非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く 作:ゾンビ好き
第六章 母と赤ちゃん
――お願い。泣き止んで。
美咲は後部座席で陽向を抱きしめながら、何度目かわからない祈りを、心の中で繰り返していた。
車が動かなくなって、もうすぐ十八時間になる。
夜明け前、避難指示が出てすぐに、夫の拓海から電話があった。
拓海は朝霧の工場で夜勤の最中だった。すぐに帰ると言った。けれど工場の外はもう道路が封鎖されていて、従業員はそのまま朝霧駐屯地へ誘導されることになっていた。
『迎えに行けなくて、ごめん。今から道を探して、なんとか戻る』
「だめ。戻ってこないで」
美咲は言った。
「町内会から連絡が来たの。五時半に、公民館の前から朝霧行きの臨時バスが出るって。陽向と一緒にそれに乗る。だから大丈夫。あなたは、そのまま朝霧に向かって」
電話の向こうで、拓海は少し黙った。
『……わかった。必ず乗れよ。朝霧で会おう。陽向に、パパは先に行って待ってるって言っといて』
それが、最後の電話だった。
美咲は荷物をまとめ、陽向をチャイルドシートに乗せて、車で公民館に向かった。抱っこひもで歩くには遠すぎたし、バスに乗るまで陽向を寒い外に立たせたくなかった。
公民館の前には、もう長い列ができていた。美咲は駐車場に車を停めて、陽向を抱いて列に並んだ。前には三十人ほど。これなら乗れる、と思った。
バスが着いて列が動き出した、そのときだった。
列の前のほうで悲鳴が上がった。
うずくまっていた男の人が、急に隣の人につかみかかったのだ。誰かが叫び、誰かが逃げ、誰かが転んだ。列は一瞬で崩れた。運転手がドアを閉め、乗れた人だけを乗せたまま、バスは走り去った。
美咲は陽向を胸に抱えて駐車場まで走った。車に飛びこみ、ロックをかけ、エンジンをかけた。ほかの車と一緒に、夢中で国道に出た。南へ。朝霧へ。
そしてこの渋滞に呑まれた。
前の車の人たちは、昼前に車を捨てて歩いていった。美咲も何度もそうしようとした。けれど窓の外をあれが歩いていた。八か月の赤ちゃんを抱いて、あの中を二十キロ以上。考えるたびに足がすくんだ。
だから待った。ドアをロックして、窓に日よけをかけて、息をひそめて。
陽向はいい子だった。
お昼までは上機嫌で、チャイルドシートの中で自分の足をつかんでは「あー」と笑っていた。むちむちの腕。つきたてのお餅みたいなほっぺ。笑うと、右のほっぺにだけ小さなえくぼができる。夫に似たのだ。
美咲が人差し指を差し出すと、小さな手がびっくりするくらい強い力でぎゅっと握り返してくる。
――大丈夫。ママがいるからね。
最後のミルクをあげたのは、午後一時だった。
夕方から陽向はぐずり始めた。夜になって泣き始めた。抱っこしても揺らしても歌っても泣き止まない。お腹がすいているのだ。わかっている。でも、もう何もない。
泣き声にあれが集まってきた。
最初は一体だった。運転席の窓に灰色の顔が張りついた。美咲は悲鳴を飲みこみ、陽向を胸に抱いて後部座席の床に伏せた。二体になった。三体になった。窓ガラスを叩く音が、どんどんと車体を揺らした。
ハザードランプを点けたのは、そのときだった。誰かが見つけてくれるかもしれない。そんな人は、もうどこにもいないのかもしれないけれど。
暗い車の中で陽向を抱いていると、どうしてか昔のことばかり思い出した。
陽向が生まれた夜のこと。分娩室の外の廊下で、拓海は陽向よりも大きな声で泣いていた。看護師さんに「お父さん、静かに」と叱られて、それでも泣き止まなかった。
名前を決めたのは、退院の日だった。病院の窓から差しこむ冬の日差しの中で、拓海が言った。
『ひなた。ひなたぼっこの、ひなた。あったかい子になるように』
