一碗喉吻润
扉が開かれたことにより、部屋に漂っていた白檀の香烟がはっと騒いだ。煙の奥の扉、その扉のさらに奥に人影が立っているのを部屋の主である女は目を細めて眺めた。読みかけていた本に象牙のブックマークを挟み、部屋へ入ってきた男たちの方へ体を向き直す。一人は良く知った男で、一人は見たこともない男だった。前者は高齢で、後者は幼齢だった。襟のよれたブカブカのTシャツに半端な丈のズボンだけが痩せこけた体にかろうじて引っ掛かっている幼齢の男は、仕立ての良いオーダースーツに身を包んだ高齢の男のこれもまた老いに蝕まれて痩せた手に肩を抱かれ女の前まで連れてこられた。
「新入りだ。面倒を見てやってくれるか」
「はい」
「新入り」と呼ばれた少年だけを部屋に残し、高齢の男はすぐに部屋を去った。高齢の男と入れ替わるように、今度は壮年の男が一人部屋に入る。入ってきた男は去る男からいくつか耳打ちをされ声もなくうなずいた後は、閉じた扉の横に立って動かなくなった。
「こんにちは」
扉の近くで棒立ちになっている壮年の男と同様に、身動きひとつしない少年に近づいて女は挨拶をする。少年は俯いたままで、女の方を見るどころか、初めて入った部屋の様子を伺う様子さえない。部屋に敷かれたペルシャ絨毯の模様を数えているとでもいうように、頑なに目線をあげなかった。もちろん、挨拶への返事はない。
「お名前は?」
「……」
「ふふふ。名前、ないの?」
俯く少年の顔を見ようと、女は指先で少年の前髪をかき分けた。動揺で震えた瞳が女の瞳に一瞬重なるも、すぐに焦点を失う。必要以上に驚かせてしまったことを詫びるように、女はそっと少年の前髪を元の位置に戻し、その上から軽く額を撫でた。まばらな前髪の裾から自身の額を撫でた女の様子をうかがう視線が持ち上がるが、女はあえて気がつかないフリをし、扉の近くに立つ男へ声をかけた。
「ねぇ、この子、なんて呼んでるの?」
「申し訳ありません。一言も話しませんで、私どもも分からず」
「ふぅん」
微動だにせず男は返事をする。満足な答えが返ってこなかったにもかかわらず、怒ることも残念がることもしない女は、この名無しの少年を改めて眺める。値踏みするような眼差しが自分の体を這い、少年は居心地悪そうに筋肉を強ばらせた。
「あの人に名前つけられちゃう前に、私がつけちゃおうかな」
「勝手なことをすると怒られますよ」
身動きもせずに扉の番をつとめている男が、ちらりと女を見た。そんな視線などかまいなしに女は少年の手を取り、自分の座るソファの隣へ座るよう促した。少年は素直に従い、ボーモント&フレッチャーのソファに浅く腰掛ける。ソファはその体重を受け止め、張地のベロアが柔らかく歪んだ。ベロア生地のようになめらかで光沢のある女の唇が、やはり柔らかく歪む。微笑んだ。少年は踏みつけられてさらに美しく陰影を刻むベロア生地と同じ種類のそれを直視できず、しかし目を離せず、さらに言葉をつぐそこを前髪の隙間から覗き見ていた。
「怒られないよ。あの人は、私のこと、怒れないもの」
ね、そうでしょう。先ほどここへやってきたばかりの何も知らない少年を共犯相手に、女はいたずらぽく笑って見せた。忠告を聞き入れられなかった扉番の男は、鼻息だけで軽くため息をつく。
「ボスに怒られるのは私です」
「そうね。ごめんね、いつも」
女のいう「あの人」とは、先ほど少年を連れてきた高齢の男性だ。扉番のいうところの「ボス」である。こうして女が好きに振る舞って、その言動に困らされたボスの怒りの矛先は直属の部下である、現在は扉番に徹しているこの男に向けられるのが常だった。表向きは秘書として働くボスの右腕の男は、女の気ままな様子にそれ以上何かを言うのをやめ、女からの口だけの謝罪に対し顎を引いた。うなだれているようだった。
「えぇっと。そうだなぁ、何か好きなものはある?」
「……」
女と直立不動の扉番の男、先ほど部屋を去ったボスと呼ばれる男、彼らの力関係の中に放り込まれた少年は、今後この勢力図のどこに名を連ねることになるのか。その連ねる名前が、彼にはまだなかった。女は少年の命名に名乗りをあげる。ボスから少年の面倒を見るようおおせつかったのだから、当然その権利があると自負してのことだった。
「この子、何か食べた?」
「いえ。出したものは何も手をつけず。お茶だけ少し飲んだようです」
「そう。賢い子」
お茶、ね。女は立ち上がり次の間に姿を消した。数分間、微動だにしない男が二人、女好みの香が漂う部屋に取り残される。そのうちに陶器がぶつかり合う細やかで固い音を響かせた女が戻ってくる。女が持ってきたのは茶器の乗った盆だった。再び少年に並んでソファに腰を下ろした女は、ゆったりと蓋碗に湯を注ぐ。茶盤へ湯を捨て、茶葉をひと匙。少年は茶器を乗せてきた漆塗りの盆に茶を淹れる女の姿が写りこんでいるのをぼんやりと眺めていた。
「では、あなたはお茶が好き。ルーユィと呼ぼうね」
少年はおずおずと蓋碗に手を伸ばす。蓋を少しずらすと、茶葉の甘い香りが脳を蹴った。