第一次世界大戦勃発時の世界情勢を学ぼうと、女と少年は地球儀にまち針を刺している。バルカン半島、オーストリア、ドイツ、ロシア、イギリス。二人の指で弄ばれる地球儀は針だらけの痛々しい姿となる。誤って自身の指を刺したらしい少年は、血を洗ってくると言って席を立った。そこへ、ボスが部屋に入ってきた。
「ルーユィを仕事に?」
少年を自分の仕事場に連れていくとボスは言った。女は普段の落ち着きを忘れ、明らかに取り乱した様子で立ち上がった。ソファと揃いのベロア生地で座面を覆った高級椅子がガタンと倒れる。女の尋常ならざる様子にも意を介することなく、ボスは少年に短く命令する。学校ごっこに勤しむ二人を愛でに来た老人ではない、港を牛耳る”ボス”の顔で、女を無視し、男に指図をする。
「スーツを仕立てた、着てこい」
「はい」
針で刺した指を洗いに女の部屋に付随するバスルームへ向かうはずだった少年は、ボスの声に従って女の部屋を出て行った。女が呼びかける間もなかった。少年の出て行った扉を見つめて立ちすくむ女のそばへやってきたボスが、倒れた椅子をゆっくりと起こし、女を座らせた。
「仕事って、ルーユィはまだ子供よ」
「だがその辺の大人より優れている。先生が優秀なのだろう」
人間という愚かな生き物が持つ無限の欲望を具現化した針がいくつも突き立てられる地球儀を、椅子にかける女の背後から腕を伸ばしたボスがくるりと回す。顔の横を通るボスの腕から高級そうな香水の匂いと、その奥に、タバコとも葉巻とも違う煙たい香りが漂うのを女は嗅いだ。自分と同じ石鹸の香りをさせる少年にこの匂いがついて帰ってくる、そう思うだけで女は息がしにくくなる。
「……危ないことはないのよね」
「女は仕事について詮索はしない、そうだろう?」
針で刺した指の治療だけでもさせてほしいとボスに嘆願するも、にべもなく断られ、女は一人、部屋に残される。このあと少年と共に見るはずだったドキュメンタリー映画も、ティータイムで食べるはずだった二人分の茶点も、夜の授業で添削して返却する予定だった英語の作文も置き去りだった。少年がこの館にやって来る前の日常と変わらない、ボスから与えられた広い部屋での一人時間を改めて得て、女はどう過ごして良いか分からなくなっていた。読みたいと思っていた小説の続きを読んでも良い。エステティシャンを呼んで体の手入れをしても良い。ゆっくりと庭園を散策し季節の花々を楽しんでも良い。しかし、どれもしたいと思わなかった。
「ただいま、戻りました」
夕食の時間からさらに数時間過ぎた夜更けの入口に少年は帰ってきた。ボスが特別に仕立てたクラシックウーステッドのスーツは少年によく似合っていた。真新しいスーツに固められた少年の体からはどこか緊張感が漂っている。どこに行ったのか、どのような仕事だったのか、何をしたのか、何かされたのか。投げかけたい幾つもの質問を飲み込み、女の部屋をたずねてきたというのに、開けはなした扉の前から部屋へ入ってこようとしない少年の元へ女は駆け寄った。
「おかえりなさい。遅かったわね。疲れた? お夕食は食べたの? ルーユィの好きなライチを冷やしてあるのよ。先にお風呂がいいかしら。お湯をためましょうね−−」
女は外気に冷えたのだろう少年の冷たい手を両手で握った。そのまま手を引いて部屋の中へと促す。いつもであれば女のしたいようにどこへでも手を引かれていくはずの少年は動かなかった。
「ありがとうございます、先生。今日の語学の授業はお休みでも良いでしょうか。もう休もうかと」
「あ、そ、そうよね。ここで寝ていく?」
「いえ、自室に戻ります。先生も早く休んでくださいね。おやすみなさい」
少年は自分の手を握る女の手を、できるだけさりげない力ではずした。離れていく少年の指には手当されないままの針の跡が小さく赤く滲んでいる。手当だけでも。ボスにすがったように少年にすがっても良かったが、女はそうしなかった。少年が外気を吸った自分の体に女が触れるのを嫌がると、直感的に思ったからだった。
「おやすみなさい。良い夢を」
