞きました。
『以前の設計から、ヒマリ様に適した修正が加えられております』
「……そうですか」
ほかに何も言えませんでした。
あの子は、どうしようもなく怒っていた。それでも、人を気にかける習慣まで失ってしまったわけではなかったのですね。
私は少し迷ってから、千早に短いメッセージを送りました。
『補助装置の件、ありがとうございます。ですが、次は千早ご自身の睡眠時間を改良してくださいね。全知の天才美少女からのお願いです』
返事はありませんでした。
一時間後も、三時間後も。
そして夜になって、たった一行だけ届きました。
『余計なお世話よ』
その一文を読んで、私はようやく笑うことができました。
もちろん、あの日のことがなかったことになったわけではありません。傷ついた言葉を取り消せたわけでも、千早が大人たちを疑わずに済むようになったわけでもない。それでも、私たちは少しずつ話せるようになりました。
無理に手を引くのではなく、同じ場所に座って、時には一緒に研究の話をする。それくらいの距離なら、あの子も許してくれたのです。
あるとき千早は、私が渡した本にびっしりと書き込まれた修正案を突きつけ、いつものように勝ち誇って言いました。
「ほら。ここ、あんたの説明より私の方が正しいでしょう?」
「おやおや。将来が楽しみな後輩ですね。ですが、その理論にはまだ一つ、大きな見落としがありますよ?」
「……は? どこよ」
そのとき、彼女は久しぶりに怒り以外の理由で頬を膨らませました。
私たちは、以前とまったく同じ関係に戻ったわけではありません。少なくとも千早は、それ以来、人の善意の裏にあるものを以前より強く疑うようになりました。私が知らないところで、どれほど多くのものを突きつけられたのでしょう。
ただ、あの子が本当に壊れてしまう前に、もう一度声を交わせたことだけは、今でもよかったと思っています。
……だからこそ。
今度またあの子が帰れなくなったと聞いたとき、私はあの日の「出ていけ」を思い出しました。
今度は、私のところへ帰ってきてくれるのでしょうか。
*
写真立てを机へ戻しました。
部屋の中は、相変わらず静かでした。窓の外ではミレニアムの夜景が輝き、遠くの道路を走る車両の光がゆっくりと流れていきます。何もかも以前と変わらないのに、この部屋の主だけがいない。その事実が、妙に落ち着きませんでした。
……千早。
今頃、どこにいるのでしょうか。
怪我をしていないでしょうか。寒い場所に閉じ込められているのではないでしょうか。まともな食事を取れているでしょうか。あの子は昔から自分の身体を顧みないところがありますから、誰かがそばで注意してあげなければ、無茶なことをしているかもしれません。
……いいえ。
まずは居場所を突き止めることです。
私は端末を取り出しました。
「……ジャーヴィス」
『はい、ヒマリ様』
「捜索を続けましょう。まだ確認していない資料が残っているはずです」
『承知いたしました』
その声を聞いて、少しだけ安心しました。
ジャーヴィス。
千早の父親が遺し、千早自身が改良を重ねてきた、とても優秀な人工知能です。
彼とは、私も長い付き合いになります。千早の研究を手伝い、会社の業務を管理し、ときにはあの子の無茶な要求にも淡々と応じる。実に頼もしい存在であり、私にとっても信頼できる協力者でした。
そして何より。
千早にとってジャーヴィスは、単なる便利なプログラムではありません。
両親が亡くなった後も、ずっと彼女のそばにいた存在なのです。朝になれば声をかけ、仕事を手伝い、何か問題があれば助言する。父親が残してくれた最後の形見であり、幼い頃から変わらず千早を支え続けてきた、かけがえのない存在でした。
私は、そのことをよく知っています。
「……ジャーヴィス」
『はい、ヒマリ様』
「千早を見つけるまで、もう少しお付き合いいただけますか?」
『もちろんです。私もスターク様の帰還を望んでおります』
「ふふっ。それは心強いですね」
私は小さく頷きました。
「必ず、見つけましょうね」
『承知いたしました』
……そうです。
千早には、私もジャーヴィスもいるのです。
あの子がどこにいようと、必ず見つけ出してみせましょう。
何しろ、私たちが手を組んでいるのですから。
*
一ヶ月が経過しました。
その頃になると、私の周囲も少しずつ変わり始めていました。エイミは以前より頻繁に部室へ顔を出すようになり、食事を取ったか、睡眠は足りているかと尋ねてくるようになりました。
