非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く   作:ゾンビ好き

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第八章 The show must go on

第八章 ハロー・ハロー・ワールド

 

 午後三時四十分。旧道が国道に合流するところで、視界がひらけた。

 霞川だった。秋の日差しを受けて、広い川面がきらきらと光っている。その上を、灰色の橋が一本、まっすぐ南の岸へ延びていた。

 朝霧大橋。

 橋の向こうには、高いコンクリートの防壁がそびえていた。壁の上には有刺鉄線が張られ、監視塔が立ち、緑色の服を着た人影がいくつも動いている。防壁の真ん中に、大きな鉄の扉が見えた。正面ゲートだ。

「……着いた」

 剛田が、リヤカーの持ち手を握ったままつぶやいた。

「まだだ」理崎が腕時計を見た。「次の開放は十六時。橋の長さは約四百メートル。このペースなら、十五時五十八分にゲート前に着く。計算どおりだ」

「理崎殿の計算は、いつも正確でござる!」

「当然だ」

 そう言った理崎の声は、少しだけ震えていた。

 七人は橋を渡り始めた。橋の上には、乗り捨てられた車が何台か残っていた。南の端の近く、ゲートの手前七十メートルほどのところには、路線バスが一台、斜めに止まっている。ゾンビの姿はほとんどなく、川風が吹き抜けていくだけだった。

 リヤカーの荷台で、陽向がぬいぐるみを抱えてきゃっきゃっと笑っていた。風が気持ちいいのだ。

「陽向、もうすぐパパに会えるよ」

 美咲が陽向の髪をなでた。その指先が、少しだけ震えていた。

 十五時五十七分、橋の中ほどを過ぎた。十五時五十八分、路線バスの横を通り過ぎた。ゲートまで、あと五十メートル。

 十六時。ごうん、と重い音がして、鉄の扉がゆっくりと開き始めた。

「開いた……!」

 春江が両手を胸の前で組んだ。ハットリが駆け出しかけた、そのときだった。

「どいてくれええええっ!」

 橋の南詰め、ゲートの脇の川沿いの道から、十人ほどの少年たちが全力で走ってくる。中学生くらいだろうか。そろいの部活のジャージに、エナメルのスポーツバッグ。足が速い。その後ろから、灰色の人影が何十体もぞろぞろと追いかけてきていた。

『避難者を収容する! ゲート前を確保しろ!』

 ゲートの上で拡声器が響き、壁の内側から自衛官たちが飛び出した。少年たちとゾンビのあいだに割って入り、盾でゾンビを押し返す。開きかけた扉の隙間に、少年たちが次々と飛びこんでいく。最後の一人を中に入れると、自衛官たちも扉の内側へ下がった。

 開いた隙間から、中の様子が少しだけ見えた。

 扉の内側は、すぐに安全区域ではなかった。二重の金網で囲まれた広場に、白いテントがいくつも並んでいる。防護服とマスクをつけた隊員たちが、逃げこんだ少年たちを一人ずつ金網の囲いに誘導していた。

『噛まれた者はいないか! 傷のある者は申告しろ! 家族とは一時的に分かれてもらう!』

 隊員たちが少年たちの腕をまくり、首筋に懐中電灯を当てて調べていく。

「……検疫だ」理崎が言った。「噛まれてから発症するまで、約一時間。だから入ってすぐには中に入れない。あの囲いの中で様子を見るんだ」

「チャラ助のときと、同じでござるな……」

 ハットリの声が、少しだけ沈んだ。

 扉が閉まり始めた。追ってきたゾンビの一体が、閉まりかけた隙間に体をねじこもうとする。ぎぎぎ、と金属がきしみ、扉はそのゾンビを押し出すようにして無理やり閉じきった。

