非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く 作:ゾンビ好き
作戦は駅のホームの陰で五分で決まった。
「門の前に五体」理崎が身を低くしたまま指を折った。「玄関の前に二体。家の裏手は塀で見えないが、たぶんゼロか一。ベランダの懐中電灯は二階の南側。つまり、中の人は二階に立てこもっている」
「どうやって入る」と剛田。
「正面から入る必要はない。まず、門の前のゾンビを家から引き離す」
理崎は鞄から、コンビニで手に入れた空き缶と自分のスマホとガムテープを取り出した。
「スマホのアラームを最大音量にして、空き缶の中に入れる。缶が共鳴して、音が大きくなる。これを家の二軒先の公園のすべり台の上に置く。アラームは三分後」
「おお、時限式の陽動装置でござるな!」
「空き缶とガムテープだけどな」
「次。ゾンビが公園に向かったら、ハットリが雨どいを伝ってベランダから二階に入る。中の人に事情を説明して、玄関まで連れて降りる」
「承知でござる! 壁登りは忍びの十八番でござる!」
「剛田は玄関だ。立てこもっているなら、内側に家具を積んでいるはずだ。ハットリが中から鍵を開けて家具をどける。重すぎて動かないものは、剛田、君が隙間から動かせ」
「隙間からかよ」
「君なら片手が入ればできるだろう?」
剛田は少し考えて、うなずいた。
「俺は外から全体を見て、タイミングを指示する。……質問は」
「ない」
「ないでござる」
理崎は空き缶を握りしめて、小さく息を吐いた。
「……三人とも、生きて戻るぞ」
◇
空き缶をすべり台のてっぺんに置いて戻ってきてから、きっかり三分後。
ピピピピピピピピ――。
薄暗くなりかけた住宅街に、甲高い電子音が響き渡った。空き缶の中で反響して、思ったよりずっと大きい。
門の前にいたゾンビたちが一斉に首を回した。一体、また一体と、公園のほうへよろよろと歩き出す。玄関前の二体も、少し遅れてそれに続いた。
「――今だ」
理崎の合図で、黒い影が塀の陰から飛び出した。
ハットリは家の横手の雨どいにとりつくと、するすると二階まで登っていった。驚くほど速い。手足の運びに一切の迷いがない。
「……あいつ、ああいうのだけは本物なんだよな」と剛田がつぶやいた。
「あのドジと手裏剣が一度も当たらない理由が、ますますわからない」と理崎。
ハットリはベランダの手すりを乗り越え、『たすけて』のタオルの横に音もなく着地した。窓ガラスをこんこんと叩く。
「失礼つかまつる! 拙者、助けに参った者でござ――」
窓ががらりと開いた。
中からフライパンが飛んできた。
ごいん。
見事な音だった。ハットリの頭巾のてっぺんにフライパンの底が真っ平らに命中していた。
「ど、泥棒っ! 黒ずくめの泥棒! お父さん、泥棒よ!」
「ち、違うでござる……拙者は……忍者で……」
「忍者の泥棒!?」
「どっちにしろ怪しいだろ、それ……」
玄関の前で頭を抱える剛田の横で、理崎が両手でメガホンを作り、二階に向かって小声で叫んだ。
「すみません! 北宿高校の生徒です! タオルを見て、助けに来ました!」
しばらくの沈黙。
それから窓から白髪の小柄な女性が顔を出した。割烹着姿で、手にはまだフライパンを握っている。
「……あら。高校生?」
「はい」
「この黒いのも?」
「……はい。一応」
女性はフライパンを下ろし、ベランダで目を回しているハットリを見下ろして、ぱちぱちとまばたきをした。
「あらやだ。ごめんなさいね、忍者さん」
◇
家の主は、大河内源蔵と春江という老夫婦だった。
