透き通る世界のアイアンマン(偽物) 作:マーベルにハマった人
どれほどの時間が経ったのだろう。最初に感じたのは、冷たさだった。背中に触れる硬い寝台、肌を撫でる湿った空気、消毒液に混じった鉄の臭い。遠くでは何かの機械が低く唸っている。規則正しいはずの音が妙に耳障りで、意識を取り戻したばかりの頭にいつまでも残り続けた。目を開けると、見覚えのない天井があった。配管がむき出しになり、照明器具の一つは明滅している。スターク・タワーの医療室ではない。そもそも、うちの設備なら配線をここまで乱雑に放置すること自体あり得ない。身体を起こそうとして、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
「……っ、あ……!」
声にならない息が漏れ、寝台へ倒れ込む。何かが内側から胸を引き裂いているようだった。呼吸をするたびに傷が引き攣れ、肺を膨らませることすら怖い。痛みが引くのを待ちながら、記憶を辿る。トリニティ郊外の倉庫、四機の護衛ドローン、制御系統へ入り込んできた異常信号。そして、私のすぐ近くで起きた爆発。そうだ。胸を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。その後は……何も覚えていない。
「……動くな」
低い声がした。首を少し動かすと、部屋の隅に武装した少女が立っている。灰色の髪に鋭い眼差し、顔の一部を覆う仮面。使い込まれた銃を肩から提げ、こちらの動きを注意深く観察していた。山中で見た連中と同じ系統の装備だ。少なくとも救助隊ではないらしい。
「無理に起きれば傷口が開く。今は横になっていろ」
「……あなた、誰……?」
「錠前サオリ。お前の監視を任されている」
「監視……? 病院じゃないの?」
「違う」
実に簡潔な回答だった。これだけ無駄な言葉を省けるなら、我が社の会議に何人か分けてほしいくらいだ。とはいえ、今は冗談を言っている余裕もなかった。胸に感じる異物感が、どうしても気になる。
「……何を、されたの……?」
「お前は爆発で重傷を負った。胸に入った金属片が、心臓の近くに残っている」
「金属片……?」
「取り除くには危険が大きい。だから、電磁石を使って位置を固定している。動かさないようにしているんだ」
数秒、意味が理解できなかった。恐る恐る病衣の胸元へ手を伸ばす。指先に触れたのは、皮膚ではなく冷たい金属だった。胸骨の中央付近へ固定された無骨な装置。そこから太いコードが伸び、寝台の脇に置かれた大型バッテリーへ繋がっている。溶接痕は荒く、絶縁処理も頼りない。私の研究室なら、試作品の段階でさえ不合格にするだろう。
だが、造りが粗雑であることよりも深刻な問題があった。装置が立てる低い駆動音は、私の呼吸と無関係に続いている。電磁石で金属片を引き留め、心臓を損傷させないよう維持しているのだとしたら、電源が切れた瞬間に何が起きるかは明白だった。
「……このバッテリーが止まったら?」
「固定している金属片が動く。心臓を傷つける可能性がある」
「……それで?」
「死ぬかもしれない」
ひどく事務的な説明だった。サオリは脅しているわけでも、私を動揺させようとしているわけでもない。ただ事実を伝えているだけ。だからこそ、その言葉は逃げ場のないものとして胸に沈んだ。外部電源に頼る生命維持装置。しかも、電池の残量も供給の安定性も信用できない。この手の装置には通常、冗長化した電源系統や異常時の切り替え機構が必要だ。ところが目の前にあるのは、外れかけた端子を補修した痕と、冷却不足を隠すような無理な配線だけ。どう見ても、急ごしらえで作った代物だった。
その危うさを、理解できてしまう。専門知識がなければ『助けてもらえた』で済む話なのだろう。けれど私は、電圧の揺らぎが磁力にどれほど影響するかも、発熱が制御素子をどれほど傷めるかも分かってしまう。分かるからこそ、怖かった。よりによって、こんな粗末な装置が私の命を支えている。
「……最悪の冗談ね」
「生きているだけでも幸運だった。しばらくは安静にしていろ」
「それを決めるのは……私よ」
強がってみたものの、起き上がることすらできない人間の台詞としては少々情けない。サオリも言い返してこなかった。恐らく、無理をする元気がないと見抜かれているのだろう。
「……ジャーヴィス」