生まれて二か月目、陽向が初めて笑った。美咲がおむつを替えていたら、急に、にっこりと。その日、拓海は仕事中に三回も電話をかけてきた。『今も笑ってる?』『今は?』『今は?』。
夜泣きがひどかった時期は、二人で交代で抱っこした。拓海が子守唄を歌うと、音程がひどすぎて陽向はかえって大泣きした。美咲は眠くてふらふらなのに、おかしくて笑いが止まらなかった。
そして、毎朝のダンス。夜勤明けの拓海が目の下にくまを作って、テレビの前で陽向を抱いて踊る。ハロー・ハロー・ワールド。陽向はお腹を抱えて笑う。その声を聞きながら美咲は台所でお味噌汁を作る。
先週、陽向は初めて寝返りを打った。来週は、初めてのかぼちゃに挑戦するつもりだった。裏ごしのやり方をネットで調べてあった。
当たり前に続くと思っていた。
明日も、来週も、その先も。
日付が変わる少し前、運転席の窓にぴしりとひびが入った。
◇
泣き声に気づいてから三分後、五人は点検口の下に集まっていた。
「国道の向こう側だ」
屋上から戻ってきた理崎が、息を切らせながら言った。手にはハットリが見張り用に持っていた双眼鏡がある。
「渋滞で止まっている車の列の中に、一台だけハザードランプが点滅している軽自動車がある。泣き声はそこからだ。中に人影が見えた。大人がひとり。たぶん母親だ」
「ゾンビは」と剛田。
「車のまわりに六体。駐車場にいた連中も、泣き声のほうへ向かっている。……このままだと二十体を超える」
誰もすぐには口を開かなかった。
夜の国道。暗闇。二十体のゾンビ。そして守るべき人は今、老夫婦を含めて五人いる。
「……行くでござる」
最初に言ったのはハットリだった。
「拙者が行くでござる。赤ちゃんが泣いているでござる」
「ハットリ」理崎が言った。「昨日と違って今は夜だ。視界が悪い。ゾンビの数も多い。それに――」
「理崎殿」
ハットリは、まっすぐ理崎を見た。
「理崎殿は昨日も、同じことを言ったでござる。合理的に考えれば、見なかったことにするのが一番安全だと。そしてそのあと、『行くんだろう?』と言ったでござる」
理崎は黙った。
それから大きくため息をついて、眼鏡を押し上げた。
「……作戦を立てる。五分くれ」
◇
作戦はこうだった。
まず理崎がホームセンターの屋上から、防犯ブザーを三つ投げる。国道の北と南と東、それぞれ車の列のずっと先へ。ブザーのピンにはひもを結び、投げた瞬間に抜けるよう細工してあった。三方向で同時に鳴ればゾンビたちはばらける。
そのすきに剛田とハットリが国道を渡り、軽自動車にたどり着く。ハットリが母親を説得し、剛田がまわりのゾンビを押さえる。
源蔵と春江は、入口の陳列棚の壁を一枚だけずらして、人ひとりが通れる隙間を開けて待つ。戻ってきたらすぐに閉める。
「どんちゃん号は使わないのか」と剛田が聞いた。
「使えば、ゾンビは全部ここに集まる」と理崎。「赤ちゃんを連れて戻ってくる場所に、だ。あれはもっと先で使う」
「ブザーは三つで足りるのか」
「……足りなかったら、俺がもっと投げる。屋上から全部見ている」
理崎は、ブザーを握った手に力をこめた。
「行ってこい」
◇
ひびは少しずつ広がっていった。
ぴし。ぴし。窓に張りついたあれが額を打ちつけるたびに、蜘蛛の巣のような白い線が伸びていく。あと何回かで、割れる。
美咲は、陽向の顔を見た。
泣き疲れて、真っ赤になった顔。涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、それでもママの顔を見ると、しゃくりあげながら小さな手を伸ばしてくる。
――この子だけは。
美咲は、マザーズバッグから母子手帳を取り出した。最後のページの余白に、震える字で書いた。
