港に捧ぐ茶詩   作:リネン_

10 / 10
バーレルセル・オン・ザ・エスケープエキスプレス

 ホテル最上階にあるレストランの個室は眺望が優れていた。出入口扉以外の壁面には窓がはまっており、海、港、街が眼下に広がっている。三角形に近い特殊な平面を持つホテルならではの眺めである。ちょうど日が沈む時間帯、海も街も赤く燃え、天は寒々と墨がかり、星が煌めくには早くとも、足元では電飾が瞬き始めていた。美しい夕景だ。しかしこの景色を楽しむ者はこの部屋にはいなかった。円卓に着座している男たちも、扉の脇に狛犬のように控える男たちも、誰とも目を合わさず流れるようにワインを注いで回る給仕も、誰も、窓の外の景色について言及するどころか、視線を投げかけようともしない。ほとんど全ての料理が個別に取り分けられるため役を失った回転テーブルのガラス天板だけが、男たちの影と共に刻々と表情を変える黄昏の空を写していた。

 

 円卓に列する一人が口を開く。今回の会食のホストだ。本日はお集まりいただきありがとうございます。月並みな言葉から始め、順に列席者を紹介していく。最後に紹介された蘇枋まで挨拶が済むと、グラスを掲げカンペイとなる。蘇枋は中国葡萄酒を口に近づけるも香りを吸い込むだけでグラスを置く。酒の経験はないことはないが、未成年の日本人として暮らしている以上、飲酒という瑕疵をビジネス相手の目の前でさらすことは憚られるのであった。その様子を隣の男がチラリと見た。乾杯の儀式を全うしなかったことを非難するような、港湾を取り仕切るには若すぎる男の失態を目撃できなかったことを惜しむような目配せともとれたが、蘇枋はそのあからさまな挙動を黙殺し微笑むばかりであった。小さなやりとりではあったが、これは円卓の男たちにとって、うら若いミスター・スー二世をどこか軽んじていた自分自身を嗜められたようにも感ぜられ、場の空気に流されるどころか誰よりも閑雅に振る舞う蘇枋に一目置くことこそが己の器の大きさを示す尺度なのではないかとさえ思わせるのだった。

 

 開発地区、移民地区、港湾地区それぞれを牛耳る男たちの会食は、交流会という名目ではあるが権利関係の確認・調整を主とした会談であった。低所得者居住区および性産業地域が国のイベントに伴い再開発されるというニュースが入り、急遽参集したのだった。流れ出す補助金や産業、蓄積されたノウハウを持つ人材、地域を治めていた団体、そのバックについている人間、それらの行方が気になるのは皆同じである。易々と情報の交換に応じるほど無邪気な人間ではない男たちだが、互いに顔を合わせ同じものを食べ同じ酒を飲むことでいくらか穏便にこの状況を乗り越えられるのではないか。それが、今日のホストである歴史・文教地区の男の提案だった。この男はこの男で、自分にとって有利となるよう各権利を各セクションへ振り分けてやろうという思惑があるのも各位承知の上であるが、いよいよ奪い合いとなり血生臭いことへ発展するくらいであれば、トップ同士で仲良くパイを切り分け合うのが良策なのは言うまでもなかった。

 

 ディナーコースも会談も順調に進んだが、食後の台湾烏龍茶が提供される頃にはすっかり初更であり、窓の外も大半が黒く塗りつぶされていた。おおよそ持ち寄られた議題は片付き、各々、関連のあるプロジェクトについて隣席の人間と言葉を交わしはじめたころ、蘇枋の元へ秘書の男が耳打ちにやってきた。勝手に輪に入ってくるなと蘇枋はすぐに秘書を下げさせたが、すでに今日の会談の目的は達成されており、皆、散会の期待を胸に秘めていたため、その様子が結論、お開きの合図となったのだった。ホストの男が列席者を順にエレベーターホールへ送り出し、これもまた最後となった蘇枋は含みのありそうな、またぜひご一緒に、と握手を求める男の手を軽く握って、眺望優れる個室を後にした。

