香りが大脳辺縁系に届く。海馬に届く。思い出す。この香りを、この香りをさせている人間をどう思っていたかを思い出す。そこから芋づる式に記憶と感情が揺り動かされる。この香りを知っている、この肌触りも知っている、この腕の長さも、この胸の熱も、この声の低さも、この息遣いのささやかさも、この唇も。それら全てが私の脳を焼いて、思い出したものを全て忘れさせてしまうことも。それがもう幾度となく繰り返されていることも。
「あ」
目が合った。足音がしたと思ってふと見た車両一方通行の狭い路地。通りかかったのは知っている顔だった。
「レオ」
知人に遭遇して、思わず背を抱いている腕をほどく。腕をほどかれた男は顔色を変えず、私が見ている少年の方を見た。男は少年から目線を逸らさず、ずり落ちていたリュックの肩紐をなおす。チラリと私を見下ろす。
「えっと、お邪魔しました」
目を逸らしてレオは言った。立ち去ろうとする。声をかけて引き止めた。
「ううん、もういいの」
隣に立つ男に目配せをする。男は頷いた。
「明日には発つんだ。次の帰国は冬休みの予定。また連絡するね」
「うん、期待しないで待ってる」
足元に置いていたスーツケースをガラガラと引いて、男は路地を去る。レオと私は路上に取り残される。ホテルの前。先日レオと話した路地裏のホテルと同じような連れ込み宿が、この町の路地裏には点在している。その一つだ。先ほどまでこの中にいた。ホテルを出て、名残を惜しんでいた。明日出国する男と。今しがた次の予定だけを置き去りにさっさとこの場を後にした男と抱き合っていた。そこへレオが通りかかった。
「恋人じゃないよ」
「何も聞いてないのに」
「聞きたくなかった?」
「そうだね。聞きたくなかったかもしれない」
どこへ向かうともなく私たちは並んで歩き出す。歓楽街の横丁を男女が寄り添って歩いている様子は、今から入るホテルを吟味しているように見えるかもしれない。次から次へと男を渡り歩く猥りな女に見えるかもしれない。去って行った男にもそう見えたかもしれない。あれほど睦言をつむいでおきながら、こんな年若い少年と。そう思われたかもしれない。次の冬。そんなものないのかもしれない。そんなものを期待する意味など最初からなかったのかもしれない。
「ね、キスしていい?」
レオが言う刹那主義の私は、私の一面であって、複層的な意識が集合して自我は錯綜する。揺り戻してほしい。一瞬に生まれて一瞬に死なせて。過去や未来に思いを馳せるような私を殺して。もう一度私を定義して。この瞬間だけでいいと思わせてほしくて。
「え」
返事を聞く前に口を塞いだ。驚いている顔が好きだ。元型を見せてよ、エゴを見せてよ、シャッテンも見せてよ、悪霊も、本性も、全部とは言わないから。
「お茶の匂いがする」
「キミは、今日はお酒の匂いがしないね」
「ん。ね、もっと」
拒まれないことをいいことに、首に手を回す。ぶら下がるようにして。繰り返す。レオの手が私の腰に回る。レオの指が私の髪をかき分け、後頭部にささる。知らない肌触り、知らない腕の長さ、知らない息遣い、知らない唇。焼き尽くされた脳に、新たな記憶が注がれる。満たされる。溢れる。いつか、この男の好むお茶の匂いでこの記憶も思い出されるのだろうか。
「ごめんね」
上がった息も気にせず短く謝罪する。首から手を離し、体を離す。レオの腕も離れていく。
「待って」
「ごめんね」
口の周りの唾液を乱暴にぬぐって私は逃げ出す。表通りに出る。人混みに紛れる。すぐに別の路地に入る。追跡はなかった。荒い呼吸を整え、今日は新宿で飲んでると連絡が来ていた友人に通話を試みる。