『拓海へ。陽向をお願いします。この子は、あなたに似て、笑うと右にえくぼができます。たくさん笑わせてあげてね』
それから少し迷って、一行だけ書き足した。
『毎朝のダンス、続けてあげてね』
手帳を陽向の肌着の胸元にそっとはさみこんだ。
足元に転がっていたハンドルロックの鉄の棒を両手で握る。
窓が破られる前に自分が外に出る。大声を出して、走って、あれを全部この車から引き離す。できるだけ遠くまで。陽向の泣き声が聞こえなくなるところまで。
ドアを閉めてしまえば、陽向は車の中に残る。誰かが、いつか見つけてくれる。そう信じるしかない。
頭ではわかっていた。
なのに鉄の棒を握る手が、がたがたと震えて止まらなかった。
息がうまく吸えない。吸っても吸っても、胸の奥まで空気が入ってこない。心臓の音が耳の中で鳴っている。口の中がからからに乾いて、歯が小さくかちかちと鳴った。背中を冷たい汗が伝っていく。
外に出たらどうなるのか。
灰色の手につかまれる。引き倒される。噛まれる。痛いだろうか。どのくらい痛いのだろうか。それから、自分も、あれになるのだろうか。
怖い。
怖い。怖い。怖い。
――でも。
本当に怖いのはそこじゃなかった。
美咲は腕の中の陽向を見た。
この子は、来年の春には歩き出すだろう。よちよちと両手を広げて。最初の一歩を自分は見られない。
初めて「ママ」と呼ぶ声を、自分は聞けない。保育園の入園式で、大きすぎる制服を着た姿も。運動会で転んで泣く顔も。ランドセルを背負って振り返る笑顔も。
この子はママの顔を覚えていないまま大きくなる。
ママの声も匂いも抱っこの温かさも、何ひとつ覚えていないまま。
写真なら残っている。でも、写真の中のママは笑っているだけで、陽向の名前を呼んではくれない。
――もっと、撮っておけばよかった。動画を。声が残るように。
――夜泣きの夜に、いらいらなんてしなければよかった。「お願いだから寝て」なんて、言わなければよかった。
――もっと、抱っこしておけばよかった。腕が痛くなるくらい。この子が嫌がるくらい。
――ごめんね。
――ずっと一緒にいるって、決めてたのに。
涙で陽向の顔がにじんだ。
美咲は陽向のおでこに唇を当てた。
ミルクと汗と陽向の匂いがした。生まれた日からずっと嗅いできた、世界で一番好きな匂いだった。
これをもう二度と嗅げなくなる。
「……陽向」
陽向がひっくとしゃくりあげながら、美咲の指を握った。
びっくりするくらい、強い力だった。
行かないで、と言われた気がした。
「ママね……」
声が、裏返った。一度、唇を噛んで、言い直した。
「ママね、ちょっとだけ、お出かけしてくるね」
笑おうとした。ちゃんと笑えているか、わからなかった。
「パパが迎えに来てくれるからね。パパ、歌は下手だけど踊りは上手だからね。いっぱい笑わせてもらうんだよ。……ママのぶんまで、いっぱい」
指を、ほどこうとした。
ほどけなかった。陽向の小さな手が、離してくれなかった。
いや、違う。離せないのは、自分のほうだった。
一本ずつ、指をはがした。最後の小指が離れたとき、美咲の喉の奥から、声にならない声が漏れた。
陽向が、また泣き出した。
美咲は、震える手をドアのロックにかけた。
三つ数えたら、開ける。
――三。
――二。
――……
手が、動かなかった。
指先がロックに触れたまま、凍りついたように固まっている。体じゅうが、行くなと叫んでいた。
ぴしっ。
窓のひびが、また伸びた。白い線が、窓の端まで届きかけている。
――次で、割れる。
美咲はぎゅっと目をつぶった。もう一度。今度こそ。
「ごめんね、陽向。……大好きだよ」
――三。
――二。
――い……
ピリリリリリ――。
ピリリリリリ――。
ピリリリリリ――。
暗い国道の三方向から、甲高い電子音が同時に鳴り響いた。
美咲の手が止まった。