源蔵は七十八歳。四十年間、町工場で旋盤を回してきた元職人で、口数が少なく、眉間のしわが深い。春江は七十五歳。元は小学校の給食調理員で、小柄だがよく通る声をしていた。
ハットリは老夫婦と一緒に一階へ降り、内側から玄関の鍵を開けた。けれどドアの内側には、タンスと食器棚と冷蔵庫が押しつけるように積み上げてあった。ハットリと源蔵がタンスと食器棚を引きずってどけたが、冷蔵庫だけはびくともしない。ドアは拳ひとつ分しか開かなかった。
「剛田殿! 冷蔵庫が動かぬでござる!」
「どいてろ」
剛田は拳ひとつ分の隙間に腕をねじこみ、冷蔵庫の側面に手のひらを当てた。
「……ふんっ!」
ずずずずず、と重いものが床をこする音がして、冷蔵庫が廊下の奥へ横滑りしていった。ドアが大きく開いた。中で春江が「まあ」と声を上げた。
開いた玄関から、老夫婦が出てきた。
源蔵は年季の入った鉄の工具箱を両手で抱えていた。
春江は炊飯器を抱えていた。
「婆さん、炊飯器は置いていけ!」
「何言ってんの! 朝炊いたご飯が五合入ってるのよ!」
春江は剛田の顔を見上げ、それから腹のあたりを見た。
「それにこの子たち、どう見てもお腹すかせてるじゃない」
「……まだ名乗ってもいないんですが」と理崎。
ぐう、と剛田の腹が鳴った。
「ほらね」
「……すみません」
公園のほうで、アラームの音が止んだ。理崎が顔を上げる。
「時間がない。駅舎まで戻ります。歩けますか」
「歩けるわよ。お父さんは膝が悪いけど」
「余計なことを言うな」
剛田は黙って源蔵の工具箱を受け取り、自分の肩に担いだ。源蔵は何か言いかけて、やめた。
五人は暗くなりはじめた住宅街を、霞台駅へと引き返した。ゾンビたちはまだ公園のすべり台のまわりで、黙りこんだスマホを不思議そうに見上げていた。
駅舎の待合室に全員が滑りこみ、剛田が内側から扉を閉めたとき、理崎は壁にもたれてずるずると座りこんだ。
「……成功、した」
「成功したでござる!」
「計画通りに、全部、うまくいった……」
三人は顔を見合わせた。
学校を出てから今まで、うまくいったことはいくつもあった。けれどそれはいつも、誰かのやらかしが偶然いい方向に転がった結果だった。
計画を立てて、その通りに動いて、誰かを助けた。
それは初めてのことだった。
「やるじゃねえか、俺たち」
剛田が拳を突き出した。理崎とハットリがそこに拳をぶつけた。ハットリの頭巾のてっぺんには、まだフライパンの形のへこみが残っていた。
◇
その夜、待合室で春江はおにぎりを握った。
炊飯器の中のご飯は冷めていたが、春江が台所から持ち出した塩の小瓶で握ると、不思議とおいしかった。具は何もない。ただの塩むすびだ。
剛田はそれを七つ食べた。
「よく食べるわねえ」
「す、すみません。止まらなくて」
「いいのよ。給食のおばちゃんはね、残されるのが一番悲しいの」
春江は本当に嬉しそうに笑った。
源蔵はベンチの端に座って、黙っておにぎりを食べていた。その目がちらちらと理崎の鞄のほうを見ている。鞄の口から、拾い集めた銅線や基板の切れ端がはみ出していた。
「……おい、坊主」
「は、はい」
「その銅線のはんだ付け、お前がやったのか」
「はい。放送室にあったアンプを、モバイルバッテリーで動かせないかと思って」
源蔵は銅線の先を手に取り、懐中電灯の明かりにかざしてじっと見た。
「……汚ねえな」
「うっ」
「こてを当てる時間が長すぎる。だから玉になる。……だが、考え方は悪くねえ」
源蔵はそれだけ言って、銅線を返した。理崎はぽかんとそれを受け取った。剛田とハットリがにやにやと理崎の脇腹をつついた。
待合室のラックには、三日前の新聞が残っていた。ハットリがそれを広げて、懐中電灯で芸能面を照らしている。
