非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く 作:ゾンビ好き
第七章 夜明かし
旧道は山あいの谷に沿ってゆるやかに南へ延びていた。
七人の歩みはゆっくりだった。先頭をハットリが偵察し、その後ろをリヤカーを引く剛田。荷台には交代で、源蔵と春江、美咲と陽向が乗る。しんがりはどんちゃん号の台車を押す理崎だった。
昼過ぎ、谷の上空を自衛隊のヘリが一機、低く飛んでいった。
機体の横の扉が開き、白いものがこぼれ落ちてきた。紙だった。何百枚もの紙が、秋の青空いっぱいに広がってひらひらと谷に舞い降りてくる。
「雪みたい……」と美咲がつぶやいた。
リヤカーの上で、陽向が両手を伸ばした。その小さな手のひらに一枚がふわりと落ちてきた。陽向はそれをしっかりつかんで、得意そうに「あー」と言った。
「陽向殿、お手柄でござる!」
ハットリがそれを受け取って、読み上げた。
『朝霧駐屯地 安全区域のご案内』
『安全区域への入口は、霞川にかかる朝霧大橋の南詰め、正面ゲートのみです。ゲートは安全確認のため、毎時0分から10分間のみ開放します。開放時刻に合わせて、橋をお渡りください』
「毎時0分から十分間……」理崎が紙をのぞきこんだ。「なら、開放の時刻に合わせて橋に着けばいい。腕時計はある。到着の計算は俺がする」
「十分を逃したら、どうなるでござるか」
「次の0分まで、橋の上で待つことになる」
「橋の上で、一時間か」と剛田。
理崎は何も答えなかった。ただ、どんちゃん号の台車の取っ手を少しだけ強く握り直した。
チラシの裏面には、手書きの文字を印刷したような、短いメッセージがあった。
『あきらめないで。必ず、たどり着けます。――朝霧駐屯地より』
春江がそれを読んで小さくうなずいた。美咲はその一行を指でそっとなぞった。
◇
日が暮れるころ、七人は山の中腹にある古い寺にたどり着いた。
苔むした石段を上った先に、小さな本堂と庫裏がある。人の気配はなかった。山門の脇に、『住職は避難しております。どなたでも、ご自由にお使いください』という貼り紙があった。
「お寺の人、優しいな」と剛田。
「忍びの隠れ家にぴったりでござる!」とハットリ。
「ここまで十二キロ。朝霧大橋まで、残り十三キロだ」と理崎。「明日の夕方には着ける」
本堂の雨戸を閉め、ろうそくに火を灯した。春江が庫裏の台所で、ホームセンターから持ってきたレトルトのカレーと、寺の米びつに残っていた米で夕食を作った。
食事の前に春江が本尊の阿弥陀さまに手を合わせた。源蔵も黙ってその隣に並んだ。美咲が陽向を抱いて続き、三人も、なんとなくその後ろに並んで手を合わせた。
ハットリだけが声に出して祈った。
「みんなで、無事に着けますように。拓海殿に、会えますように。それから――」
「それから?」と剛田。
「……それは、心の中で祈るでござる」
ハットリはぎゅっと目をつぶった。
陽向は阿弥陀さまを見上げて、ずっと「あー、あー」と話しかけていた。
「陽向殿、仏さまと何を話しているでござるか」
「たぶん、ごはんまだ? って聞いてるのよ」と美咲。
◇
夕食のあと、理崎がゲルマニウムラジオを取り出した。
イヤホンを外して本堂の真ん中に置くと、雑音の向こうから、かすかに声が聞こえてきた。臨時の放送局が、避難情報の合間にニュースを流していた。
『――なお、関東北部での混乱を受けて、各地の自治体では――』
『――続いて、こんな話題です。世界的に人気のバーチャルシンガー、AIRIの公式アカウントが、今回の事態発生以降、一切の更新を停止しています。AIRIは三年前のデビュー以来、制作スタッフや運営会社を一度も公表しておらず、問い合わせ窓口も存在しないことから――』
「AIRIの話でござる!」
ハットリがラジオに飛びついた。
『――ファンの間では、AIRIの安否を心配する声が広がっています。SNSには「AIRI、無事でいて」という投稿が相次いでいるということで――』
