非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く 作:ゾンビ好き
ホームセンター・マルカネ朝霧街道店は、旧道と国道がぶつかる角に、巨大な倉庫のような姿で建っていた。
平屋で天井が高く、窓がほとんどない。広い駐車場には、乗り捨てられた車が数台あるだけだった。入口の自動ドアは、半分開いたところで止まっている。
「……要塞みてえだな」と剛田。
「籠城には向いている」理崎が建物を見上げた。「出入口が少なく、壁が厚い。窓がないから外から中が見えない。何より――」
「物資が無限にあるでござる!」
「無限ではない。だが、今の俺たちには十分すぎる」
源蔵が入口の看板を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「マルカネか。昔はここに、工具をよく買いに来た」
「あら、そうだったの」と春江。
「婆さんが知らんだけだ。週に二回は来とった」
「道理で家に工具が増えるわけね」
剛田が、止まった自動ドアの隙間に両手を差しこんだ。
「開けるぞ。……ふんっ」
ドアがごりごりと音を立てて、左右に開いた。
薄暗い店内から、ひんやりした空気が流れ出してきた。木材とゴムと肥料の匂い。
そして、その奥から。
「あ゛ー……」
「あ゛ー……」
「あ゛ぁー……」
声は、ひとつではなかった。
園芸コーナーの通路から、オレンジ色のエプロンをつけた店員が三人。レジの向こうから、パジャマ姿の男性とダウンジャケットの女性、ジャージ姿の中年男性が二人。それに、買い物かごを提げたままのおばあさんが一人。合わせて八体が、ゆっくりとこちらに向かってくる。先頭の店員の名札には『店長 小松』とあった。
「下がれ!」
剛田が老夫婦を背中にかばい、五人は自動ドアの外まで後ずさった。ゾンビたちの足は相変わらず遅い。
理崎は、ドアの隙間から店内に目をこらしていた。
入口近くの床に、段ボールが何枚も敷かれていた。その上に、売り場から下ろしたらしい毛布と飲みかけのペットボトル。柱にはマジックで書かれた貼り紙が一枚。
『避難してきた方へ 店内でお休みください マルカネ朝霧街道店』
「……そういうことか」
「何がだ」と剛田。
「夜中に避難指示が出て、店長が店を開けて、近所の人を受け入れたんだ。窓がなくて壁が厚い。避難所としては悪くない。でも――」
理崎はパジャマ姿のゾンビの腕を見た。袖口に、乾いた血の跡があった。
「避難してきた中に、噛まれていた人がいたんだろう。出入口を閉めきった店の中で、朝までに全員が」
誰も、何も言わなかった。
「だから物資は手つかずなんだ。持ち出す人が、いなかったから」
「……優しい店長さんだったのね」
春江が、小さく手を合わせた。
◇
「八体を、一か所にまとめたい」
理崎は入口脇の防犯グッズの棚から防犯ブザーをひとつ取り、ピンに指をかけた。
「これを店の真ん中の通路に投げる。全員がそこに集まったところを、何かで一網打尽にできれば」
「網なら、あるでござる!」
ハットリが指さしたのは、園芸コーナーの棚の上に積まれた巨大な防鳥ネットの束だった。『10m×10m 畑やベランダに』と書いてある。
「よし。ハットリ、棚の上からあれを投げろ。剛田は網の端を持って、閉じる準備。源蔵さん、網を縛る結び方を」
「もやい結びだ。ほどけん」
理崎がピンを抜いて、防犯ブザーを店の中央通路へ放り投げた。
ピリリリリリリ――!