 がしゃん。

 扉の外に、追ってきたゾンビが三十体ほど取り残された。鉄の扉を、どん、どんと叩いている。

「……閉まっちゃった」と美咲。

「当然だ。あのまま開けていたら、ゾンビも一緒に入ってくる」と理崎。

 そのとき、防壁の上の監視塔から声がした。

『――橋の上! 七名、確認した!』

 緑色の服の自衛官が、拡声器を手にこちらへ大きく手を振っていた。

『ゲート前を片づけて、すぐに開ける! その場で待て!』

「見つけてくれた……!」

 春江がもう一度、両手を胸の前で組んだ。

 ごうん、と鉄の扉が震えた。拳ひとつ分の隙間が、ゆっくりと広がって――

 ぎ、ぎぎっ。

 嫌な音がして、扉が止まった。

 拳ひとつ分の隙間を開けたまま、ぴくりとも動かない。扉の下のレールに、さっき無理やり閉めたときに挟まったゾンビの腕が、がっちりと食いこんでいた。

『――開閉装置、停止! レールに異物!』

『モーターが焼けた! 手動に切り替える!』

 壁の上で、怒鳴り声が飛び交った。

『橋の上の七名! 開門まで数分かかる! なんとか持ちこたえろ!』

「数分……」

 理崎がつぶやいた。腕時計の秒針が、やけにゆっくりと進んでいく。

 扉を叩いていた三十体のゾンビが、ゆっくりと振り向いた。開かない扉ではなく、こちらを。

「……来るでござる」

「ハットリ」剛田の声が低かった。「後ろも、見ろ」

 ハットリは振り返った。

 橋の北詰め、自分たちが渡ってきた道が、灰色に染まっていた。国道から。川沿いの土手から。橋のたもとの住宅街から。ゾンビたちが、波のように橋の上へ流れこんでくる。十や二十ではなかった。百でもなかった。

「……なんで、こんなに」と美咲。

「さっきの少年たちを追ってきた群れだ。それに、国道を南下していた群れが、ゲートの騒ぎに引き寄せられている」理崎の声がかすれた。「……千は、いる」

 壁の上から、別の自衛官の叫び声が聞こえた。

『撃つな! 民間人が近すぎる! 群れが暴れたら巻きこむぞ!』

 七人がいるのは、橋の南の端から五十メートル手前。目の前五十メートル先に、拳ひとつ分しか開かないゲートと、こちらを向いた三十体。すぐ後ろには、斜めに止まった路線バス。その向こう、三百五十メートル先の北詰めから、千体が流れこんでくる。ゾンビの足は遅い。それでも、数分もあればここまで届く。

 前には、開かない鉄の扉と三十体のゾンビ。後ろには、千体のゾンビ。

 逃げ場のない四百メートルの橋の上で、七人は挟まれていた。

 

◇

 

「どうする、理崎」

 剛田が言った。声は落ち着いていた。いつもと同じように。

 理崎は一瞬だけ目を閉じた。それから目を開けて、どんちゃん号を見た。

「――鳴らす」

「ここで!?」

「群れを止めるしかない。止める方法は、ひとつしかない」

 理崎は、二十メートル後ろに斜めに止まっている路線バスを指さした。

「あのバスの屋根に、どんちゃん号を上げる。高いところから鳴らせば、橋の上の群れ全体に音が届く。ホーンスピーカーは、一つを北の群れに、一つをゲート前の連中に向ける。前と後ろ、両方まとめて止める」

「曲は」と源蔵。

 理崎がハットリを見た。ハットリは、もう答えを知っていた。

「ハロー・ハロー・ワールドでござる」

 日本中の誰もが知っている歌。幼稚園のお遊戯でも、老人会の体操でも、毎朝のテレビでも流れている。子どもから老人まで、日本に住む人なら誰でも体が振付を覚えている歌。

 生きていたころに、誰もが踊った歌。

「――行くぞ!」

 七人はバスまで駆け戻った。

 剛田はどんちゃん号の台車からカーバッテリーを外すと、それを肩に担いでバスの後ろの梯子を駆け上がった。屋根の上に下ろし、また降りる。今度はホーンスピーカーを二つ、両脇に抱えて上がる。最後にアンプとインバーター。三往復して、息ひとつ乱さなかった。

「源蔵さん、配線を!」

「わかっとる。坊主、こっちを持て」

 理崎と源蔵が、屋根の上で配線をつないでいく。源蔵の太い指がケーブルを締め、理崎の指が、四十年使ったはんだごてで仕込んだ端子を差しこむ。ハットリがスマホを渡した。

 春江と美咲と陽向はバスの中に入った。配線を終えると、源蔵は膝をかばいながら梯子を降り、二人のあとからバスの中へ戻った。剛田がドアを閉め、外から非常用のレバーを針金で縛る。

 ゾンビの群れは、もう橋の中ほどまで来ていた。先頭まで、百メートル。

「準備、できた」と理崎が言った。

 バスの屋根の上に、ホーンスピーカーが二つ、北と南を向いて背中合わせに並んでいた。その真ん中に、ハットリが立った。

 ぼろぼろの黒装束。頭巾はない。金髪が川風に揺れている。ハットリは深く息を吸った。足は、震えていなかった。

「理崎殿」

「なんだ」

「お願いするでござる」

 理崎はうなずいて、再生ボタンを押した。

 

◇

 

