どう考えたってヤバそうな男と寝てしまったようだ。優雅にティーカップを傾ける男を見ながら、二日酔いでぼんやりする頭を抱えた。
昨日は渋谷で飲んでいた。昼過ぎにアプリで出会った自称・起業家と宮益坂で会って、夜まで粘ろうとするどう見ても胡散臭いツーブロックのその男を千切るために友人を呼び出した。すれ違うのも面倒だからと人の多い渋谷駅付近を反対側まで歩いて、道玄坂の台湾料理屋に入った。酔蟹にしゃぶりつき、金牌をあおり、菜脯蛋をかきこんだ。友人は友人で同棲している彼氏との冷戦状態ゆえ大いにストレスを抱えていたようで、私の呼び出しに感謝を表すとともによく食べよく飲んだ。私はもちろんさっきまで会っていた男が大ハズレでうんざりしていたので、二人で人の悪口を肴に高梁へとすぐに切り替えたのが日の落ちる頃だった。
隣の席に座っていたおそらくアジア系の外国人に声をかけられ、彼らに誘われる形でバーに行くことにした。道玄坂をさらに進んだトップヒルズガーデンのバー。外国資本のそのバーでは異国情緒あふれる調度の間を外国語が飛び交っている。友人はここへ誘った男の一人と寄り添いながら小さな丸テーブルを囲んで飲み始めた。私はカウンターへ酒を選びに行く。台湾焼酎の余韻残る喉をロンググラスのカクテルで潤しながら、そのカクテルの代金を払ってくれた西洋系の外国人と話したりする。黒い瞳がエキゾチックでセクシーだね、だのなんだの言い出したのでトイレに行くフリをして席を立った。今日はもうそういうのは無しでただ飲んでいたい気分だった。トイレでリップを直してから奥のソファ席に混ざる。ショットが入っていていくつか飲んでるうちにさすがに酔ってきた。BGMがマイケルジャクソンになったタイミングで別の席に3Lのビールタワーが入ったらしく店中がワッと騒がしくなった。相席する露出の多い女がふかすタバコの煙の向こうにいる男と目があった気がした。
次の記憶は真っ白なシーツの中だ。
目を覚ますと清潔なシーツに覆われたキングベッドの上に一人で寝ていた。フルハイトの窓からは燦々と太陽の光が差し込んでいる。もちろん見覚えのない部屋だ。一夜のアバンチュールをしてしまったのだと悟る。ため息をつく。こんなことだからしょうもない男としか出会えないし、いつまで経っても真剣な恋愛に発展しないのだ。自分でもわかっている。とはいえ過ぎたことを悔やんでも仕方がないので怠い体をひきずりおこした。部屋と同じくらい見覚えのない質の良さそうな分厚いバスローブの前を掛け合わせながらアバンチュール相手の姿を探すこととする。
「よく眠れた?」
「……おそらく」
「その様子だと昨晩のことはあまり覚えていないようだね」
残念だな、あんなにかわいかったのに。と意味ありげに笑う男は果たして昨日最後に目があった男だろうか。右目を覆う黒い眼帯、長いタッセルがぶらさがるピアスと特徴“しか”ないような人間と一時でも対峙しようものなら、さすがに覚えている気がするのだが。思い出そうとすればするほど頭は痛いし吐き気もするので、お手上げだった。たどり着いたリビングルームの入口に立ち尽くす。そして冒頭に戻るのだ。
「ええっと、ここってあなたの家よね?」
「まあ、そうといえばそうかな」
「それはそれはお邪魔しまして……」
「今さらそうかしこまらないでよ。あ、キミの服、乾燥まで終わったみたいだ。シャワー浴びてくる?」
ピーピーと鳴る機械音に気がついた男が言う、寝室の向かいがバスルームだよ。素直に従ったのは自分の髪から酒とタバコと油の匂いが漂ってきてそれだけで吐きそうだったからだ。もしかしたらすでに何回か吐いているのかもしれない。そしてそのために汚れた衣服を洗ってくれているというわけなのかもしれない。自身の失態の可能性に青ざめる。しかし、頭から熱い湯を浴びてスッキリするともうどうでも良くなっていた。どうせ一夜の関係の男にどんな姿を見せようと笑い話にしかならないのだ。途中まで一緒だった友人も今頃同じようにどこか見知らぬベッドの上で目覚めて頭を抱えているかもしれない。そしてこれらの失敗談を肴にまた飲みにでも行こうとなるのだろう。
シャワーを終えて出ると清潔なタオルと乾いた服が畳まれて置かれ、丁寧にもスキンケアセットが並べられていた。しかも、お高いやつだ。せっかくだから存分に使わせてもらった。手持ちの化粧品でいくらか化粧を施してバスルームを出ると、先ほどと変わらずリビングルームのソファに腰掛けてティーカップを片手に本を読んでいる男の姿があった。その男がシャワーを終えた私に気づいて顔を上げる。