八体のゾンビが一斉にそちらを向いた。ぞろぞろと、ブザーのまわりに集まっていく。
そのあいだにハットリは陳列棚に飛びつき、するすると天辺までよじ登った。高さ三メートル近い棚の上を、ゾンビの頭上めがけて音もなく走っていく。途中で、防鳥ネットの束を小脇に抱えた。
「忍法――網投げの術でござる!」
棚の上から、ハットリが網を広げて投げ下ろした。
網はふわりと宙に広がった。
そして、ゾンビたちの一メートル手前の床に、ぱさりと落ちた。
「……」
「……手裏剣と同じ軌道だな」と剛田。
「す、すまぬでござる! 次こそは――」
ところが、ゾンビたちは床の網に気づきもしなかった。鳴り続けるブザーをめざして、一体、また一体と網の上に足を踏み入れていく。
先頭の店長の靴に、網の目が引っかかった。店長が足を振る。網がからまる。後ろのパジャマの男性が店長の背中にぶつかる。その足にも網がからまる。ダウンジャケットの女性が。ジャージの男性が。買い物かごのおばあさんが。次々とその上に重なっていく。
全員が、からまった足を振りほどこうとして、ぐるりと回った。網がさらに巻きついた。もう一回転。さらに巻きつく。
気がつくと、八体のゾンビは一つの巨大な網の玉になって、店の真ん中にごろんと転がっていた。
ブザーの音だけが、ピリリリリと鳴り響いていた。
「……結果的に、作戦通りでござる」
「三回目だぞ、それ」
理崎がブザーを拾ってピンを差し戻し、源蔵が網の四隅を手早くもやい結びで縛り上げた。剛田がそのロープを肩に担いで、ぐいっと引く。
「……重っ」
八体分の網の玉が、床の上をずるずると滑り始めた。
「地引網かよ……!」
「大漁でござる!」
「黙って押せ、ハットリ」
三人がかりで、網の玉をバックヤードの資材倉庫まで引きずっていき、中に転がしこんで扉を閉めた。理崎が結束バンドで、取っ手を何重にも縛る。
「……店長殿、皆さま。お店を、少々お借りするでござる」
ハットリが、倉庫の扉に向かって深々と頭を下げた。その横で、春江も黙って手を合わせていた。
◇
まずは、守りを固めることになった。
指揮を執ったのは源蔵だった。
「入口は二つ。正面の自動ドアと、裏の搬入口だ。搬入口のシャッターは下りとるから、内側から角材でつっかえ棒をする。正面は、自動ドアの内側に棚を倒して壁にしろ」
「棚、ですか」と理崎。
「スチールの陳列棚だ。商品を全部下ろして横倒しにすりゃ、ちょっとやそっとじゃ動かん。三段重ねにしろ」
「……誰が運ぶんですか、それ」
全員の視線が剛田に集まった。
「……だと思ったよ」
剛田は袖のない肩をぐるりと回した。昨日、電車の脇で裂けた袖は、もう肩からちぎってしまっていた。
陳列棚は、商品を下ろしても一つ五十キロはあった。
剛田はそれを一人で抱え上げた。
運ぶ。倒す。積む。
「右がずれとる」
ずらす。
「もう半歩奥だ」
押しこむ。
「よし。次」
一つ、二つ、三つ。源蔵の短い声と、剛田の荒い息と、スチールのぶつかる音だけが店内に響く。黙々と運ぶ剛田の背中を見て、理崎はなぜか、工場の機械みたいだと思った。正確で、迷いがなくて、止まらない。
ハットリは高い棚の上を跳び回って、照明の届かない店の奥や、天井近くの換気口を見て回っていた。
「換気口は小さいでござる! 人は入れぬでござる! あと、屋上に出る梯子があるでござる!」
「よし。見張りに使える」と源蔵。
理崎は源蔵の指示で、裏の搬入口のシャッターに角材を立てかけ、電動ドライバーで床のアンカーに固定していった。一本目で、ビスを三本斜めに打ちこんだ。源蔵が無言で全部抜いた。二本目で、ビスがまっすぐ入った。源蔵は何も言わなかったが、今度は抜かなかった。
理崎は三本目の角材を手に取りながら、少しだけ口元を緩めた。
春江はその間に店内をひと回りして、両腕いっぱいに何かを抱えて戻ってきた。
カセットコンロ。ボンベの束。大きな寸胴鍋。お玉。紙皿。割り箸。
「アウトドア売り場にあったわよ。食料品コーナーも、缶詰と乾麺がほとんど手つかずで残ってる」
「……婆さん、守りを固めとる最中だぞ」
「固めたあとにお腹がすくでしょ。今から準備しとくの」
春江は資材売り場の作業台の上に、てきぱきと鍋とコンロを並べ始めた。
一時間後。正面入口は三段重ねの陳列棚で完全にふさがれ、搬入口は角材六本でがっちりと固められた。