ざざざ、と雑音が強くなって、声は聞こえなくなった。
「……妹は、今どこで何をしているのでござろう」
ハットリは、ラジオを見つめてぽつりと言った。
「どこにもいない。AIなんだから」と理崎。
「わかっているでござる。でも――」
ハットリは、陽向が抱いているぬいぐるみを見た。
「でも、もしAIRIが本当に未来から来たのなら。今ごろ、誰かのことを心配しているかもしれないでござる」
理崎は何か言いかけて、やめた。ろうそくの炎がゆらりと揺れた。
◇
それから話は、なぜかモテる・モテないの話になった。きっかけは美咲だった。
「ねえ。三人とも、彼女いないの?」
三人は同時に固まった。
「……いないです」と剛田。
「いないです」と理崎。
「いないでござる」とハットリ。
「なんで? 三人とも、すごくいい子なのに」
「いい子とモテるは、違うんすよ」剛田が遠い目をした。「俺ら、女子にキモいって言われてるんで」
「三人とも?」
「三人ともです」と理崎。「理由はそれぞれ異なりますが」
「異なるでござる」
美咲と春江は顔を見合わせた。そして二人同時に、身を乗り出した。
「ちょっと、詳しく聞かせなさい」
剛田は、教室でプロテインを振ると女子が窓を開ける話をした。理崎は、アニメの名台詞をつぶやくと女子の会話が止まる話をした。ハットリは、話しかけると女子が半歩下がる話をした。
春江は、ふんふんとうなずきながら聞いていた。美咲は途中から笑いをこらえていた。源蔵は本堂の柱にもたれて目を閉じていたが、寝ているわけではなさそうだった。
ひと通り聞き終えると、春江がぽんと手を叩いた。
「じゃあ、おばあちゃんから一人ずつ言わせてもらうわね」
「お、お願いします」
「まず、剛田くん」
春江は剛田の腕をぽんぽんと叩いた。
「力持ちで、よく食べる。重いものを持ってくれて、ごはんをおいしそうに食べてくれる。それだけで女の人はね、頼もしいって思うのよ。ほんとよ」
「……でも、キモいって」
「それはね、筋肉の話しかしないからよ。筋肉の話は三割にしなさい。残りの七割は、相手の話を聞くの。そしたら全然違うから」
「三割……」
剛田は、真剣な顔で指を折った。
「……タンパク質の話は、筋肉の話に入りますか」
「入ります」
「……厳しいっす」
次に、美咲が理崎のほうを向いた。
「理崎くんはね、物知りで、困ってる人を放っておかない。ゆうべも、屋上からずっと見ててくれたでしょ。ハットリくんの怪我の手当てもしてたし」
「……あれは、合理的に判断して」
「はいはい」美咲は笑った。「でもね、説明するとき、ずっと下とか横とか見てるの。眼鏡を押し上げながら。だから怖い人に見えちゃうのかも。話すときは、相手の顔を見てね。それだけで、すっごく優しい人だって伝わるから」
「……顔を、見る」
理崎は美咲の顔を見ようとした。三秒で目をそらした。
「……難易度が、高い」
「練習あるのみよ」
最後に全員の視線がハットリに集まった。春江と美咲は少しだけ顔を見合わせてから、春江が言った。
「ハットリくん。あなたがいると、みんなが笑うの。怖いときでも、つらいときでも。それはね、ほんとうに、すごい才能なのよ」
「お、お母上殿……!」
「だから――」
春江は、にっこりと笑った。
「ござるは、半分にしようか」
「半分!?」
「半分」と美咲。
「せ、拙者のアイデンティティが半分に……!」
「アイデンティティなの、それ」と剛田。
「あと、くのいちの話も半分にね」
「全滅でござる……」
ハットリは本堂の床に突っ伏した。
三人はしばらく黙りこんだ。それから剛田が、ぼそりと言った。
「……つまり、俺ら、やっぱりモテないってことか」
「改善点が具体的に三つずつ提示された。つまり現状では不合格ということだ」と理崎。
「拙者たちの道は、長く険しいでござるな……」
三人そろって、深いため息をついた。
そのとき、柱にもたれていた源蔵が、目を閉じたまま口を開いた。
「……わしは、婆さんに三回振られた」