『AIRI、七月七日のデビュー記念日に世界同時配信ライブ 視聴者数は過去最高に』
記事の隅に、小さなコラムがあった。
『ファンの間では「AIRIは、未来で父親を救うために、この歌を世界中に流行らせた」という都市伝説も根強い』
「父親……」ハットリが首をかしげた。「AIRIの父上とは、どなたでござろう。拙者は兄ゆえ、父上のことも知っていてよいはずなのに」
「その理屈だと、君の父親がAIRIの父親だ」と理崎。
「父上が!? オハイオの保険会社勤めの父上が!?」
「……冗談だ。真に受けるな」
「されど、七月七日は拙者の誕生日でござる。やはり運命でござる」
「あら、七夕生まれなの」春江が目を細めた。「素敵ね」
ハットリは新聞をたたみながら、ぽつりと言った。
「……早瀬殿も、このライブを見ていたでござろうか」
「さあな」と剛田。
ハットリはそれきり黙って、ぬいぐるみの頭をなでていた。懐中電灯の明かりの中で、その耳が少しだけ赤かった。
◇
翌朝の作戦会議で、問題がひとつ見つかった。
「線路は、この先で霞川の支流をもう一度渡る」理崎が道路地図を広げた。「その鉄橋は、昨日のものより長い。しかも保線用の通路がない。枕木の上を、百メートル以上歩くことになる」
「俺らだけなら、まあ行けるか」と剛田。
全員の視線が源蔵の膝に向いた。
「……わしは置いていけ、ゾンビよりも早く歩けば合流できるだろう」
「お父さん!」
「置いていくわけないでござる」とハットリ。「拙者たち、昨日あなたがたを助けたばかりでござる」
「だからこそだ。足手まといになる」
「それを決めるのは、俺たちだ」
剛田が言った。静かだったが、きっぱりとした声だった。源蔵は剛田の顔を見て、何も言わなくなった。
春江が地図をのぞきこんで、指でとんとんと叩いた。
「線路をやめて、駅前の商店街を抜けたらどう? 霞台銀座。あそこを突っ切って旧道に出れば、南へ一本道よ。橋もちゃんと歩道があるし」
「商店街……」
理崎の眉が寄った。商店街は道が狭く、横道が多い。見通しが悪い。
けれどほかに道はなかった。
「……行こう。ただし、慎重に。速度はお二人に合わせる」
理崎は地図をたたみながら、昨日の自分の言葉を思い出していた。
――三人だけなら、どうにでもなる。
今はもう、三人だけではなかった。
◇
霞台銀座は、アーケードのある古い商店街だった。
シャッターの下りた八百屋、文房具屋、喫茶店。色あせた「歳末大売り出し」の垂れ幕が九月の風に揺れている。人の姿はない。ゾンビの姿も、見えるかぎりではなかった。
五人はアーケードの真ん中をゆっくりと進んだ。先頭がハットリ、その後ろに理崎、真ん中に春江、源蔵の腕を剛田が支えてしんがりを務める。
速度は昨日の三分の一だった。
「……遅いな」と剛田が小声で言った。責める口調ではなかった。ただ、事実を確かめるように。
「ああ」と理崎。「何かあったとき、走って逃げるという選択肢は、もうない」
その「何か」は商店街の半ばを過ぎたところで起きた。
横道からゾンビが出てきた。
一体。二体。五体。十体。
さらに前方の交差点から。後方の横道から。シャッターの隙間から。商店街のあちこちから灰色の人影が、まるで最初からそこで待っていたかのように、ぞろぞろと湧き出してきた。
「下がれ!」
理崎が叫んだ。五人は後ずさり、唯一ゾンビのいない右手の路地へと逃げこんだ。
それが間違いだった。
路地の突き当たりは行き止まりだった。
古い公民館の裏口だった。鉄の扉には南京錠がかかっている。左右は高いブロック塀。そして振り返ると、路地の入り口をゾンビの群れが埋めつくしていた。
二十体以上いる。
