港に捧ぐ茶詩   作:リネン_

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三碗枯腸をさぐる。惟う文字五千巻有り。


三碗搜枯肠 惟有文字五千卷

 少年に与えられた部屋は女の私室と同じ階の小部屋だった。簡素なシングルベッドと机、椅子が置かれ、小さなバスルームが付随している、一人で過ごすには十分な広さの部屋だった。机に向かうと目の前に窓があり、窓の外には港が見えた。見渡す限りの港は、少年にこの部屋を与えたボスのものらしかった。行き交う船も、立ち並ぶ倉庫群も、積み上げられたコンテナも、ここで働く人々も。時代が変わりつつあるものの、港湾という場所ではどこにでもボスのような人物がいることを、少年は船に乗るようになった数年前に知った。

 

 海の男たちを相手にする娼館の狭い部屋に母親と二人で起居するだけが世界の全てであった少年だったが、母親が病に倒れ、客をとれる女でもないために娼館を追われ、男親の可能性のある一人の船乗りの男に引き取られたことで船が少年の家となったのが数年前のことだった。あの娼館がどこの国のどの港にあったものか、今となっては覚えてもいないし、子供がいると客が取りにくいと文句ばかりを言っていた母親という人間へ追慕を抱くこともほとんどなかった。しかし大人と同等に働くにはまだ幼い少年は、船員からしばしばその要領の悪さを理由に殴られるたび、いつか誰かがこの船から自分をおろして陸の人間にしてくれると夢見ることがあった。そして、その誰かはきっと、船長室にかけられた額の中で微笑む聖母のようであるに違いないと。

 

 結局、少年は船の誰よりも年老いて、船の誰よりも非力そうで、しかし船の誰からも恐れられている老人に、船乗りの男が一年で稼ぐ額程度の金で買われることとなった。客からもらった菓子を気まぐれに分け与えた娼館の女でも、船長室で乗組員を見守り続ける聖母でもない、船室のすみに落ちていた誰かの酒のつまみであっただろう干し肉のようにしわくちゃな老人の手にひかれ、少年は船を降りたのだった。船を降りる少年の背後で「かわいそうに」と小声で囁き合う乗組員たちの言葉が聞こえた。少年は死よりも恐ろしいことが待っていると震えた。少年の乗る船でそういう”商品”を運んだことがあったことが思い出された。そのため、老人と共に乗った黒塗りの車の中でも、老人の寓居に辿り着く前に立ち寄った西洋料理店でも、少年は一切口を開かなかった。発声も飲食もしなかった。できなかった。恐怖と絶望だけに全身を覆われた少年は果たして、あの英国風の調度品に囲まれた香のたちのぼる部屋にたどり着いたのだった。その部屋の主人は自分を邪険にするばかりだった産みの母親よりも若く、微笑むばかりで船員に殴られる自分を助けることのなかった聖母よりも優しく話しかけてくる女だった。

 

「ルーユィ、お勉強しましょう」

「お勉強……」

 

 かつて女が着ていたという刺繍の細やかな漢服をまとった少年は女の言葉をオウム返しにつぶやいた。少年はここ数日でいくらか話をするようになっていた。この館において、船でのように日常的に殴られることもなければ、金持ちに売り飛ばされた子供がそうされるというような陵辱を受けることもないということが理解されたからだった。それどころか、十分な食事は日に三度でてくる上、清潔な寝具で眠れる、毎日風呂に入れる、広い屋敷の中もこれもまた広い庭の中も好きに出入りができる生活は、少年のほんの短い人生の中で最も快適な日々ですらあった。ボスは忙しいのか初日に共寝をして以来、顔を合わせていない。代わりに世話係の女と食事を共にし、時折、茶の相手をさせられた。そのほかの時間は自由に過ごしていた。贅沢なことに余暇を持て余していたのだった。そんな時間と体力を持て余している様子の少年に、女は提案を投げかけた。

 

「そう、お勉強。船に乗っていたのよね。英語は話せる?」

「少し」

「計算は?」

「足し算引き算程度であれば」

 

 今日もまた茶の相手をしろと女の私室に呼び出された少年は、出会った時と同じようにベロアのソファに腰掛けながら質問に答えた。今日は中国茶でなく英国紅茶がテーブルの上で良い香りをくゆらせている。今では出されたものを口にすることに躊躇のなくなった少年はティーカップを持ち上げ、熱い茶の匂いで肺を満たした。茶の香りを楽しむようになった少年の変化を満足気に眺める女の視線に感じる居心地の悪さも減ってきたところである。

 

「では、今日から語学と世界史、それに数学を基礎とした科学の時間を作りましょう」

「はぁ」

 

 ソファを離れ、壁際にある机からレターパッドを持ち出した女は、今後の学習計画を立て始めた。午前中は体力づくりと武術を、午後は歴史と科学を、夜は語学を、少年に学ばせると女は宣言した。ボスに囲われた小鳥同士が学校の真似事をしたところでどんな意味があるのか、少年にはいっこう理解できなかったが、体系的に何かを学ぶことをしたことがない少年にとって、女の与える学習カリキュラムには興味がそそられた。知性は身を守りうるということを、短い船時代に知っていたからだった。

