非モテ三人衆、ゾンビ街道を往く 作:ゾンビ好き
きぃいいいいいいん――。
耳をつんざくような音が、橋の上を走り抜けた。マイクとスピーカーが近すぎるときに鳴る、あの甲高いハウリングの音。バスの屋根に手をかけていたゾンビたちが、一瞬、動きを止めた。
ハットリは顔を上げた。
橋の北詰め、千体の群れのさらに向こう。国道から近づいてきた一台の車が、橋の北詰めの手前、群れの最後尾から数十メートルのところで止まった。
白いワゴン車だった。屋根の上に、ラッパ型のスピーカーが四つ、四方を向いて取りつけられている。車体の横には色あせた看板。ひと月前の市議会選挙で使われたまま、どこかに置きっぱなしになっていたのだろう。
選挙カーだった。
その屋根のスピーカーから、声がした。
『あー、あー。テス、テス。……Can you hear me?』
英語訛りの日本語だった。ハットリの目が見開かれた。
『ジェイク! 聞こえるか、ジェイク!』
「……父上?」
選挙カーの助手席の窓から、金髪の大柄な男が身を乗り出していた。運転席では、小柄な女性がハンドルを握っている。
「父上! 母上!」
声はほとんど出なかった。それでも、叫んだ。
『ハイウェイに乗ろうとしたら、ひどい渋滞でな! 車を捨てて歩いてたら、こいつが市役所の駐車場に置きっぱなしだった! 鍵も刺さってた!』
「……国道、やっぱり動いてなかったでござるか……」
「今それはどうでもいい!」と理崎がかすれ声で叫んだ。
父親がマイクを口に寄せた。千体のゾンビの向こうから、まっすぐにバスの屋根を見ていた。
『ジェイク! 壁の上の歌、ここまで聞こえてたぞ! お前の声もだ! ……お前、まだ幕は下りてないだろう!?』
ハットリは、屋根の上に手をついた。震える膝に力を入れ、剛田の肩を借り、理崎の腕をつかんだ。
剛田が、屋根の上に転がっていた眼鏡を拾って、理崎の顔に押しつけた。レンズに、ひびが一本入っていた。
そして、ハットリは立ち上がった。
「――The show must go on、でござる!」
『That's my boy!』
父親が、スマホをマイクに押し当てた。
――ハロー、ハロー、ワールド。
選挙カーの四つのスピーカーから、あの曲が飛び出した。どんちゃん号よりも大きく、まっすぐに。町じゅうに候補者の名前を届けるために作られた音が、今は日本中の誰もが知っている歌を、橋の端から端まで響かせていた。
父親が助手席の窓から屋根によじ登り、踊り始めた。
右手を空に。左手を胸に。一歩前へ、くるりと回る。
ハットリとまったく同じ振付だった。いや、違う。ハットリが、この人から教わった振付だった。オハイオの家のリビングで、雷の夜に、何度も、何度も。
北詰めの群れの最後尾が振り向き、空に手を伸ばした。
「……踊った」と剛田。
「後ろから、止まっていく……」と理崎。
選挙カーの屋根の上と、バスの屋根の上。二台の屋根に挟まれて、千体のゾンビが、もう一度一斉に空へ手を伸ばしていく。バスの屋根の縁にかかっていた灰色の手が、ふっと離れて、空へ上がった。
◇
群れの後ろ半分が、すっかり踊りに体を預けたのを見届けてから、選挙カーがゆっくりと動き出した。歩くような速さで、踊るゾンビのあいだを縫って橋に入ってくる。その後ろには、人の列が続いていた。
百人、二百人。それ以上。荷物を背負い、子どもの手を引き、お年寄りを支えながら、国道を南へ歩いてきた避難者たちだった。選挙カーの音に導かれるように、その人たちも歌いながら、踊りながら橋の上へ入ってくる。踊るゾンビのあいだを、踊る人たちが肩を並べて南へ流れてくる。誰ひとり、襲われていなかった。
そのとき。
「――力ぁああああああっ!!」
野太い声が、橋を揺らした。剛田の体が、びくんと跳ねた。
「……母ちゃん?」
避難者の列の中から、大柄な女性が飛び出してきた。剛田と同じ太い腕。同じ太い首。そしてその右肩に、何かを担いでいる。
灰色の、巨大なスピーカーだった。ラッパの直径は一メートル近くあり、その根元に、アンプとバッテリーの入った箱ががっちりと組みこまれている。避難所の運動会や防災訓練で使う、可搬式の大型拡声器だった。
「……あれ、可搬式の拡声器だ」理崎が呆然とつぶやいた。「普通は、台車に載せて四人がかりで運ぶやつだ……」
「母ちゃん、どっから持ってきたんだよ……」
「電柱の防災無線をむしろうとしたら、配線がややこしくてね! 隣の防災倉庫にこれがあったのよ!」
「むしろうとはしたのかよ……」
剛田の母親は、拡声器を米俵のように担いだまま、踊るゾンビのあいだを突き進んでくる。一歩ごとに、橋がずしんと鳴った。
「足りないんでしょ、音が!」
母親は選挙カーの横で立ち止まると、拡声器を地面にどすんと下ろし、外部入力のケーブルの先を、屋根の上のハットリの父親に投げ上げた。
「これ、つなげる!?」
『Leave it to me!』
父親が、選挙カーのアンプの音声出力にケーブルを差しこんだ。母親が拡声器の電源を入れ、つまみを一番右まで回す。
――ハロー、ハロー、ワールド!