「理崎!」
「わかってる、考えてる!」
理崎の目が、塀、扉、ゾンビ、仲間、と忙しく動く。剛田が源蔵と春江を背中にかばい、ハットリがその前に立った。
そのとき、群れの真ん中が割れた。
ほかのゾンビを左右に押しのけて何かが前に出てきた。
大きかった。
身長は百九十センチを超えているだろう。肩幅は剛田の一・五倍。腹は突き出ているが、腕も脚も丸太のように太い。灰色の顔に白く濁った目。そして、はちきれそうな胸板には一枚のTシャツ。
黒地に白で、あまりにも有名なシルエットがつま先立ちで決めポーズを取っていた。
マイケル・ジャクソンのTシャツだった。
「……でけえ、冷蔵庫かよ。そこまででかくするには眠れない夜もあっただろう」
巨漢ゾンビが両手を突き出し、まっすぐ向かってきた。剛田が前に出た。正面からその両手首をつかむ。
プロレスでいう手四つの姿勢だった。
ずん、と足が地面にめりこむような衝撃。
「ぐっ……!」
押し返せない。
剛田の足がずるずると後ろに滑る。鬼塚先生のときも、チャラ助のときも、押し負けたことはなかった。けれど、この相手は違う。重さが違う。
「剛田殿!」
「下がってろ、ハットリ……!」
剛田の背中が春江の目の前まで押し戻された。後ろはもう塀しかない。
◇
ハットリは震えていた。
膝ががくがくと笑って止まらない。忍者は恐れを知らない。そう思っていた。そう思いこもうとしていた。でも目の前で剛田が押し負けている。あの剛田が。
怖い。
怖いときは、どうすればいい。
小さいころ、オハイオの家で雷が怖くて眠れなかった夜。父はいつも同じ曲を口ずさんでくれた。低い声でベースラインを。ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン――。真夜中に怪物たちが起き出してくる、ちょっと怖くてものすごく楽しいあの曲を。
『怖いものはな、ジェイク。踊っちまえばいいんだ』
気がつくと、ハットリは口ずさんでいた。
「……ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン……ドゥン、ドゥドゥン……」
声は震え、音程も怪しかった。それでも指先で太ももを叩いてリズムを刻んだ。
巨漢ゾンビの肩が、ぴくりと動いた。
「……え?」
剛田の手首をつかむ力が、ふっと緩む。
ハットリは口ずさみ続けた。ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン。
巨漢ゾンビの首がかくんと横に傾いた。妙に正確な角度だった。続いて右肩が、くいっ、くいっとリズムに合わせて上下し始める。
「なんだ、こいつ……」
剛田が手を離して一歩下がった。巨漢ゾンビはもう剛田を見ていない。両腕を胸の前でゆっくり曲げ、指先を鉤爪のように開く。そして左右にずん、ずんと体を揺らし始めた。
路地の入り口でも、何体かが同じように首を傾けていた。
理崎が息をのんだ。
「……待て」
頭の中で、いくつもの場面が一本の線につながっていく。
「あいつら、ただ音に寄ってきているだけじゃないのかもしれない」
巨漢ゾンビの肩の動き。首の角度。でたらめに揺れているのではない。
「踏切の反応覚えているか? リズムに反応している。……いや、違う。体が覚えているんだ。生きていたころに何度も繰り返した動きを」
そのとき、剛田の背中の陰から春江がひょいと顔を出した。巨漢ゾンビの顔をじっと見つめる。
「あら。この人、見覚えあるわ」
「えっ」
「山岸さんよ。酒屋の。毎週月曜日に、この公民館で踊ってた人」
春江が背後の裏口を指さした。鉄の扉の横の掲示板に、色あせたポスターが一枚貼られている。
