港に捧ぐ茶詩   作:リネン_

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七碗吃し得ざるに也ただ覚ゆ両腋習々清風の生ずるを


七碗吃不得也, 唯觉两腋习习清风生

 広い屋敷の中は静まり返り、人の気配がほとんどしなかった。1階の最も広いマスタールームに見慣れない人間が足音も立てずに出入りする。かかりつけの病院から派遣された看護師たちだった。

 

 ミスター・スー、つまりボスが倒れたのは数日前だった。仕事を終えた帰路の車中、胸をおさえ、苦しみ出したミスター・スーはそのまま病院に運ばれた。そして、ミスター・スーが倒れたという事実が外に漏れるのを恐れ、病人の身柄はすぐに屋敷へ移される。港湾を仕切る裏社会の重鎮が病院で動けなくなっているなど知られたら、容易にパワーバランスは崩れ、ミスター・スーの虫の息さえ止めようという襲撃がないともいえない。病院に迷惑をかける前に、と看護師を幾人か雇い早々に病室を後にしたのだった。

 

 ミスター・スーが心臓に持病を持っていたことは主治医の他、秘書の男、愛人の女だけが知っており、そしてここに後継として育成されている少年が加わった。ボスの不在を悟らせまいと、組織中の仕事を滞りなく進めるため少年と秘書は東奔西走を余儀なくされ、多くの人間を束ね、多くの権益と資産をもつにもかかわらず、十分な設備のある病院で治療を受けることも、多くの人に見舞われることもなく、ただ広いだけのベッドに孤独に横たわっているミスター・スーに寄り添うのは愛人の若い女だけだった。組織内にこの状況を吹聴する間者がいないともしれない。使用人もほとんどが無期限で暇を出され、屋敷内は時折交わされる看護師同士の申し送りの声以外は静まり返っていた。

 

 しかし今、屋敷の中をバタバタと慌ただしい足音が響いている。1階の最も広いマスタールームに呼び出された医者が飛び込み、看護師たちが忙しなく出入りしている。天蓋付きの大きなベッドに横たわるミスター・スーの容体が急変したのだ。仕事を切り上げてかけつけた少年はもうほとんど意識がない老人を、青い顔で見下ろしている女の姿を見た。

 

「先生……、お医者様の邪魔になりますから出ましょう。先生も休んでください、あなたまで倒れてしまいます」

 

 この数日、ミスター・スーのベッドに寄り添い続け、痩せた女の肩を少年が抱く。マスタールームの出入口へ向かうよう促した。しかし、女は邪険そうにそれを振り払った。

 

「嫌よ。この人が勝手に死なないように見張っていないと」

 

 女は少年の手を振り払った勢いのまま、鼻に管が差し込まれ、もはや自力で呼吸さえままならない老人の胸ぐらに掴みかかった。部屋にいた医者や看護師が色めき立つも、女を止める者はいなかった。もう、老人は助からないことも、女にそうするだけの理由があることも、皆薄々と勘付いていたのだ。

 

「勝手に死なないでよ! 最後は、私に殺させてくれるって、言ったくせに!」

 

 乾いた音が響く。ミイラのように痩せ衰えた老人の頬を女の手が張った。そして、そのまま老人の胸の上へ顔を伏した。肩を震わせ、嗚咽を漏らしている。少年は激情する女をなだめ、抱き起こすことなどできなかった。孤独を際立たせる広いベッドの中に横たわる老人、その老人を罵り殴りつける女。この二人の別れに自身が入る隙など一寸もないことなど明らかだったのだ。

 

「返して、返して、あの人を、私の夫を返してから死んで」

 

 女はかつて結婚生活を送ったことがある。この港の倉庫で働く男が夫だった。ある日、夫は倉庫群に並ぶ冷凍庫の一つから固くなって見つかった。そして、未亡人となった女は夫の雇い主のさらに上役という人間に連れられこの屋敷へ来た。実家へ帰ることも、別の男の元へ嫁ぐこともかなわず、女は港湾の裏の顔であるミスター・スーの囲われものとなった。ミスター・スーのスーは蘇州の蘇だということだった。その蘇州に置き去りにしたミスター・スーのかつての恋人に、女は似ているらしかった。

 

「私も、連れてって……」

 

 弱々しく拳を老人の胸へ何度も振り下ろす。もう意識がなくなったはずの老人の乾いた唇がゆるく弧を描くように動く。女が自分の最後にこれほど激しく感情を揺さぶられている、それだけでも十分に幸福な人生であったとでもいうように。

 

 もはや老人の蘇生を諦めた観衆が見つめる中、女の小さな叫びだけが静まり返る屋敷に響いていた。

 

-

 

