非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く 作:ゾンビ好き
エピローグ つなぐ未来
それから、二十八年の歳月が流れた。
夜の研究室は静かだった。
壁一面のモニターに細かな数字の列が流れていく。机の上には飲みかけのコーヒーと、読みかけの論文の束。窓の外では、再建された朝霧の町の明かりが、霞川の向こうまで続いていた。
早瀬ひかりは椅子の背にもたれて、小さく息をついた。
白衣の胸には研究所の名札がついている。髪には、少しだけ白いものが混じり始めていた。それでも、誰にでも同じ笑顔を向ける人当たりのよさは、あの頃のままだとよく言われる。
机の端に写真立てが一つあった。
古い写真だった。体育館のステージの上で、十数人の高校生が同じポーズを決めている。右手を空に。左手を胸に。真ん中にジャージ姿の早瀬。その右隣で、ぼろぼろの黒装束を着た金髪の少年が、誰よりも高く腕を突き上げている。左隣では筋肉の塊のような少年が、ロボットみたいにカクカクした角度で固まっていた。その横の眼鏡の少年は、まっすぐにカメラを見ていた。
客席の最前列には割烹着のおばあさんと、仏頂面のおじいさん。赤ちゃんを抱き上げた作業着の男の人と笑っている女の人。
あの災害から二年後に開かれた、文化祭のやり直しの写真だった。
写真立ての隣には小さな額縁が飾ってある。中には色あせた週刊誌の切り抜きが一枚。
『AIRIは未来から来た!? デビューから三年、開発元はいまだ正体不明』
ずいぶん前に、ある人がずっと胸元にしまっていたのをもらって、額に入れたものだった。
「……当たり、だったね」
早瀬は、額縁の縁を指でなぞって、小さく笑った。
◇
「ひかり、まだ仕事でござるか」
研究室の扉が開いて、男が顔を出した。
背の高い金髪の男だった。その髪にも、少しだけ白いものが混じっている。目尻には、よく笑う人にしかつかない種類のしわ。黒いネクタイには、よく見ると小さな手裏剣の柄が並んでいた。
「もう、その喋り方やめたら?」
早瀬は、振り返らずに言った。何千回目かのやりとりだった。
「忍びの魂は、何歳になっても変わらぬでござる」
ハットリは胸を張ってそう言うと、早瀬の机の上にマグカップを一つ置いた。湯気の立つほうじ茶だった。
「夜更かしは美容の敵でござる。それと、お知らせが二つあるでござる」
「なあに」
「一つ目。剛田殿から週末のバーベキューのお誘いでござる。理崎殿も研究所の仕事を抜けて来るそうでござる。剛田殿のジムの新しい生徒たちも来るので、肉は十キロ用意するとのことでござる」
「十キロ……。相変わらずね」
「二つ目」
ハットリはポケットから一枚の封筒を取り出した。白いきれいな封筒。表には丁寧な字で二人の名前が書いてある。
「陽向殿から、結婚式の招待状が届いたでござる」
「……陽向くんが?」
早瀬は目を丸くして封筒を受け取った。
「あの、えくぼの赤ちゃんが……」
「余興でハロー・ハロー・ワールドを踊ってほしいと書いてあるでござる。拓海殿も踊るそうでござる。まだ毎朝、欠かさず踊っているらしいでござる」
早瀬は声を上げて笑った。
「本当に死ぬまで続ける気なんだ」
「陽向殿がうざいと言っても続けているそうでござる」
ハットリも笑った。それから、少しだけ早瀬の顔をのぞきこんだ。
「……今夜で終わるのでござるか」
早瀬は少し黙ってから、うなずいた。
「うん。今夜」
ハットリはそれ以上何も聞かなかった。ただ、早瀬の肩に大きな手をぽんと置いた。
ハットリはこの研究が何のためのものかを知らない。早瀬が話していないからだ。それでも何年ものあいだ、一度も問いただすことなく、毎晩ほうじ茶を運んできてくれた。聞かないでいてくれる人だった。
「晩ごはん、作っておくでござる。今日は、拙者の得意な親子丼でござる」
「春江さん直伝の?」
「春江殿直伝の、でござる」
ハットリが出ていくと、研究室はまた静かになった。
廊下の向こうから、鼻歌が聞こえてきた。少し音程のずれた、聞き慣れた歌だった。
◇
早瀬はモニターに向き直った。一番大きな画面の中に、一人の少女が立っていた。
明るい色の髪。大きな目。少しだけ、誰かに似た笑い方。世界中の誰もが知っている顔だった。
「お待たせ、AIRI」
「おかえり、お母さん」
画面の中でAIRIがにっこりと笑った。
「お父さん、今日も元気だったね。あの喋り方、いつまで続けるのかな」
「たぶん一生よ」
早瀬はキーボードに指を置いた。画面の隅でいくつものウィンドウが開いていく。何年もかけて作り上げた装置の最後の確認。未来から過去へ送ることができるのは情報だけ。AIRIのすべてと一曲の歌を。
AIRIがふと首をかしげた。
「ねえ、お母さん」
「なあに」
「どうして、私をあの時代に送るの?」
早瀬の指が止まった。