窓に張りついていた灰色の顔が、ゆっくりと横を向いた。車のまわりに群がっていた影たちが、首を回し、三つの方向へばらばらと散っていく。
何が起きたのか、わからなかった。
次の瞬間。運転席の窓に残っていた最後の一体が、後ろから何かにつかまれて、ぐいっと引きはがされた。
大きな人影だった。袖のない腕が、灰色の体を軽々と持ち上げ、隣の車のボンネットにどさりと寝かせる。トランクのほうから来たもう一体の両手首を、まとめて片手でつかみ、反対側の車のドアに押しつけた。
「ハットリ、早くしろ!」
若い男の低い声。
こんこん、と運転席の窓が叩かれた。
美咲はハンドルロックを振り上げた。
窓の外に真っ黒な影が立っていた。黒い頭巾。黒い装束。はみ出した金髪。頭のてっぺんが、なぜか平らにへこんでいる。
「助けに来たでござる! 拙者たち、向かいのホームセンターに――」
美咲は悲鳴を上げなかった。
上げる元気も、もう残っていなかった。代わりに、ものすごく冷静な顔で、その影を上から下まで見た。
そして、言った。
「……ゾンビより怪しい」
「よく言われるでござる!」
「よく言われるの!?」
車の中で、陽向がひときわ大きく泣いた。散っていったはずのゾンビが何体か、ふたたびこちらを振り向くのが見えた。
黒い影は、少し考えたようだった。
それから黒装束の胸元に手を入れて、何かを取り出した。
AIRIのぬいぐるみだった。
影はそれを窓ガラスに押しつけて、小さく左右に揺らした。そしてガラス越しに、口ずさんだ。
「……ハロー、ハロー、ワールド。きみの声が、聞こえたら……」
泣き声が、ふっと止んだ。
チャイルドシートの中で、小さな手が、ガラスの向こうのぬいぐるみに向かって伸びていた。涙でぐしゃぐしゃの顔が、ぽかんと口を開けてAIRIを見つめている。
鼻の頭まで真っ赤にして、まだしゃくりあげながら、それでも陽向は、ぬいぐるみに向かって「あー」と声を出した。
右のほっぺに、小さなえくぼが浮かんだ。
美咲の手から、ハンドルロックがごとりと落ちた。
「……陽向が、泣き止んだ」
「ひなた殿というのでござるか」
「……この子、この曲だけは泣き止むの。どんなにぐずっても、毎朝テレビでこれが流れると、ぴたっと」
美咲は、窓の外の影を見た。今度は、ちゃんと目を見た。
青い目だった。まっすぐで、少し心配そうで、驚くほど優しい目だった。
あと一秒遅かったら。
あと一秒遅かったら、自分はもうこのドアの外にいた。
カチャリ、とロックが外れた。
◇
母親は、美咲と名乗った。赤ちゃんは陽向。生後八か月の男の子だった。
夫は朝霧の工場から駐屯地へ避難したこと。臨時バスに乗りそこねたこと。昼にミルクが切れたこと。美咲はチャイルドシートのベルトを外しながら、早口でそれだけを話した。手が震えていた。
「大丈夫でござる」
ハットリは言った。
「向かいのホームセンターに、仲間がいるでござる。春江殿という、日本一の給食のおばちゃんがいるでござる。きっと何とかしてくれるでござる」
「給食の……?」
「とにかく急ぐでござる!」
美咲は陽向を抱っこひもで胸に抱え、マザーズバッグを肩にかけて車を降りた。ハットリはAIRIのぬいぐるみを、陽向の小さな手に握らせた。陽向は、それをぎゅっと抱きしめた。
「剛田殿、行けるでござる!」
「おう!」
剛田は押さえていたゾンビを車の陰に押しやり、三人のもとへ駆け寄った。
「走れるか」
「……走れます」
「なら、俺の後ろについてこい。ハットリ、しんがりだ」
四人は車の列のあいだを、ホームセンターへ向かって走り出した。
◇
半分まで来たところで、陽向が泣き出した。
走る揺れに驚いたのか、夜の冷たい風のせいか。抱っこひもの中で、陽向は顔を真っ赤にして全身で泣いた。
おぎゃあああ――!
