翌朝
遠野ハンナは、目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床を淡く照らしている。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえ、春らしい穏やかな風がレースのカーテンを揺らしていた。いつもと変わらない朝。少なくとも、そうであるはずだった。
「……なんで、こんなに早く起きてしまったのかしら」
ハンナは枕元の時計を見つめ、ため息をついた。登校時間にはまだ余裕がある。いつもなら、もう少し布団の中で過ごしていても問題はない。けれど、今日は違った。昨日、あの少女と約束をしてしまったからだ。
『明日、一緒に登校しませんか?』
明るい声と、こちらの返事を期待するようなまっすぐな瞳。思い出すだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「べ、別に……約束したからといって、特別なことではありませんわ」
誰もいない部屋で、ハンナはわざわざ口に出して否定した。ただ一緒に学校へ行くだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。そもそも、昨日再会したばかりなのだ。少し話をしたからといって、以前と同じ関係に戻れるわけではない。
――以前。
その言葉を思い浮かべた瞬間、ハンナの表情からわずかに笑みが消えた。彼女の中には、今の自分たちが通う学校には存在しないはずの記憶がある。もう二度と戻りたくない場所。忘れたくても忘れられない出来事。そして、そのすべてを知っている少女。
橘シェリー。
彼女が今、どんな気持ちで自分に接しているのか。ハンナには、まだわからなかった。
「……考えていても仕方ありませんわね」
ハンナはベッドから起き上がると、制服に着替え始めた。鏡の前で髪を整え、襟元を直す。いつもより少しだけ念入りに身だしなみを確認してから、彼女は鏡の中の自分を見つめた。
「いつもどおり。いつもどおりですわ」
そう言い聞かせて、部屋を出た。けれど、玄関で靴を履くとき、彼女はもう一度だけ時計を確認してしまった。待ち合わせの時間まで、あと五分。
――遅れたら、あの子は何と言うかしら。
そんなことを考えている自分に気づき、ハンナは小さく頬を膨らませた。
まったく。朝から調子が狂う相手である。
待ち合わせ場所に着くと、シェリーはすでにそこにいた。
「ハンナさん! おはようございます!」
こちらを見つけるなり、シェリーはぱっと顔を輝かせた。その笑顔は、昨日と同じだった。
まるで、昨日の再会が夢ではなかったと証明してくれるような笑顔。
「……おはようございます、シェリーさん。ずいぶん早いのですわね」
「えへへ。楽しみで、いつもより早く起きちゃいました!」
「た、楽しみ……?」
「はい! ハンナさんと一緒に登校するの、初めてですから!」
シェリーは何のためらいもなく言い切った。ハンナは思わず視線をそらした。
「……そんなことで喜ぶなんて、変わった方ですわね」
「そうですか? わたしは嬉しいですよ」
「そ、そう……」
それ以上、何も言えなくなってしまった。シェリーは不思議そうに首を傾げたが、すぐにいつもの調子で歩き始めた。
「では、行きましょう! 今日は学校でいろいろ確認したいことがあるんです!」
「確認したいこと?」
「はい! 教室の配置とか、先生の名前とか、クラスメイトの特徴とか! 新しい環境ですから、情報収集は大切です!」
「……学校生活を何だと思っていますの?」
「調査です!」
「胸を張って言うことではありませんわ!」
思わず声を上げる。
その瞬間、シェリーが楽しそうに笑った。
「ふふっ。ハンナさん、昨日よりよくお話ししてくれますね」
「なっ……!」
「昨日はちょっと緊張しているように見えたので。今日は少し安心しました!」
ハンナは言葉に詰まった。シェリーは、いつもこうだ。何気ない会話の中から、こちらが隠そうとした感情を見つけ出す。それが彼女の長所であることは、ハンナもよく知っていた。同時に、それが少しだけ怖かった。もし、この子が自分の隠しているものに気づいたら。もし、今の自分の心の中まで見抜いてしまったら。それでも、隣を歩いてくれるのだろうか。
「……ハンナさん?」
「な、何でもありませんわ!」
「そうですか?」
「そうです!」
ハンナは早足になった。シェリーは小走りで追いつきながら、困ったように笑った。その様子を横目で確認して、ハンナはほんの少しだけ歩調を緩めた。シェリーが隣に並ぶ。それだけで、胸の奥にあった不安が、ほんのわずかに遠のいた気がした。