――ハロー、ハロー、ワールド。

 どんちゃん号のホーンスピーカーから、あの曲が飛び出した。

 明るく、まっすぐで、少しだけ切ないイントロ。運動会のテントの上で、盆踊りの櫓の下で、町じゅうに響き渡るように作られたラッパ型のスピーカーが、霞川の上に音を放った。

 ハットリが踊り出した。

 右手を空に。左手を胸に。一歩前へ、くるりと回って、両手で大きく円を描く。日本中の誰もが知っている、あの振付。商店街の路地で踊ったときよりも大きく、のびやかに、指先まで光が通ったように。

 ゾンビの群れの先頭が、止まった。

 一体の首がかくんと傾き、右手がゆっくりと持ち上がった。空へ。それから、左手が胸へ。

「……踊った」と剛田がつぶやいた。

 一体、また一体。先頭から後ろへ、さざ波のように動きが伝わっていく。右手を空に。左手を胸に。一歩前へ、くるりと回る。

 スーツ姿のサラリーマンが。エプロンの主婦が。ランドセルを背負ったままの子どもが。作業着のおじさんが。腰の曲がったおばあさんが。橋の上の千体のゾンビが、同じ振付で、同じ方向に、ゆっくりと腕を振っていた。

 防壁の上で、自衛官たちが双眼鏡を下ろした。誰も、何も言わなかった。

 上から見れば、それは巨大な一枚の絵のようだっただろう。夕日に光る川。その上に架かる一本の橋。橋を埋めつくす千の人影が、一斉に空へ手を伸ばし、一斉に回る。その真ん中、一台のバスの屋根の上で、金髪の少年が踊っている。

「……あの子、本当に踊ってるでござる」

 バスの窓から、春江が身を乗り出していた。

「春江さん、ござるが移ってます」と美咲が泣き笑いで言った。

 陽向が窓に両手をついて、ハットリを見上げていた。曲に合わせて、小さな体を左右に揺らしている。

――ハロー、ハロー、ワールド。きみの声が、聞こえたら。

――ぼくはここだよと、手をふるよ。

 一曲目が終わると、理崎はすぐに同じ曲をもう一度かけた。ゾンビたちは踊り続けた。

 十六時三分。十六時四分。

「いける……」理崎が腕時計を見ながら言った。「このまま鳴らし続ければ、扉が開くまでもつ――」

 ぶつん。

 音が、消えた。

 

◇

 

「……え?」

 理崎はアンプを見た。

 学校の放送室から持ち出した、弁当箱を二つ重ねたくらいの小さなPAアンプ。その隙間から、細い煙が立ちのぼっていた。焦げたにおいがした。

「焼けた……」

 バスの窓から身を乗り出した源蔵が、屋根の上を見上げて顔をしかめた。

「最大音量で、休みなしに鳴らしたからだ。こいつの体じゃ、もたねえ」

「直せますか」

「……今すぐは、無理だ」

 橋の上が、静かになった。川風の音だけが聞こえた。

 そして、千体のゾンビの動きが乱れ始めた。空に伸ばしていた手が、だらりと下がる。回りかけていた体が、ふらりと止まる。傾いていた首が、ゆっくりとこちらを向いた。

 白く濁った目が、千。バスに向いた。

「あ゛ー……」

 最前列のゾンビが、一歩踏み出した。どん、とバスの車体に何かがぶつかった。どん。どん。バスが小さく揺れ、窓の中で陽向が泣き出した。

「理崎!」

「わかってる! わかってるけど……!」

 理崎は焼けたアンプの前で、両手を震わせていた。剛田がスピーカーの台を押さえ、揺れるバスの屋根の上で踏ん張った。

 終わりだ、と理崎は思った。

――そのとき。

 ハットリは、まだ踊っていた。音のない屋根の上で。右手を空に。左手を胸に。一歩前へ、くるりと回る。

 理崎と剛田が見ると、ハットリは踊りながら、二人を見て笑った。

「父上が、言っていたでござる」

 くるりと回る。

「怖いものは、踊っちまえばいい、と。そして――」

 両手で、大きく円を描く。

「一度幕が上がったら、何があっても――」

 ハットリは、千体のゾンビに向かって両腕を広げた。

「The show must go on、でござる!」

 そして、歌い出した。

「――ハロー、ハロー、ワールド! きみの声が、聞こえたら!」

 声は震えていた。音程も少しずれていた。どんちゃん号の音とは比べものにならない、ちっぽけな声だった。それでも、川の上に響いた。

 最前列のゾンビの首が、ぴくりと動いた。

 かすれたハットリの声の下に、低い声がもぐりこんできた。

 剛田だった。太くて、ちっとも上手くなくて、音程が半音ずれている。それでも、ハットリの細い声を下から支えるように、地面みたいにどっしりと響いた。スピーカーの台を押さえたまま、片手を空に突き上げている。ロボットみたいな、カクカクの振付で。