本堂がしんとなった。
「えっ」
「四回よ」と春江が言った。
「……四回だったか」
「最初はディスコでいきなり『わしと踊れ』って言われたの。怖くて逃げたわ。二回目は工場の油まみれの作業着のまま、花束を持ってきたの。三回目は――」
「もういい、婆さん」
源蔵の耳が真っ赤になっていた。
「それで、五回目は?」と美咲が身を乗り出した。
春江は少し考えて、それから笑った。
「五回目はね。この人、ディスコで、私にちゃんと踊りを習いに来たの。ステップがひどくてね。毎週、毎週。半年かかって、やっと私とおんなじ曲を踊れるようになって。それで、その曲の最後に『これからも一緒に踊ってくれ』って」
三人は源蔵を見た。源蔵はそっぽを向いていた。
「……人は、変われる。それだけだ」
ぼそりと言って、源蔵はまた目を閉じた。春江と美咲は顔を見合わせて、声を殺して笑った。
――この子たち、ほんとに気づいてないのね。
春江はそう思った。三割にしろと言った筋肉の話を、剛田はたぶん明日には五割に減らしている。相手の顔を見ろと言われた理崎は、三秒で目をそらしながら、それでも、もう一度見ようとしていた。ござるを半分にしろと言われたハットリは、突っ伏したまま「ござ……で、ある……」と練習を始めていた。
言われたことをちゃんと受け止めて、ちゃんと変わろうとする。それができる子たちが、ずっと一人ぼっちのままでいるはずがない。
春江は本堂の天井を見上げて、小さく笑った。
◇
「ところで」
美咲が、いたずらっぽく言った。
「好きな子は、いないの?」
剛田は「いないっす」と即答した。理崎は「いない」と眼鏡を押し上げた。
ハットリは、黙った。
ろうそくの明かりの中で、ハットリの耳がみるみる赤くなっていった。
「……ハットリくん?」
「く、くのいちが……」
「くのいち?」
「な、なんでもないでござる! いや、なんでもない……で、ある!」
「ござる半分になってるぞ」と剛田。
ハットリは本堂の隅まで転がっていって、毛布をかぶった。美咲と春江がまた顔を見合わせた。今度はとても優しい顔で。
◇
夜が更けて、大人たちが庫裏で眠ったあと、三人は本堂に残っていた。
ろうそくは一本だけになっていた。剛田は柱にもたれ、理崎はどんちゃん号の横に座り、ハットリは毛布にくるまって、三人で輪になっていた。
「……なあ」
剛田が言った。
「俺らが最初に話したの、いつだっけ」
「一年の五月だ」と理崎が即答した。「校外学習の班分け」
「ああ……」
「あれは、忘れられぬでござる」
入学して一か月。クラスのみんなは、もう仲のいいグループを作っていた。校外学習の班分けで、四人一組になってくださいと担任が言ったとき、最後まで残ったのが三人だった。
昼休みに一人で鶏むね肉を食べていて、遠巻きに笑われていた剛田。
休み時間ずっと机で何かを分解していて、誰からも話しかけられなかった理崎。
入学初日の自己紹介で「AIRIの兄」を名乗り、教室を凍りつかせたハットリ。
「三人の班でいいです、って担任が言ったとき、正直、最悪だと思った」と剛田。
「俺もだ」と理崎。
「拙者もでござる」
三人は少し笑った。
校外学習は山歩きだった。そこで三人は道に迷った。ハットリが「近道でござる!」と言って獣道に入り、崖から足を滑らせて足首をひねったのだ。
日が傾き始めた山の中で、ハットリは言った。
『拙者を置いて、二人で先に行くでござる。拙者のせいでござるから』
そのとき、理崎が言ったのだ。
『三人で来たんだ。三人で帰る』
理屈も計算もない、理崎らしくない一言だった。それから理崎は地図とコンパスで道を探し、剛田はハットリを背負って、二時間歩いた。ゴールの駐車場に着いたとき、バスはもう出発していた。
三人は、迎えに来た先生の車を待ちながら、駐車場のベンチで剛田の弁当を分けた。鶏むね肉とブロッコリーと米。理崎が「味がない」と言い、ハットリが「うまいでござる」と言い、剛田が「当たり前だ、仕上がってるからな」と言って、三人で笑った。