教室に到着すると、すでに何人かの生徒が席についていた。昨日の入学式で顔を合わせた生徒たちが、互いに自己紹介をしたり、教科書を確認したりしている。
「おはようございます!」
シェリーが明るく挨拶すると、数人の生徒が振り向いた。
「おはよう、橘さん!」
「昨日はあまり話せなかったね。今日、よかったらいろいろ教えてよ」
「はい! もちろんです!」
シェリーはすぐに輪の中へ入っていった。誰とでも自然に話せる。興味を持った相手には臆せず質問し、相手の答えを楽しそうに聞く。その姿は、ハンナにとって見慣れたものだった。
そして、見慣れているからこそ――少しだけ、面白くなかった。
「……別に、構いませんけれど」
誰に聞かせるでもなく、ハンナはつぶやいた。シェリーが他の生徒と話すのは当たり前だ。友達を作ることは、学校生活において大切なことなのだから。自分だけに話しかけてほしいなどと考えるのは、あまりにも身勝手だ。それなのに。
「遠野さん、おはよう!」
突然声をかけられ、ハンナは顔を上げた。同じクラスになった女子生徒が、にこやかに手を振っている。
「お、おはようございます」
「ねえ、橘さんと仲がいいんだね。朝も一緒だったみたいだし」
「べ、別に……昨日、偶然再会しただけですわ」
「そうなんだ! でも、橘さんってすごく話しやすいよね」
「……そう、ですわね」
ハンナは曖昧に答えた。
「遠野さんも、もっとみんなと話したら? せっかく同じクラスなんだし!」
「わたくしは、必要なときに話しますわ」
「ふふっ、なんだかお嬢様みたい!」
「お、お嬢様……?」
ハンナが反応に困っていると、教室の反対側からシェリーの声が聞こえた。
「それで、そのとき先生が――あっ、ハンナさん!」
シェリーがこちらを向いた。
「ハンナさんも、こっちに来ませんか? みんなでお話ししているんです!」
その誘いに、ハンナの胸がかすかに弾んだ。けれど、彼女はすぐにいつもの表情を取り戻す。
「わたくしは結構ですわ。あなた方だけで楽しんでいらして」
「えー、そうですか?」
「ええ」
「わかりました! では、あとでまたお話ししましょうね!」
シェリーはあっさりと引き下がり、再び会話の輪に戻っていった。ハンナは机の上に視線を落とした。断ったのは自分だ。シェリーは、ちゃんと誘ってくれた。それなのに、なぜこんなに寂しいのだろう。
「……わたくし、本当に何を考えていますの」
自分の心が、自分でもよくわからなかった。
ホームルームが始まると、担任の教師が教室に入ってきた。出席確認のあと、教科書の配布や今後の予定についての説明が続く。その最中、シェリーは机の下で小さなノートを開いていた。
ハンナがちらりと見ると、そこには細かな文字がびっしりと並んでいる。教師の話を聞きながら、何かを書き込んでいるようだった。まさか、授業中にまで調査をするつもりなのだろうか。
ハンナは呆れたように息をついた。そのとき、教師がプリントの束を持ち上げた。
「では、これから配る資料を後ろの人に回してください」
シェリーが受け取ったプリントを数え、後ろの席へ渡そうとする。
しかし、紙が引っかかり何枚かが床へ滑り落ちてしまった。
「あっ!」
「ちょっと、何をしていますの」
ハンナは反射的に立ち上がり、床に散らばったプリントを拾った。
「す、すみません、ハンナさん!」
「謝るより、先に拾いますよ」
「はい!」
二人で手分けしてプリントを集める。最後の一枚を拾い上げたとき、ハンナはシェリーのノートが開いたままになっていることに気づいた。そこには、先ほどまでの記録が残されていた。
教室の座席配置。
担任の特徴。
クラスメイトの名前。
そして、そのページの下のほうに――。
『遠野ハンナさん』
自分の名前があった。
「……これは?」
「あっ!」
シェリーが慌ててノートを閉じた。
その反応が、かえってハンナの好奇心を刺激した。
「ちょっと、今のは何ですの?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「何でもない方が、そんなに慌てるものですか!」
「そ、それは……」
シェリーは目を泳がせた。ハンナは腕を組み、じっと彼女を見つめる。
「まさか、わたくしのことを調査しているのではありませんわよね?」
「…………」
「シェリーさん?」
「……少しだけ、です」
「少しだけ、とは?」
「ええと……ハンナさんが今、何を考えているのかな、とか。どういうときに怒るのかな、とか……」
「なっ……!」
ハンナの頬が一気に熱くなった。
「な、なな、何を勝手なことを!」
「すみません! 気になってしまって!」