拡声器が吠えた。避難所の校庭いっぱいに声を届けるための音が、橋の上の空気を震わせる。川面に波紋が広がり、ゾンビたちの腕が、さっきよりも高く空へ突き上がった。
「……すげえ」
剛田の目から、涙がこぼれた。
母親は近くで踊っていたゾンビの手を取ると、すっと腰に手を回して、くるり、くるりと回し始めた。
「……ワルツだ」と理崎。
「剛田殿の師匠でござる……」とハットリ。
「なんで今、ワルツなんだよ、母ちゃん……」
剛田は、泣きながら笑っていた。
◇
避難者の列の先頭に、ひときわ大きく踊っている男がいた。
作業着姿だった。日焼けした顔に、目の下のくま。歌はひどく音程がずれていた。けれど踊りだけは、驚くほど上手かった。腕が空を切るたびに、大きく、楽しそうに、全身で笑うように。
バスの窓に、小さな手がぺたりと張りついた。陽向だった。窓の外のその男を、目をまん丸にして見ている。
それから、口を大きく開けた。
「――ぱっ」
美咲が息をのんだ。
「ぱっ、ぱ! ぱぁ!」
陽向が窓をばんばん叩いた。右のほっぺにえくぼを浮かべて、全身で笑っていた。
生まれて初めての、言葉だった。
「……拓海」
美咲の口から、声がこぼれた。
「拓海!!」
作業着の男が顔を上げ、バスの窓の中に妻と息子を見つけた。
男の顔が、くしゃくしゃになった。泣いているのか笑っているのか、わからなかった。それでも男は、踊るのをやめなかった。陽向に見せるように、いっそう大きく、いっそう楽しそうに。毎朝、テレビの前でそうしていたように。
ハットリは踊っていた。膝はまだ震え、喉はもう声が出なかった。それでもバスの屋根の上で、選挙カーの屋根の上の父親と、まったく同じ動きで。右手を空に。左手を胸に。
剛田がロボットの動きで続いた。理崎が小節を数えながら続いた。バスの中で源蔵が手拍子を打ち直し、春江が窓から身を乗り出して腰を振った。
――ごうん。
重い音がして、鉄の扉がゆっくりと開き始めた。
『――手動開放、完了! 開門! 橋の上の避難者は、ゲートへ走れ!』
◇
七人は、踊りながらバスを降りた。
剛田が源蔵を背負い、春江が美咲の手を引いた。美咲は陽向を胸に抱え、ハットリと理崎がその両脇を守った。
「踊ってる連中は、大丈夫だ!」理崎が、つぶれた声を振りしぼった。「音に体を預けている間は、ほかの刺激への反応が鈍る。生前の動きを再現することが、最優先になってるんだ! ……踊ってないやつにだけ、気をつけろ!」
その言葉どおり、群れの中には、ときどき踊っていない個体がいた。耳が悪かったのか、生前この曲を知らなかったのか。野球帽をかぶったゾンビが一体、踊りの列のあいだで棒立ちになり、ゆっくりとこちらに首を回した。
白く濁った目が、美咲の胸の陽向をとらえた。灰色の手が、ゆっくりと持ち上がる。
剛田は源蔵を背負っていて、手がふさがっていた。
ハットリは、懐に手を入れた。黒装束の奥に、一枚だけ残っていた手裏剣。
投げた。
くるくると夕日を切って飛んだ手裏剣は、野球帽のつばに当たって、帽子を宙にはね上げた。
ゾンビの首が、宙を舞う帽子を追って、ゆっくりと上を向いた。伸びかけていた手が止まる。
「……当たった」と理崎。
「当たったでござる……! 生まれて初めて、当たったでござる……!」
「喜ぶのはあとだ!」
剛田が源蔵を背負ったまま、空いた肩でそのゾンビを踊りの列の中へ押し戻した。押し戻された野球帽のゾンビは、まわりのゾンビの動きにつられるように、ぎこちなく右手を空に上げた。
「……踊った」と剛田。
「つられたな」と理崎。
ゾンビたちのあいだを、踊りながら抜けていく。誰も、こちらに手を伸ばしてこない。右手を空に。左手を胸に。灰色の顔の誰もが、同じ歌の中にいた。