反射的に名前を呼んだ。普段なら、どれほどくだらない用件でも返事がある。朝の予定を聞いたときも、研究データを要求したときも、ヒマリから届いた生活改善計画書を読み上げさせようとしたときも。だが今は、胸の機械の駆動音が返ってくるばかりだった。
「ジャーヴィス、聞こえているなら返事をして」
「通信機器はすべて没収した。外部への連絡は認められない」
「……そう。徹底してるのね」
何かを言い返そうとして、諦めた。ジャーヴィスがいなければ研究設備への遠隔接続も、会社のセキュリティシステムへの連絡もできない。ここがどこなのかさえ分からず、しかも胸の装置を外せば死ぬ。少なくとも現時点で、いつものように資金と技術を総動員して解決することは不可能だった。
周囲の様子を確認する。部屋の奥には軍需コンテナが積まれており、側面には『STARK INDUSTRIES』のロゴが刻まれている。見慣れた会社名だったが、驚きはなかった。山中で既に我が社の兵器が敵の手に渡っていることは確認している。ここに同じものが並んでいたところで、横流しの規模が予想より大きかったというだけだ。
ただし、開いたままの一箱には見過ごせないものが入っていた。最新型誘導弾の制御ユニット、その隣にある銀色の小さな基板。見覚えのある配線配置だった。いや、見覚えがあるどころではない。その基板は、私が研究施設で何度も動作試験を重ねた未公開の試作品だった。
「……ちょっと待って」
痛む胸を押さえながら、もう一度確かめる。端子の形状、試験段階で付けた刻印、正式採用前の配線。間違いない。次世代ドローンの制御ユニット。量産も販売もしていないし、研究部門の限られた担当者にしか触らせていないものだ。カイザーに納入した記録など、存在するはずがない。
「……どうして、それがここにあるのよ」
「何のことだ?」
「その基板。そこの銀色の、角に番号があるやつよ」
サオリは一瞬そちらを確認したが、特に反応を示さなかった。彼女にとっては数ある部品の一つなのだろう。けれど、私には違う。完成品の横流しであれば、契約違反をした取引先を追及すればいい。研究施設から試作品が出ているとなれば、問題は会社の内側へ及ぶ。
内部関係者が持ち出したのか。研究施設へ侵入されたのか。流通経路の途中で設計情報ごと奪われたのか。今の段階で断定はできないが、一つだけ気になることがあった。この基板に使われている制御方式は、私の護衛ドローンと設計思想を共有している。認証の仕組みも、異常時に優先させる安全回路も、少なからず共通点があった。あの山中で、敵はドローンの弱点を正確に突いてきた。これは、その理由を説明する手掛かりかもしれない。
「……なるほど。単に売った兵器を流されたわけじゃないのね」
怒りで身体が熱くなる。スターク・インダストリーズの研究施設には何重もの保護機構を設けているし、ジャーヴィスも常に異常を監視している。それでも、こうして試作品が敵の手に渡ったということは、私の知らない穴がどこかにあったのだろう。発見できなかったことも、利用されたことも、腹立たしい。
だが、そこで考えを止めた。今できるのは推測だけだ。証拠も通信手段もなく、会社の内部を調べることなどできない。そのうえ、勢いよく身体を起こそうとすれば胸が悲鳴を上げる。知りたいことが山ほどあるのに、寝台から動けないという事実が、改めて屈辱だった。そんな折、部屋の奥に置かれた端末が起動した。空間に赤い光が広がり、人影を形作る。異様な衣装と芝居がかった仕草。山中で私を取り囲んでいた女の顔が、ホログラム越しに現れた。
『フフフっ……お目覚めですか、チハヤ・スターク』
「……ベアトリーチェ」
『随分と顔色が悪いですね。ですが、ご安心を。あなたは無事に生き延びたのですから』
「誘拐犯にそんなことを言われても、感動できないわ。それより、我が社の試作品をどこから手に入れたの?」
『おや。ご自身の身体よりも、そちらの方が気になりますか』
「質問に答えなさい」
ベアトリーチェは楽しそうに笑い、曖昧な言葉で話を逸らした。正規の取引で手に入らないものもあるだの、優れた技術が眠るのは惜しいだの。盗んだと明言こそしないが、関与していることを否定する気もないらしい。黙って聞いていれば、こちらの神経を逆撫ですることしか言わない。
『あなたの才能には、以前から注目していたのですよ。スターク・インダストリーズの若き社長。あれほどの頭脳を、ただ利益のために使うのはもったいない』