「気になったからといって、何でも調べていいわけではありませんわよ」
「はい……」
シェリーがしゅんと肩を落とした。
その姿を見た瞬間、ハンナは言い過ぎたことを後悔した。けれど、簡単に謝ることもできない。
自分の名前が書かれていたことに驚いたのも事実だったし、何より、シェリーが自分に興味を持っていることが嬉しかった。嬉しいのに、恥ずかしい。恥ずかしいのに、もっと知ってほしい。そんな矛盾した気持ちを、どう説明すればいいのだろう。
「……ただし」
「はい?」
「わたくしのことを知りたいのであれば、勝手にノートへ書き込むのではなく、直接聞きなさい」
シェリーが顔を上げた。
「直接、ですか?」
「そ、そうですわ。質問すること自体まで禁止するとは言っていませんわ」
「本当ですか?」
「何度も言わせないでくださいませ!」
シェリーの表情が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、ハンナさん!」
「お礼を言われるようなことではありませんわ!」
ちょうどそのとき、教師が二人のほうを振り返った。
「そこ、何かあったか?」
「「い、いえ! 何もありません!」」
シェリーとハンナの声が、見事に重なった。教室の何人かがくすくすと笑う。
ハンナは顔を赤くしながら席についた。隣でシェリーが小さく笑っている。
「……何ですの?」
「いえ。ハンナさんと声がそろったので、ちょっと嬉しくて」
「……本当に、あなたという方は」
ハンナは額に手を当てた。けれど、口元に浮かびかけた笑みまでは、隠しきれなかった。
昼休み
ハンナが弁当を取り出していると、シェリーが机の横へやってきた。
「ハンナさん、お昼、一緒に食べませんか?」
「……あなたは、他の方々と食べなくてよろしいの?」
「もちろん、みんなと食べるのも楽しいです! でも、今日はハンナさんとお話ししたいので!」
あまりにも迷いのない返事だった。ハンナは一瞬、何も言えなくなった。
「……好きにしてください」
「はい!」
シェリーは嬉しそうに隣の席を借り、弁当を広げた。しばらくは、学校のことや授業のことなど、当たり障りのない会話が続いた。シェリーは今日知ったことを次々と話し、ハンナは呆れたりしながら聞いていた。不思議な時間だった。
以前の記憶があるからこそ、何気ない会話の一つひとつが、どこか特別に感じられる。ここでは、二人は同じ教室で授業を受け、昼食を食べ、帰り道を歩くことができる。そんな当たり前のことが、奇跡のように思える瞬間があった。
「……ねえ、シェリーさん」
「はい?」
「あなたは……」
ハンナは箸を止めた。聞きたいことがあった。どうして、そんなに明るく笑っていられるのか。あの出来事を覚えているのに、どうして今の生活を楽しめるのか。
そして――どうして、自分に声をかけてくれるのか。
けれど、言葉にしようとすると、喉の奥でつかえてしまう。
「……いえ。何でもありませんわ」
ハンナは視線を落とした。シェリーはしばらく彼女を見つめていたが、無理に聞き出そうとはしなかった。
「そうですか。じゃあ、聞きたいことができたら教えてくださいね」
「……ええ」
その返事が、ハンナには少しだけ意外だった。シェリーは好奇心旺盛だ。気になったことは、納得するまで追いかける。だから、今の自分にも質問を重ねてくると思っていた。それなのに、彼女は待ってくれた。自分が話したくなるまで。
「……あなたも、少しは成長したのですわね」
「えっ? それ、褒めていますか?」
「さあ、どうでしょう」
「えーっ! 気になります!」
シェリーが身を乗り出す。ハンナはくすりと笑った。
「ふふっ。秘密ですわ」
そう言ってから、ハンナは自分の口元を押さえた。笑ってしまった。自然に。何も考えずに。
シェリーと一緒にいると、こんなふうに笑えるのだ。その事実が、嬉しくて。同時に、少し怖かった。もし、また失ってしまったら。もし、この時間が永遠ではなかったら。自分は、もう一度耐えられるのだろうか。
「……ハンナさん?」
シェリーの声に、ハンナは顔を上げた。
「何でもありませんわ。少し、考え事をしていただけです」
「……そっか」
シェリーは、それ以上何も聞かなかった。ただ、いつもの笑顔で言った。
「午後の授業も、一緒に頑張りましょうね!」
ハンナは小さくうなずいた。
「……ええ。そうですわね」
放課後
帰りのホームルームが終わると、シェリーはさっそくノートを開いた。ハンナは鞄を持ち上げながら、その様子を横目で見た。
「……また調査ですの?」
「はい! 今日わかったことを忘れないうちにまとめようと思って!」
「まったく、飽きませんわね……」