 

-

 

 紫色に染まった白亜の壁に反響するファンクミュージックに小さく首を揺らしている女は海を見つめている。夜に染まった海の黒と壁のネオン管灯の蛍光色が瞳の中で同居している。そこへ、更なる影が加わる。影の正体を知った女が瞼の上下を近づけるので全てが一緒くたに混ざり合った。

 

「こんなところにいた」

 

 現れたのは蘇枋だった。女が座る席の向かいに座る。ダークグレーのマスターピースゴールドが夜の海に溶ける。最近仕立てたばかりのスーツは同色の線がうっすら入るシャドーストライプ模様だった。夜ともなれば真っ黒の布に見える。日常着は、かつて女教師からお下がりとしてよく与えられたカンフー服のような形のものを好んで着ているが、仕事着としては、かつて先代のミスター・スーから与えられたスーツと同じブランド、同じテーラーで仕立てたスーツを着た。そのスーツの上着を脱いで、隣の席にかける蘇枋の元にクリームソーダが届いた。この店の人気メニューらしい。クリームソーダに浮かぶアイスを柄の長いスプーンでつつきながら蘇枋は言った。

 

「ラウンジにいてくださいと言ったのに」

 

 今日の会合は女の参列が許されないものだったため、ホテル下層階にあるラウンジで過ごしているよう言われていた。列席者のパートナーたちとの交流も目的であった。女は、それぞれの男たちに連れられてきたパートナーの女たち二人と共にクラブラウンジで当たり障りのない社交にあたった。アフタヌーンティーの食べ物が片付き、フリーフローのドリンクで胃も膀胱もパンパンになったところで、ミュージックラウンジで生演奏が始まるとホテルスタッフから案内があり移動することとなった。この時点で、話題は尽きており、三人の女たちは始まった生演奏に行間を埋めてもらいながら、奏者を眺めたり、カクテルのグラスを撫でてみたりと無意な時間を過ごしていた。

 

 それでもなお戻ってこない蘇枋らを待ちきれなくなった女は、目付役として自分の行動及び安否を監視する蘇枋の部下の男に手洗いに行くと言い、ホテルの外へ出た。女たちのうち一人は用事ができたとすでに暇乞いしていた上、もう一人の女にとってもよく知らぬ人間と同席し続けるのは互いに気づまりであろうと考えてのことであった。

 

 ホテルの外に出た女は、クラブラウンジから見えた橋を渡ってみようと歩き出した。海べりにあるホテルから隣の埋立地へと伸びる橋へ向かったとき、ホテル前の桟橋に五つ星ホテルの格式とは一線を画す妖しげな光り方をしている小さな建物を見つけた。その建物からズンズンと響くベースの音が海風に乗って女の耳に届いた。

 

「楽しそうで、来ちゃった」

 

 ホテル所有のこの建物は近年になって改装され、メニューも店舗デザインも若年層向けのカフェ・バーとなっていた。ホテル内のミュージックラウンジで生演奏されていた緩慢がすぎるジャズに飽き飽きしていた女は、このカフェ・バーの狭いDJブースから流されるファンクやR&Bを気に入ったようで、白い頬を店内の壁と同じ紫色に染めながら「面白いね」と機嫌良さそうに笑っている。先ほどまでの緊張感のあるレストランでの食事から、一変、若者たちが好みそうな擬似的なレトロで装飾された軽薄な空間は蘇枋にとっても心地がよかった。

 

「おいし?」

 