「お説教なら間に合ってるわ。私には優秀で口うるさい先輩がいるもの」
『くくくっ……ならば、話は早い。私のために新しい兵器を開発していただきましょう』
「お断りよ」
『まだ条件をお話ししておりませんが?』
「誘拐して閉じ込めておいて、条件の交渉? 笑わせないで。私を誰だと思ってるのよ」
強気な言葉を返すと、ベアトリーチェは少しも動じなかった。むしろ、その反応を待っていたかのように笑みを深める。
『ええ。もちろん知っていますとも。チハヤ・スターク。素晴らしい才能に恵まれた、実に傲慢な子供です』
「……何が言いたいの?」
『残念ながら、今のあなたには選択肢がありません』
女の背後に制御画面が現れた。そこには胸の生命維持装置と同じ型式の回路図、電圧と磁場強度の表示、そして遠隔操作用の項目が並んでいる。嫌な予感が、ほとんど答えに変わった。
「……まさか、あなたが操作できるの?」
『理解が早くて助かります。あなたに協力していただく限り、装置は問題なく動作するでしょう。しかし、もし逃亡や抵抗を企てた場合は……』
ベアトリーチェの指が、画面の一部へ触れた。直後、胸の奥で何かがずれた。
「――っ、あああぁっ!?」
身体が反射的に跳ね、寝台の縁へ手を伸ばした。内側から心臓を鷲掴みにされたような痛み。息を吸っても肺が膨らまない。視界の端が白く滲み、耳鳴りが高くなる。身体が異常を知らせているのは分かるのに、どこを動かせば痛みが止まるのかも分からない。制御画面が示したのは、電磁石の出力低下だった。金属片を押さえつける力が弱まり、心臓に近づいたのだろう。そんなことは理解できる。理解できても、何もできない。普段なら制御プログラムを書き換え、異常の原因を断つところだ。だが今は、端末に触れることさえできない。
「……っ、やめ……!」
『ふふ……なるほど。天才にも、どうにもならないことがあるのですね』
死ぬ。その言葉だけが頭の中に浮かんだ。ついさっきまで、ベアトリーチェを出し抜く方法を考えていたはずなのに、今は次の一呼吸をどう確保するかで精一杯だった。会社も財産も研究成果も、何一つ助けてくれない。私の心臓は、あの女の指先一つに握られている。
「ベアトリーチェ様」
サオリの声が響いた。
「これ以上は危険です。まだ傷が塞がっていません」
『おや、そうでしたね。貴重な研究者を失っては困ります』
ベアトリーチェが端末へ触れると、機械の駆動音が元の高さへ戻った。激しく咳き込みながら空気を吸い込む。胸の痛みはすぐには消えなかったが、少なくとも今は呼吸ができる。その事実に心底安堵してしまったことが、悔しかった。
『ご理解いただけましたか? あなたには十分な設備と材料を用意しましょう。代わりに、その頭脳を私のために使っていただきます』
「……おまえ……」
『何でしょう?』
「……いつか、絶対に後悔させてやる……」
『ふふ…楽しみにしていますよ。それまでは、どうかお元気で』
通信が切れ、赤い光が消えた。部屋には機械の駆動音だけが残った。規則正しいはずのその音を、さっきまでとはまったく違う気持ちで聞いていた。一秒ごとに心臓が動いていることがありがたい。けれど、そのありがたさの代償として、命の所有者が別の人間になってしまったように思える。私は、そんなものを絶対に認めたくなかった。
「……水を持ってくる」
サオリが部屋を出たあとも、しばらく身体の震えは止まらなかった。腕を動かすたび、胸のどこかで小さな異物が動くのではないかと考えてしまう。普段なら笑い飛ばすような不安に、心臓が勝手に反応する。頭では装置が正常に戻ったと分かっていても、身体は信用してくれないらしい。
悔しかった。あの山中で何一つ守れず、今は自分の命すら好きにできない。しかも、その原因の一つが自分の作った技術だった。横流しされることも、解析されることも想定していたつもりだった。だが『自分の兵器が自分を殺しに来る』という可能性を、本気で考えたことはなかったのかもしれない。
ヒマリの言葉を思い出す。『その兵器を持つ者が、必ずしも理性的とは限らない』。あのときは、使う人間の責任だと言い返した。今でも、製造者がすべての犯罪を背負うべきだとは思わない。ただ、兵器の威力だけを誇り、その行き先や弱点をどこまで把握できていたかと問われれば、胸を張って答えられるだろうか。
