港に捧ぐ茶詩   作:リネン_

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五碗肌骨清し


五碗肌骨清

 少年がミスター・スーの仕事の一部を請け負うようになってしばらく経った。同行だけでなく少年一人が担当する案件もあるらしかった。女に詳細は明かされなかった。秘書の男にそれとなく聞くももちろん教えてもらえるはずがなかった。もう少年は女がいなくとも文字の読み書きができた。多くの言語を操ることができた。複雑な計算も、難しい歴史も、各国の文学も、少年の中には十分蓄えられていた。さらなる学びを得るための基礎は全て揃っていた。教師として指導を行った女の功績であり、短期間で知識を自分のものとした少年の才能によるものでもあった。もう女教師の役目は終わりつつあったのだ。

 

 少年の知性はミスター・スーにとって想定外かつ喜ばしい副産物であった。女の相手役として買ったつもりが、組織の誰よりも有用な人間に育ったのである。ミスター・スーは自分のこなしてきた仕事を続々と少年に引き継がせはじめた。部下や取引相手に自分の代わりとして相応の態度をもって接するよう求めた。少年は謙虚に、しかし堂々と立ち回った。少年の知性がそうさせたのだった。若輩者の自分の実力、ミスター・スーから求められる結果、組織内での立場、複雑に絡み合う政治を攻略していくのは、難儀ながらも愉快であった。

 

 男たちの世界に身を浸し、それを興がる少年に、女は少しの寂しさを感じていた。小さかった赤子があっという間に成長してしまうことへ喜びと同じくらい寂しさを感じる母親のようでもあり、自分の知らない場所で人生を充実させる恋人の姿に安堵と同じくらい嫉妬心を感じる少女のようでもあった。複雑な思いを抱いていながらも、それでも少年を前にすれば、できるかぎり甘やかさずにはいられないのもまた事実であった。その甘やかすべき存在の少年の顔が包帯で半分以上隠れているところを見て、女は悲鳴を上げられないほどに驚いていた。

 

「ルーユィ、それ……」

 

 女は震える手で少年の頬を挟み込み、包帯で隠れていない左目を覗き込んだ。夕餉の食堂でのことだ。すでに食事は運ばれており、珍しく同席するミスター・スーと共に、食堂に現れない少年を案ずる言葉を交わしながら前菜と食前酒を口にしていたところだった。

 

「おそろいにしたんだ」

 

 使われなくなって久しい石造りの暖炉の前の席が定位置であるミスター・スーは、高い背もたれのダイニングチェアにゆったりと腰掛けたまま言った。配膳係が食前酒のなくなったグラスを片付け、ワインを注ぐのを左目で見ている。ミスター・スーの右目は黒い眼帯で覆われている。女がこの館に来た時にはすでにこの眼帯はボスの顔の一部になって久しかった。その昔、鉄火場にも顔を出すことのあったボスが、大きな抗争で右目を失ったというのは、館に出入りしていた部下の男から聞いた話である。口の軽い男だった。そして、その話をしてすぐ、その男は姿を消した。

 

「なんてことを……」

 

 このままでは少年の頬に爪を立ててしまいそうだと恐れた女は震える腕を少年の体へ回した。このところ背が伸びた少年は女の細い腕の中、直立不動でその艶やかな髪を見下ろすだけだった。抱きしめ返すこともない、背を撫でることもない。女はボスの愛人で、少年はボスの部下で、今、ボスは女を抱くことを少年に命じていないからだった。

 

「なんてことをっ、この子はあなたじゃないのよ! そんなことも分からないの!?」

「いいんです、先生」

「よくない! 片目の不自由をよく知っているあなたが、なぜこんなことができるの!? 他者を傷付けてまで、あなたはこれ以上何を得ようというの!?」

 

 悲鳴のような引き攣った声で叫ぶと、少年にすがりつきながら、女は力なくへたり込んだ。指一本動かさなかった少年は女を受け止めようと慌てて膝を折った。タイル敷きの冷たい食堂の床の上に座り込み、二人は抱き合う形となる。

 

「奪わないで、もう何も、私たちから、何も奪わないで」

「すまない……」

 

 前菜の後にサーブされたスープが冷えていくのを左目で眺めているミスター・スーが小さく謝罪を述べた。女を抱きとめた腕が生ぬるい水分で濡れていくのを感じながら、少年はゆるく首を振る。「老大、謝らないでください」。いつの間にか少年は男への呼び名を変えていた。それは組織内での少年の立場の変化を表しており、また、男と少年の間の関係の変化も表していた。

 

「先生、すみません、オレが望んだんです」

「そんな……」

 

 少年の言葉が嘘か本当かは分からないが、女の知らないところで二人の男が共謀したものだったことは女に理解された。だからといって、少年に右目を捨てさせた男を到底許せる気もしなかった。涼しげな造作に、幼さの残る丸い瞳が愛らしい少年の顔が思い出され、同時にその大半が包帯に覆われている現状に自然と涙が溢れた。そうしていつまでも少年に抱きついたまま泣いている女を見て、ミスター・スーは少年に女を私室へ連れていくよう促した。

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