『北宿ムーンウォーク愛好会 会員募集中! 毎週月曜19時〜 初心者大歓迎』
ポスターの隅には会員たちの集合写真があった。その真ん中で、満面の笑みでつま先立ちのポーズを決めている巨漢。
胸には、同じTシャツ。
「会長さんだったのよ、山岸さん。この商店街の人も何人も入ってたわ。八百屋の奥さんも、喫茶店のマスターも」
理崎は路地の入り口を見た。エプロン姿のゾンビ。蝶ネクタイのゾンビ。白い靴下に黒い革靴のゾンビ。
首を傾けているのは、みんなお揃いのTシャツを着たゾンビだった。
「……偶然集まったゾンビじゃない」
理崎の声が震えた。
「元ダンス仲間だ」
◇
「ハットリ」
理崎が振り向かずに言った。
「この曲、踊れるか」
「お、踊れるでござる」ハットリの声はまだ震えていた。「父上の十八番でござる。子どものころから、ずっと一緒に……」
「スマホに曲は入っているか」
「父上のプレイリストが入っているでござる」
「剛田、リュックを下ろせ。アンプを出す」
理崎は剛田のリュックから放送室のアンプを引っぱり出した。
放送部が校外のイベントで使っていた、スピーカー内蔵の小型PAアンプだ。弁当箱を二つ重ねたくらいの大きさで、肩掛けのベルトがついている。運動会の実況に使えるくらいの音は出るが、内蔵の電池は空だった。だから理崎はゆうべのうちに、モバイルバッテリーから給電できるよう配線をいじっておいたのだ。
源蔵に「汚ねえ」と言われたあの銅線でバッテリーをつなぎ、ハットリのスマホにケーブルを差しこむ。
「音量最大。これで鳴らなかったら終わりだ」
横から源蔵の手が伸びた。銅線のゆるんだ結び目を、太い指が一瞬で締め直す。
「これで鳴る」
理崎は源蔵を見た。うなずいて、ハットリを見た。
「頼む」
ハットリがスマホの画面をタップした。
――ドゥン。
ブロック塀が震えた。
低く、不穏で、それなのにどうしようもなく体が揺れてしまうあのベースライン。路地の壁に跳ね返り、アーケードの天井に反響して、シャッター街じゅうに広がっていく。
巨漢ゾンビの体が、びくんと跳ねた。
ハットリは深く息を吸った。
震えはまだ止まっていない。それでも黒装束の背筋を伸ばし、両手を胸の前で鉤爪の形にして、一歩前に出た。
――怖いものは、踊っちまえばいい。
ハットリが踊り出した。
首をかくんと傾ける。肩をリズムに乗せて上下させる。右へ、左へ。すり足でずん、ずんと体を揺らす。指先まで神経の通った、キレのある動きだった。
巨漢ゾンビがそれに続いた。
同じ角度で首を傾け、同じタイミングで肩を揺らす。関節が錆びついたように少しずつ遅れる。それでも確かに同じ振付だった。
路地の入り口の群れが、ざわりと動いた。
エプロンのゾンビが肩を揺らす。蝶ネクタイのゾンビが首を傾ける。一体、また一体。ゾンビたちがリズムに体を預け、ゆっくりと横一列に並んでいく。
それだけではなかった。
アーケードの奥から、音を聞きつけたゾンビが次々と集まってくる。その中にも首を傾ける者がいた。肩を揺らす者がいた。列は一列から二列になり、二列から三列になった。
シャッターの下りた商店街が、巨大なダンスフロアに変わっていく。
まるでミュージックビデオのワンシーンだった。
「……すげえ」
剛田が呆然とつぶやいた。
「感心している場合じゃない」と理崎。「動きは止まったが、入り口はふさがったままだ。通り抜ける隙間がない」
ゾンビたちは路地の入り口いっぱいに並び、その場で揺れているだけだった。踊ってはいるが、どいてはくれない。
「この振付には、列全体が横にスライドするパートがあるはずだ。そこまで行けば列がずれて、片側が空く」