「名前、聞いてもいいかな」
「……そちらから、どうぞ」
「確かに。相手に名前を聞くならまずは自分が名乗らないといけないね」
嫌な顔もせず男は頷く。
「オレは、レオナルド・ディカプリオだ。キミは?」
嫌な顔もせず、なのは当然だった。名乗る気がなかったからだ。私は目の前のハリウッド俳優と同姓同名を自称する男に胡散臭い認定を与える。と同時に真面目に受け答えをすることをやめることとした。こういうタイプにまともに取り合ったところでいいことはない。
「そうね、私は……、エイミー。エイミー・アダムス。よろしくね」
同じ土俵に上がってやると、男は意外そうに目を丸くした。自分から始めておいて驚かないでほしい。驚いた後には声を出して笑った。先ほどまでのとりすました笑みとはまた違ったその笑顔をみると随分幼く見えた。案外自分よりも年下なのかもしれない。しかし、若輩者の私よりも年下の男の子が渋谷を見下ろす一等地で1LDKの立派な部屋に住み、常用化粧品がラ・メールだなんてことあるだろうか。バスルームで塗りたくったザ・モイスチャライジングソフトクリームの香りに包まれながら考える。私の怪訝そうな顔を見て、男はやはりおかしそうに笑う。
「キミってけっこう面白い人なんだね」
「あなたほどじゃないけど」
「ありがとう。じゃ、エイミーって呼んでいいかな。オレのことは、そうだな、レオって呼んでよ」
「オーケー、レオ」
なんにせよ一夜のアバンチュールであることには変わりがない。これ以上詮索したところで何も得るものはないのだ。彼自身がレオと呼んでほしいというのならそうする。どうせこの部屋を出ればもう二度と会うことなどないのだろうから。ここはそういう街だ。
「もっと話していたいんだけど、あいにくもう出かけなくちゃいけないんだ」
男がソファから立ち上がった。廊下に消える。金属音が聞こえるところからするとハンガーから上着をとって羽織っているところのようだった。仕事だろうか。私が起きるまで待たせてしまっていたのなら申し訳ない。一緒にここを出よう。荷物はどこだろうか、と部屋を見回しているところに男が姿を表した。私は呆気にとられる。
「キミはまだここにいてもいいよ。朝食は16階のレストランを使って。部屋番号言ってくれれば好きなもの食べられるから。鍵、ここに置いておくね」
ダイニングテーブルにカードキーを置いた男の袖を思わずつかむ。
「まってまってまって、急いでいるところ悪いんだけど、いくつか聞いてもいいかしら」
「なにかな。あ、そうか、連絡先」
「それもそうだけど! まず、あなた、もしかして学生なの?」
つかんだ袖はスーツジャケットというより学生服のものだった。
「ご覧の通り。高校生だよ」
男は答える。わざとらしさがまるでないあっけらかんとした口調で、わざとらしく両手を広げながら。驚きと動揺で混乱した私は思いつく限りの疑問を男にぶつける。学ランと思しき学生服を羽織ったその男に。
「高校生がなんでバーにいたのよ。しかも終電ないような時間だったわよね、あの時。不良がすぎるでしょ。あと、ここが家って言ったけどホテルよね? 部屋の鍵、ホテル名入ってるし。ていうか、どこのどいつともわからない人間に鍵を預けて行くなんて不用心すぎると思うんだけど……!」
「わあ、聞きたいことがたくさんあるんだね。興味を持ってもらえて嬉しいな。うん、そうだね。まず一つ目。バーにいたのは知り合いに会いに行ってたんだ。もちろん、お酒は飲んでないよ。少し遅い時間になっちゃったのは良くなかったかもね。次に、ここは正確にいうとサービスアパートメントだよ。ホテルの系列ではあるけど。最後に、どこのどいつとも分からない、なんて言わないで。キミのこと少しは知っているつもりだよ。たとえば、耳が弱点、とか」
楽しそうに口の端を吊り上げるこの男が高校生だということにわななく。そしていかにも私の個人的な部分を知っている風な口ぶりに驚きよりもおののきが勝った。この男が高校生ということは、普通に考えたら10代だ。私のことを良く知っていて、昨晩は可愛かったとかなんとか言っていたということは、そういうことをシたということだ。つまり私は昨晩この10代の男の子と同衾したということで。