 純喫茶風のクリームソーダを女が指差す。蘇枋は持っていたスプーンの柄を女の方へ向けた。女は微笑みながら小さく首を横に振る。ラウンジで飲み続けた茶で胃の中が波打つ女は、鮮やかな緑色のジュースをすすっている蘇枋の様子を眺め続けた。チャイルドライクな飲み物を手にする教え子の様子に、出会った頃、まだ女よりもずっと背の低かった頃の少年の姿がふと思い出された。あのかわいらしかった少年に、こんなかわいらしい飲み物を与えたことなどなかった。こうしたものを喜んでくれる年齢のうちに、いくらでも与えれば良かった。目の前の愛らしい姿に微笑みながら、女の胸中には後悔がよぎっていた。まだ青年というには若いこの男の子は、スーツも自身でオーダーし、重要な会合も自身でこなしてしまう。きっとこの様子では今日の会合も首尾よく終えたのだろう。女は少年の過ぎた成長に讃嘆と悔恨を噛み締めていた。

 

「メリーゴーラウンド、乗らない?」

 

 喉が渇いていたのか、あっという間にクリームソーダを飲み終わった蘇枋に、女は言った。ホテルの向こうの遊園地にある遊具に乗らないか。秘書の男が地下駐車場で待っていることが脳裏によぎりながらも、蘇枋は首肯した。女を長時間待たせたことへの償いとしての気持ちと、メリーゴーラウンドに乗りたがる女をかわいいと思う気持ちが、そうさせたのだった。女に巻かれ青ざめているだろう部下の男と共に何か美味いものでも食べて帰るよう秘書の男に連絡を入れ、楽しそうに遊園地へと急ぐ女に腕を引かれながら、蘇枋は運河沿いの道を歩く。まるで交際を始めたばかりの恋人同士のように一部の隙も惜しいと互いの体に寄り添い合いながら歩く二人を、大きな観覧車の明かりが同じ色に染めていた。

 

-

 

 回転木馬に飛び乗って、髪を靡かせて、風に頬をなぶられ、遠心力に手足を預け、クラシカルで軽快な音楽がカーテン代わりに世界を分断し、巡る周囲の景色は解像度を下げ、同じ速度で回る互いの姿だけが鮮やかで、見たこともない、信じたこともない、ネバーランドというものにたどり着いたような気分で、二人は笑い合った。

 

「楽しいものですね」

 

 おとぎ話のワンシーンのように白馬から降りる女の手助けをしながら、蘇枋は言った。女は白馬の上から蘇枋に抱きつく。遊具の回転に酔ったのではない。おそらく生まれて初めてメリーゴーラウンドに乗ったと思しき少年の笑顔が無邪気であるほど女は苦しかったのだ。少年が少年として享受すべき歓楽を、無理に大人にさせられた今になってやっと与えられた事実が、女を苦しませていた。抱きついたまま少年の耳元で女は問う。 次は何に乗る? ごまかすように。今更憐れむような顔を見せることこそ最大の侮辱だということを今一度自身に理解させ女は顔をあげる。女の瞳は、幸いにもメリーゴーラウンドに散りばめられた電球が写り込みキラキラと輝いていた。

 

 運河にかかる橋を渡り、遊園地の中を移動する。迷路、お化け屋敷、ゲームコーナー、何がいいかしら。女は少年の腕にぶら下がるように自分の腕を絡めながら、浮かれた音楽が流れる園内を浮かれた足取りで歩いた。蘇枋は女が楽しそうなので嬉しかった。一方で、少し大袈裟なほどに浮かれる女の様子に一抹の不穏さを感じてもいた。それは些細なことで、例えば先ほどホテルで待たせ過ぎたことにやはり怒っているのでは、とか、本来であれば今日は女が楽しみにしていた展覧会に行く予定であったのが急な会合が入ったことでふいになったことに、これもやはり怒っているのでは、とか、そういう、ご機嫌の問題としての不安だった。

 