「そのパートまで、あと何秒でござるか!?」
「計算する。剛田、その間は俺たちも踊るぞ」
「は!?」
「踊っている者は襲われにくい可能性がある。今のところ唯一の仮説だ」
「仮説で踊らせんな!」
文句を言いながらも、剛田は源蔵の腕を支えたまま、ハットリの見よう見まねで体を揺らし始めた。
ロボットだった。
完全にロボットだった。肩はほとんど動かず、首は直角にしか曲がらない。すり足のたびに膝ががくんと鳴りそうだった。ゆうべの特訓の成果はどこにもない。
「剛田殿、肩でござる! 肩を柔らかく!」
「柔らかくしてる!」
「どこがでござるか!」
ところが、剛田の真正面にいた八百屋の奥さんのゾンビが、剛田と同じように首を直角に曲げた。
そのまま、カク、カクとロボットの動きで肩を上下させ始める。
「……真似されてる」
「剛田殿のロボットが伝染したでござる!」
「やめろ、恥ずかしい!」
理崎も踊っていた。目はゾンビの列を見つめたまま、唇だけが動いている。
「……三、四、五、六……あと八小節……」
そのときだった。
アンプの音が、ぶつりと途切れた。
――ザッ。……ドゥン。ザザッ。
モバイルバッテリーの残量ランプが赤く点滅している。音は切れては戻り、戻っては切れた。
ゾンビたちの動きが乱れた。揺れていた肩が止まる。傾いていた首が、ゆっくりとこちらを向く。白く濁った目が、いくつも、いくつも。
「理崎!」
「わかってる! 接触が――」
理崎がバッテリーの端子に飛びついた。指が震えて、銅線がうまくはまらない。
パン。
乾いた音が路地に響いた。
パン。パン。パン。
源蔵だった。
剛田に支えられたまま、源蔵が両手を打ち鳴らしていた。節くれだった職人の手で、正確に、まっすぐに。曲のテンポどおりの手拍子を。
パン。パン。パン。パン。
止まりかけたゾンビの肩が、ぴくりと動いた。
「坊主、歌え!」と源蔵が叫んだ。
「は、はいでござる! ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン……!」
ハットリが歌った。源蔵が叩いた。ゾンビたちの体が、もう一度揺れ始める。
かちり。理崎の手元で銅線がはまった。
――ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン!
音が戻った。さっきよりずっと大きく、力強く。
それでも、まだ足りなかった。列の揺れはばらばらで、少しずつずれていく。このままではスライドのパートが来ても、列はまとまって動かないかもしれない。
「ちょっと、あんたたち」
春江が剛田の背中の陰から、すっと前に出た。
「腰が入ってないわよ!」
割烹着の袖をまくり上げる。
そして踊り出した。
――速かった。
七十五歳とは思えない。首の角度、肩の揺れ、指先の鉤爪。すべてがハットリよりさらに正確で、さらに鋭い。すり足のステップは、床に油でも引いてあるかのように滑らかだった。割烹着の裾がひらりと翻る。
ゾンビたちの動きが変わった。
ばらばらだった肩の揺れが、春江のリズムに吸い寄せられるようにそろっていく。巨漢ゾンビが春江のほうへ体を向けた。山岸さんは春江を見ていた。白く濁った目で、確かに。
「……真似しているんじゃない」
理崎がゾンビたちから目を離さずにつぶやいた。
「新しく覚えているんじゃない。思い出しているんだ。音楽が引き金になって、春江さんの踊りが手本になって。毎週月曜日に何度も練習した動きを、体が思い出している」
そして踊りに体を預けている間、ゾンビたちは誰ひとり、こちらに手を伸ばしてこなかった。
「婆さん……」