ゲートの手前で、作業着の男が追いついた。男は踊ったまま、美咲と陽向をまとめて抱きしめた。陽向が男の頬をぺちぺちと叩いて、「ぱっ、ぱ」と笑う。男は声を上げて泣いた。泣きながら、まだ片手を空に上げていた。
「……陽向、今、パパって」
「言ったの。今、初めて」
「……ずるいぞ。俺、聞き逃した」
「聞いてたでしょ。ちゃんと、あなたに言ったのよ」
三人は抱き合ったまま、踊りながらゲートをくぐった。そのすぐ後ろを、剛田が源蔵を背負ってくぐり、春江と理崎が続いた。避難者の列が次々とゲートに吸いこまれていく。そのあいだを縫うように、選挙カーがゆっくりとゲートをくぐった。屋根の上では、ハットリの父親がまだ踊っていた。剛田の母親が、拡声器を担ぎ直してそのあとに続いた。
最後に、ハットリがゲートをくぐって、振り返った。
夕日の中、朝霧大橋の上で、千のゾンビが踊っていた。避難者たちがその中を踊りながら、次々とゲートに吸いこまれていく。壁の上では、何千もの人が歌っている。
――ハロー、ハロー、ワールド。
――知らないきみと、同じリズムで。
――今日を、踊ろう。
最後の避難者がくぐり終えたとき、鉄の扉がゆっくりと閉まった。扉の向こうで、ゾンビたちは、まだ空に手を伸ばしていた。
◇
ゲートの内側は、金網に囲まれた検疫区域だった。くぐったとたん、七人は芝生の上に倒れこんだ。誰も、しばらく動けなかった。空が、オレンジ色だった。
防護服の隊員たちが、七人を一人ずつ調べ始めた。
『腕を出して。首も見せて』
剛田のちぎれた袖のあたりを、隊員が懐中電灯で照らした。
「つかまれただけっす」
『……傷はないな。よし』
次に、ハットリの肘。絆創膏をはがすと、赤くすりむけた傷が現れた。隊員の目が鋭くなった。
『この傷は』
「そ、それは……」
「アスファルトで擦りむいたんです」美咲が、陽向を抱いたまま身を乗り出した。「この子のぬいぐるみを、助けてくれたときに」
「噛み傷なら、歯形が残ります」理崎がかすれた声で言った。「これは擦過傷です。手当てをしたのは、俺です」
隊員はしばらく傷を見つめていた。それから、マスクの奥で少しだけ目元を緩めた。
『……擦り傷だな。消毒し直す。ただし全員、一時間ここで経過観察だ』
拓海も、陽向も、春江も源蔵も、剛田の母親も、ハットリの両親も、同じ囲いの中に入れられた。金網の向こうには、安全区域の人たちが集まり始めていた。さっきまで壁の上で歌っていた人たちだった。何人もが、金網越しに手を振っていた。
一時間は長かった。けれど、誰も文句を言わなかった。芝生に寝転がって、オレンジ色の空が紫に変わっていくのを見ていた。陽向は拓海の胸の上で眠り、春江は源蔵の肩にもたれ、三人は並んで大の字になっていた。
「……一時間後に、もし誰かが変になったら」と剛田がつぶやいた。
「なる要素がない」と理崎。「噛まれた者はゼロだ。計算どおりだ」
「理崎殿の計算は、いつも正確でござる」
「……当然だ」
囲いの隅で、剛田の母親がようやく息子の襟首をつかまえた。そのまま片手で持ち上げて、ぎゅうっと抱きしめる。身長百八十二センチ、体脂肪率六パーセントの息子の足が、芝生から浮いていた。
「バカ! どこほっつき歩いてたの! 心配させて!」
「……母ちゃん、苦しい」
「知るか!」
ハットリが、理崎の脇腹をつついた。
「……米俵の話、本当だったでござるな」
「あの拡声器のほうが、たぶん重いぞ」
剛田の母親はようやく息子を下ろすと、今度は両肩をばしんと叩いた。
「……でも、あんた。かっこよかったよ。バスの上で、友達のこと守ってたじゃない」