 この一抹の不穏さは女の中に確かにあったが、それは幸か不幸か蘇枋の思うようなものではなかった。女は少年に少年としての楽しい思い出を取り戻す一助となるよう、率先して遊園地を楽しもうとしていた。遊園地にいる間くらいは少年が少年であることを思い出して欲しかった。我に返って欲しかった。そしてそれは、自分の罪悪感を慰めるような押し付けがましい善意であることにも気づいていた。このアンビバレンスが女のどこかぎこちない浮かれ調子に滲みでていたのである。二人は互いに互いの中の不安を視界の端に認めながら、意図的に眼前のエンターテイメントに思考を預け、笑い合っていた。

 

 お化け屋敷に入ろうということになり、建屋型のアトラクションが並ぶセクションへ向かおうとした時だった。蘇枋の視界の端を別の不穏が横切った。その不穏を首も目玉も動かさずに探す。氷の世界を模したアトラクションのスタッフ出入口の扉がゆっくりと開いた。偽物の窓が描かれたフラッシュ戸。その奥から真紅のカーテンがなびく。視線を遮るためにかけられたカーテンだろう。現実と夢を遮る一枚の布だ。その奥から誰かが出てくる。順当に考えれば遊園地のスタッフのはずだ。しかし、蘇枋はそれが視界の端に入った不穏の元であると断定し足を止めた。

 

「逃げますよ」

 

 女に小さく短く耳打ちをして蘇枋はきびすを返した。女の履くパンプスのヒールが路面を覆うタイルにカンカンと鳴った。小走りに遊園地の外へ出て、点滅する青信号を渡った。女は手を引かれるまま一言も発さず、タイトスカートの可動域をいっぱいに使って蘇枋の背についていく。二人は信号を渡った先の建物に飛び込み、そのままエスカレーターで地下を目指した。吹き抜けを突き刺す長いエスカレーターを駆け降りることはしなかった。目立ちすぎるからだ。乱れた息を整えながら二人は移動装置に身を任せた。

 

「会合のところの?」

「わかりません」

 

 心当たりが多過ぎて。先ほどまで、メリーゴーラウンドの楽しさに笑っていた、はしゃぐ女の様子に喜んでいた蘇枋の顔に貼り付けたような微笑みがのる。少し青ざめていて、少しこわばっていて。どれだけ夢のような場所にいようと、どれだけ楽しそうにしていようと、結論、少年は少年でいることはできず、いつどこで誰に襲撃されてもおかしくない仕事をしている男であることを思い出す。少年は、我に返る。遊園地を楽しむ少年の顔が、女のよく知るミスター・スーの顔に変わる。女はがっかりした顔も、悔しそうな顔もしない。蘇枋と同じ貼り付けたような微笑みを返す。この笑みを教えたのは自分だということを思い出す。

 

-

 

 飛び乗った特急列車。列車間の連結部分に近い席に二人寄り添いながらひっそりと座る。仕事用のスマートフォンを操作しながら、蘇枋はちらりとドア上の案内表示を見た。多くの駅を蹴飛ばして進む特急列車の停車駅が順に表示されている。すぐに他線の運行状況の案内に切り替わり、再び手元へ視線を落とす。秘書の男に連絡をしているようだった。しかし、すぐに次の駅に着き、再び顔をあげる。多くの人が出入りする様子へ目を配る。不審な動き、不審な人間、不審な荷物の有無を確認し、警戒すべき事象はないと判断できたのか、ふっと一息ついてから座席にその背を預け直した。いかっていた肩が降りる。持っていたスマートフォンをジャケットの内ポケットへ入れてから、空いた手を女の手に重ねた。

 

「ひとまず県をまたぎましょう」

 

 女は微笑みながら頷いた。パンプスで走った足の痛みを隠して。少年を少年たらしめる夢のような時間は早くも終わってしまったことへの憂いを隠して。特急列車は地下から地上に出た。外は暗く、地下も地上も関係なく、窓の外は暗かった。夜分の上り列車は人が少ない。向かいの席はどれも空席で、暗く大きな窓に自分達の姿が写っているのがよく眺められた。メリーゴーラウンドにはしゃぐ少年とその姿に目を細める保護者の姿には到底見えない。カタギとは思われない男とその情婦の姿に、ちゃんと、見える。女の胸に冷たいものがさっとよぎった。