次の週、理崎が、廃部寸前の総合文化研究部を見つけてきた。部員がゼロで、誰も来ない部室がある、と。
「……あのとき、お前が部室を見つけてこなかったら、俺ら、たぶんずっとバラバラだったな」と剛田。
「別に。一人で作業できる場所が欲しかっただけだ」
「嘘でござる。理崎殿、あのとき『三人分の椅子がある』と言ったでござる」
「……覚えてるのか」
「忘れぬでござる。それから、山の中で理崎殿が言ったことも」
理崎は黙って眼鏡を押し上げた。
しばらく、誰も話さなかった。ろうそくの炎がちろちろと揺れていた。
「……拙者」
ハットリが毛布の中から言った。
「日本に来て、最初の友達が、お二人でござる」
「……知ってる」
「オハイオでも、友達はあまりいなかったでござる。忍者の話ばかりするから、変なやつだと言われて。日本に来たら、忍者の国だから、きっと友達ができると思っていたでござる。でも日本でも、やっぱり変なやつだったでござる」
ハットリは少し笑った。
「でも、お二人は、拙者を変なやつのまま、友達にしてくれたでござる」
剛田は天井を見上げた。
「……俺も、お前らがいなかったら、たぶん学校つまんなかった」
「……俺は」
理崎は少し言葉を探した。
「お前らがいなかったら、たぶん、学校をやめていた」
剛田とハットリが、理崎を見た。理崎は眼鏡を押し上げようとして、やめた。そして美咲に言われたとおり、二人の顔をまっすぐ見た。
三秒。四秒。五秒。
「……だから、その。……ありがとう」
六秒目で目をそらした。
「……理崎殿、今、顔を見たでござる!」
「五秒も見てたぞ!」
「うるさい。練習だ」
三人は声を殺して笑った。ろうそくがじじっと音を立てた。
「……明日、着くんだな」と剛田。
「ああ。朝霧大橋を渡れば、安全区域だ」
「着いたら、三人の枠が待っているでござるかな」
ハットリがぽつりと言った。剛田と理崎は何も言わなかった。けれど三人とも、同じ顔を思い浮かべていた。
――三人の枠、ちゃんと用意しとくから。
剛田が、拳を突き出した。
「明日、何があってもな」
理崎が、少しためらってから、その拳に自分の拳を当てた。
「三人で来たんだ」
ハットリが毛布から腕を伸ばして、二つの拳に重ねた。
「三人で帰るでござる」
ろうそくの小さな明かりの中で、三つの拳が、こつんと鳴った。
「……寝るか」
剛田がろうそくを吹き消した。
◇
理崎は夢を見ていた。
文化祭のステージの上だった。スポットライトが当たっていて、客席は満員で、自分はなぜか、完璧にハロー・ハロー・ワールドを踊りきっていた。拍手の中、ステージの袖から誰かが歩いてくる。女の子だった。顔はぼやけてよく見えない。眼鏡をかけていないからだ。でも、きっと優しい子だ。
「理崎くん、すごかったね」
女の子が近づいてくる。顔が近づいてくる。
――こ、これは。
理崎は美咲の言葉を思い出した。話すときは、相手の顔を見てね。理崎はぼやけた顔をまっすぐ見た。女の子の唇が近づいてくる。
理崎は目を閉じた。
――合理的に考えて、これは、あれだ。あれが、来る。
そのとき、においがした。
甘い、ではなかった。
腐った魚と古い化粧品と汗と、何か名状しがたいものが混ざり合った、鼻の奥を直撃する強烈なにおい。
理崎は目を開けた。本堂だった。暗かった。眼鏡をかけていないので、何もかもがぼやけていた。そして目の前十センチの距離に、顔があった。
ぼやけていたがわかった。
真っ白に塗りたくられた顔。青いアイシャドウ。真っ赤な口紅。ぎらぎらのつけまつげ。そしてその下に青々としたひげの剃り跡。
厚化粧のおっさんのゾンビだった。
そのおっさんゾンビが、真っ赤な唇をすぼめて、理崎の顔にゆっくりと迫ってきていた。
「あ゛ー……」
「――――ぎゃああああああああああああああっ!!」
理崎の絶叫が、山の寺に響き渡った。理崎は生まれて初めて、全力で人を突き飛ばした。
両手でおっさんゾンビの肩を思いきり押す。ゾンビはのけぞり、ごろごろと本堂の床を転がっていった。