剛田は何も言えなくなって、うつむいた。耳まで真っ赤だった。
ハットリは、両親に挟まれて座っていた。母親はハットリの頭を抱えこんでずっと泣いていて、父親はハットリの髪をくしゃくしゃにかき回していた。
「最高のショーだったぞ、ジェイク」
「……父上こそ、でござる。選挙カーは、反則でござる」
「お前が先に幕を上げたんだ。俺は、ちょっと音響を手伝っただけさ」
父親は目を真っ赤にして笑った。
「怖かったか」
「……怖かったでござる。でも――」
ハットリは、少し離れたところで寝転がっている剛田と理崎を見た。
「一人じゃ、なかったでござる」
父親は、もう一度ハットリの頭をくしゃくしゃにかき回した。
「……それで、選挙カーは返すのでござるか」
「返すさ。謝罪の手紙もつけてな」
午後五時半。囲いの扉が開いた。
「――学!」
細い声がした。金網の外で待っていた人たちの中から、眼鏡をかけた小柄な女性が泣きながら駆けてくる。理崎の母親だった。最初の日の臨時バスで、ひと足先にここへたどり着いていたのだ。
理崎は芝生から立ち上がった。母親が目の前で立ち止まる。何か言おうとして、言葉にならずに、ただ泣いていた。
理崎は眼鏡を押し上げようとして、やめた。そして、母親の顔をまっすぐ見た。
三秒。四秒。五秒。
「……ただいま」
母親が理崎を抱きしめた。理崎は、六秒目になっても目をそらさなかった。
◇
囲いの出口の近くで、小さな男の子が、自衛官に手を引かれて立っていた。首から、名前を書いた札を下げている。
『ゆうと』
男の子は、囲いから出てくる人の顔を、一人ひとり必死に見上げていた。そして、出てきた避難者の中に、一人の女性を見つけた。
「――おかあさん!」
男の子が駆け出した。女性が膝をついて、両手を広げた。
あとで聞いた話では、ゆうとは避難指示が出た朝、近所の人に手を引かれて、北宿南駅の臨時バスに乗ったのだという。夜勤で職場にいた母親は、家に戻れないまま国道を歩いて南へ向かい、選挙カーの後ろの列に混じって、ここまでたどり着いたのだった。
ハットリはそれを見ていた。北宿南駅の、時刻表の下の走り書き。『おかあさん さきにいってます ゆうと』。
「……ゆうと殿の母上も、たどり着けたでござるな」
「ああ」と剛田。
「……よかった」と理崎。
◇
芝生の端のベンチで、拓海が美咲の母子手帳を開いていた。最後のページの、震える字。拓海はしばらく黙ってそれを読んでいた。肩が、小さく震えていた。
「……笑い話にするって、言ったでしょ」
美咲が、少し照れくさそうに言った。
拓海は顔を上げた。泣いていた。それから、笑った。右のほっぺに、えくぼが浮かんだ。
「……笑えるかよ、こんなの」
拓海は、美咲の膝の上の陽向を抱き上げた。陽向が拓海の顔をぺちぺちと叩いて、「ぱっ」と言った。右のほっぺに、同じえくぼを浮かべて。
「毎朝のダンス、続けるに決まってるだろ」
拓海が陽向を高く抱き上げると、陽向がきゃあっと笑った。
「死ぬまで続けてやる。……陽向が、うざいって言うまで」
◇
「ハットリくん」
声をかけられて、ハットリは振り返った。早瀬ひかりが立っていた。
ジャージの袖で、目元をごしごしこすっている。その後ろに、二年三組の女子たちが少し気まずそうに並んでいた。
「……無事で、よかった」
早瀬は三人の顔を順番に見た。泥だらけの剛田。眼鏡にひびが入った理崎。ぼろぼろの黒装束のハットリ。
「壁の上から、ずっと見てた。……すごかったよ、ハットリくん。あんなに大勢の前で、あんなふうに踊れるなんて」
「は、早瀬殿……!」
ハットリの声は、ほとんど出なかった。それでも身を乗り出した。
「拙者……拙者、早瀬殿と同じ舞台に立ちたかったのでござる……!」