 

 窓の外を流れる街灯や看板の明かりが明滅し、スーツと眼帯を身につけた男の顔に老人の顔が重なっていく。特急列車の窓は、孤独の中に怯え、ついには孤独の中に尽きた男の肖像画となる。未来の記憶が蘇る。かわいい教え子、実の子供のように愛している少年が、広すぎる部屋、広すぎるベッドに一人寂しく横たわる老人の姿になって朽ちていく。窓を満たす闇が女の目にも流れ込み、そのまなざしが陰る。

 

「疲れましたか?」

 

 女のくもった表情に蘇枋が問う。どこか詫びるような声色だった。遊園地の楽しい時間を奪ったことを、パンプスで走らせたことを。主人の機嫌を伺う子犬のようでもあり、子供の癇癪に怯える親のようでもあった。自分の機嫌が目の前の男の不安を煽っている事実が冷たくなっていた女の胸に流れ込み、年長者としての庇護欲が、同時に、ひとひらの嗜虐心が芽生える。女は次に止まる駅の名前を口の中で呟いてから、小さく首をふった。

 

「懐かしいなって思ってただけよ」

「へぇ。この辺りに住んでいたんですか」

「アルバイトに来てただけ」

 

 女の言葉に蘇枋の目が一瞬見開かれる。先代のミスター・スーに囲われる以前の女の話を聞くのは初めてだったからだ。出生地、卒業校等、公的に残された記録は先代によってまとめられており、蘇枋も目を通していたが、どこでどんな遊びをしていたか、どんな友人がいたか、そういったプライベートな生い立ちはひとつも知らなかった。興味がないといえば嘘になるが、前のめりに聞きだすようなことは、蘇枋の小さなプライドが許さず小さな相槌だけを産んだ。あくまで女が話したいことを話させている、という構図をとりたい、その取るに足らない高慢を、女は愛すべき少年らしさと受け取り、望まれる形にのっとって語り出した。

 

「そのアルバイト先で、夫に会ったの」

 

 女は自分の手元に目を落とす。男の右手に覆われ見えなくなっている自分の左手を見る。かつて薬指にはまっていた安物の指輪を思い出している。今の薬指には先代から送られたグラフの指輪がはまっているが、奇しくも二代目の手がそれを隠していた。先代の指輪も、女の夫だった男の指輪の幻影も覆い隠すように、蘇枋の右手が女の左手を握り込んだ。その握力を受け、女は続ける。

 

「出会った時、彼は大学院生だった。私は高校生。今時、身分の差なんてないのだろうけど、でも今思えば身分違いもいいところだった。次の駅が、夫の実家があるところ。実家は不動産業で財を成した一族の本家だそうよ。近所でも有名な大きいお屋敷で育ったんですって。彼もちゃんと優秀で期待されていた。そんな彼が、素行の悪そうな女子高生と結婚すると言い出した。私、ここで乗り換えて海の方に行ったところあたりで育ったの。治安が悪くて有名。ちゃんと小汚く育ったわ。そんな私のどこが気に入ったのか、私も私で世間知らずのお坊ちゃんのどこが気に入ったのか、今考えても思い出せない程度だけど、でも恋に落ちた。恋に恋したのかもしれない。今まで出会ったことのないタイプの人間と近しい関係になることへの関心を恋心と勘違いしていたのかもしれない。けど。とにかく。私たちは恋をして、そして、駆け落ちした。彼は大学院を辞めて、私は高校を辞めて、アルバイトしながら二人で暮らしたわ。楽しかった。思えばあの頃が一番楽しかった。袋ラーメンを二人で分けて食べて、寒い夜は暖房の代わりに抱き合って眠って。そして流れ着いたのが、あの港だった」