汗だくになった剛田が床に大の字になると、春江がどこからか持ってきたスポーツドリンクを差し出した。
「はい、ご苦労さま。力持ちがいると、ほんとに助かるわねえ」
「……どうも」
剛田はペットボトルを一気に飲み干した。天井の高い店内を見上げる。棚の壁の向こうで、外のゾンビがうろつく気配がしたが、ここまでは届かない。
学校を出てから初めて、背中を壁に預けて息をついた気がした。
◇
午後は、工作の時間になった。
工具売り場の作業台に、源蔵と理崎が並んで座った。そのあいだには、学校の放送室から持ち出したPAアンプが置かれている。
「で、坊主。お前は何がしたい」
「……この音を、もっと遠くまで届けたいんです」
理崎は、ゆうべからずっと考えていたことを口にした。
「ゾンビは音に寄ってきます。そして音楽によっては、体が覚えている動きを思い出して踊る。だとしたら、大きな音で遠くまで音楽を届けられれば、たくさんのゾンビを動かせるかもしれない。逃げるためにも、誘導するためにも」
源蔵はしばらく黙って、アンプを眺めていた。
「……このアンプだけじゃ、商店街の路地が限界だな」
「はい。電源もモバイルバッテリーなので、すぐに切れます。商店街でも途中で一度落ちました」
「なら、まず電源だ」
源蔵は立ち上がると、カー用品の棚から自動車用のバッテリーを抱えてきた。それから、車のバッテリーから家庭用の電気を取り出すインバーターを。
「車のバッテリーなら、一晩中鳴らしても余る。次はスピーカーだ」
源蔵が選んだのは、防災用品の棚に並んでいた、ラッパ型の大きなスピーカーだった。町内会の防災訓練や、運動会のテントの上で使う、あれだ。
「ホーンスピーカーだ。音がまっすぐ前に飛ぶ。普通のスピーカーより、ずっと遠くまで届く。二つつなげりゃ、町内一周に響く」
「……すごい」
「すごくねえ。昔、町内会の祭りで使っとった。つなぎ方は全部同じだ」
それから源蔵は、作業台の下に置いていた自分の工具箱を開けた。ゆうべ剛田が担いできた、あの鉄の箱だ。
中から取り出したのは、一本のはんだごてだった。木の柄は手の脂で黒光りし、こて先は何度も研ぎ直されて短くなっている。
「これを使え」
「……え。でも、これ」
「四十年使った。売り場のは新品だが、こて先の当たりが硬い。初めてまともにやるなら、こっちのほうが手になじむ」
理崎は、両手でそれを受け取った。思っていたより軽かった。柄の、ちょうど親指が当たるところが、わずかにへこんでいる。四十年分の、源蔵の指の形だった。
「……お借りします」
「ん」
それから二時間、源蔵は理崎に、配線を一から教えた。
こての温度。当てる時間。線の皮のむき方。ねじの締め方。理崎がこてを当てすぎると、源蔵は無言でその手首をつかんで離させた。理崎の線がまっすぐ入ると、源蔵は「ん」とだけ言った。
「ん、ってどういう意味ですか」
「いい、って意味だ」
「……分かりにくい」
「職人はそういうもんだ」
十回目の「ん」を聞いたころ、理崎はもう、意味を聞かなくなっていた。
夕方。作業台の上には、車のバッテリーとインバーターとPAアンプとホーンスピーカー二つを、一本の太いケーブルでつないだ装置ができあがっていた。全部を一台の台車に載せ、ロープで固定してある。ラッパ型のスピーカーが二つ、前を向いて並んでいる姿は、なんだか少し誇らしげだった。
「試しに鳴らすか」と源蔵。
「いや……今鳴らすと、外のゾンビが全部ここに集まってきます」
「わかっとる。言ってみただけだ」
源蔵は、ほんの少しだけ口の端を上げた。理崎は、その顔を初めて見た気がした。
「名前をつけたらどうでござるか!」棚の上から、ハットリが顔を出した。「『忍法・大音声の術』とか!」
「……移動式音響誘導装置、でいい」
「長いでござる!」
「じゃあ、『どんちゃん号』だ」と源蔵が言った。
三人は、源蔵の顔を見た。
「……町内会の祭りで、わしが作った音響台の名前だ。毎年、盆踊りの櫓の下に置いとった」
源蔵は、台車のスピーカーをぽんと叩いた。
「婆さんはな、その前で踊るのが好きだった。音が一番でかいところで踊るのがいいんだと。……毎年、一番前で踊っとった」
作業台の向こうの売り場で、春江が鍋をかき混ぜながら、鼻歌を歌っていた。