 ミスター・スーの逝去はそれほど大きな衝撃にはならなかった。すでに多くの事業は少年や秘書の男に振り分けられ、手に余るものは売却すらされていた。自分の死期を悟っていたミスター・スーは経営者として最後まで抜け目なく仕事をこなしてからこの世を去ったのだった。そのため、残された者は死者を悼む間もなく忙殺され、大々的な葬送の儀も催されず、屋敷に付随する広い庭園にミスター・スーの名が刻まれた小さな石碑が立てられるだけでボスの死という事件は収束した。

 

 その石碑の前に花を供えるのが日課の女は、今日も庭園を歩き、途中の東家で一人、茶を飲んでいた。ボスの危篤に際し使用人のほとんどに暇を出してから、屋敷の中で女の身の回りの世話をする者はいなくなっており、この庭園での茶席は、女が自分で湯の入った魔法瓶や茶器をバスケットに用意して開くわびしいものだった。

 

「先生」

「ルーユィ」

 

 かつての茶飲み友達が現れ、女は少し痩せた顔をほころばせた。しかし、庭園に咲いては朽ちる季節の花々の一つのように、ふと開き、すぐに盛期を終えた。エクステリア用の座り心地の悪い固い椅子と、それに腰かける固い表情の女を見下ろし、少年は、固い椅子と揃いの鉄製のテーブルの上に小さな紙切れを一枚差し出す。

 

「もうルーユィではありません。先ほど正式に老大の名を引き継ぎました」

 

 置かれたのは少年の仕事用の名刺だった。組織内での襲名の挨拶を終え、手にしたばかりの真新しい名刺である。女の細い指が、幼い少年が持つにしては上質すぎる紙であつらえられた名刺を拾う。名刺に刻まれた名に目を落とす。

 

「オレの名前は蘇枋。ミスター・スーの蘇をいただいた日本名です」

 

 少年は慇懃に頭を下げる。女は少年の仕草に目を向けず、名刺を見つめている。

 

「彼はオレを日本人にするつもりだったようで、この名前のパスポートが残されていました。学校入学の手続きも済んでいるそうです。日本人の若者は学校に行くものらしいですよ。来春からオレはハイスクールの学生ですって」

 

 笑えますよね。少年はスーツの肩を揺らす。襲名披露会のために着込んだスーツは、かつてミスター・スーが少年のために仕立てたクラシック・ウーステッドのスーツだった。初めて袖を通した頃はぎこちなかったスーツ姿も、今となっては肌の一部のように馴染んでいる。

 

「やめて」

 

 女は手にしていた名刺を裂いて、風に預けた。庭園の花が花弁を散らすように、白い断片が宙を舞う。

 

「あの人は最後まで私から何もかも奪っていくのね」

 

 女の夫も、女の自由も、絵本を読み聞かせた少年も、少年に与えた名前も。世を去った男になおも搾取される女は遠い目をしながら自分で淹れた茶を口にする。透明なポットの中で大輪の花が揺れる工芸茶は、豊かなジャスミンの香りを女の鼻先に漂わせた。茶を一口含んで香りを肺へ送っている女の手を、少年がつかむ。

 

「オレを殺してみますか」

「え?」

 

 手をつかんだ拍子にカップから茶がはねた。はねた茶が少年のカフスにシミを作る。じわりと薄茶色のシミが滲み、広がる。そんなことは意に介さず、少年は女の顔を覗き込んだ。女の視界が、右目を眼帯で覆う少年の顔で埋まる。眼帯をした男の顔。女はこの顔を見飽きるほど見てきた。

 

「オレはボスを引き継ぎました。今のオレはあなたが憎み、あなたが愛したあの人です。彼の代わりにオレを殺してみますか」

 

 女の手からカップが落ちる。ガラス製のカップはテーブルにはね、足元へ落ち、甲高い音を立てて割れ散った。このガラス片でも頸動脈を裂くくらいはできるだろう。ゆっくりと腰をかがめ、少年が一番大きなガラス片を拾う。女は、他者の命を奪う、その可能性が足元でキラキラと光を反射させながら転がっているのを見下ろしていた。

 

「オレは彼の代わりにこの港で仕事を続ける。あなたのことも囲い続ける。あなたはあの人の影を拭えず、この箱庭から出ることも叶わず、ゆくゆく老大の声を忘れ、かつての夫との日々も忘れ、どこの者とも知れないオレに飼い殺され、老い、衰えていく」

 

 少年はガラス片を自身の喉に当てた手の上に、女の手を誘導した。さらに空いている手を女の手の上に重ねる。狼狽する女の目から左目をそらさずに言う。

 

「あなたの前にいる男は、夫の仇です」

 