 

 開発が進み林立するタワーマンションに囲まれた特急駅のホームは白々しいほど明るい。女の語り口は白々しいほど単調だった。特急列車は再びすべりだす。唸るような独特の走行音が響く。

 

「最初から破綻してたの。彼にあの生活は無理だった。どこに行こうと彼はお坊ちゃんなの。夜を徹して勉強したことはあっても、一日八時間の肉体労働なんてしたことないのよ。罵倒をコミュニケーションの一部にしたこともなければ、キレイに矯正された歯にヤニをつけたこともない。小さい頃から習っていたバイオリンは器用に弾けても、麻雀でイカサマして勝つことはできない。港での生活は、いいえ、私との生活は、彼を蝕み続けた。慣れない力仕事、慣れない粗野な人間たちの中で彼は狂った。高潔すぎてお酒にも薬にもギャンブルにも酔いきれない彼は、焦燥を拳にして堕落の道に誘拐した犯人を殴り、衝動を耳触りの良いビジネスにのせ、最後は裏社会の塵になった。そこからはご存じの通り」

 

 女の夫の話も先代から聞き及んでいた蘇枋は少し眉を曇らせた。内容に齟齬を感じたからだった。女の夫は妻に対し日常的に暴力をふるう不届き者で、組織の体裁も考えずに薬物売買に手を出すようなならず者だったはずだ。塵になって当然の人間だったはずだ。しかし、女は、自分こそが夫を堕落させた大悪党だと語っている。名家の人間としてその優秀さを社会に役立てられたはずの夫を引き摺り落とし、結果、冷凍庫で魚と一緒に氷付けにしたのは、他でもない自分だと。自分と恋などしなければ。女が彼を愛さなければ。今頃、かつての夫であった男は、別の人間と築いた暖かな家庭を携え、次の駅が最寄りである実家に帰省していたかもしれない。

 

「こんな話、困っちゃう?」

 

 女が微笑んだ。蘇枋は首を振りながら微笑み返す。その眉に曇りが見えることも、微笑んでいるように見える唇が少し巻き込まれていることも女には分かっていた。この話をされて蘇枋が困ることなど分かりきっていた。困らせようとした。もう二人にはお互いしかいないのだから。

 

 列車が川を渡りはじめた。大きな音が二人の間の沈黙を埋める。カーブを曲がる車輪の音が、亡霊たちの泣き声となって響く。どうか忘れないで。また巡り合う時まで。約束の場所で、地獄で、また一緒になろう。女を待つ男たちがささやく。女が見送った男たちだけではない、港湾の重鎮という後ろ暗い役どころに降り積もる怨嗟の亡霊もまた囁いている。地獄で会おう、と。先代はこの声が恐ろしくて女の腕の中でなければ安らかな眠りもままならなくなった。二代目もまた、この声に怯えて眠れない夜を過ごしていることを女は知っている。外で食事をすることを避けているのも知っている。常に何者かの影を恐れている。遊園地で見た怪しい人物。本当にそんなものは実在したのだろうか。警戒せざるを得ない立場であるのは確かだが、時折、何かにひどく怯えている様子を見せる少年を、女は痛ましいと思っていた。今度こそ、自分の男を亡霊に引き渡しなどするものか。そうも思っていた。もう、二人には、お互いしかいないのだから。

 

「次の駅で各駅停車に乗り換えてください。二駅乗ってから降りて。車を回します」

 

 内ポケットからスマートフォンを取り出し、新着連絡を確認して蘇枋は手短に言った。次の駅で各駅停車が止まっている。列車間の待ち合わせである。特急列車はすぐに発車するから、女だけ降りて、向かいのホームに停車中の各駅停車に乗り換えろ。それが蘇枋の指示だった。スマートフォンに届いていたのは、女を迎える車両の手配が整ったことを知らせる秘書からの連絡だった。しかし、女は蘇枋よりも手短に返事をした。