夜の国道に、泣き声が響き渡った。
ブザーのほうに散っていたゾンビたちが、一斉に振り返った。北から、南から、東から。数はさっきの倍になっていた。車の列の隙間という隙間から、灰色の人影がにじみ出てくる。
「急げ!」
剛田が叫んだ。
美咲の足が、もつれた。昼から何も食べていない。一日中、車の中で体を丸めていた足は、思うように動かなかった。膝がアスファルトに落ちかける。
その腕を、剛田がつかんで引き上げた。
「あと五十メートルだ! 陽向のこと、離すなよ!」
「……はいっ!」
美咲は歯を食いしばって走った。胸の中で、陽向が全身で泣いていた。
そのとき、陽向の手から何かが落ちた。
AIRIのぬいぐるみだった。
ぬいぐるみはアスファルトの上を、ころころと転がった。止まった車と車のあいだ、ゾンビたちが近づいてくる、その真ん中へ。
「あっ――」
美咲が振り返った。陽向の泣き声が、さらに大きくなった。
「いい、置いてけ!」剛田が叫んだ。「ぬいぐるみなんか、また――」
ハットリは、もう走り出していた。
ホームセンターとは反対の方向へ。ゾンビたちのほうへ。
「ハットリ!」
ぬいぐるみの上で、ゾンビの足が持ち上がった。
灰色の大きな足が、ゆっくりと、AIRIの小さな顔の真上に。
「――拙者はっ!」
ハットリが跳んだ。
忍法でもなんでもなかった。手裏剣のように宙を舞うことも、天狗のように屋根から落ちることもない。ただまっすぐに頭からアスファルトへ飛びこむ、不格好なヘッドスライディングだった。
「拙者は、お兄ちゃんだぞっ!!」
ゾンビの足が下りてくる、その寸前。ハットリの両手が、ぬいぐるみをすくい取っていた。
どすん、とゾンビの足がさっきまでぬいぐるみがあった場所を踏みしめた。
ハットリはぬいぐるみを胸に抱えたまま、アスファルトの上を転がった。黒装束が擦れて破れ、肘から血がにじむ。顔を上げると、まわりをゾンビの足が囲んでいた。
一体が、ハットリに向かって腰をかがめた。灰色の手が伸びてくる。
その手が届く前に、ハットリの体がぐいっと宙に浮いた。
黒装束の襟首を、剛田がつかんでいた。
「……バカかお前は!」
剛田はハットリを猫の子のようにぶら下げたまま、ゾンビたちのあいだを突っ切って走った。ハットリの腕の中で、AIRIのぬいぐるみが揺れていた。
ホームセンターの入口の隙間で、源蔵が手を伸ばしていた。美咲が飛びこみ、剛田がハットリを放りこみ、最後に剛田自身が転がりこんだ。
「閉めろっ!」
源蔵と剛田が、陳列棚の壁を力いっぱい押し戻した。がしゃん、と棚がはまり、隙間が消えた。
一瞬遅れて、棚の向こう側でどん、どんとゾンビたちのぶつかる音がした。
けれど、壁はびくともしなかった。
◇
店の中で、ハットリは床に座りこんでいた。
肘から血を流し、黒装束はぼろぼろで、頭巾はどこかに飛んでいってしまった。金髪がぐしゃぐしゃに乱れている。
それでも腕の中のぬいぐるみだけは、傷ひとつなかった。
ハットリは立ち上がると、美咲の前まで歩いていった。抱っこひもの中で、陽向がまだ泣いていた。
「陽向殿」
ハットリは、ぬいぐるみを陽向の目の前に差し出した。
「妹を……AIRIを、頼むでござる」
陽向は泣くのをやめた。ぬいぐるみを見つめ、両手でつかみ、ぎゅっと抱きしめた。そして、ぐしゃぐしゃの顔のまま、きゃっと笑った。
空いているほうの小さな手が伸びてきて、ハットリの人差し指をつかんだ。
びっくりするくらい強い力だった。
「……おお」
ハットリは、そのまま動けなくなった。指先から温かさが伝わってくる。陽向はハットリの指とぬいぐるみを両方握りしめたまま、もう一度えくぼを浮かべて笑った。
美咲は、口元を押さえていた。
「……どうして」
声が震えていた。
「どうして、ぬいぐるみのために、あんな……」
ハットリは、少し困ったように首をかしげた。
「陽向殿が、泣いていたからでござる」
それから照れくさそうに頭をかいた。