満場一致で、『どんちゃん号』に決まった。
◇
夕食の前、三人は休憩所のベンチで、春江の料理を待っていた。
休憩所のマガジンラックには、少し古い雑誌がそのまま残っていた。ハットリが、表紙にAIRIが載った一冊を目ざとく見つけて広げている。
「お、AIRIの特集でござる!」
剛田が横からのぞきこんだ。見開きに、AIRIの公式プロフィールが大きく載っていた。
『未来からやってきた歌姫。大切な人を救うため、時代を越えて歌を届けている』
『「ハロー・ハロー・ワールド」――世界中の人が同じ踊りを覚えれば、いつか誰かの命を救える。そんな願いをこめて作られた楽曲』
記事の下のほうには、ファンの考察コーナーがあった。『AIRIの言う「大切な人」とは誰なのか? ファンの間で一番有力なのは「お父さん」説!』
「AIRIの設定、また増えてるぞ」と剛田が言った。「未来から来て、誰かを助けるために歌ってるんだってさ。……で、ファンの間じゃ、その誰かが父親なんじゃないかって噂らしいぞ」
「設定ではないでござる!」ハットリが雑誌をひったくった。「AIRIは、本当に未来から来たのでござる!」
「じゃあ、そのお父さんって誰なんだよ」
「それはまだ明かされていないでござる。壮大な物語なのでござるよ!」
「壮大なのはお前の解釈だろ」と理崎が言った。「公式のキャラクター設定だ。売り出し方としてはよくできているがな」
「理崎殿は夢がないでござる」
「夢で回路は動かない」
ハットリは頬をふくらませて、雑誌を胸に抱えた。それから、記事の最後の一行を指でなぞった。
『――制作スタッフは、デビュー以来一切公表されていない』
「……拙者は、信じるでござるよ」
ハットリは、誰にともなく小さくつぶやいた。
◇
その夜の夕食は、焼き鳥の缶詰で作った煮込みうどんだった。
寸胴鍋いっぱいに、乾麺のうどんと焼き鳥缶とコーン缶と乾燥わかめ。味つけは、めんつゆと缶詰のたれ。それだけなのに、湯気の匂いを嗅いだだけで、五人とも腹が鳴った。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
春江が紙皿によそって、一人ずつ手渡していく。
食べる前に、ハットリが飲料コーナーから持ってきた缶ジュースを全員に配った。
「乾杯をするでござる!」
「何に」と剛田。
「生き延びた記念でござる!」
源蔵は黙って缶を持ち上げ、春江は笑って缶を掲げた。理崎は少し照れくさそうに、剛田は一番高く。
「かんぱーい!」
五つの缶が、こつんと鳴った。
剛田は、四杯食べた。
理崎は、二杯食べた。理崎にしては、多いほうだった。
ハットリは一杯目で「うまいでござる!」と叫び、二杯目で「お母上殿の料理は日本一でござる!」と叫び、三杯目で泣いていた。
「なんで泣くんだよ」
「温かいご飯は、久しぶりでござる……昨日の朝から、パンとおにぎりとサラダチキンしか……」
「昨日の朝って、一日半前だぞ」
「一日半は、長いでござる……」
春江はくすくす笑いながら、ハットリの紙皿にもう一杯よそった。
「いっぱい食べなさい。まだあるからね」
剛田が四杯目を食べ終えて、紙皿を置いた。
「……春江さん」
「なあに」
「うまかったです。本当に」
春江は一瞬だけ黙って、それから目尻にしわを寄せて笑った。
「ありがとう。……給食のおばちゃんはね、その一言で、明日も頑張れるのよ」
源蔵は鍋の残りを黙ってすすっていた。その横顔が、ほんの少しだけ柔らかかった。
食事のあと、春江がぽつりと言った。
「うちはね、子どもに恵まれなかったの」
三人は手を止めた。
「だから、こんなふうに若い子たちにご飯を作ってあげられるのは、給食の仕事をしてたとき以来ね。……なんだか、楽しいわ」
春江はそれだけ言って、鍋を洗いに立とうとした。
「では!」
ハットリが、がばっと立ち上がった。
「では、拙者たちが、毎日食べに参るでござる!」
春江が足を止めた。
「安全区域に着いても、そのあとも、毎日でござる! 拙者たち三人、お母上殿のご飯を、毎日残さず食べに参るでござる!」
「毎日はさすがに迷惑だろ」と剛田が言った。それから少し考えて、付け足した。「……週三くらいなら」
「俺は週二でいい」と理崎。「源蔵さんに、はんだ付けの続きも習いたい」
