クレープと懐石
教会通りから明治通りに出る街角でクレープにかじりつく少年が、端にクリームをつけた口をあんぐりと開けた。「あ」。その声に目線を送った通りがかりの少年も、クリームこそつけていない口を開ける。「あ」。目を丸くして互いを見つめ合ったまま動かない少年たちを、それぞれの横にいた女たちが不思議そうに眺める。
「蘇枋?」
「桜君」
桜と呼ばれたクレープを頬張る少年は、クラスメイトの姿を今一度、足元から頭まで丁寧に見直し、怪訝そうに眉をひそめた。いつも見る制服姿と随分と様相が異なっていたからだった。蘇枋と呼ばれた通りがかりの少年はスーツを着込み、ネクタイまで締めている。冠婚葬祭にしては華のあるピンストライプのスーツ姿の少年は内心の動揺を隠しながら、その視線に微笑みをもって返す。その笑みが何かを隠そうとしている笑みであることを察知した桜が、さらに顔をしかめた。
「こんなところで何してんだよ」
こんなところ、というのは休日の原宿の街角のことだ。若者と外国人旅行者がごった返す繁華街。生まれつきのもののためにその異色さを見咎められてきたらしい、黒と白に塗り分けたような桜の髪色は、このビビットな色彩が基調の街において随分と馴染んで見えた。
「桜君こそ」
「オレはコイツの付き添い」
隣で桜と同じようにクレープを食べている少女は小さく会釈をした。少年たちよりもさらに歳若い、小学生か中学生ほどの少女だ。
「へぇ。デート?」
「で、ででで、で、デートじゃねぇよ! 梅宮んとこのガキの子守だ!」
少女は、少年たちの学校の先輩が所属する児童養護施設の子供だった。この辺りに行きたい店があるらしいこの少女に、施設の人間を差し置いて最も懐かれている桜が保護者の役を担うことになった、ということだった。桜の言葉を聞いて不満げな顔をしている少女にとっては、これが”子守”と”デート”のどちらだったのか、なんとなはなしに蘇枋には察せられたが、口に出すのは野暮だと考えた、というより、言わないでいる方が今後の展開を楽しめるだろうと考え言及をやめた。何か含みがありそうな蘇枋の表情に気づいた少女はうっすらと警戒心を抱くも、慕う桜の友人であることと天秤にかけているのか、じっと二人のやりとりを見るに徹していた。
「お前こそ、その、ツレがいんじゃねぇのかよ」
言いにくそうに口を尖らせた桜が蘇枋の横に立つ女をちらりと見る。視線を感じた女は桜を見て、ニコリと微笑んだ。他者の視線に敏感なところも、何も言わず微笑みだけで返事をするところも、蘇枋に良く似ている、と桜は思った。その桜に女は声をかける。
「はじめまして」
女は薄いベージュ色のネイキッドネイルを施した手を桜に向ける。握手を求めているのだ。女が動いたことで、女がつける香水の香りがほんのりと漂った。クレープ屋の前の甘い香りとは別種の甘い香りに狼狽した様子の桜を見て少女が眉をひそめる。女はいじらしい少女の様子が気に入ったのか、他所行きの微笑みの口角を思わず震わせた。その震える口角に気づいた蘇枋は慌てて、慌てたように見えないよう取り繕いながら、言葉を挟む。
「こちら、オレの語学の先生のルー先生」
「……そう、ルー。よろしくね。サクラくん」
クリームとチョコソースがついた手をTシャツで乱暴に拭き、握手に応えた桜のあとに、女は少女の手も取り「よろしくね」と声をかけた。突然自分へ声をかけた年上の女性にあっけに取られている少女へ気を払うことなく、桜は蘇枋から受けた説明に小さく首を傾げていた。
「先生……? そういう雰囲気か……?」
女は明治通りの方へ目線をやる。路上に車を停め、自分と蘇枋を待っている男が立っている。女の視線に気付いた男は明治通りの歩道を埋め尽くす人波を、大股に横切りながら少年たちの元へやってきた。やってきた男の腕に女が自分の腕をからめる。ミスター・スーの秘書から蘇枋の秘書になった男は、女の突拍子もない言動には慣れていたが、驚くものは驚くらしく、少し目を大きく見開いている。初対面の人間には突然腕を取られて驚いている程度にしか見えない表情の変化の小ささはさすがというところだろうか。
「今日は私たち夫婦と隼飛くんとで食事会なの。昔からのお付き合いでね、時々こうして家族ぐるみで集まるのよ。桜くんたちも、お夕飯がまだだったら、どうかしらご一緒に。個室だし服は何でもいいわよね?」