「それに、拙者はお兄ちゃんでござるから。妹が踏まれそうになったら、助けるのは当然でござる」
「……バカ」
後ろから、剛田が言った。その声は怒っているようで、少しだけ震えていた。
「心配させんな。本当に、バカ」
「……申し訳ないでござる。勝手に飛び出して、剛田殿にまで危ない思いをさせたでござる」
理崎が、屋上から梯子を下りてきた。眼鏡がずれていた。屋上から、全部見ていたのだ。
理崎は何も言わずにハットリの前に立つと、救急用品の棚から持ってきた消毒液と絆創膏で、黙って肘の手当てを始めた。
「……理崎殿?」
「黙ってろ」
理崎の手は少しだけ震えていた。
美咲は陽向を抱いたまま、その場にへたりこんだ。
胸の中で陽向が笑っている。ハットリの指を握ってぬいぐるみを抱えて、えくぼを浮かべて。
あのドアの外に出ていたら。
この顔を、もう二度と見られなかった。
美咲は陽向を抱きしめて、声を殺して泣いた。春江が隣に膝をつき、黙ってその背中をさすっていた。
◇
その夜、陽向はなかなか眠らなかった。
ぬいぐるみを抱いて泣き止んだのは、ほんの十分ほどだった。それからまた泣き始めた。お腹がすいているのだ。
泣き声に引き寄せられて、ゾンビたちが建物のまわりに集まり始めていた。搬入口のシャッターが、外からどん、どんと叩かれる。
「ミルクは……」美咲がマザーズバッグをひっくり返した。「お昼に、最後の一本を……」
「待ってなさい」
春江が日用品の売り場のほうへ消えた。数分後、両腕いっぱいに何かを抱えて戻ってきた。
紙パックの液体ミルク。紙おむつ。おしりふき。哺乳瓶。
「奥の日用品コーナーに、赤ちゃん用品の棚があったのよ。昼間、見ておいたの」
「……春江さん」
「さ、ミルクを温めましょ。人肌くらいがいいのよね」
春江はカセットコンロに小鍋をかけ、湯せんで液体ミルクを温め始めた。美咲が哺乳瓶を口元に持っていくと、陽向はものすごい勢いで飲み始めた。
ごくごくごく、という音が、静かな店内に響いた。
「……よく飲むわねえ」春江が目を細めた。「剛田くんみたい」
「俺、こんなじゃないっすよ」
「同じよ。食べっぷりのいい子は、みんな同じ顔をしてるの」
ミルクを飲み終えた陽向は、満足そうにげっぷをした。それから、ぬいぐるみを抱えてうとうとし始めた。
けれど眠りかけるたびに、搬入口のシャッターがどんと鳴った。そのたびに陽向はびくりと目を覚まし、泣きそうに顔をゆがめた。
「……あの音が、怖いのね」と美咲。
ハットリがそっと陽向のそばにしゃがみこんだ。
そして、小さな声で歌い始めた。
「……ハロー、ハロー、ワールド。きみの声が、聞こえたら……」
陽向の目がハットリを見た。
ハットリは歌いながら、ゆっくりと手を動かした。サビの振付を、赤ちゃんに見えるように、小さく、やさしく。
「……ぼくはここだよと、手をふるよ……」
美咲がそれに声を重ねた。小さく、ささやくように。
春江が続いた。剛田が、照れくさそうに低い声で加わった。理崎は歌いはしなかったが、膝の上で指を動かしてリズムを刻んでいた。源蔵は目を閉じて、黙って聴いていた。
陽向は、ぬいぐるみを抱いたまま目を閉じた。
小さな寝息が聞こえ始めた。
歌が終わったとき、店の中は静かだった。
理崎はふと顔を上げた。
搬入口のシャッターを叩く音が、いつの間にか止んでいた。
「……」
理崎はシャッターのほうをしばらく見つめていた。外で何が起きているのかは、わからない。ゾンビたちが立ち去ったのか、それとも――。
理崎は何も言わずに、手帳に一行だけ書き加えた。
『八、ハロー・ハロー・ワールドの歌声の間、ゾンビの攻撃が止んだ(要検証)』
◇
夜が明けた。
店の中には七人がいた。
朝ごはんはホットケーキだった。
食料品コーナーの棚の奥に、ホットケーキミックスが手つかずで残っていたのだ。春江がそれをボウルで溶き、売り場から下ろしてきた新品のフライパンをカセットコンロにかけた。
フライパンを見た瞬間、ハットリがびくりと頭を押さえた。
「……なんで頭押さえてんだ、お前」と剛田。