「……私、犯罪者?」
一夜のアバンチュールだからと良くも悪くも割り切った気持ちになっていたが、相手が未成年となれば話は違う。過去最大の失態だ。酒の肴にしてはヘビーすぎるだろう。二日酔いで痛んでいた頭が、今度は別の理由で痛くなってくる。おまけに動悸も激しくなってきた。
「そうだね、青少年健全育成条例違反、未成年者略取及び誘拐罪、場合によっては不同意性交罪、といったところかな。だけど、このへんって未成年側が訴えなければ逮捕されたりしないはずだったような」
ご丁寧に口に手を当て斜め上を見ながら思案する男はやはりどこか楽しげである。
「略取も誘拐もした覚えがない上に、酩酊している私とシたんだったら不同意性交はどちらかというとそちらというか、その場合、未成年が相手だとどうなるんだ……?」
「結婚を前提に真摯な交際をしている場合は罪に問われないらしいよ」
「結婚は前提にしていないし、真摯な交際どころか昨日あったばかりで名前も知らない関係ですが?」
「さっき名乗りあったから名前は知っているじゃないか」
「世を忍ぶ仮の名をね」
高校何年生なのか知らないが、まだ世間様から守られるはずの年齢の割には口が達者すぎる。というか、一人でこんな高級ホテル系列のサービスアパートメントに住んでいるのも高校生らしからぬ暮らしぶりだ。一体この男は何者なのだろうか。なんにせよ、どう考えてもヤバそうな男と一夜を共にしてしまったことには変わりがない。ヤバそう具合が天元突破しているが。
「さすがにもう行かなくちゃ、遅刻しちゃうよ。今日は小テストがあるんだから」
「さっきの話から急に高校生らしいこと言われると混乱する」
ルームキーはここに置いて出ていってね。オートロックだから忘れ物しないように。これキミの荷物。念の為、何かなくなっていないか確認するんだよ。それと、と男は事務連絡を重ねながらポケットを探ってスマホを取り出す。いくつか操作して画面をこちらに見せた。
「これオレのアカウント。登録して」
「名前、違うじゃねえかよ」
読み取ったアカウントの名前は、レオナルド・ディカプリオではなかった。当たり前なことに。男のスマホに表示されている私のアカウント名もまた、エイミー・アダムスではなかっただろうが。
「さっきキミが言ったじゃないか、世を忍ぶ仮の名って。高校生するにもさ、それらしい名前が必要なんだよ」
「こっちが仮の名前なわけ?」
「どうでしょう」
新しく登録されたアカウントを眺める。なんと読むのだろうか。比較的珍しい苗字だ。読み方を考えるのも億劫だったので考えるのをやめ、充電が虫の息状態のスマホをスリープさせて高そうなダイニングチェアに座った。どっと疲れを感じる。
「はぁ。もはやなんでもいいわ。コーヒーでも飲ませてもらってから出てくことにする。いってらっしゃい。励めよ、高校生」
制服姿の男、というより少年と呼んだ方がいいのかもしれないが、とにかく自称・レオに手を振った。レオはキョトンとした顔で私の顔を見た。意外と表情がコロコロ変わるところは年相応なのかもしれない。
「どした、遅刻するよ」
レオは手を振りかえすでもなく、座っている私を驚いたような表情で眺め下ろしている。そして、ゆっくりと口を開いた。口角もゆっくりとあがった。片目が隠れているがそれなりに整った顔立ちの少年が少し頬を持ち上げて目尻を下げている様子は、はたして自称するハリウッド俳優のそれと案外遠くないのかもしれない。
「いってらっしゃいって、なんかいいね。おかえり、もお願いしたいくらいだよ」
はにかむ。少年のように。これが演技なのか、本心なのか、それらがどんな割合で混ぜ合わされているのか知ったことではなかったが、確信できたことがある。どこまでもいっても厄介そうなヤツだ。目が覚めて初めてこの男の顔を見た時に得た印象がよみがえる。この言葉が嘘であっても、本当であっても、厄介だ。厄介ごとはできるだけ避けて通ることにしている私はあいまいな返事をして、あいまいに微笑み返す。
「またどこかで会えたら検討してあげる」
「約束だよ」
男が去り、部屋のドアが閉まる。高級な部屋に一人残された私は備え付けのネスプレッソを抽出することとする。
—
「おはよう、エイミー」