扉を閉める少年に手をふってから、女はベッドにもぐり、今晩少年と読もうと思っていた本を一人で読むこととした。
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夏の避暑のためにとボスが所有している高原の湖のほとりにある小さな山小屋の小さなダイニングルームには夕方の日差しが低く差し込んでいた。そのダイニングルームのテーブルセットに腰掛け、地元の住民から分けてもらったスナップエンドウの筋を黙々ととっている女に、ボスがある包みを差し出した。仕事のために一度、港に戻っていたボスはいつの間にかこの小屋に戻ってきたらしく、それに気付いていなかった女は目を丸くしている。これもまた地元の住民からもらった川魚の下処理をしていた少年が、魚の血で汚れた手をシンクの方へ向けたまま、包みが置かれたダイニングテーブルを振り返る。
「プレゼントだ。受け取ってくれるかい?」
軽く洗った手で包みを開けた女は小さく「あっ」と悲鳴のような声を漏らした。
「これ……『謡本於裳佳介』?」
ボスは小さく肩をすくめて見せた。肯定の返事代わりだった。女は震える手で包みの中から本を取り出した。桔梗色の帙をそっと開いて、中の和綴の一冊をめくる。日中の暑さで倦んだ女の顔が見る見ると生気を宿していく。ページをめくるごとに瞳は輝き、喜びで唇が撓むのを抑えられないでいる。憧れのプリンセスの衣装を買ってもらった小さな女の子のように恍惚としたその表情を、ボスは満足げに見ていた。
「気に入ってくれたかな」
「もちろん! ずっと読みたいと思っていたの! どうして私がこれを欲しがっているって分かったの?」
「毎日、君のことばかり考えているからかな」
国会図書館のオンラインサービスでも読めるのだけど、やっぱり実物が欲しくて。と呟きながら本編と、その下に収められた附冊をパラパラとめくる女の、興奮で桜色に染まっていく頬をボスがそっと撫でた。女は頬を撫でる手をとって、自分の首へ回し、自身の腕はボスの背へと滑らせた。
「嬉しい! 本当に、嬉しいわ。ありがとう」
「君の喜ぶ顔が見れて私も嬉しいよ」
リップ音を立てながら頬へ何度もキスをする女の髪を撫でるボスはどこか安堵の表情を浮かべていた。このプレゼントも、この山小屋への避暑旅行も、少年を仕事に連れ出すようになって明らかに気分を害していた女を気遣ってのことだったからだ。あれ以来、少年はたびたびボスの仕事に同行し、その度に女は「勉強の時間が取れない」「子供を遅くまで連れ回すなんて非常識だ」などの小言をボスにぶつけていた。港湾を牛耳る組織のトップに対し気後れせずに意見を述べる人間はこの女一人だけであり、その忌憚のない意見でボスの心を乱すことができるのもこの女ただ一人であった。数ある汚れ仕事にも顔色を変えることのない男が女一人の機嫌で右往左往させられている様子を一番近くで見ている少年には、それが不思議でもあり、また面白くもあった。加えて、自分を理由に大人二人が言い合いをしているのはどこか気分が良いのであった。
「ところで、久しぶりに二人で出かけないか? 夕日が綺麗だ」
「喜んで。でも、少し読んでも良い?」
「そうなるだろうと思ったよ。先に渡さなければ良かったな」
「うふふ、ごめんなさい。でもちょっとだけでいいから」
「良いんだ。存分に。そのためのプレゼントだからね」
「ありがとう。愛しているわ、ミスター・スー」
ボスの対外的な呼び名を慇懃に呼んで、女はダイニングチェアに腰かける。自分の誘いに乗るどころか、断りの文句を考えるのさえも煩わしそうにしている女の態度にむしろ喜んでいるらしいミスター・スーは、台所で魚の内臓を取り除き終わった少年の元へやってきた。
「マイ・ボーイ。ふられてしまった私の相手をしてくれるかい? 玉突きでもしながら一杯やろう」
「あら、ルーユィにお酒はダメよ。未成年なんだから」
「君の先生は随分お堅いんだな」
「そのようです」
その晩、女は私室から出てこず、翌朝になって寝不足で青くなった顔を見せ、男二人を笑わせたのだった。