 二つの声のあいだに、三つめの声が割りこんだ。理崎だった。焼けたアンプの前で立ち上がり、眼鏡を押し上げることも忘れて、喉をからして歌っていた。リズムだけは、恐ろしいほど正確だった。小節の頭を、一つも外さない。

 パン。パン。パン。そこに、バスの中から源蔵の手拍子が重なった。職人の手で、正確に、まっすぐに。三人の声がばらばらになりかけるたびに、手拍子が一本の線に引き戻した。

 バスの窓が開いた。

 よく通る声が、ひときわ高く響いた。春江だった。給食室で四十年、子どもたちを呼んできた声が、男たちの声の上をすうっと伸びていく。少し遅れて、震える声が重なった。美咲だった。泣いている陽向を抱いて、涙をこぼしながら、それでも笑って歌っていた。陽向が泣き止み、がらがらをしゃらしゃらと鳴らした。

 かすれた声。低い声。正確な声。手拍子。高く伸びる声。震える声。がらがらの音。

 どんちゃん号とは比べものにならない、ちっぽけな合唱だった。それでも、七人の声は、一つの歌になって橋の上に響いた。

 止まりかけていたゾンビたちの体が、もう一度ゆっくりと揺れ始めた。

 

◇

 

 そのとき、上から声が降ってきた。

「――ハロー、ハロー、ワールド!」

 防壁の上だった。有刺鉄線の手前に、いつの間にか人が並んでいた。自衛官ではない。避難してきた人たちだ。その真ん中で、ジャージを羽織った女子が、両手をメガホンにして叫ぶように歌っていた。

「……早瀬」

 剛田が目を見開いた。

 早瀬ひかりだった。その横に、二年三組の女子たちがいた。あの日、三人をステージに出したくないと言っていた子たちが、壁の上から身を乗り出して、声をそろえて歌っていた。

 最初は、十人ほどの細い声だった。それが、二十になり、五十になった。壁の上に、次から次へと人が上ってくる。おじいさんが歌った。小さな子どもが歌った。松葉杖をついた男の人が歌った。自衛官の一人が、ヘルメットを脱いで歌い始めた。

 やがて、防壁の向こう、安全区域の中からも声が上がった。何百人、何千人もの声が、ひとつひとつは聞き分けられないほど重なり合って、低いうねりになった。川面を渡る風のように。遠くで鳴る太鼓のように。その大きな波が、川を越えて、橋の上に降ってきた。

 ゾンビたちの手が、空に上がった。さっきよりも高く、さっきよりもそろって。

「……すげえ」剛田がかすれた声で言った。「みんな、歌ってる」

「当たり前だ」理崎が喉をからしながら言った。「日本中の誰もが、知ってる歌だ」

 ハットリは、壁の上の早瀬を見上げた。早瀬もこちらを見ていた。目が合うと、早瀬は歌いながら大きく手を振った。

 ハットリは胸がいっぱいになって、踊りながら、少しだけ泣いた。

 

◇

 

 十六時七分。ゲートは、まだ開かなかった。

 拳ひとつ分の隙間の向こうから、金属をこじる音と、自衛官たちの怒鳴り声が聞こえてくる。レールに食いこんだ腕を外し、手動のハンドルを何人がかりで回しているのだ。扉は、一センチ、また一センチと、じれったいほどゆっくりしか動かない。

 あと少し。あと少しで、開く。けれど、その「あと少し」が果てしなく遠かった。

 十六時八分。最初に声が出なくなったのは、理崎だった。

 喉が焼けるように痛い。歌おうとしても、ひゅう、とかすれた息しか出てこない。口だけを動かし、手だけを振った。それでも、音にはならなかった。

 次に、剛田の声が割れた。三日間歩き通し、リヤカーを引き、バッテリーを担ぎ、スピーカーを押さえ続けた体が、ついに限界を越えていた。歌の途中で、喉の奥がぐしゃりと潰れたような音を立てる。膝が笑う。ぐう、と腹が鳴った。こんなときに、と剛田は思った。こんなときに、まだ腹が減る。

