シェリハンは最強。
春の風が、桜の花びらを運んでいた。
校門へ続く坂道には、真新しい制服に身を包んだ生徒たちが行き交っている。慣れない革靴の音、友人同士の弾んだ声、保護者たちが構えるカメラのシャッター音。どこを見ても、今日という日を特別なものにしようとする人々の姿があった。
今日から、ここがわたしの通う学園になる。橘シェリーは、校門の前で足を止めた。
「わぁ……! 思っていたよりも大きな学園ですね〜!」
目の前に広がる校舎を見上げ、シェリーは感嘆の声を漏らした。窓は朝の光を受けてきらきらと輝き、校舎の向こうには広い中庭が見える。敷地内には、まだ少し冷たい春風が吹き抜けていた。
新しい環境。新しい出会い。まだ知らないことばかりの場所。好奇心を刺激するものなら、いくらでも見つかりそうだった。
――本来なら、そう思えるはずだった。
「……」
シェリーは、胸元にそっと手を当てた。
今、自分が立っている場所は、間違いなく現実だ。夢でも、幻でもない。
自分の足で歩いて、息をして、春の風を感じている。周囲の生徒たちの声も、遠くから聞こえる校内放送も、すべてが当たり前のようにそこにあった。
それなのに。ふとした瞬間、信じられなくなる。
もう一度、こんな朝を迎えられるなんて。
もう一度、新しい制服を着て、これからのことを考えられるなんて。
もう一度、明日が来ることを疑わずにいられるなんて。
「……なんて」
シェリーは小さくつぶやき、いつもの笑顔を浮かべた。
「せっかくの入学式ですからね! 暗い顔をしている場合じゃありません!」
そうだ。今日は入学式なのだ。これから始まる学園生活には、きっと面白いことがたくさんある。まだ知らない人たちと出会い、知らない場所を歩き、知らない出来事に遭遇する。
考えるだけで、わくわくしてくる。
シェリーは一歩、校門の向こうへ踏み出した。そのときだった。
桜の木の下に、一人の少女が立っているのが見えた。
長い髪が風に揺れている。背筋はすっと伸び、周囲の喧騒から切り離されたように、静かに校舎を見つめていた。その横顔を見た瞬間シェリーの足が止まった。見間違えるはずがなかった。
何度も思い出した顔だった。ずっと思い出し、思うたびに胸が苦しくなった顔だった。
名前を呼びたい。すぐに駆け寄りたい。
けれど、声が出なかった。
もし、振り返った相手が自分の知っている彼女ではなかったら。
もし、ここにいる彼女が、自分の知る過去を何も覚えていなかったら。
もし、笑顔で声をかけた途端に、今まで信じていたものが崩れてしまったら。
そんな考えが、頭の中を駆け巡る。
――何を怖がっているんでしょうね、わたし。
シェリーは、ぎゅっと拳を握った。確かめなければ、何も分からない。自分の知っていることが正しいのかも、目の前にいる彼女が本当に彼女なのかも。
それに、もし、本当にあの子なら...もう一度、会いたかった。
「……ハンナさん!」
気づけば、声が出ていた。桜の花びらが、二人の間を通り抜ける。少女の肩が、ぴくりと揺れた。
ゆっくりと振り返った彼女は、最初、信じられないものを見るような顔をしていた。そして、その瞳がシェリーを捉える。
「……シェリーさん?」
その声を聞いた瞬間、シェリーの胸の奥で、何かがほどけた。
ああ。間違いない。この声だ。この表情だ。自分が知っている、遠野ハンナだ。
「やっぱりハンナさんでした!」
シェリーは、いつもの調子で駆け寄った。
「お久しぶりです! まさか、こんなところで会えるなんて思いませんでしたよ〜!」
「ちょ、ちょっと……! そんなに大きな声を出さなくても聞こえていますわ!」
ハンナは慌てたように周囲を見回した。何人かの新入生がこちらを振り返っている。
「もう……相変わらずですわね、あなたは」
呆れたような口調。けれど、シェリーは見逃さなかった。ハンナの手が、制服の裾をぎゅっと握っていることを。いつもなら堂々としているはずの彼女が、ほんの少しだけ震えていることを。
「……ハンナさん?」
「な、何ですの?」
「いえ。なんだか、びっくりしているみたいだったので」
「当然でしょう! 突然あなたに...シェリーさんに声をかけられたのですから!」
「えへへ、すみません!」
「謝るくらいなら、少しは落ち着いて行動なさい!」