そして、ぴたりと止まった。毛布にくるまって眠る、ハットリの顔の真ん前で。
「……むにゃ……なんでござるか、理崎殿……騒々しい……」
ハットリが薄目を開けた。
目の前、五センチ。真っ白な顔。青いアイシャドウ。ぎらぎらのつけまつげ。真っ赤な唇が、ゆっくりとすぼまっていく。
「ん゛ー……」
「――――ぎゃあああああでござるうううううっ!!」
ハットリは毛布ごと跳ね起きた。四つんばいのまま、本堂を逃げ回る。おっさんゾンビは唇をすぼめたまま、両手を広げてそれを追いかけた。
「こ、こっちに来るなでござる! 拙者の唇は、まだ誰にも――」
「ハットリ、こっちに来るな! こっちに連れてくるな!」
「理崎殿こそ、こっちに逃げてこないでほしいでござる!」
「想定外だ! こんな事態、どのアニメにも――いや、待て、ある。あるぞ、三話くらいで――」
「今それどころではないでござる!」
柱のまわりを、ハットリが逃げる。理崎が逃げる。おっさんゾンビが唇を突き出して追う。二人と一体が、本尊の前をぐるぐると回り続ける。阿弥陀さまが、半笑いでそれを見下ろしていた。
「……うるせえな」
柱にもたれて寝ていた剛田がのっそりと起き上がった。
目をこすり、ぐるぐる回る影を見た。少し考えた。それから立ち上がり、ちょうど目の前を通りかかったおっさんゾンビの右手を、ひょいとつかんだ。
ゾンビが振り向く。真っ赤な唇が今度は剛田に向かってすぼまった。
剛田は、動じなかった。空いた手をすっとゾンビの腰に回す。背筋を伸ばし、顎を引き、つかんだ手を肩の高さに持ち上げる。
社交ダンスのホールドの姿勢だった。
「……ワン、ツー、スリー」
剛田が一歩踏み出した。
ゾンビの体がすうっと後ろに滑る。剛田が回る。ゾンビも回る。ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。本堂の板の間を、筋肉の塊と厚化粧のおっさんが、優雅なワルツで横切っていく。
ハットリと理崎は、柱の陰で抱き合ったまま、口を開けてそれを見ていた。
「……見てみろカルロ」
「……このダンスには十万ドルぽんとくれそうでござるな」
剛田はゾンビを、くるり、くるり、くるりと三回転させた。回るたびに本堂の奥、冷たい夜風が吹きこんでくる暗がりへと近づいていく。
四回転目。
剛田は、つかんでいた手をぱっと離した。
勢いに乗ったおっさんゾンビは、くるくると回りながら暗がりに吸いこまれ、そのまま外へ飛び出していった。どさ、がさがさがさ、と裏の斜面を転がり落ちていく音がした。
剛田は、ゾンビが消えた暗がりに向かって胸に手を当て、軽く一礼した。
「……ありがとうございました」
それから大あくびをして柱の前に戻り、横になった。
「……静かにしろよ、お前ら……」
すぐに、いびきが聞こえてきた。
理崎は本堂の床に座りこんで、ぜえぜえと息をしていた。手探りで眼鏡を見つけてかける。本堂の奥。仏具を並べた古い棚の陰に、外の夜気が流れこんでいた。そこにあった古い戸板が一枚、蝶番から外れて、斜めに傾いていた。
ハットリが、柱の陰からおそるおそる顔を出した。
「……拙者、あと五センチでござった……」
「俺は十センチだった」
「……拙者の負けでござる」
「勝負じゃない」
理崎は、傾いた戸板を指さした。ハットリが目を丸くする。
「こんなところに、戸があったでござるか」
「棚の陰で、見えなかったんだ。雨戸を閉めて回ったとき、誰も気づかなかった」
理崎は思い出した。日が暮れる前、石段の下の杉林の奥に、妙に白い顔の人影がちらりと見えた気がしたのだ。気のせいだと思って誰にも言わなかった。
あれが夜のあいだに裏の斜面を上ってきて、腐りかけた戸板を押し破ったのだろう。
「……俺の見落としだ。あのとき言っていれば」
「理崎殿のせいではないでござる」ハットリが首を振った。「拙者たち全員、この戸に気づかなかったでござる。拙者など、境内を三周も見回ったのに」