……まったく、困ったものですね。
どうやら、少々働きすぎていることに気づかれてしまったようです。
もっとも、判断力が鈍っているつもりはありません。解析の精度も、調査計画の合理性も、十分に確保しています。ただ、身体の方が少しばかり疲れているのは事実でした。
「……ヒマリ」
ある日の夕方、エイミが部室へ入ってきました。
「ごきげんよう、エイミ。今日はどうしました?」
「ご飯、食べた?」
「……おや?」
「昨日も食べてなかったよね」
「……なかなか鋭い観察力ですね」
「食べてないんだ」
エイミは呆れたように言い、私の前へ食事を置きました。
「食べて」
「……仕方ありませんね」
私は端末から手を離しました。
どうやら、千早が研究に夢中になっているときの私も、こんな気分だったのでしょうか。あの子には何度も注意してきました。食事をしなさい、睡眠を取りなさい、少しは身体を大切にしなさい、と。
……人のことを言えませんね。
温かいスープを口へ運びます。
美味しい。
そう思った瞬間、ふと考えてしまいました。
千早は、今頃何を食べているのでしょうか。
あの子は昔から、食事に無頓着なところがあります。研究に夢中になれば、平気で一日中何も食べないことさえありました。もし、誰もそばにいなかったら。もし、怪我をして動けなくなっていたら。
……。
スプーンを置きました。
「……ヒマリ?」
エイミが声をかけてきます。
「……どうしました?」
「食べないの?」
「……少し、考え事をしていただけです」
そう答えると、エイミは何も言わずに私の隣へ腰を下ろしました。
……本当に、優しい子ですね。
「……エイミ」
「何?」
「千早が帰ってきたら、たっぷりお説教をしてあげなければなりませんね」
「……そうだね」
「ええ。私をこれほど心配させたのですから。少なくとも、今後一ヶ月は無茶な研究を禁止するべきでしょう」
「……千早、怒りそう」
「ふふっ。当然でしょうね」
私は少しだけ笑いました。
あの子が生意気な口を利いてくれる。私の言葉に呆れ、面倒そうな顔をする。そんな日常が戻ってくるのなら、多少嫌われるくらい何でもありません。
……そう。
帰ってきたら、まずはお説教です。
それから、温かい食事を取らせて、ゆっくり休ませてあげましょう。
あの子はきっと嫌がるでしょうけれど。
たまには、先輩の言うことを聞いてもらわなければ困りますからね。
*
二ヶ月目に入ってから、捜索はさらに難航しました。
既に調べられる区域の大半は確認し、有力な情報もほとんど残されていません。新しい手掛かりが見つかっても、結局は関係のないものばかりでした。仮説を修正し、別の可能性を検討しても、最後には同じところへ戻ってきてしまうのです。
それでも、私は諦めませんでした。
諦める理由などありません。何しろ、千早が死亡したという証拠は、まだどこにも存在しないのですから。でしたら、捜し続ければいいだけの話です。
……ですが、最近は少しだけ、怖くなることがありました。
もし。
もし、あの子がもう、この世にいなかったら。
そんな考えが、頭をよぎることがあるのです。
実に不愉快な思考でした。
私は明星ヒマリ。根拠のない悲観に囚われ、冷静な判断を失うような人間ではありません。確定していない事実を、まるで決定事項であるかのように扱うなど、研究者としてあるまじき行為です。
それなのに、どうしてでしょう。
夜になると、あの日の千早の顔を思い出してしまうのです。
両親を亡くしたときの、あの顔。
小さな拳を握り締め、怒りと絶望を押し殺していた少女の姿。
……あのとき、私は何もできませんでした。
亡くなった人を取り戻すことも、あの子の悲しみを消すこともできなかった。ただ、そばにいることしかできなかったのです。
だからこそ、今度は助けたいと思っていました。
あの子がどこかで苦しんでいるのなら、私が見つけてあげたい。困っているのなら、手を差し伸べてあげたい。もう二度と、あんな顔をさせたくなかったのです。
……ですが。
もし、既に手遅れだったら。
その可能性を考えるたびに、胸の奥が冷たくなりました。
私は、自分の才能を疑っていません。
これほど優秀な頭脳を持っているのですから、いつか必ず答えに辿り着けるはずです。
ただ。
そのときまで、千早が待っていてくれるのか。
それだけが、怖かったのです。
*