「ふ、フライパンを見ると、頭のてっぺんがうずくのでござる……」
「あらやだ。まだ痛む?」春江が、フライパンを持ったまま振り返った。
「その角度でこちらを向かないでほしいでござる!」
美咲がぷっと吹き出した。ゆうべから初めての笑い声だった。
ホットケーキは次々と焼き上がった。剛田が十二枚食べた。理崎が「バターがない」と言うと、源蔵がアウトドア売り場から缶入りのメープルシロップを見つけてきた。ハットリは三枚目でまた泣きそうになり、全員から「泣くな」と言われた。
陽向には日用品コーナーにあった瓶詰めの離乳食。
美咲はそのラベルを見て手を止めた。
かぼちゃのペーストだった。
「……これ」
「どうしたの?」と春江。
「来週、初めてのかぼちゃに挑戦するつもりだったんです。裏ごしのやり方も調べて……」
美咲は、少しだけ笑った。
「一週間、早くなっちゃった」
スプーンでひとさじ。陽向の口に運ぶ。
陽向はもぐもぐと口を動かした。眉間にしわを寄せて、真剣な顔で。
それから、両手でテーブル代わりの段ボールを、ばんばん叩いた。
「おいしいって言ってるのよ、それ」と春江。
「わかるんすか」と剛田。
「給食のおばちゃんを四十年やってるとね、食べてる子の顔で全部わかるの」
陽向は一口食べるたびに段ボールを叩いた。口のまわりが、たちまちオレンジ色になった。美咲はスマホを取り出しかけて、やめた。電池が残り少ない。その代わりに、じっと見つめた。目に焼きつけるように。
――拓海に話してあげなきゃ。初めてのかぼちゃ、すごい顔して食べたよって。
陽向はやがて剛田をじっと見始めた。正確には、剛田の袖のない腕を。
剛田は少し考えてから、腕を曲げて力こぶを作った。それから、ぴくっ、ぴくっと、上腕二頭筋を交互に動かしてみせた。
陽向が目をまん丸にした。
そして、きゃああっ、と声を上げて笑った。右のほっぺに、えくぼを浮かべて。
「……笑った」
「もう一回やってみて」と美咲。
剛田が、もう一度力こぶをぴくぴくさせた。陽向は段ボールを叩きながら、のけぞって笑った。
「剛田殿の筋肉が……ついに、ウケたでござる……!」
「初めて筋肉で人を笑顔にした……」
剛田は自分の腕を見下ろして、なんとも言えない顔をしていた。理崎が真顔で拍手した。
源蔵はその間、黙って作業台で何かをいじっていた。しばらくして、陽向の前に小さなものを置いた。
短く切った塩ビ管の両端にふたをして、中に鈴とビーズを入れた、がらがらだった。振ると、しゃらしゃらと澄んだ音がした。
「……持ちやすい太さにしといた」
陽向はそれを両手でつかんで振り回し、また笑った。
「源蔵さん、ありがとうございます」
「……ん」
「ん、は『どういたしまして』って意味だ」と理崎が小声で通訳した。
◇
食後、美咲は自分たちのことを少しずつ話した。
夫の拓海とは、高校の同級生だったこと。三年前に結婚して、朝霧の自動車部品工場の近くにアパートを借りたこと。夜勤明けで帰ってくると、着替えもしないでまず陽向を抱っこするのが日課だったこと。
「あの人ね、歌は本当に下手なの。音程が全部ずれてるの。でも、ダンスだけはうまいのよ。毎朝ハロー・ハロー・ワールドが流れると、陽向を抱っこして一緒に踊るの」
「毎朝でござるか!?」
ハットリが身を乗り出した。
「夜勤明けで?」と剛田。「……体力どうなってんだ」
「目の下にくまを作って、それでも全力。陽向はそれが大好きで、パパが踊り始めると、もうお腹を抱えて笑うの」
理崎がゆっくりと眼鏡を押し上げた。
「……なるほど。だから、あの曲で泣き止むのか。条件づけだ。曲が流れると父親が来て踊る、と学習している」
「理崎殿、言い方がかわいくないでござる」
「パパが来ると思ってる、ってことでしょ」美咲が笑った。「たぶん、そう」
美咲はスマホを取り出した。電池はもう数パーセントしか残っていなかったが、待ち受け画面に写真が一枚表示されていた。