 

「おいで」

 

 茶を飲み終わった少年の手を女が引いた。初日のように手を引かれなければ動かないというわけでもないのに、しばしば女は少年の手を引いて移動した。少年は拒まなかった。女に手を握られるのは心地よかった。それが自分を庇護する大人との触れ合いに安心感を得ているからか、ボスのベッドに入ればこの指に連なる全てを自分の好きに弄ぶことが可能であるという官能を思い出すからか、単純に他者から優しく触れられることがこれまで少なかったからか、その全てが該当するのかは、まだ学びの少ない少年には分からなかった。

 

「書庫よ。ここにあるものは好きな時に好きなように読んでいい」

 

 女と少年の部屋のある階の最も奥にある部屋へ案内される。大きな本棚が壁伝いにずらりと並んだ部屋だった。古いルリユールが並ぶ棚もあれば、最新のペーパーバッグが並ぶ棚もあり、絵本や画集が並んでいる棚もあった。女は少年にいくつか辞書を渡した。今晩から語学の授業を始めるから、部屋に持っていきましょう。少年は英語と中国語と日本語の辞書を黙って受け取った。

 

「授業の他に、課題図書を出すからそれを読んでちょうだい。毎週末、読んだ本について読書会をしましょうね」

「え」

 

 文学の本が並ぶ棚の前で立ち止まった女がキーツの詩集を手に取る。

 

「大丈夫。最初は簡単なものにするから」

「えっと、その、オレ、文字が……」

 

 少年は自分の腕に抱えた辞書を遠慮がちに見た。船の上では会話の中でいくつかの言語を習得したが、読み書きはほとんどしてこなかった。故郷の言葉でさえ、学校に通ったことのない少年には読むことも書くこともできないのだ。そう伝えると女は落胆するだろうか、軽蔑するだろうか。少年は俯く。少年にとって他者を落胆させることも、他者から軽蔑されることもこれまで大した問題ではなかったはずなのに、今、楽しそうに自分との読書会を計画している女に自身の無学さを伝えることを躊躇していた。少年の逡巡を感じ取ったらしい女は、いつも落ち着いている声色の速度をさらに緩めて言った。

 

「読むのが苦手なのね。大丈夫。私が読んであげる」

 

 詩集を棚に戻し、女は絵本を手に取った。オスカー・ワイルドの絵本だった。ウィンドウベンチに腰掛け、少年を手招きする。素直に従う少年は自分の体の横に辞書を積み、女が開いた絵本を覗き込んだ。

 

「High above the city……」

 

 絵本の修辞をなぞりはじめた女の声に耳を傾けながら、少年は、文字を追い追い細やかに働く女のまつげを見ていた。ツバメのように甲斐甲斐しく文字を拾っては少年の元へ届ける。絵本の中の像もこの羽ばたきを見つめつづけずにはいられなかった、そういうことなのかもしれない。非常にゆったりとした速度で読み上げられる物語の世界を自身の世界と二重写しにして少年は初めて体験する読み聞かせの声に浸った。

 

「このお話は知ってる?」

「いえ……」

「どう思った?」

「ツバメが、かわいそう」

「そうかもね、自己犠牲に酔った王子様のもとでたまたま羽を休めたばかりに」

 

 大した感想にもなっていない自分の言葉を女が頷きながら敷衍してくれることに少年は驚いた。そして嬉しいと感じた。黙っていろと言われることこそあれ、意見を求められ、それに同意を得られる経験は初めてだったのだ。驚愕と喜悦に震える指で知らぬ単語を指し示せば、女は優しく答える。これが学び、これが教育、少年は自分の体に新しい知識と他者からの尊重が染み入るのを感じるたび、感動で心臓が脈打つのが分かった。

 

 物語や学問というものが世の中に多く存在することも、文字が読めればそれらをいくらでも知ることができることも、それらを学ぶために辞書や文法書があることも、その辞書や文法書はこの部屋にいくらでもあり自由に扱う権利が与えられていることも、扱い方がわからなければ優しく教えてくれる人間がいることも、こうして絵本を読み聞かせてもらった今、急激に実感として少年の身に迫った。狭い売春部屋を出て初めて乗った船から見渡した海の広さに感動したこともあった。そして今、海の広さとも異なる、空間も時間をも超越した世界がこの書庫に広がっていることを知った。改めて溢れかえる書籍の山を見渡し、目を輝かせる少年の横顔を女は嬉しそうに眺めた。

 

「先生、って呼ぶのはどうかしら」

 

 生命の進化を解説する分厚い図鑑をまくりながら、女は提案した。少年の名は女が与えたが、少年から女への呼び名はまだなかった。この館では”大姐”と呼ばれたり、”奥さま”と呼ばれたりしているのは聞こえていたが、少年から女への呼びかけとして適切とも思えなかった。これまでは特に呼びかける機会もなく不自由はなかったが、これから勉強の時間を共有するにあたり、呼び名があった方が良いのではないかというのだった。

 