ある日の夜、私はスターク・タワーを訪れました。
最上階の一室を借り、捜索記録の整理を続けていました。ジャーヴィスも協力してくれていましたが、まだ新しい手掛かりは見つかっていません。
窓の外には、ミレニアムの夜景が広がっています。高層ビルの照明、行き交う車両の光、遠くに見える巨大な広告映像。何もかも以前と変わらず、街は何事もなかったかのように動き続けていました。
……当然のことです。
誰か一人がいなくなったところで、世界そのものが止まるわけではありません。会社も学校も、街も、明日になればいつもどおりの朝を迎えるでしょう。
ですが、私にとっては違いました。
新しい技術を見つけても、真っ先に教えたい相手がいない。面白い研究成果を得ても、得意げに対抗してくる後輩がいない。くだらないことで言い争い、呆れたようにため息をつく、そんな当たり前の日常がなくなってしまったのです。
……寂しいものですね。
普段はあれほど騒がしいと思っていたのに、いなくなって初めて、その存在の大きさを思い知らされるのですから。
「……ジャーヴィス」
『はい、ヒマリ様』
「千早の新しい情報は、まだありませんか?」
『申し訳ございません。現時点では確認されておりません』
「……そうですか」
同じ返事でした。
昨日も、一昨日も、その前の日も。
何度も聞いてきた言葉です。
新しい情報が見つかれば、ジャーヴィスはすぐに知らせてくれるでしょう。そんなことは、私も分かっています。それなのに、どうしても聞かずにはいられませんでした。
「……ジャーヴィス」
『はい、ヒマリ様』
「あなたは、千早が帰ってくると思いますか?」
口に出してから、少しだけ後悔しました。
人工知能に尋ねても、統計的な推測や確率に基づく回答が返ってくるだけでしょう。そんなことは、聞くまでもありません。
ですが、今は誰かに答えてほしかったのです。
『スターク様の死亡を示す確定的な情報は、現在も得られておりません』
「……ええ。そうですね」
『したがって、私は引き続き捜索を継続いたします』
私は少しだけ笑いました。
「……あなたらしい答えですね」
『恐れ入ります』
「ですが、少し羨ましいです。あなたは、ずっと捜し続けられるのでしょう? 疲れることも、眠る必要もありませんから」
自分の手元へ目を向けます。指先が、少しだけ震えていました。長い捜索活動によって、身体には相当な疲労が蓄積しているのでしょう。元々丈夫な身体ではありませんから、無理を続ければ体調を崩してしまうこともあります。
……まったく。この身体の弱さばかりは、どうにもなりませんね。
『ヒマリ様』
「……はい?」
『スターク様は、以前からヒマリ様の健康を気にかけておられました』
「……そうでしたね」
『ご帰還された際、ヒマリ様が体調を崩されていたと知れば、きっとご心配なさるでしょう』
その言葉に、思わず笑ってしまいました。
千早なら、何と言うでしょう。
人には休めと言っておきながら、自分は何をしているのかしら。そんなふうに少し生意気な顔で笑うのでしょうか。きっと、私がどれほど心配していたかも知らず、偉そうに説教を始めるに違いありません。
……ああ。
目に浮かぶようですね。
「……分かりました。少し休憩することにしましょう」
『それがよろしいかと存じます』
私は端末を閉じました。
それから、窓の外へ目を向けます。
……千早。
あなたが帰ってきたら、私は何をしましょうか。
まずはお説教でしょうか。それとも、思い切り抱き締めてしまいましょうか。どちらにしても、きっと嫌がられてしまうでしょうね。あの子は昔から、素直に甘えることが苦手ですから。
ですが、構いません。
たまには、私のわがままを聞いていただきましょう。
何しろ、あなたは。
私の、大切な妹のような存在なのですから。
*
その日の深夜。
私は、千早の私室にいました。
特に理由があったわけではありません。ただ、何となく足が向いてしまったのです。
扉を開けると、以前と変わらない光景が広がりました。机の上には研究資料が積まれ、ソファには上着が置かれています。必要な掃除以外は行われていないため、千早が最後に部屋を使った日のままでした。
私は机の前へ車椅子を進め、あの写真立てを手に取りました。
幼い千早と、彼女の両親が写った写真。
……そういえば。
あの子が両親を亡くしてから、もう随分と時間が経ちましたね。