女が言った。いつものゆったりとした話し方であった一方で、他者からの疑義を受け付ける気がないという意思を感じさせる話し方でもあった。腕を取られた男は、女の意図を理解したのか、うまくはない笑みを浮かべ頷いてみせる。
「ああ。ぜひ。君が桜くんか。隼飛くんからよく話を聞いているよ。私たちとも仲良くしてくれたら嬉しい」
訝しげに眉を寄せた顔で、蘇枋、蘇枋の先生と名乗る女、女の夫と名乗る男の三人の顔を見比べていた桜は、友人が自分の話を他人にしていると聞き、さっと顔を赤らめた。
「あ? 話? こいつが? しょうもねぇことばっか話してんだろ」
「ひどいなぁ、桜君。そんなわけないじゃないか。こうやってクリームつけたまま会話してくれるかわいい級長だって話しているよ」
「ざけんな、お前、そういうのがしょうもねぇって言ってんだよ!」
慌てて袖で顔をこする桜、それを見て笑う蘇枋。少年たちのやりとりに女は目を細める。
「桜くんはとてもかっこよくて頼りになるんだって聞いてるわ。お友達の話をする時、この子、とっても楽しそうなのよ」
作り物の笑みを崩した女は、目尻を下げ、歯を見せて笑った。女は、学校というものに通うようになった少年が充実した日々を過ごしているのを目の当たりにしていた。その日々において友人たちの存在が大きいことは、彼が語る学校での出来事から感じていた。あの館で過ごす自分や仕事との日々だけでは得られなかったものを、少年が友人や、学校のある町の人々から享受している、そのことに女は感謝していた。この少年の人生はまだまだ豊かになる。それが女には何より嬉しいのだった。そう考えると、一足先にこの世を去ったあの老人の置き土産は、さすが歳をとっていただけあって、慧眼だったといえるだろう。
女は改めて、同じ年頃の友人を得て、年相応にじゃれあう少年の様子を前に頬をほころばせずにはいられないでいた。
「先生、やめてくださいよ」
蘇枋は、困ったように、恥ずかしがるように、少しはにかんで女を見た。学校でだけ見せる友人の前での自分を母親に見られた小学生のような照れ臭さ。愛する女の前では格好をつけていたいにも関わらず、友人とはしゃいでいるところを恋人に見られたような気恥ずかしさ。さまざまな思いでありながら、情愛としか呼べない熱を孕んだ二人の視線が目前で交錯し、桜の顔がボッと赤くなる。
「……!」
顔を赤くして何事かに動揺している桜の様子を見て、秘書の男は蘇枋と女に視線を配りつつ口を開く。少年少女に対し威圧的にならぬよう、常時の無表情をどうにか動かしにこやかに声をかける。
「人数が変わるなら連絡しよう。どうかな?」
「フレンチ、嫌いかしら?」
男の腕に頭を寄せた女が男に問うような、少年たちに問うような曖昧な言葉をなげかける。ドレスコードがあるフレンチの店に今からディナーに行く。社会経験に疎い若者でも自分達が場違いであることは理解できる程度には情報を含ませ、加えて自分がスーツ姿であることにも理由をほのめかす女の言葉に、蘇枋は師の恐ろしさを感じずにはいられなかった。
「お、オレたちは、ポトスで晩めし食うことになってっから」
つかえながら桜が答える。桜のTシャツの裾をつかんでいる少女が小さく、しかし何度も頷く。彼らの返答にルー先生とその夫は満足そうに微笑んだ。
「そう、ではまた今度ぜひ」
「おう」
明治通りに停めていた車に三人は乗り込む。後部座席に女と蘇枋が、運転席に男が乗ったシルバーのクラウンは滑るように発進し、明治通りを代々木方面へ進んだ。その様を、食べかけのクレープを片手にした少年少女が見送る。
「言っていた通り、可愛い子ね。桜くん」
「えぇ、ついからかいたくなりますよね」
ぐるりと回って246を目指す車窓に肘をついた蘇枋は、話しかける女へ顔を向けずに答えた。まだ宵には早い夕刻のパワーウィンドウに、冴えない表情の蘇枋がうっすらと写り込む。
「ふふ。ご機嫌斜め?」
自分の方を見ようとしない蘇枋の膝に指を滑らせながら、女は声を漏らしながら笑う。悔しそうにその指先を見下ろしながら、蘇枋は自分の指をそれにからめる。
「……あなた、いつご結婚を」
歩道橋のある交差点は今日も右折が混んでいた。動かない景色に文句を言うように、蘇枋は小さくつぶやく。ここで笑ったら本当に機嫌が悪くなるだろう。女は先ほどのように声を漏らしそうになるのを我慢し、一息ついてから正当性を述べる。
「仕方ないじゃない。あの子、聡そうだから」