 四方が解放された東家に風が抜ける。港を見下ろす高台の屋敷には、海からの風がよく吹いた。風にあおられた前髪で少年の左目が隠れる。出会った時のように、両目とも隠した少年は、出会った時とは違う強さで女を見ている。少年の手に挟まれた女の手が震えた。強い風のせいかもしれなかった。強い眼差しのせいかもしれなかった。

 

「でも、夫の仇のあの人は、暴力を振るったり、博打に生活費をつぎ込んだりもしなかったの。会社の商品を横流しすることも、薬の売買に手を出すことも」

 

 女の夫はミスター・スーの命で殺された。それは事実だった。しかし、それは女の夫がミスター・スーの持つ会社の商品を勝手に売り捌いては私腹を肥やしたり、ミスター・スーの持つ倉庫を薬物取引の場にしてそのマージンを稼いだりしていたことが理由だった。女は夫の残した負債のため売られるはずだったが、それを不憫に思ったミスター・スーが、女を自分の愛人という名目で保護することにしたのだった。

 

 夫であった男から日常的に受けていた暴力のため痣だらけだった女の顔が、ミスター・スーのかつての恋人に似ていたというのが、果たして事実かどうか確認する術はなかったが、女は暴力に怯える日々からも、見知らぬところへ売り飛ばされる危険からも脱し、それどころか、ボスの愛人としてあらゆる人々にかしずかれることになったのだった。ボスは女を愛し、慈しみ、望んだものは全て与えた。貧困と女という性のために幼い頃から押し殺し続けてきた知識欲を存分に満たすほどの蔵書の量は、そのまま、ミスター・スーから女への愛情の量であった。

 

「あなたのこと、本当の子供のように思っていたの。ついぞ子供ができなかったあの人と私の。三人で過ごす時間は家族のそれのようで、楽しかった。はたから見れば歪でしかない関係だとしても」

 

 空いている手で女は少年の手を下げさせた。少年の手からガラス片が抜け落ち、床に当たったそれはさらに細かく割れた。割れたガラスを握っていたせいで傷ついた少年の手を、女は大事そうに両手で包み、ゆっくりと口付けた。新たなボスに忠誠を誓うような、無茶をする息子を諭すような姿だった。

 

「三人で行った山小屋を覚えている? 嵐が来て、家がミシミシと悲鳴を上げるたび、あなた、ひどく怖がっていた」

 

 少年の手を引いて椅子に座るよう促した。今日の少年はかつてのように素直に女の手に従った。自分の向かいに座った少年に、ティーカップを差し出す。一人きりの茶会であっても、女は常にティーカップを二つ用意していた。茶飲み友達が加わるかもしれないからだった。用意していて良かった、女は自身の周到さに満足した笑みを浮かべながら、茶をカップに注ぐ。

 

「えぇ。どうせ眠れないならと、老大がとっておきのワインを開けてくれて。それを三人で飲みました。そして、一晩中チェスをしました。あなたはワインを飲んでしまうとチェスには参加せず、彼の膝に頭を乗せ本を読んでいましたね。そのおかげであの晩はオレの勝ち越しでした」

 

 ポットの中で開いた花弁のように、思い出話に花を咲かせ、二人は談笑をする。茶の香りに包まれながら少年と会話をするなど、どれほどぶりだろうか。女は足元で煌めく割れたティーカップが視界の端にあるのを見てみぬふりしながら、かつて愛した日々の亡霊に身を委ねた。

 

「そう。あの山小屋。あの山小屋を頂戴」

「あれを、ですか」

「そして決して会いに来たりしないで」

「酷いことを言う」

「わがままな女がかわいいって彼ならそう言う」

「あんな山奥でなくても。独り住まいがしたいならオレの使っていた別棟があります」

「もう、海の香りはうんざりなの」

 

 拭き抜ける風はティーカップから立ちのぼるジャスミンの甘く、どこか青い香りを遠くへさらっていく。風にのって、微かな潮の香りが、港を行き来する船の汽笛とともに二人の庭園に届く。庭園の片隅に建った、ミスター・スーの石碑にも風は吹いているのだろう。

 

「でもダメです。オレはあのボスの後継ですよ。あなたを自由にするわけがないじゃないですか」

 

 風に舞った女の髪を少年の指がつかみ、唇に寄せる。

 

「一生、あなたはオレのものです。先生」

 

 庭園での茶会はたびたび開かれた。石碑に花を添え、手を合わせ、茶を飲み、読んだ本の話などをした。最近は学校の友人の話を聞くのが楽しい、と女は秘書の男に漏らしたらしいが、秘書の男は相変わらず大した返事をしないそうだ。

 

終

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