それから、少し考えて付け足した。
「それにしても、剛田殿のワルツ、見事でござった……」
「……ああ。あいつ、なんで踊れるんだ」
「明日、聞いてみるでござる。……とにかく、理崎殿と拙者の唇は、結果的に守られたでござる」
「守ったのは剛田だ。結果論で語るな」
騒ぎを聞きつけて、庫裏から源蔵が出てきた。懐中電灯と、あの鉄の工具箱を提げている。
源蔵は傾いた戸板と、床で頭を抱えている理崎と、いびきをかいている剛田を順番に照らして、だいたいを理解したらしかった。戸板の蝶番に明かりを当てて、ふんと鼻を鳴らす。
「蝶番が腐っとる。外からちょっと押されりゃ外れる」
それから、少しだけ声を落とした。
「……寝る前に、わしが裏まで見て回るべきだった」
「誰も、気づかなかったんです」と理崎。
「だから、年寄りが見るんだ」
源蔵は工具箱から金づちと釘を取り出した。
「坊主、そっちを押さえとけ」
理崎が戸板を持ち上げて押さえ、源蔵が釘を打ちこんでいく。こん、こん、こん。夜の本堂に、乾いた音が響いた。ハットリが懐中電灯で手元を照らした。
「これで朝までもつ」
源蔵は最後の一本を打ちこむと、立ち上がって理崎の顔を見た。まだ少し青い顔をしていた。
「……災難だったな」
「……はい」
源蔵は理崎の肩をぽんと叩いて庫裏に戻っていった。その肩が、小刻みに震えていた。笑っているのだった。
◇
翌朝、朝食の席で、ハットリが話を全部しゃべった。
春江はお茶を噴き出した。美咲は陽向を抱いたまま、涙を流して笑った。陽向はみんなが笑っているのでつられて笑い、えくぼを浮かべてがらがらを振り回した。
剛田はぼんやりとしか覚えていなかった。
「え、俺、ゾンビと踊ったの? ワルツで?」
「見事なナチュラルターンでござった」
「……ああ。なんか、体が勝手に動いた気はする」
「どこで覚えたんだ、あんなもの」と理崎。
「母ちゃんが、商店街の社交ダンス教室に通っててさ。家で練習台にされてたんだよ。中学の三年間、毎晩」
「剛田殿の母上は、米俵を担いでワルツを踊るのでござるか……」
「担ぎながらは踊らねえよ」
「待て」理崎が眉を寄せた。「なのに、なぜAIRIの振付になると、あんなロボットになるんだ」
「あれは一人で踊るやつだろ。ワルツは、相手を回すやつだ」
「……理屈がわからない」
「拙者もわからないでござる」
理崎は朝食のおにぎりを黙々と食べていた。
「……理崎くん、大丈夫?」と美咲。
「大丈夫です」
「ほんとに?」
「……夢の中の女の子の顔を、俺は、ちゃんと見ようとしたんです」
理崎は遠い目をした。
「美咲さんの言うとおりに。相手の顔を、まっすぐ」
「う、うん」
「その結果が、あれです」
本堂が、もう一度爆笑に包まれた。源蔵まで、肩を揺らして笑っていた。
理崎は、おにぎりを握りしめたまま天井を見上げた。
「……もう二度と、眼鏡を外して寝ない」
◇
寺の石段を下りると、朝の光の中に谷の向こうまで道が見渡せた。
その道のずっと先、山の切れ目の向こうに、灰色の四角い建物の群れと細い監視塔が一本、うっすらと見えた。
「あれが、朝霧駐屯地だ」
理崎が地図を広げて、指でなぞった。
「その手前を霞川が流れていて、朝霧大橋がかかっている。ここからは見えないが、あの建物のすぐ手前だ。……残り、十三キロ」
七人は、しばらく黙ってその遠い建物の影を見ていた。
美咲が陽向をぎゅっと抱き寄せた。あそこに、拓海がいるかもしれない。
春江が源蔵の腕にそっと手をかけた。源蔵は何も言わずに、その手に自分の手を重ねた。
剛田がリヤカーの持ち手を握った。理崎がどんちゃん号の台車に手をかけた。陽向が、ぬいぐるみを抱いて「あー」と言った。
ハットリが、先頭に立った。
「行くでござる!」
それから少しだけ考えて、言い直した。
「……行くで、ある!」
「ござるに戻せ。なんか気持ち悪い」と剛田。
「ひどいでござる!」
七人の笑い声が朝の谷に響いた。
最後の一日が、始まった。
第七章 夜明かし 了