「……ほんと、馬鹿みたい」
後悔するには、まだ早い。今さら自分が悪かったと嘆いても、ベアトリーチェが装置を外してくれるわけではない。必要なのは、失敗の理由を理解し、次の手を考えることだ。技術者が失敗すること自体は珍しくない。失敗から何も学ばず、同じ間違いを繰り返す方がよほど愚かだろう。
「……待たせた」
サオリが水の入った金属製のコップを持って戻ってきた。起き上がろうとすると、胸の痛みがぶり返す。彼女は何も言わずに背中へ腕を回し、身体を支えながら寝台の角度を調整してくれた。武器を扱うときのように手際がよく、痛む箇所を避ける動作にも迷いがない。
「……意外と親切なのね」
「任務だ。お前に死なれては困る」
「はいはい。感動的な理由をどうも」
コップを受け取り、水を少しずつ飲む。単なる水が、スターク・タワーで飲む高価な紅茶よりもありがたく感じられた。いよいよ私の舌も安上がりになったらしい。もっとも、こんな経験を二度と繰り返すつもりはない。
「ねえ、サオリ。ここはどこ?」
「答えられない」
「トリニティ郊外の山中?」
「答えられない」
「アリウス分校の施設?」
サオリの手が、ごくわずかに止まった。すぐに元の無表情へ戻ったものの、今の反応だけで十分だった。
「……なるほど。そういうこと」
「私は何も答えていない」
「ええ、もちろん。優秀な監視役ね」
アリウス分校。トリニティとゲヘナの歴史に関わりながら、現在ではほとんど情報が途絶えている学園だ。スターク・インダストリーズの情報網にも断片的な記録しかない。ここが本当にアリウスの施設なら、表に出ない理由が何かあるのだろう。とはいえ、いま知りたいのは学校史ではない。この施設の出入口、警備、備蓄、そして加工設備の有無だ。部屋の奥に並ぶ軍需コンテナを示す。
「あなたたち、あれだけの兵器を使うつもりなの?」
「必要なら使う」
「だったら整備工場もあるわよね。兵器は倉庫に放置しておけば勝手に動くものじゃないもの」
「……あるが、それがどうした」
「別に。仕事をする場所がありそうで安心しただけ」
サオリは怪訝そうな顔をしたが、質問の意図までは追及しなかった。こちらとしては都合がいい。兵器がある。整備工場がある。電源も工具もある。何もないところから一式の設備を作る必要がないのなら、話はずっと簡単になる。
「……ベアトリーチェに伝えてくれる?」
「何をだ」
「兵器開発を引き受けるって」
「……さっきは拒否していたはずだ」
「気が変わったのよ。何度も心臓を弄ばれる趣味はないもの」
サオリは少し考えてから、短く頷いた。
「ただし、条件があるわ。精密加工機、測定器、工具、材料、電源設備。用途をいちいち聞かれたら研究が進まないから、部品の調達もある程度は自由にさせてほしい。それと、この生命維持装置の調整も」
「最後の条件は許可できない。お前が壊せば死ぬ」
「だからこそよ。見て分からない? 冷却も電源系統も頼りない。研究中に止まったら、あなたたちも困るでしょう」
「……自分で修理できるのか?」
「誰に聞いてるのよ。私はチハヤ・スタークよ? こんなもの、私が設計したら出荷検査にすら通らないわ」
これは半分だけ本音だった。故障しやすい装置であることは事実だし、少し手を入れれば安定性を高められるだろう。だが目的は改良ではない。あの女に電源を握られている限り、いつかまた同じ脅しを受ける。遠隔操作の権限を奪うだけでは不十分だ。内部に細工が残っていれば、いつでも命を握り直されてしまう。必要なのは、ベアトリーチェの装置から完全に独立した電源。外から停止命令を送られても、自分の意思で動き続けるものだった。
「……確認しておく」
「お願い。あなたにとっても、私が死んだら困るんでしょう?」
「そうだ」
「だったら交渉成立ね」
サオリが出ていく。私はコップを置き、頭の中で必要な設備を書き出した。まずは胸の装置を解析する。その次に、供給電力と磁場強度の関係を調べる。最後に電源を交換する方法を検討する。簡単な仕事ではない。だが、一つひとつに分解すれば、解決すべき問題は明確になる。自分の命に関わる研究を他人へ任せるつもりなど、最初からなかった。
しばらくして、サオリが三人の少女を連れて戻ってきた。一人は腕に包帯を巻いた、気怠げな少女。もう一人は大きな荷物を背負い、こちらの顔を見るだけで慌てている少女。最後の一人はガスマスクを着けた小柄な少女だった。全員が武装している点は共通しているが、同じ部隊に所属しているとは思えないほど雰囲気が違う。