いつものやり取りだった。何度も聞いたような、聞き慣れたやり取り。そのはずなのに、シェリーは笑いながら、目の奥が熱くなるのを感じていた。
もう一度、こうして話せる。
もう一度、ハンナに怒られる。
もう一度、彼女の声を聞ける。
そんなことが、こんなにも嬉しいなんて。シェリーは一度だけ、深く息を吸った。
「それで、ハンナさんはどうしてここに?」
「……どうしてって、見れば分かるでしょう。入学式ですわ」
「あっ、そうでした!」
「あなた、頭大丈夫ですの……?」
「感動の再会をしたばっかりなのにひどくないですか〜?私はいつでも大丈夫ですよ〜!」
「そういう問題ではありませんわ!」
ハンナは額に手を当てた。シェリーは楽しそうに笑う。けれど、ハンナの表情には、まだ驚きが残っていた。彼女もまた、目の前の光景を信じられずにいたのだ。
シェリーがここにいる。
同じ制服を着て、同じ春の風に吹かれて、自分の名前を呼んでいる。それは、あまりにも普通の光景だった。普通すぎて、かえって恐ろしい。あの日々を経験した自分たちが、こんなふうに新しい学園生活を始められるなんて。何も知らない生徒たちに混ざって、入学式の会場へ向かえるなんて。
まるで、過去に起きたことがすべて遠い夢だったかのように。
けれど、夢ではない。
ハンナは知っている。あの出来事も、そこで感じた恐怖も、誰にも言えなかった気持ちも。
すべてが確かに、自分の中に残っている。そして、目の前にいるシェリーも、きっと。
「……シェリーさん」
「はい?」
「あなたは……」
言いかけて、ハンナは口を閉じた。聞きたいことは、たくさんあった。どうしてここにいるのか。
どうしてそんなふうに笑っていられるのか。牢屋敷で起きたことを覚えているのか。そして、今、何を思っているのか。けれど、どの質問も口にすることができなかった。
もし答えを聞いてしまったら、今のこの時間が変わってしまう気がしたから。
「……いえ、何でもありませんわ」
「そうですか?」
シェリーは首をかしげた。
「何か気になることがあったら、いつでも聞いてくださいね!」
「……あなたに聞いて、まともな答えが返ってくるとは思えませんけれど」
「ええっ!?ひどいです!」
ハンナは、ほんの少しだけ笑った。その笑顔を見て、シェリーはようやく肩の力を抜くことができた。よかった。笑ってくれた。それだけのことが、こんなにも嬉しい。
今すぐにでも、伝えたいことはあった。
会いたかった。
また話がしたかった。
もう一度、あなたの隣に立ちたかった。
でも、そんなことを言ったら、ハンナはどんな顔をするだろう。きっと驚くだろうし、もしかしたら困らせてしまうかもしれない。それなら、今はまだいい。これから、時間はいくらでもあるのだから。
「そういえば、ハンナさん!」
シェリーは、ぱっと顔を上げた。
「クラス分け、もう確認しましたか?」
「ええ。先ほど掲示板で確認しましたわ」
「そうなんですね! わたしも見に行こうと思っていたんです。どのクラスになったんですか?」
「……一年三組ですけれど」
「えっ?」
シェリーは目を丸くした。
それから、鞄の中から入学案内の紙を取り出す。掲示板で確認した自分のクラスを、もう一度確かめる。
一年三組。
そこには、間違いなくそう書かれていた。
「わ、わたしも三組です!」
「……え?」
「すごいですね! 同じクラスですよ、ハンナさん!」
シェリーは嬉しそうに声を弾ませた。
「これは偶然でしょうか? それとも、何かの運命でしょうか?」
「う、運命って……! クラスが同じになった程度で、何を大げさな……!」
ハンナはそう言いながらも、掲示板の方を振り返った。もう一度、確認する。
自分の名前。
シェリーの名前。
確かに、同じクラスに記されていた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。嬉しい。その気持ちは、否定できなかった。しかし、それと同時に、怖くもあった。
これから毎日、シェリーと顔を合わせることになる。授業を受けて、昼食を食べて、放課後を過ごして。そんな日々が続いていけば、自分はきっと、今よりもっと彼女を大切に思うようになる。
そして、大切なものが増えれば増えるほど、失うことが怖くなる。
――わたくしは、また同じことを繰り返すつもりなの?