 

「嫌」

 

 列車は再び地下に潜る。トンネル内で列車の音が反響し、車内は騒がしくなる。その音に負けないよう、蘇枋は少し声を荒げた。

 

「あなたを危険に巻き込みたくはないんです」

 

 女は思う。巻き込んだのは私なのに。夫と同じように、少年をこの世界に堕としたのは私なのに。女が少年に学を授けなければ、先代の死後、少年はただの少年として解放されていたかもしれない。ただの”少し初体験の早かった”少年として。しかしそうはならなかった。善意のつもりで与えた教養が少年を少年でいられなくしてしまった。官能、暴力、猜疑、そんなもの、この若い少年には必要なかったというのに。「いい子だから」、と蘇枋がなだめるように女の手を握って立ちあがらせようとするも、女は動かない。

 

「置いてかないで。連れてって」

 

 懇願する。誰も信用できない孤独なミスター・スーのそばにいさせて。亡霊に怯える夜から守らせて。唯一のナイトでいさせて。もう私に失わさせないで。何か硬い意志を持って列車の座席から体を離さない女の様子に、蘇枋は小さく笑いながらため息をつく。男に飼われている女にしては自我の強いのがこの女の特徴であり、魅力であった。そしてそれに振り回されるのは女を飼う男たちにとっての栄誉であった。蘇枋は栄誉ある降参をした。

 

「では、中目黒で日比谷線に。一緒に番町のマンションに行きましょう」

 

 番町のマンションは、度々、国会図書館に通う女のために先代が買ったマンションだ。今は、学生生活を送る蘇枋が使うことが多くなっている。そのマンションに二人で向かうというのだった。各駅停車との待ち合わせ駅を二人が乗る特急列車が離れる。女の夫の実家のある駅。駅前の再開発が始まったようでタワークレーンが高架の上から見えた。どんどんと流れるのは車窓の景色だけでない。過去に引きずられた思いも、それを思い出させる街並みも、時間という特急列車に振り落とされる。特急列車は地下鉄乗り換え駅に向かう。

 

「ねぇ。このまま、終点まで行っちゃうのはどう?」

 

 手配した車をこの先の地下鉄駅へ回す連絡をしようと、蘇枋は再びスマートフォンを操作していた。その画面を女の手が遮った。このまま地下鉄へ、私鉄へと接続するこの路線をどこまでも乗っていくことを提案する。

 

「終点って、もう遅いですよ」

「いいの。ホテルにでも泊まりましょう。そして、明日、世界のどこよりも美しい谷に行くの」

 

 足早に駆け抜けたネバーランドに再び向かおう。女は少年の手を握る。思い出させてあげる。テーマパークを駆け抜ける楽しさを。造られた世界に身を浸し世の煩わしさを忘れる快感を。思い出す思い出などない少年の少年時代に少年らしい思い出を植え付けてあげる。押し付けがましい先生だということを逆手に取り、女は少年の手を引いて書庫に誘ったあの日のように、独善的な善意をもって蘇枋の行き先を変更する。

 

「世界のどこよりも美しい谷って、あのトロールたちの住む?」

「うふふ。そう」

「明日の仕事はキャンセルですね」

「あら、お仕事あったの」

「先生から電話してもらえます?」

「嫌よ、あの人怒らせると怖いんだもの」

「だからですよ」

「誘ったら一緒に行くかしら」

 

 急遽行くことになったテーマパークで二人は一番大きなぬいぐるみを買い、屋敷へ送る手配をした。後日届いた大きな箱に驚いた秘書の男は、中身が自分への土産だということにさらに驚くことになるのだった。土産は手で持って帰ってきた揃いのマグカップだけではなかったのだ。

 

-

♪ やくしまるえつこメトロオーケストラ「少年よ我に帰れ」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。