あの頃の千早は、まだ十歳でした。小さな身体で会社を引き継ぎ、大人たちに囲まれながら、必死に自分の居場所を守ろうとしていました。
どれほど辛くても、誰にも弱みを見せようとしない。
泣きたいはずなのに、怒っているような顔ばかりしている。
あの子のそんな姿が、今でも忘れられません。
「……千早」
名前を呼んでみました。
当然、返事はありません。
ですが、今日はどうしても、呼ばずにはいられませんでした。
「……どこにいるんですか」
声が、少しだけ震えました。
私は、写真の中の小さな少女を見つめました。
「……本当に、困った子ですね」
そう呟いて、小さく笑います。
ですが、その笑みは長く続きませんでした。
……会いたい。
ただ、会いたかったのです。
あの生意気な声が聞きたい。得意げに笑う顔が見たい。くだらないことで言い争い、呆れたようにため息をつきたい。そんな、何でもない日常へ戻りたかったのです。
私は、写真立てをそっと机へ戻しました。
そして、膝の上で両手を握り締めます。
……お願いですから。
もう一度、帰ってきてください。
怒っていても、泣いていても、どんな姿でも構いません。何か辛いことがあったのなら、私に話してください。どれほど難しい問題でも、一緒に考えてあげますから。
だから、どうか。
生きて、帰ってきてください。
……そのときでした。
『ヒマリ様』
ジャーヴィスの声が響きました。
「……何でしょう?」
『緊急通信を受信いたしました』
私は顔を上げました。
「……緊急通信?」
『はい。スターク・インダストリーズの専用認証回線からです』
心臓が、大きく跳ねました。
「……認証は?」
『現在、照合中です』
端末へ手を伸ばします。
ですが、指先がうまく動きませんでした。
……落ち着きなさい、明星ヒマリ。
まだ確定した情報ではありません。単なる誤報かもしれませんし、何者かが認証情報を偽装している可能性もあります。これまでにも、似たような情報に何度も期待を裏切られてきたのです。
今度こそ、冷静に判断しなければなりません。
私は端末へ視線を向け、認証処理の進行状況を確認しました。暗号化された信号が次々と照合され、画面に数値が表示されていきます。ほんの数秒のことでしたが、私には恐ろしく長く感じられました。
そして。
『……認証を確認いたしました』
ジャーヴィスの声が響きました。
『スターク様です』
……。
何を言われたのか、すぐには理解できませんでした。
「……え?」
『スターク様からの緊急通信を確認いたしました。ご本人の認証コードと一致しております』
「……ほ、本当に……?」
『はい、ヒマリ様。スターク様の生存を確認いたしました』
その言葉を聞いた瞬間、私は何も考えられなくなりました。
……生きている。
千早が、生きている。
あの子が。
帰ってくる。
「……そう、ですか……」
ようやく、それだけ答えました。
胸の奥から、何かが込み上げてきます。嬉しいはずなのに、うまく笑えませんでした。安心したはずなのに、目元から涙が零れてしまいます。
……まったく。
何ということでしょう。
この私が、たった一つの知らせでここまで取り乱してしまうなんて。
全知の天才美少女としては、少々情けない姿かもしれませんね。
ですが、今夜くらいは許されてもよいでしょう。
何しろ、この二ヶ月間。
私はずっと、あの子を待っていたのですから。
「……ジャーヴィス」
『はい、ヒマリ様』
「千早は、どこにいるのですか?」
『トリニティ郊外の山岳地帯です。現在、回収機を向かわせております』
「……怪我は?」
『詳細は確認中ですが、複数の負傷があるものと推測されます』
胸が締め付けられました。
無事ではなかったのです。
やはり、何かあったのでしょう。あの子が二ヶ月もの間、連絡を寄越さなかった理由があるのです。
ですが。
今は、それでも構いませんでした。
生きている。
帰ってきてくれる。
その事実だけで、十分でした。
「……ジャーヴィス。お願いがあります」
『何でしょうか、ヒマリ様』
「千早が帰ってきたら、すぐに私へ知らせてください。それから、医療班の準備もお願いします。怪我をしているのなら、まずは治療を優先しなければなりませんから」
『承知いたしました』
私はもう一度端末を確認しました。
画面には、回収機の現在位置が表示されていました。小さな光点が、ゆっくりとこちらへ近づいてきます。
……ああ。
ようやく。
ようやく、帰ってくるのですね。