「紹介する。私たちはアリウススクワッドだ。ミサキ、ヒヨリ、アツコ。今後、お前の監視と護衛を分担する」
「監視と護衛。誘拐した側にとっては便利な言葉ね」
「お前が逃げようとしなければ危害は加えない」
「その言い方、あの女に教わったの? あまり営業向きじゃないわね」
サオリが何か言い返す前に、壁際の少女が口を開いた。
「……うるさい人」
「聞こえてるわよ」
「……聞こえるように言ったの」
「いい性格ね。あなたがミサキ?」
「……だったら何」
「別に。こちらも無愛想さなら負けてないって思っただけ」
ミサキは面倒そうに黙り込んだ。愛想というものを徹底的に省いた人間らしい。こちらとしても、誰かと友達になりたくてこの場所へ来たわけではない。敵意がないなら、それで十分だ。その隣で、荷物を背負った少女があからさまに青ざめていた。私の胸に繋がれた装置を見ているらしい。
「ひっ……! あ、あの……痛くないんですか? すごく痛そうで……」
「痛くないように見える?」
「ひぃっ! す、すみません! 私なんかが余計なことを……!」
「怒ってないわよ。むしろ、あなたの心配は正しいの。今のところ、結構痛いから」
「そ、そうですよね……。本当にすみません……」
何だか申し訳ない気分になってきた。目が合うだけで謝る人間など、スターク・インダストリーズの役員会には一人もいない。あそこは責任を取らない技術だけが異常に発達した場所だ。本人に言ったところで通じないだろうけれど。
「ヒヨリ。落ち着け」
「は、はい、サオリ姉さん……」
サオリの注意に、ヒヨリと呼ばれた少女はさらに小さくなった。一方で、ガスマスクの少女は静かに寝台の側へ近づいてきた。装置を興味深そうに見ているが、触れようとはしない。
「……あなたがアツコ?」
「うん」
「これが気になるの? 大したものじゃないわよ。電源が止まったら私が死ぬ、最悪の機械なんだから」
アツコは装置と私を交互に見て、少しだけ首を傾げた。
「……痛い?」
「……ええ。かなりね」
「そう……」
彼女はそれ以上聞かなかった。ただ、寝台の脇へ椅子を運んで座り、しばらく様子を見ていた。監視役として私から目を離さないのか、それとも単純に怪我を心配しているのか。判断に迷ったが、少なくともあのベアトリーチェと同じ目をしていないことだけは分かった。
「……ありがとう」
自分で言ってから、少し驚いた。別に助けてもらったわけではないのに、何となく口から出てしまったのだ。アツコは短く頷き、それ以上何も言わなかった。四人とも、あの女の手下であることには変わりない。だが、同じ人間ではないのかもしれない。少なくとも、今すぐ全員を同じ敵として扱うのは早計だろう。
*
夕食は、薄いスープと硬いパン、それから少量の野菜だった。スターク・タワーの社員食堂にこんなものが出てきたら、設備担当が翌朝には私の呼び出しを受けているだろう。もっとも、今は文句を言うだけの元気もない。スープの温度があるだけありがたいと思える程度には、身体が弱っていた。
「……これ、いつも食べてるの?」
「え、えっと……今日はまだ、いい方です……」
ヒヨリの返事に、思わずスープを見下ろした。これがいい方? 食事の予算を削るにも限度があるだろう。ベアトリーチェは兵器の仕入れには惜しみなく金を使うくせに、部下にまともな食事を与える気はないらしい。何とも分かりやすい経営方針だ。ふと、朝食をコーヒーだけで済ませたときのヒマリの顔が浮かんだ。社員の食生活には気を配るくせに、自分の食事には無頓着だと何度も怒られたものだ。今なら、彼女の言い分も少しは理解できる。食べるという行為が、こんなにも体力を使うものだとは思わなかった。……ヒマリは、今頃どうしているのだろう。
いつもなら私に小言を言いに来て、資料を広げながら研究の話をしている時間だ。だが、私は帰っていない。最初は予定が長引いた程度だと思っていたとしても、ジャーヴィスが沈黙した時点で異変には気づくはずだ。彼女なら、きっと私の足取りを追っている。勝手にスターク・インダストリーズへ押しかけて、役員たちを質問攻めにしているかもしれない。想像すると、少しだけ笑えた。あの連中もお気の毒に。私と違ってヒマリの相手に慣れていない役員など、三分もあれば言い負かされるだろう。