「はい、先生」

「うふふ、なぁに、ルーユィ」

「いえ、なにも」

「そう。じゃ、続けましょうね」

 

 少年が女を”先生”と呼ぶ。女は嬉しそうに返事をする。二人だけのコードネームを呼び合い、二人だけで微笑み合う。それだけで楽しかった。

 

 女が立てた計画の通り、午前中は邸の庭をランニングし、太極拳のような武術の鍛錬を共に行った。時折、あの扉番をしていたボスの秘書の男が武術の講師として招聘された。少年はすぐに上達し、女では手に余るようになったのだ。午後からは女の私室を教室に、女が用意した数学や物理、化学等の参考書と問題集を進めた。ティータイムを挟んで、歴史書を読みすすめ、時折、学んでいる時代に関する映画や絵本を楽しんだ。夕食後は日替わりで英語、中国語、日本語を学んだほか、時折、ラテン語やロシア語等の世界各地の言語を教養程度に学ぶ日もあった。

 

 どれもが充実した時間であり、どれもが空っぽだった少年の頭によく浸透した。しかし、少年にとって一番楽しい時間は寝る前に女のベッドに共に横になりながら物語を読んでもらう時間だった。今日はアラビアンナイトを、今日は源氏物語を、今日は偉人の伝記を。少年はあの書庫から毎日好きな本を選んで女にせがんだ。女は嫌な顔一つ見せず、少年の頭を肩にのせ、ゆったりと読み上げる。そして長い物語の中途で眠ってしまう少年をそのまま自分のベッドで寝かせるのだった。寄り添う女の暖かさに自分の体温を溶かしながら、まだ見ぬ世界を紡ぐ声が遠のいていくころ、半分以上眠りの国に旅だった意識のすみで、女が自分の額にキスをくれる瞬間、そのためだけに生きてきたのだと、少年は恍惚としながら思うのだった。

 

「老师、か」

「そうなの。トラップ大佐」

 

 珍しく夕食を共にしたボスが、夜の語学の時間にも同席することとなった。ボスは中国語を少年に教えた。いつの間にか随分と上達した少年の中国語にボスは非常に喜んだ。少年は語学の才があったらしく、女が教えるほかの言語も次々と話せるようになっていた。そしてもう一つボスを喜ばせたのが、少年が女を呼ぶ「先生」という言葉だった。

 

「私の可愛いマリア、歌のレッスンもあるのかい?」

 

 少年が書いた中国語による作文に目を通しながらボスは女家庭教師に微笑みかける。ボス手ずから誤字の訂正を加えられていく作文の評価も気になるが、いつも自分の手を引き、自分に寄り添って眠る”先生”の体が、今日はボスの腕の中に収まっている様子も気になり、少年はどこか落ち着かない様子で中国語の書き取りを進めていた。

 

「話が早くて助かるわ。応接間のアップライト、あれの調律をお願いしたいのだけど」

「もちろん、すぐ手配しよう。しかしあれは随分古いな。新しくしてもいいんだぞ」

 

 まだ触れられてもいない鍵盤に嫉妬するように、ボスの指が女の指に絡んだ。女の指がこたえる。楽器を奏でるように繊細に、メッセージ性を秘めながら。二人だけで進んでいく会話も、二人だけが知っているピアノも、過ごした時間の長さからして当たり前のことであるのに、この数日間、誰よりも近くにいた女が急に遠のいたように感じ、少年は悋気とも寂寞とも言い難いむなしさに胸をざわつかせていた。

 

「あれで十分よ。でも、そうね、ピアノを新調するくらいならルーユィにギターをプレゼントするのはどうかしら」

「ルーユィ?」

 

 女がボスの腕から離れる。テーブルの向かいに座る少年の背後に周り、その細い肩に腕を絡めた。頬を少年の髪に寄せる。同じシャンプーの香りをさせる二人の髪が混ざり合う。

 

「この子の名前よ。私がつけたの。かわいいでしょ?」

 

 女が自分の腕から飛び立ち別の男に自ら触れている状況に穏やかならぬ感情を抱くどころか、目の前に自分の飼う小鳥たちが顔を並べて自分を見ている光景がいたく気に入った様子のボスは目尻を下げながら何度か小さく頷く。まるで孫とその孫を産んだ自分の娘が睦まじい姿に鼻の下を伸ばしてはばからない好々爺のようである。

 

「茶経か」

「えぇ。私たちは先生と生徒でもあって、お茶友達でもあるのよ」

 

 先生と生徒、茶飲み友達、それらが同時に存在しうる関係性だとして、では体を結ぶ関係もまたそこに並列することは可能なのだろうか。再び横たわったボスの広いベッドの上で、事後の倦怠にもやがかる脳をもって習いたての知識と照らし合わせてみせるも、どの参考書にも、どの物語にもこの関係性と類似したものが見当たらないことを、喜ぶべきか悲しむべきか少年には判断しかねた。ただ、いつもであれば自分が抱かれて眠りについているであろう女の胸の中で、世界の全てから逃げ隠れるように縮こまって眠る男の姿には、憐憫と親近感とがないまぜになった落ち着かない感情を抱いていた。

 

 

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