私は、その小さな印をいつまでも眺めていました。
*
スターク・タワーの最上階で、私はエレベーターを待っていました。
時刻はすでに深夜を回っています。ですが、眠気など少しもありませんでした。膝の上の端末では、回収機から送られてきた情報が更新され続けています。呼吸、脈拍、機体の現在地。文字を読めば読むほど、もっと直接確かめたくなりました。
怪我をしている。ひどく疲弊している。胸には、何か未知の装置があるらしい。
そのどれもが、今はひどく恐ろしくて。
それでも、千早は生きていました。
ジャーヴィスは到着予定を伝え、医療班の準備が整っていると報告してくれました。私は「ありがとうございます」と答えたのですが、その直後に同じことをもう一度尋ねてしまいました。
『ヒマリ様。スターク様の到着予定に変更はございません』
「……おや。私としたことが、少々せっかちになってしまったようですね」
『お気持ちは理解いたします』
「まあ。人工知能に気遣われてしまうとは、いよいよ私の美少女としての威厳も考えものですね」
『スターク様は、ヒマリ様がいつもどおりでいらっしゃることを喜ばれるかと』
私は返事に詰まりました。
ジャーヴィスも、二ヶ月の間ずっと千早を捜していました。彼は私より早く、その声を聞いたのでしょう。ずるいですね、と冗談を言いかけてやめました。今は私も、少しだけこの喜びを分けてもらいましょう。
車椅子の操作盤へ触れると、指先に、幼い千早が作ってくれた補助装置の感触がありました。あのときの小さな金属部品は、幾度となく改良を繰り返した今も、機構の一部として残しています。
もっと優秀な部品はいくらでもあるのでしょう。ですが、取り外すつもりはありません。
十歳の千早が「出ていけ」と叫んだ日のことを思い出します。あの子は、あれほど必死に自分の居場所を守ろうとしていました。その子が二ヶ月もの間、どこか知らない場所に閉じ込められていたのです。
……今度は、何を失ったのでしょう。
どんな思いをして、ここまで帰ってきたのでしょう。
考えようとすると、喉の奥が苦しくなりました。
私は窓に映った自分を見ました。髪は少し乱れ、顔色もよろしくありません。華麗にして優雅、ミレニアムに咲く一輪の高嶺の花としては、なかなか不本意なお姿です。
ですが、今夜くらいは仕方ありませんね。
到着を知らせる電子音が響きました。
ああ。
ようやく。
私は姿勢を正し、いつものように微笑もうとしました。出迎えの言葉なら、先ほどから何度も考えています。二ヶ月も連絡をしなかったことを叱り、食事と睡眠について説教し、最後には約束の紅茶を要求してやるのです。
そうすれば千早は、きっと生意気な顔をして「注文が多いわね」と言うでしょう。
扉が開きました。
そこにいたのは、ずっと捜していた小さな少女でした。
汚れた服。傷だらけの手。二ヶ月前よりも痩せた頬。何より、今にも倒れてしまいそうな身体を、意地だけで立たせているように見えました。
それでも、私はすぐに分かりました。
千早です。
いつも自信満々で、褒められたくないふりをして、誰かに甘える方法だけはいつまで経っても覚えられない、私の大切な後輩。
会いたかった。
……ああ、もう。
なんということでしょう。
全知の天才美少女が、たった一人の後輩を前に、用意した台詞を一つ残らず忘れてしまうなんて。
千早の口が動きました。
「……ヒマリ?」
その声を聞いた途端、胸の奥に溜め込んでいた二ヶ月分の不安が、形を変えて押し寄せてきました。
今度は、あの子から「出ていけ」とは言われませんでした。
私を見つけた千早が、ほんのわずか、安堵したように見えたのです。
それだけで、よかった。
たとえまた怒鳴られても、嫌がられても、何度だってここにいるつもりでした。ですが、あの子の帰る場所の一つに、今も私が含まれているのだと思うと、もう何も言えませんでした。
……お帰りなさい、千早。
その言葉は、まだ声になりません。
今はただ、手を伸ばしたかったのです。
とりあえず書きたいところをかけて一旦満足してます。完結には遠いですが…まだまだ全然続けていくのでよろしくお願いします!
また、作者は大変ちょろいので、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると、嬉しくなって執筆意欲が爆上がりします。
面白いと思っていただけたら、ぜひよろしくお願いします!