「そうですね。彼の恋愛センサーは夫婦と聞いた後も疑っているようでしたし」
「恋愛センサー?」
「人から人への恋情の機微に敏感なんですよ」
「へぇ。その恋愛センサーが敏感な桜くんは何を疑ってたの?」
絡み合った指先、女の親指の腹が蘇枋の親指の爪と皮膚の境目を往復する。その動きを押しとどめるように蘇枋の五指が女の指のまたに食い込んだ。指に力を入れると同時に蘇枋の首がうなだれる。大きなため息。
「はぁ」
「ふふ」
ため息を聞いて、女は今度こそ声を漏らしながら笑った。その様子をうらめしそうに蘇枋は睨んでいる。
「オレが桜くんみたいな人をからかいたくなるのって、ルー先生に似たんでしょうね」
「あら、人のせいにしないでちょうだい」
車は外苑西通りに出る。先代が好んだセンチュリーはいかにもな感じがして好まないと、蘇枋が苦言を呈したことにより、最近の移動車はクラウンになった。女はどちらでも良かったが、秘書の男はクラウンの方が運転しやすいとのことだった。
「あの子の目には誰が誰に恋してるように見えたのかしらね」
「それはもちろん、世界中があなたに恋してると思ったでしょう」
「随分おざなりなお返事だこと。ねぇ、あなた?」
「巻き込まんでくださいよ」
片側四車線の青山通りへ大きく曲がりながら、男は口をへの字に曲げる。あまり詳しく聞かないが、家族があるらしい男は、このいつまでもママゴトめいた女と少年のやりとりにまるで興味がなさそうだった。
「家族ぐるみの食事、楽しみね」
「そうですね、先生」
交差点をさらに右折し表参道を西に進む。歩行者が絶えない歩道を横切り、教会の角を曲がる。食事予定の店までもう少しだった。
「向こうもファミリーなんでしょう?」
「えぇ、最近この辺りでよく名前を聞くようになった黒社会だとか。今日はあちらの息子さんたちと交流会、でしたよね?」
「はい。先ほどの子供たちが同席するには少々堅い話になりそうです。念の為、防弾ベストを」
休日ということもあり人も多い一方通行の細道を何事もないようにスムーズに運転する男が助手席に置いてある荷物に一瞥をくれる。
「これ、蒸れるから嫌なんですよね」
「そういう感じなの? 今日。私いていいのかしら」
蘇枋が脱いだスーツのジャケットを受け取りながら女はのほほんとした口調で言った。その言葉を聞いて、助手席の荷物に手を伸ばしていた蘇枋が横目で女を軽く睨む。
「あなたが和食が食べたいというので今日は日本料理にしたんですよ。いつもの香港料理なら融通が効くというのに」
自分の港のあたりにある香港料理店は先代の頃から店主と懇意にしており、商談や会食となるといつもその店を使っていた。店内の様子を知っているのはもちろん、好んで飲む紹興酒のキープボトル、何かあった時の逃走経路、何かあっても動揺しない店員など、都合の良い条件がそろっているのだ。しかし今日は港を離れ、女が希望した日本料理の店での会食である。フレンチというのは少年少女に分かりやすいようあえてこさえた方便であった。
「ありがとうね。でも、あちらにしてみれば我々の使ってる店に呼ばれても警戒するだけでしょう」
「それはそうですが」
女の返答の正当性に蘇枋は言葉を詰まらせながらYシャツのボタンを外していく。その様子をさも面白そうに女は眺めた。ニヤニヤと口元をむずがらせている表情を黙殺しながら、防弾ベストを着込む。
「寄りたいところがあるなんて急に言い出して。そちらが目的だったのでは? おかげさまで、彼らと鉢合わせることになったんですよ」
「鰭崎英朋、良かったわね」
「……それは何よりです」
桜たちと出会ったのは女が寄りたいと言った美術館の帰りだった。見てきた浮世絵の美しさを思い出しうっとりとしている女は、蘇枋が再び羽織ったYシャツのボタンをとめていく。甲斐甲斐しく身支度を手伝う女の手を見下ろしながら、蘇枋は小さなため息をついた。振り回されるのも、世話を焼かれるのも、結局すべてこの人の思いのままなのだった。そして、それは決して不快ではないのだった。首元のボタンをとめやすいよう少し首を傾げた蘇枋は、やはりこの女を振り回し、振り回されることを好んだ老人の姿を思い出していた。
「着きました」
店の前に車が停まる。ジャケットを着直した蘇枋が車の後方を通り、自分が降りた反対側の後部座席のドアを開ける。手を差し伸べる。女の手が重なった。