ハンナは、心の中で自分に問いかけた。
過去を知っているからこそ、慎重にならなければならない。軽々しく期待してはいけない。
この幸せが永遠に続く保証など、どこにもないのだから。
「ハンナさん?」
シェリーの声に、ハンナは我に返った。
「どうしました? もしかして、同じクラスなのが嫌でしたか……?」
その声には、ほんの少しだけ不安が混じっていた。
ハンナは思わず目を見開く。
「そ、そんなことは言っていませんでしょう!」
「本当ですか?」
「本当ですわ!」
「よかった〜!」
シェリーは、ほっとしたように笑った。
その顔を見た途端、ハンナは自分の考えが馬鹿らしく思えてきた。まだ何も始まっていない。
未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。それなのに、今から失うことばかり考えて、目の前 にあるものまで手放してしまうつもりなのだろうか。
ハンナは、小さく息を吐いた。
「……まったく。あなたといると、調子が狂いますわ」
「えへへ、それは褒め言葉ですか?」
「違います!」
「ええ〜?」
シェリーは不満そうに頬を膨らませた。
その様子がおかしくて、ハンナはまた少し笑ってしまった。
今は、それでいい。
無理に答えを出さなくてもいい。
この先どうなるのか分からないのなら、せめて今、この瞬間を大切にしよう。
そう思えたことが、ハンナにとっての小さな一歩だった。
入学式が終わると、新入生たちはそれぞれの教室へ向かった。
廊下には、まだ慣れない足取りの生徒たちがあふれている。教室の前では、すでに何人かが互いに自己紹介を始めていた。
「ええと……一年三組は、こっちですね!」
シェリーは教室の札を確認し、勢いよく扉を開けた。
「おはようございます〜!」
「ちょっと! 教室に入るときは、もう少し静かになさい!」
後ろからハンナが注意する。
「はーい!」
シェリーは元気よく返事をした。
その声に、教室にいた生徒たちが一斉に振り向く。
「あ、二人とも同じ中学……じゃなくて、知り合いなの?」
一人の生徒が尋ねた。
シェリーはすぐに答えようとしたが、その前にハンナが口を開いた。
「ええ。以前からの知り合いですわ」
その言葉を聞いて、シェリーは少しだけハンナを見つめた。以前からの知り合い。間違いではない。けれど、それだけでは説明できないものが、二人の間には確かにあった。それでも、今はそれで十分だった。
「そうなんです! ハンナさんとは、いろいろありまして!」
「……いろいろ、で済ませるのですの?」
「えっ、だめですか?」
「別に、だめとは言っていませんけれど……」
二人のやり取りに、近くの生徒がくすりと笑った。
「なんだか、仲がいいんだね」
「えっ?」
シェリーが目を丸くする。ハンナは、ぴたりと動きを止めた。
「な、何をおっしゃいますの! わたくしたちは、ただの知り合いですわ!」
少し早口になったハンナを見て、シェリーは不思議そうに首をかしげる。
「そうなんですか?」
「あなたまで何を言っていますの!?」
「ええっ、わたし、何か変なことを言いましたか!?」
「もう……!」
ハンナは顔をそらした。頬が少し熱い。仲がいい。その言葉を否定したかったのか、それとも肯定したかったのか。自分でも、よく分からなかった。シェリーはそんなハンナを見つめながら、胸の中で小さく首をかしげた。
どうしてだろう。
ハンナといると、知らないことが次々と見つかる。怒った顔も、困った顔も、少しだけ笑った顔も。どれも知っているはずなのに、今までとは違って見える。
同じ人なのに。
同じ思い出を持っているはずなのに。
まるで、初めて出会ったときのようだった。
――もっと、知りたいな。
シェリーはそう思った。今のハンナが何を好きで、何を嫌いで、何を考えているのか。
過去に知ったことだけではなく、これから新しく知っていきたいと思った理由を、シェリーはまだ知らなかった。
放課後、校舎を出ると、空は少しだけ茜色に染まり始めていた。桜の花びらが、風に乗って校庭を舞っている。
「今日は、いろいろなことがありましたね〜!」
シェリーは、満足そうに伸びをした。
「入学式に、クラス発表に、自己紹介! まだ一日目なのに、盛りだくさんです!」
「あなたは、朝からずっと騒がしかったですわね……」
「ええっ!?そんなことありませんよ!」
「十分、騒がしかったですわ!」
二人は並んで、校門へ向かって歩いた。シェリーは、ふと足を止めた。
「……ハンナさん」