春江は、ハットリの顔を見て、剛田の顔を見て、理崎の顔を見た。
それから、割烹着の袖で、目元をぎゅっと押さえた。
「……やだ。うどんの湯気が、目にしみたわ」
鍋の火は、もうとっくに消えていた。
源蔵が、ぼそりと言った。
「……婆さんが、あんなに笑っとるのは、久しぶりだ」
◇
夜の見張りは、交代制にした。
最初の番は、剛田と源蔵だった。屋上に出る梯子の上、天井近くの点検口から顔を出せば、駐車場と国道がよく見渡せる。
月が明るかった。駐車場には、昼間よりゾンビが増えていた。十体ほどが建物のまわりをゆらゆらと歩いている。けれど、中に入ってくる様子はなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……おい」
源蔵が口を開いた。
「お前、なんでそんなに体を鍛えとる」
剛田は少し考えた。
「……わかりません。最初は中学のとき、背が伸びなくて。チビってからかわれて、悔しくて。それで筋トレ始めたら、背も伸びたし、体もでかくなって。そしたら、楽しくなって」
「ほう」
「でも、別に何かに使うつもりはなかったんです。鍛えるのが楽しいから、鍛えてただけで。女子にはキモいって言われるし」
剛田は自嘲気味に笑った。
「正直、筋肉って何の役に立つんだろうって、思ったこともあります」
源蔵は月を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
「……わしの旋盤もな」
「え?」
「四十年回した。誰に褒められるわけでもねえ。ねじ一本、部品ひとつ。わしが削ったもんが、どこの何に使われとるのかも知らん」
源蔵は、自分の節くれだった手を見た。
「だが、今日。お前はその腕で、婆さんの家のドアを開けた。棚を運んだ。工具箱を担いでくれた。わしの膝の代わりになってくれた」
源蔵は、剛田の顔を見た。
「好きで鍛えた腕が、誰かを守ることもある。……お前の筋肉は、もう十分役に立っとる」
剛田は、何も言えなかった。
ただ月明かりの下で、自分の手のひらをじっと見つめていた。
見張りの交代の時間が来た。源蔵が、梯子を下りようとして膝をかばった。
剛田は黙って先に下り、下から源蔵の背中を支えた。一段、一段。源蔵が床に足をつくまで、手を離さなかった。
「……すまんな」
「いえ」
剛田は、少しだけ笑った。
「役に立つんで、これ」
◇
真夜中の番は、ハットリだった。
理崎は作業台の横で、どんちゃん号にもたれかかって眠っていた。その手には、源蔵のはんだごてが握られたままだった。剛田は段ボールを敷いた床で、いびきをかいている。老夫婦は寝具売り場の展示用ベッドで、並んで寝ていた。春江が「一度、こういうふかふかのベッドで寝てみたかったのよ」と言って、源蔵を引っぱっていったのだ。
ハットリは点検口から屋上に出て、膝を抱えて座っていた。
胸元から、AIRIのぬいぐるみと、北宿南駅で拾った週刊誌の切り抜きを取り出す。月明かりにかざすと、『AIRIは未来から来た!?』の見出しが、かすかに読めた。
「……AIRI」
ハットリは、ぬいぐるみに話しかけた。
「拙者たち、今日も生き延びたでござる。理崎殿は、すごい機械を作ったでござる。剛田殿は、すごく働いたでござる。お母上殿のうどんは、すごくうまかったでござる。それから、乾杯をしたでござる」
ぬいぐるみは、何も言わない。
「……早瀬殿は、無事でござろうか」
ハットリは南の空を見た。朝霧駐屯地のある方角。そこだけ、ほんのりと明るかった。サーチライトの光が、雲の底を照らしている。
「あそこに、いるでござろうか。……三人の枠、まだ、空けてくれているでござろうか」
夜風が吹いた。
そのとき、風に乗って、何かが聞こえた。
ハットリは顔を上げた。
耳をすます。ゾンビのうめき声ではない。もっと高く、細く、切れ切れの声。
――おぎゃあ。おぎゃあ。
赤ちゃんの、泣き声だった。
国道の向こう側。暗い住宅街のどこかから、途切れ途切れに聞こえてくる。
そして、駐車場をうろついていたゾンビたちが、ゆっくりとその声のほうへ向きを変え始めていた。
ハットリはぬいぐるみを胸元に押しこんで、点検口に飛びこんだ。
「剛田殿! 理崎殿! 起きるでござる!」
第五章 ホームセンター籠城 了