もう二度と会うことはないだろうと思っていた男は、その日のうちに私のバイト先に現れた。不思議な人だったな、や、あの体験はなんだったのだろうか、など、日常に潜む非日常の余韻に浸るまでもなく、眼帯に長いピアスをつけた異国人の名を騙る非日常の塊みたいな男が再び目の前に現れたことに対し、驚きや喜びを抱く前に思わずため息が出た。
「……おはよう、レオ」
歓楽街のショーパブが私のバイト先だ。演者ではなくキッチンで食事やドリンクを用意するのが仕事だ。今日も今日とてショーの時間には客が集い、それに伴い飲食物の注文も多く入った。あまりの忙しさに表情を失ったキッチンリーダーが次から次へと作る料理を伝票と照らし合わせながらトレンチに並べ、そこにドリンクを添え、ホール担当に引き渡す。手が空いた瞬間には下がってきた食器を食洗機に突っ込む。これを繰り返す。そのうちに盛大な拍手が聞こえてきて本日のステージが終了したことを知り、そして再びさざなみが立ったように注文がいくらか入るのでそれをさばききる頃には、汗だくのヘロヘロのクタクタである。演者どころかホールにさえ立てないようなビジュアルで、作り間違えたレモンサワーをやっと一口飲んだりする。キッチンリーダーは客席のすみで作り間違えたナポリタンを食べたりする。
今日も同様だったが昨夜の酒の失態を思い出し、いくらサワーとはいえ空きっ腹にアルコールは胃腸に悪かろう、少しナポリタン分けてもらいにいこうかな、とキッチンからホールへつながる異常に幅の狭い扉を開けたところで出会ったのだ。レオナルド・ディカプリオに。
「予後はどうかな?」
「予後?」
キッチンリーダーから分けてもらったナポリタンとレモンサワーはキッチンの調理台でいただくことにした。なぜかレオもついてきて、「オレはお茶がいいな」と抜かすので仕方なく紅茶を入れた。客用から払い下げられた座面の合成皮革が破けているスツールに腰掛けて向かい合う。店の喧騒がキッチンのカウンター越しに響いている中、今朝と同じような優雅さでティーカップに口をつける男が問う言葉の意味をはかりかねる。レオはカップ越しに片目で笑う。器用なものだ。
「うん、特に問題はないみたいだね。よかったよ。あのデートドラッグは割とすぐ抜けるタイプのようだね」
「デート、ドラッグ……。あの時、薬もられてたってこと?」
背筋に冷たいものを感じた。と同時に目の前の胡散臭さの塊を睨みつけた。やはりヤバいやつだったか。疑念が確信へとスライドする。再び会いに来たということは、私の意識のないうちに弱みでも握っていて、たとえばあられもない姿を写真や動画に収めていて、それをもって脅しに来たのだろうか。
「おっと、オレじゃないよ。あの席にいた首にタトゥが入ってるヤツらさ。って覚えてないか」
店の知り合いに会いに行っていた、というのはつまり、店で時折起こるデートドラッグによる性犯罪について店から相談を受けていたこの男が犯人をつきとめ、成敗するため、あの店に訪れていた、ということらしかった。そして、たまたま、その日のカモの一人で、ファーストペンギンとなった女が私というわけのようだった。大事にしたくない店は昏睡する女の世話まで男に押し付けたそうで、男はひとまず自室へ運んだ。それがあの部屋だったということらしい。
「オレじゃないよって、薬で寝てる私をヤッたんだったら一緒でしょうが」
「安全な場所に運んで寝かせただけでそれ以上は何もしていないよ。あ、汚れた服を着替えさせたけど、下着までは脱がせてないし」
無理やり吐かせちゃったけど、口の中、痛めてない? レオが私の顎を持ち、なぜか私は大人しく口を開けた。紅茶の入ったティーカップを持っていたからか、男の指先は熱かった。口の中を覗き込まれる。恥ずかしいような、居心地の悪いような、どうにももどかしい気分が、ぞわぞわと肌の一枚内側をなぞるようだった。傷のないことを確かめたレオが少し浮かした腰を再びスツールに戻した。古いスツールがギシと鳴いた。
「じゃあ、不同意性交罪って」
「場合によっては、って言ったじゃないか」
「え、じゃ、なに、私は犯罪者というより被害者ってこと?」
「そうそう」
「そうそうじゃねぇよ、そういうのはすぐ言え」
「朝ってドタバタしちゃうよね」
「優雅に茶すすってただろうが」
「お茶好きなんだ。キミはコーヒー派みたいだったね」
「話を変えるな」
「とにかく、キミが特に後遺症もなく元気に過ごしているようで何よりだ。今後はよく知らない人にだされたものを口にしてはいけないよ」