「今度は何ですの?」
「明日も、一緒に登校しませんか?」
ハンナは目を瞬かせた。
「明日……?」
「はい! せっかく同じクラスになったんですから、途中まででも一緒に行けたら楽しそうだなって!」
シェリーは、いつものように笑っていた。何気ない誘い。特別な意味などないように見える。
けれど、ハンナには、その言葉が不思議なくらい胸に響いた。明日も、その先も。シェリーは、自分と一緒に過ごすことを当たり前のように考えてくれている。
それが嬉しかった。嬉しいと思ってしまう自分が、少し怖かった。
「……仕方ありませんわね」
ハンナは、ゆっくりと口を開いた。
「あなたがそこまでおっしゃるのなら、明日はご一緒して差し上げてもよろしくてよ」
「本当ですか!? やった〜!」
「ですから、声が大きいですわ!」
「すみません!」
シェリーは笑いながら、ぺこりと頭を下げた。ハンナも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……待ち合わせ場所と時間は、あとで連絡いたしますわ」
「はい! 楽しみにしていますね!」
シェリーの声が、春の空に響いた。二人は校門の前で別れ、それぞれの帰り道へと歩き出す。
数歩進んだところで、ハンナは一度だけ振り返った。シェリーの姿は、もう人混みの向こうに隠れていた。それでも、さっきまで隣にいた感覚が、まだ残っている。
「……明日も、ですのね」
小さくつぶやく。
明日も会える。明日も話せる。その先に何が待っているのかは分からない。けれど、今日だけは。
その約束を、素直に嬉しいと思っていたかった。
その夜シェリーは机に向かい、一冊のノートを開いていた。新しい学園生活について、記録しておこうと思ったのだ。日付を書き、その下に今日あったことを順番に並べていく。
『入学式。校舎は思っていたよりも広い。クラスは一年三組。いろんな生徒がいた』
そこまで書いて、シェリーはペンを止めた。今日、一番印象に残ったことは何だろう。
入学式?
新しい教室?
それとも、初めて出会ったクラスメイトたち?
どれも、確かに印象的だった。でも、一番ではない。シェリーは、少し考えてから続きを書いた。
『遠野ハンナさんと再会した。同じクラスだった。明日、一緒に登校する約束をした』
書き終えると、自然に笑みがこぼれた。
「……ふふっ」
どうして、こんなに嬉しいのだろう。同じクラスになっただけ。明日、一緒に登校する約束をしただけ。それなのに、今日一日のことを思い返すと、真っ先に浮かぶのはハンナの顔だった。
「うーん……。これは、なかなか興味深いですね〜」
シェリーは、ノートの端に小さく書き足した。
『調査対象:遠野ハンナ』
『調査目的:まだ不明』
「よし!」
ノートを閉じ、シェリーは椅子から立ち上がった。明日は何を話そう。
ハンナは、朝ごはんをちゃんと食べる人なのかな。
好きな教科は何だろう。
休みの日は、どんなふうに過ごすのだろう。
考え始めると、知りたいことが次々と浮かんでくる。それは、いつもの好奇心と同じもののはずだった。けれど、今夜は少しだけ違っていた。
シェリーは窓の外を見た。夜空には、春の月が浮かんでいる。
「……明日も、会えるんですね」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。その言葉を口にしただけで、胸の奥が温かくなる。
明日が来ることを、楽しみに思えた。誰かとまた会えることを、待ち遠しいと思えた。
それは、当たり前のようでいて、シェリーにとっては決して当たり前ではないことだった。
過去は消えない。
思い出したくないことも、忘れたくないことも、これから先ずっと胸の中に残り続けるだろう。
それでも、これからの日々まで、過去に決められてしまう必要はない。明日、何が起こるのか。
ハンナがどんな顔をするのか。自分たちが、どんなふうに変わっていくのか。
まだ、何も分からない。だからこそ、知りたいと思う。シェリーは、もう一度ノートを手に取った。そして、最後のページに、小さな文字で書き込んだ。
『明日も、ハンナさんと会う』
その一文を見つめ、シェリーは満足そうに笑った。
「……楽しみですね!」
窓の外では、夜風に吹かれた桜の花びらが、静かに舞っていた。こうして、二人の新しい日々が始まった。まだ名前のない気持ちを抱えたまま。まだ互いに知らないことを、たくさん残したまま。
それでも二人は、もう一度、同じ明日へ向かって歩き始めたのだった。
文字数多くなっちゃった