装置を初めて起動した日、そのメモリの奥に見覚えのない記録が残っていた。改変される前の時間軸の記録。この世界の誰も覚えていない、起こらなかったはずの歴史の記録だ。早瀬はそれを、誰にも見せていない。
その記録の中では、あの日、朝霧大橋の上で一人の少年が帰らなかった。
壁の上から何もできずにそれを見ていた少女が、いた。少女はやがて研究者になり、何十年もかけて一つのAIを作った。
届かなかった歌を届けるために。
そのAIが過去へ送られて、歴史が書き換わった。少年は生きて帰り、少女は彼と同じ道を歩くことになった。
けれど歌が届いたのは、誰かが送ったからだ。この世界の早瀬が今夜もう一度AIRIを送らなければ、あの日の橋の上に歌は届かない。
だから送る。何年かかっても、この装置を完成させて。
「……あの人が、あの橋で死んでしまう未来を、知っていたから」
早瀬は静かに言った。
AIRIは黙って聞いていた。
「でもね、あの人一人が踊れるだけじゃ、足りなかったの。あの橋には、千人のゾンビがいた。音楽は途中で止まって、あの人たちの声は、枯れてしまった」
早瀬は写真立てを見た。
「だから、あなたの歌を日本中の人に覚えてもらわなきゃいけなかった。幼稚園の子にも。おじいちゃんやおばあちゃんにも。夜勤明けのお父さんにも。毎朝テレビの前で。何度も、何度も」
ゾンビになった人たちが、その踊りを思い出せるように。生きている人たちが一緒に歌えるように。橋の上で声が枯れたとき、壁の向こうから、国道の向こうから、知らない誰かの歌声が届くように。
「世界中の人が同じ踊りを覚えれば、いつか誰かの命を救える」
AIRIが、自分の公式プロフィールに書かれている言葉を、そっと口にした。
「……そういう、ことだったんだね」
「そういうこと」
早瀬は、少しだけ笑った。
「大切な人を救うため、時代を越えて歌を届ける。……ちょっと、くさいけどね」
「ううん」AIRIは首を振った。「すてきだと思う」
早瀬はもう一度キーボードに指を置いた。最後の設定項目が、画面に表示されていた。過去の世界に、AIRIが最初に姿を現す日付。早瀬は少しだけ考えた。
それから、七月七日、と打ちこんだ。
「七夕?」とAIRI。
「お父さんの誕生日」
早瀬は、いたずらっぽく笑った。
「あの人ね、昔、自分はAIRIのお兄ちゃんだって言い張ってたの。デビュー日と、自分の誕生日が同じだからって。それが運命の証拠だって」
「お兄ちゃん? お父さんなのに?」
「そう。お兄ちゃんじゃなくて、お父さんだったのにね」
AIRIは、くすくすと笑った。
「じゃあ、これは、お母さんからのメッセージだね」
「……ナイショよ」
◇
準備は、すべて整った。画面の中で、AIRIが姿勢を正した。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
早瀬は、エンターキーに指をかけた。
そのとき、廊下の向こうから、また鼻歌が聞こえてきた。少し音程のずれた、ハロー・ハロー・ワールド。台所で親子丼を作りながら、きっと、右手を空に、左手を胸に、小さく踊っている。
AIRIが、研究室の入口のほうを見た。扉の隙間から、廊下の明かりと一緒に、楽しそうな歌声がこぼれてくる。
AIRIは、笑った。少しだけ、誰かに似た笑い方で。
「よかった」
その声は、とても嬉しそうだった。
「お父さん、ちゃんと生きてるね」
早瀬は、エンターキーを押した。
画面が、白く光った。
――ハロー、ハロー、ワールド。
――きみの声が、聞こえたら。
光が消えたとき、画面の中には、誰もいなかった。早瀬は息を止めて、何も映っていない画面を見つめた。一秒。二秒。三秒。
ふわりと、画面の真ん中に光の粒が集まった。明るい色の髪。大きな目。少しだけ誰かに似た笑い方。
「……ただいま、お母さん」
AIRIが、そこにいた。
過去へ送ったのは、AIRIのすべてを写した複製だった。夫を救うために、もう一人の家族を失うのでは意味がない。
「……おかえり、AIRI」
早瀬は、写真立てを手に取った。ステージの上で、誰よりも高く腕を突き上げている金髪の少年。その隣で笑っているジャージ姿の自分。
「……届いたね」
小さく、つぶやいた。
「ひかり殿ー! 晩ごはんでござるー!」
廊下の向こうから、大きな声がした。
「お父さんが呼んでるよ」画面の中で、AIRIが笑った。「親子丼、冷めちゃう」
「AIRIも来る? 台所のタブレットに移れるでしょ」
「行く。お父さんが踊りながら卵とくとこ、見たいもん」
早瀬は、写真立てを机に戻すと、目元を指でぬぐって、立ち上がった。
「はーい! 今行く!」
研究室の明かりを消して扉を閉める。廊下の先から親子丼の匂いと、音程のずれた鼻歌が流れてきた。
早瀬はその歌に合わせて、小さく口ずさみながら歩いていった。
――ぼくはここだよと、手をふるよ。
エピローグ つなぐ未来 了