「……チハヤ?」
サオリの声で現実へ引き戻された。
「食べないのか」
「食べるわよ。ちょっと、味について考えてただけ」
「……そうか」
「安心して。食事の改善要求は、研究室の設備が揃ってからにするわ」
サオリは冗談を理解したのかどうか分からない顔をした。まあいい。今は最低限、身体を回復させなければならない。逃げるための装置を作るにも、作業場まで歩けるだけの体力が必要だ。ここで意地を張って食事を拒否するような間抜けにはなりたくなかった。
「そういえば、明日から仕事を始められるの?」
「ベアトリーチェ様の許可が出た。設備を確認させる。ただし監視は付く。妙なものを作ろうとしたら中止させる」
「構わないわ。見られて困るようなものは作らないもの」
もちろん、本心ではない。正確に言えば、見られても本当の用途を理解できないものを作るつもりだった。新兵器の開発であれば、電源装置、冷却機構、制御基板、各種の加工設備が必要になる。その中に別の目的のための研究を混ぜ込んでも、専門知識のない監視役には区別しづらいだろう。
とはいえ、ベアトリーチェを甘く見るべきではない。あの女の背後には、私の会社の非公開技術を持ち出せる何者かがいる。監視役の少女たちが仕組みを理解できなくても、誰かが詳細を調べれば怪しまれる可能性はある。だからこそ、嘘の研究ではなく、実際に動作するものを作る必要があった。兵器にも応用できるが、最初の用途だけは別。そんな技術を選べばいい。
胸の装置から、規則正しい駆動音が聞こえてくる。これが止まれば死ぬ。ならば、止められない装置を作るしかない。大型バッテリーの交換だけでは解決しないし、遠隔操作権限を奪っても別の妨害経路を作られれば終わりだ。電源系統そのものを、私の支配下へ置かなければ意味がない。
必要なのは小型で、高出力で、長時間安定する独立したエネルギー炉。従来の電池とは比較にならないエネルギー密度を持ち、外部からの充電や制御に依存しないもの。大げさな構想に聞こえるだろうが、理論の出発点なら知っている。父が残した古い研究資料に、似た発想を見たことがあった。
大型の反応炉を、持ち運べるほど小さくする。これまでの技術では採算も安定性も問題になったが、だからといって不可能と証明されたわけではない。材料、反応の制御、発熱の処理。それぞれの問題に解決策を与えれば、計算上は成立するはずだ。もちろん、スターク・タワーの研究室でも簡単にはできないだろう。ましてや、ここは敵の地下施設だ。使えるものは限られ、作業には監視が付く。胸には爆弾同然の生命維持装置があり、長時間動くことさえ難しい。それでも、何もしないままベアトリーチェの機嫌を窺って生きるよりはずっといい。
「……ふふっ」
「……何がおかしい?」
「別に。少し、仕事が楽しみになってきただけよ」
サオリが訝しげにこちらを見た。人質が笑いながら研究の予定を立てているのだから、変な光景に見えるのも無理はない。だが、頭の中で組み立て始めた計算だけは、久しぶりに私を落ち着かせてくれた。難しい問題なら、解けばいい。失敗したら原因を確かめ、もう一度試せばいい。そのための頭脳だけは、誰にも奪われていないのだから。
ふと、ヒマリとの約束を思い出す。帰ったらお茶を飲んで、ちゃんと食事を取って、十分に眠る。何でもない日常の話だ。あのときの私は、あまりに簡単な約束だから気軽に頷いた。今では、その当たり前の日常がどれほど遠い場所にあるのか、嫌というほど理解している。
「……待ってなさいよ、ヒマリ」
誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「絶対に、帰るから」
サオリたちの目を盗みながら、寝台の脇に置かれた紙へ計算式を書き始める。必要な出力、磁場の強度、電力変換の効率、反応を安定させる条件。考えることは山ほどある。ひとつでも間違えれば、自分の心臓を守るために作った装置で命を落とすことになるだろう。だが、それなら間違えなければいい。チハヤ・スタークの頭脳を使って、自分の命を自分の手に取り戻す。それが、今の私に残された唯一の仕事だった。夜の区別すらつかない地下室で、まだ名前のない小さなエネルギー炉の設計が始まった。
お気に入り登録、評価、ありがとうございます。大変励みになります!