「……それは、はい、気をつけます」
「いい子だね」
緊張していた体から力が抜けていく。レオは結局、本当に私の健康を心配して様子を見に来ただけだったらしい。聞けば、この店でダンサーをしている子と同じ高校に通う後輩だそうで、驚くことに一年生らしいこの男は、本来はアフターフォローなどするつもりはなかったが、近場の人間だということで会いに来てみた、というようなことを言った。なぜ私がここでバイトをしていることを知ったのかはもはやあまり詮索したくもないが、おそらく私の荷物にここで行われるイベントのフライヤーが束で入っていたのを見たのだろう。勝手に人の荷物をあさらないでほしい。この様子では財布の中の運転免許証や大学の学生証からおおよその個人情報もまた握られているに違いない。
「ところで、約束のことなんだけど」
「約束?」
有害なのか無害なのかいまだにはかりかねる男は、その姿勢の良い背を少し丸めて両肘を調理台の上に乗せた。組んだ両手の上に顎をのせ、上目遣いでこちらを見る。ピアスから下がった長いタッセルが肩から音もなく滑り落ちた。
「次会ったら「おかえり」って言ってくれるって」
相手を試すようなその目つきを避けようと、私はレモンサワーのグラスを持ち上げた。グイと一口飲む。シュワシュワと炭酸が喉ではじけた。スライスレモンから転がり出た種が口の中に残る。奥歯で噛んだ。種の破片を流し込むためにもう一度サワーをあおる。レオはその一挙手一投足を目線だけで追った。やりにくいったらない。噛み潰した種の苦味を奥歯に感じながら返事をする。
「検討するって言ったの」
「そうだっけ。じゃあ、検討してよ」
「今?」
「そう、検討して」
どうにも食い下がってひかない様子だ。何が琴線に触れたのか知らないが、どうやらレオは私をいくらか気に入っているようだ。私をからかうことを気に入っているのだろうか。どちらにせよ、ただの冗談として口にした「約束」の決着をつけないかぎり、このキッチンから去らないようだった。面倒なことになってしまった。早くキッチンリーダーが戻ってくることを祈りながら鷹揚に返事をするしかない。
「うーん。言ってもいいけど、「おかえり」って状況でもないしなぁ」
「だったら、また部屋へおいでよ」
「あんたがハタチ過ぎたらね」
「今時は18歳で成人だよ」
「18歳だとまだ高校生でしょう」
「意外と真面目なんだね」
「そう、意外と真面目なの」
「見ず知らずの男についてって薬もられた割に」
「うるさいな」
毒にも薬にもならないような会話を続けているところへ、ホールスタッフがオーダーを持ってきた。ハイボール二杯。オーダーが入ったからといって、レオがキッチンを去る様子はなかった。ドリンクは私の担当なので、リーダーを呼びにいくほどでもない。仕方がないからレオの前で業務用のウィスキーと氷、炭酸水をグラスに入れていく。その間、レオはマドラーと氷とグラスが奏でる透明な音に聴き惚れるかのように目を伏せてティーカップを口に運ぶ。
「オレ、エイミーのそういうアンバランスな感じ、結構好きだよ」
ドリンクを受け渡そうとカウンター越しに手を振る私の背に突然の告白が投げかけられた。
「ありがとう。私はレオのそういう胡散臭い感じ、結構苦手」
「アハハ」
「なにわろてんねん」
人をおちょくらずには会話ができないらしい男はゆっくりと立ち上がって、空になったティーカップを流しに運んだ。幅の狭い扉からキッチンを出る。ホール側からカウンターの前へやってきた。カウンター越しに対峙する。ステージのギラつく照明を背負って輪郭を光らせた男は、あらわなはずの片目にも影を作ってこちらを向いている。
「まだなにか」
「……エイミーって言ったのって、オレが胡散臭いから?」
「当たり前でしょう。シェイクスピアでもフィッツジェラルドでもなさそうだもの」
「……ふふ、そうだね」
どこか満足そうに笑う声。これが聞きたかったのだろうか。この男の再登場の謎の一端が見えたような気がする。それともミラーボールの光の粒がまつげに引っかかっただけだろうか。
「じゃ、またね」
「またって、また来るつもり?」
「お茶がおいしかったからね」
「まいばすけっとで買った日東紅茶のティーバッグだよ」
カウンターに頬杖をつき、ついていない方の手でしっしと追い払う動作をする。邪険な態度を嬉しそうに見て、男は去った。