早瀬はぱちぱちとまばたきをして、それから笑った。
「じゃあ、文化祭のやり直し、しなくちゃね」
「……拙者と、でござるか?」
「もちろん。三人ともだよ」
早瀬は、剛田と理崎にも笑いかけた。
「約束したでしょ。三人の枠、ちゃんと用意しとくって」
後ろにいた女子の一人が、おずおずと前に出た。
「……あの。ごめんね。ステージ出ないでとか、言って」
別の女子も、うつむいて言った。
「さっきの、すごかった。……キモいとか言って、ごめん」
三人は顔を見合わせた。何を言えばいいのか、わからなかった。
「……おう」と剛田が言った。
「……別に」と理崎が言った。ただし今度は、ちゃんと相手の顔を見て。
「……ありがたき、幸せでござる」とハットリが言った。
女子たちが、くすっと笑った。早瀬も笑った。そして、ハットリの顔を、ほんの一瞬だけまっすぐに見た。それからくるりと背を向けて、女子たちと一緒に歩いていった。
「……おい、ハットリ」剛田がハットリの脇腹をつついた。「三人とも、って言ってたぞ」
「三人とも、って言ってたな」と理崎。
「……わかっているでござる」
ハットリは早瀬の背中を見送りながら、耳まで真っ赤になっていた。
◇
「――剛田くん、理崎くん、ハットリくん」
春江が、源蔵の腕を取って立っていた。
「お礼を言わなきゃね」
「いや、俺らは……」
「言わせなさい」
春江は三人の手を、順番に握った。
「あなたたちが助けに来てくれなかったら、私たち、あの家で終わってた。ありがとう」
源蔵が、ごほんと咳払いをした。
「……婆さん。あれを言うんだろう」
「ええ」
春江は三人の顔を見回して、目尻にしわを寄せて笑った。
「うちには、子どもがいなかったけどね。……この三日で、孫が三人できたわ」
三人は、何も言えなかった。
「週三で、ご飯食べに来なさい。剛田くんは、週六でもいいわよ」
「……週六で行きます」
「坊主は、はんだ付けの続きだ」と源蔵。「週二で来い」
「……はい」
「ハットリくんは、いつでも。ござるは半分にしてね」
「……はんぶん、で、ある」
「やっぱり戻して」
◇
その夜、三人は防壁の上にいた。見張りの自衛官に頼みこんで、少しだけ上らせてもらったのだ。
月明かりの下に、朝霧大橋が見えた。橋の上には、まだゾンビたちが残っていた。もう歌は聞こえない。それでも何体かが、ゆっくりと空に手を伸ばしていた。右手を空に。左手を胸に。
「……まだ、踊ってるな」と剛田。
「体が、覚えてるんだ」と理崎。
理崎は手帳を取り出し、最後のページに短く書いた。
『九、仮説は正しかった。歌は、届く』
それから少し考えて、もう一行。
『十、三人で来た。三人で帰ってきた』
ハットリは、夜空を見上げていた。胸元から、北宿南駅で拾った週刊誌の切り抜きを取り出す。『AIRIは未来から来た!?』の見出しが、月明かりにかすかに浮かんだ。
「……AIRI」
ハットリは、空に向かって小さく言った。
「ありがとうでござる。お主の歌が、みんなを助けてくれたでござる」
夜風が吹いた。どこか遠くで、誰かがハロー・ハロー・ワールドを口ずさんでいた。
「……なあ」剛田が言った。「文化祭のやり直し、いつだろうな」
「町が元に戻ってからだ。……何年かかるか、わからない」と理崎。
「では、それまで練習するでござる」
ハットリが立ち上がった。
「剛田殿は、ロボットを卒業するでござる。理崎殿は、三秒以上お客さんの顔を見るでござる」
「お前は、ござるを半分にしろ」
「それは無理でござる!」
三人の笑い声が、夜の防壁の上に響いた。
橋の上で、一体のゾンビが、くるりと回った。
最終章 ハロー・ハロー・ワールド 了