源蔵が手拍子を打ちながらつぶやいた。
「お母上殿、何者でござるか……!?」
「霞台のディスコクイーンよ。昭和五十七年のね」
春江がウインクした。
「――来る」
理崎が顔を上げた。
「スライドのパートだ。春江さん、右へ!」
春江が右へ、流れるようにステップを踏んだ。
ゾンビの列が、それに続いた。
ずん。ずん。ずん。三列に並んだ四十体近いゾンビが、一糸乱れぬ動きで右へ横滑りしていく。巨漢ゾンビを先頭に、エプロンも蝶ネクタイも、みんな同じ角度で首を傾けたまま。アーケードの床が、どしん、どしんと揺れた。
路地の左側に、隙間が開いた。
「今だ! 踊りながら左を抜けろ! リズムを崩すな!」
五人は踊りながら進んだ。
先頭はハットリ。キレのあるステップで隙間に滑りこむ。続いてアンプを肩に掛けた理崎。小節を数えながら、ぎこちなく、でも必死に体を揺らす。その後ろに源蔵を抱えた剛田。ロボットのまま膝をかくかくさせて。抱えられた源蔵は、それでも手拍子を打ち続けていた。
しんがりは春江だった。ゾンビの列の真正面で、最後まで踊りながらみんなの盾になっている。
ゾンビの横をすり抜ける。灰色の顔がすぐ目の前にある。息がかかりそうな距離だ。それでもゾンビたちは襲ってこなかった。肩を揺らし、首を傾け、春江の動きを追いかけて、ただ踊り続けていた。
路地を抜け、アーケードに出た。
そのとき、曲が最後のサビを越えた。
踊りの列が、ずるりと動いた。ゾンビたちがアンプの音と春江を追って、路地からアーケードへあふれ出してくる。踊りながら、けれど確実にこちらへ。
「まずい、ついてくる!」と剛田。
ハットリは振り返った。
アーケードの真ん中で、四十体のゾンビとひとり向かい合う。
父の声が聞こえた気がした。
『いいかジェイク。最後はな、これで決めるんだ』
ハットリは右のつま先で床を蹴った。
そして、後ろへ滑った。
足は前へ歩いているのに、体は後ろへ下がっていく。アーケードの床の上を、氷の上のようにすうっと。
ムーンウォークだった。
「――――」
剛田も理崎も、声が出なかった。
ゾンビたちの足が止まり、右のつま先で床を蹴った。
そして、後ろへ滑った。
八百屋の奥さんが滑った。喫茶店のマスターが滑った。エプロンが、蝶ネクタイが、白い靴下が。四十体のゾンビがそろって前を向いたまま、後ろへ、後ろへ。アーケードの床をすうっと滑っていく。
北宿ムーンウォーク愛好会の、ムーンウォークだった。
ゾンビの群れが、路地の奥へ吸いこまれるように遠ざかっていく。
「……後ろに、下がっていくでござる」
「こんな撤退があるかよ……」
源蔵を抱えたまま、剛田が呆然と言った。春江が手を叩いて笑った。
曲が、最後の一音を迎えた。
ハットリが決めのポーズを取った。春江も同時に。
路地の奥で、山岸さんも同じポーズを取った。
つま先立ちで。胸のTシャツのシルエットと、まったく同じ形で。
ほんの一瞬だけ、その灰色の顔が笑っているように見えた。
◇
商店街から旧道に出て、さらに十五分ほど歩いたところに、小さな神社があった。
五人は境内の石段に腰を下ろした。誰もしばらく口をきかなかった。全員汗だくで、息が上がっていた。
最初に口を開いたのは、源蔵だった。
「……婆さん、昔と変わらんな」
「何言ってんの」春江は汗をぬぐいながら笑った。「あんたが踊らなくなっただけでしょうが」
「……膝が悪い」
「昭和五十七年は膝、悪くなかったでしょ。あの頃のあんた、私に負けじと毎週通ってたじゃない」
「……」
「えっ、源蔵殿も踊っていたでござるか!?」
「……昔の話だ」
源蔵はそっぽを向いた。耳が少し赤かった。春江がくすくすと笑った。