 バスの中で、源蔵の手拍子が乱れた。七十八歳の手のひらは、もう真っ赤に腫れていた。春江が咳きこみ、美咲の声が途切れ、陽向がまた泣き出した。

 壁の上の歌声も、少しずつまばらになっていた。誰もが、もう十分近く叫ぶように歌い続けていた。五十メートル先の防壁から川風に流されて、橋の上に届くころには、細い糸のようにしかならない。バスのまわりのゾンビたちには、もう届いていなかった。

 すぐそばのゾンビたちの手が、だらりと下がった。傾いていた首が、まっすぐに戻った。白く濁った目が、ひとつ、またひとつとバスに向いた。

 

◇

 

 どん。バスが揺れた。

 どん。どん。どん。

 踊るのをやめたゾンビたちが、四方から車体に押し寄せていた。腐った肉と乾いた血と湿った土の混ざったにおいが、風に乗って屋根の上まで這い上がってくる。何百もの足がアスファルトを擦る、ずる、ずる、ずるという音が、雨のように橋じゅうを埋めつくしていた。

 ばきん、と鋭い音がして、バスの窓ガラスにひびが入った。

「ひっ……!」

 美咲の悲鳴。春江が美咲と陽向を抱えこむようにして、通路の真ん中にかがみこむ。源蔵が工具箱から金づちを抜いて、ひびの入った窓の前に立ちふさがった。膝の悪い足で、それでも一歩も引かずに。

 後ろから押されたゾンビが、前のゾンビの背中によじ登った。その上に、また一体。灰色の体が積み重なって、バスの側面にゆるやかな斜面ができていく。

 灰色の手が、屋根の縁にかかった。一本、二本、五本、十本。

「来るな……!」

 剛田が屋根の縁に這い寄って、伸びてくる手を押し返した。一本押し返すと、二本伸びてくる。腕が震えて、力が入らない。リヤカーを引き、棚を運び、バッテリーを担いできた腕が、もう言うことを聞かなかった。

 理崎が焼けたアンプを両手で振り上げ、屋根に這い上がってきたゾンビの頭を叩いた。一体が落ちた。すぐに次が来た。

 ハットリは、まだ立っていた。十分近く、一度も止まらずに踊り続けていた。

 踊らなきゃ、と思った。踊れば止まる。歌えば止まる。商店街でも、ホームセンターでも、ずっとそうだった。だから、踊らなきゃ。歌わなきゃ。

 右手を、空に――。

 上がらなかった。腕が鉛のように重かった。肩から先が、自分のものではないみたいだった。

 声を出そうとした。出なかった。喉から漏れたのは、かすれた空気の音だけだった。

 膝が、がくんと折れた。ハットリの体が、屋根の縁に崩れ落ちた。

「ハットリ!」

 剛田が、声にならない声で叫んだ。屋根の縁から灰色の手が伸びてきて、ハットリの足首をつかもうとしている。

 立たなきゃ。立って、踊らなきゃ。

 足が、動かなかった。

 ハットリは顔を上げた。防壁の上に、早瀬が見えた。両手をメガホンにして、何かを叫んでいる。自分の名前を呼んでいるのかもしれなかった。けれど、何も聞こえなかった。

――三人の枠、ちゃんと用意しとくから。

 ああ。あそこまで、あと五十メートルなのに。

 灰色の指が、黒装束の裾に触れた。その手を、太い腕が払いのけた。

 剛田だった。這うようにしてハットリの前に回りこみ、膝をついて、震える両腕を広げていた。反対側には理崎がいた。眼鏡はどこかに落としてしまっていた。何も見えていないはずの目で、それでも焼けたアンプを盾のように構えていた。

「……三人で、来たんだ」

 理崎がかすれた声で言った。ほとんど音になっていなかった。

「……三人で、帰るんだろ」

 剛田が、歯を食いしばったまま言った。

 ハットリは二人の背中を見上げた。あの日の山の中と、同じ背中だった。足をくじいた自分を背負ってくれた背中。地図を握りしめて、道を探してくれた背中。

――でも、あのときとは違う。あのときは、三人で歩いて帰れた。今は、もう誰も立てない。

「……申し訳ないでござる」

 声にならない声で、ハットリは言った。

「拙者が、もう、踊れなくて……」

「……謝んな」と剛田。

「……最後まで、三人だ」と理崎。

 三人は屋根の真ん中で、背中合わせに身を寄せた。まわりから灰色の手が伸びてくる。ずる、ずる、と這い上がる音。腐ったにおい。白く濁った目。バスの中で、陽向が泣いていた。

 ハットリは目を閉じた。

 父上、ごめんなさい。拙者、最後まで幕を上げていられなかったでござる――。

 

第八章 The show must go on 了

 

 

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