作業着姿の日焼けした若い男性。目の下にくまを作って、陽向を高く抱き上げ、AIRIの決めポーズを取っている。陽向は口を大きく開けて笑っていた。右のほっぺに、えくぼがあった。男性の右のほっぺにも、同じえくぼがあった。
「……そっくりでござる」
「でしょ」
美咲は少しだけ笑った。それから画面を消してうつむいた。
「……正直ね。怖いの」
誰も、口を挟まなかった。
「朝霧に着いても、あの人がいなかったらどうしようって。バスが着いて、そこに私たちが乗ってなかったら……あの人、絶対に探しに出ちゃう。そういう人なの。外に出て、もし何かあったら……」
美咲の声が細くなった。
ゆうべ車の中で、彼女が何を覚悟していたのか。三人は知らない。けれど、その横顔を見ていると、なんとなくわかる気がした。
「美咲さん」
口を開いたのは春江だった。
「その人、毎朝夜勤明けで、くまを作って、それでも全力で踊ってたんでしょう」
「……はい」
「そういう人はね、しぶといのよ。家族を笑わせるためなら、何回でも立ち上がるの」
春江はちらりと源蔵を見た。
「うちの人もそうだったから。わかるの」
源蔵は何も言わずに、そっぽを向いた。耳が赤かった。
「拓海殿は、きっと待っているでござる」
ハットリが身を乗り出した。
「朝霧で、陽向殿のために踊る準備をして、待っているでござる。だから拙者たちが、必ず美咲殿と陽向殿をそこまで届けるでござる!」
「……届けるって、宅配便かよ」と剛田。
「忍びの宅配便でござる!」
「余計に怪しくなったな」と理崎。
美咲は目元をぬぐって笑った。
それから陽向の肌着の胸元に手を入れて、そっと何かを取り出した。母子手帳だった。最後のページを開いて、少しのあいだ見つめて、それからぱたんと閉じた。
「何が書いてあるでござるか?」
「内緒」
美咲は、手帳を自分のパーカーのポケットにしまった。
「会えたら、あの人に見せて、笑い話にするの」
陽向が源蔵のがらがらを振り回して、しゃらしゃらと鳴らした。その音に合わせて、ハットリがこっそりハロー・ハロー・ワールドの振付をした。陽向が、えくぼを浮かべて笑った。
◇
ホームセンターの入口で、理崎が地図を広げた。
「朝霧駐屯地まで、残り約二十五キロ。この足だと途中で一泊して、着くのは明後日の午後になる計算だ。ただし――」
理崎は全員の顔を見回した。膝の悪い源蔵。小柄な春江。赤ちゃんを抱いた美咲。
「――今までより、さらにゆっくり進むことになる」
「足は、これを使え」
源蔵が、園芸コーナーから一台のリヤカーを引っぱってきた。鉄のフレームに太いゴムのタイヤ。荷台には毛布が敷いてある。
「わしと婆さんと、美咲さんと陽向が交代で乗る。剛田、引けるか」
「余裕っす」
「どんちゃん号は、わしが台車で押す。坊主、手伝え」
「はい」と理崎。
「では拙者は、先頭で偵察を務めるでござる!」
ハットリが片腕を突き上げた。肘には理崎が貼った絆創膏が三枚。黒装束はぼろぼろで、頭巾はなくなったままだったが、本人はまったく気にしていない様子だった。
美咲が陽向を抱っこひもに入れながら、ハットリに言った。
「……ねえ、ハットリくん」
「何でござるか」
「このぬいぐるみ、返さなきゃね」
陽向は眠ったまま、AIRIのぬいぐるみを両手でしっかりと抱きしめていた。
ハットリは少しのあいだ、それを見ていた。それから首を横に振った。
「陽向殿に持っていてほしいでござる。……AIRIは、陽向殿のお姉上でござる」
「お姉さん?」
「拙者がお兄ちゃんで、AIRIが妹で、陽向殿はその下の弟殿でござる。家族でござる」
美咲は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。笑いながら、目元をぬぐった。
「……ありがとう。お兄ちゃん」
ハットリは耳まで真っ赤になった。
剛田がリヤカーの持ち手を握り、理崎と源蔵がどんちゃん号の台車を押し、春江が美咲の荷物を抱え、ハットリが先頭に立った。
「出発でござる!」
七人の旅が始まった。
第六章 母と赤ちゃん 了