三人は顔を見合わせた。この無口で頑固な職人が、ミラーボールの下で踊っている姿は、どうしても想像できなかった。けれど春江の笑顔を見ていると、それが本当だったことだけはよくわかった。
◇
春江は炊飯器の底に残っていたご飯で、最後の塩むすびを三つ握った。それを一つずつ三人に手渡した。
剛田の番になると、春江はおにぎりと一緒に、剛田の大きな手を両手で包んだ。
「ありがとうね。あなたが玄関を開けてくれなかったら、私たち、あの家から出られなかった」
「いや、俺は押しただけで……」
「こんなに立派な身体してるんだもの。たくさん食べないとね」
剛田は言葉に詰まった。
――ムキムキすぎて、キモい。
教室で何度も聞いた言葉だった。そのたびに「仕上がってるってことか」と笑って、聞き流してきた。気にしていないつもりだった。
でも今、この小さな手に包まれて、「立派な身体」と言われて。
剛田は、自分が思っていたよりずっと、その言葉を待っていたのかもしれないと思った。
「……はい。いただきます」
剛田は照れくさそうに笑って、塩むすびにかぶりついた。
源蔵は理崎の隣に座っていた。理崎の膝の上には、アンプと、モバイルバッテリーと、あの銅線があった。
「……坊主」
「はい」
「この先にホームセンターがあるだろう。国道沿いのでかいやつだ」
「はい。地図に載っています」
「そこに寄れ。はんだごての使い方を一から叩きこんでやる」
理崎は目を丸くした。
「……教えてくれるんですか」
「仕事は丁寧にやるもんだ」
源蔵はそれだけ言って、また黙った。けれどその目は、昔の自分を見るように理崎の手元の銅線を見ていた。
そしてハットリには、春江が言った。
「あなた、踊りが本当に上手ね。誰かに習ったの?」
「父上でござる! それから――」
ハットリは黒装束の胸元からAIRIのぬいぐるみを取り出し、高々と掲げた。
「拙者の妹、AIRIでござる!」
「まあ!」春江は手を叩いた。「あの子の歌、私も好きよ。老人会の体操で毎朝踊ってるもの。ハロー、ハロー、ワールド、ってね」
「お、お母上殿!」
ハットリの目にみるみる涙がたまった。
「妹をご存じでござるか……!」
「だから妹じゃないでしょ、たぶん」
剛田と理崎が同時に突っこんだ。春江は声を上げて笑った。
◇
理崎は手帳を開いた。昨日書いた観察結果の続きに、新しい行を書き加える。
『六、ゾンビは、生前に繰り返した動きを体が覚えている可能性がある。特定の音楽、リズムに反応して、その動きを再現する』
ペンを止めて少し考えた。それから、もう一行。
『七、踊っている間、ゾンビは人を襲わない(仮説・要検証)』
「……検証は二度とごめんだがな」
理崎は手帳を閉じた。
ハットリが石段の上から南の空を見ていた。
「……ゾンビ殿たちも踊るのが好きだったのでござるな」
ぽつりと言った。
「山岸殿も、八百屋の奥方も、喫茶店のマスターも。毎週月曜日にあの公民館で楽しく踊っていたのでござる」
誰もすぐには答えなかった。
ゾンビにも、生きていたころがあった。誰かと笑って、誰かと踊って、毎週月曜日を楽しみにしていた日々があった。
当たり前のことなのに、三人は今日までそれを考えたことがなかった。
「……行くか」
剛田が立ち上がった。源蔵の工具箱を肩に担ぎ、春江の炊飯器を小脇に抱える。
「ホームセンター、寄るんだろ」
「ああ」と理崎。
「では、出発でござる!」
ハットリが石段を駆け下りた。春江がその後に続き、源蔵が「走るな婆さん」とぼやきながら、ゆっくりと腰を上げた。
三人だけの旅は、昨日で終わった。
五人の旅が今、始まった。
第四章 老夫婦とキング・オブ・ポップ 了