そう言いながらも、ハンナは少しだけ気になってしまう。
「……わたくしのことは、何と書いたのです?」
シェリーがぴたりと手を止めた。そして、にこりと笑う。
「知りたいですか?」
「べ、別に! ただ、わたくしに関することが書かれているなら、確認する権利があると思っただけですわ!」
「なるほど! では、読み上げますね!」
「ちょっ、待ちなさい! やっぱり結構ですわ!」
シェリーはすでにノートを見つめていた。
「えーと……『遠野ハンナさん。普段は少し厳しいけれど、困っている人を放っておけない。怒っているように見えても、相手のことをちゃんと考えている。質問をするときは、勝手に決めつけないこと』……」
「…………」
「それから、『笑った顔が――』」
「そこまでですわっ!」
ハンナは勢いよくシェリーのノートを閉じた。
顔が熱い。耳まで熱くなっている気がする。
「そ、それ以上は読まなくて結構です!」
「えーっ! まだ途中なのに!」
「途中でも駄目です!」
「でも、ハンナさんが知りたいって……」
「知りたいと言った覚えはありませんわ!」
「さっき言いましたよ?」
「言っていません!」
「言いました!」
「言っていませんったら!」
二人のやり取りを聞いていたクラスメイトが、また笑い声を上げた。ハンナは恥ずかしさのあまり、今すぐ教室を出てしまいたい気分だった。しかし、シェリーは楽しそうだった。その笑顔を見ていると、怒っているはずなのに、どうしても本気になれない。
「……もう、帰りますわよ」
「あっ、待ってください! 一緒に帰りましょう!」
シェリーは慌ててノートを鞄にしまい、ハンナの後を追った。
校門を出ると、夕暮れの空が淡い橙色に染まっていた。二人の影が、並んで道の上に伸びている。
「……今日も、楽しかったですね」
シェリーが言った。
「そうですわね」
ハンナは短く答えた。
「ハンナさんとたくさんお話しできましたし、いろいろなこともわかりました!」
「……わたくしのことを、調査した結果ですの?」
「はい!」
「まったく……」
ハンナは呆れたようにため息をついた。けれど、少し間を置いてから、そっと尋ねた。
「……それで。わたくしのことは、わかりましたの?」
シェリーは考え込むように視線を上へ向けた。
「うーん……」
「……何ですの、その反応は」
「まだまだ、わからないことだらけです!」
あまりにもはっきりした答えだった。ハンナは思わず足を止めた。
「……そう」
胸の奥が、ちくりと痛む。わからない。それは当然だ。昨日再会したばかりなのだから。
自分だって、今のシェリーについて知らないことがたくさんある。それでも、ほんの少しだけ期待してしまっていた。シェリーなら、昔の自分を覚えていてくれる。自分のことを、誰よりも知っている。そんなふうに思っていたのかもしれない。けれど、シェリーは続けた。
「だから、もっと知りたいんです!」
「……え?」
「今のハンナさんが、何を好きで、何が苦手で、どんなことを考えているのか。これから、どんなふうに変わっていくのか。そういうことを、少しずつ知っていきたいなって!」
夕暮れの光が、シェリーの横顔を照らしていた。その表情には、いつもの好奇心だけではない何かがあった。今すぐ答えを知りたいわけではない。今すぐすべてを理解したいわけでもない。ただ、これから一緒に過ごす時間を大切にしたい。そんな気持ちが伝わってきた。
「……あなたは、本当に変わった方ですわね」
「そうですか?」
「ええ。まったく……調子が狂いますわ」
ハンナは小さく笑った。シェリーも笑い返した。その笑顔を見つめながら、ハンナは胸の中でひとつの願いを抱いた。
――どうか、この時間が続きますように。
口にすることはできない。約束してほしいと言うこともできない。ただ、今は隣にいてくれる。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせた。
「……シェリーさん」
「はい?」
「明日も、一緒に登校しても構いませんわよ」
言ってから、ハンナは慌てて付け加えた。
「もちろん、あなたがどうしてもと言うのであれば、ですけれど!」
シェリーは一瞬きょとんとしたあと、満面の笑みを浮かべた。
「はい! ぜひお願いします!」
「……そう」
ハンナはそっぽを向いた。頬が熱い。けれど、今度はその熱を隠すために、わざわざ言い訳をする気にはなれなかった。
「では、また明日ですわね!」
「はい! また明日、ハンナさん!」
交差点で別れ、それぞれの帰り道へと進む。何度か振り返りそうになって、そのたびにハンナは前を向いた。振り返らなくても、明日また会える。そう信じてみたいと思った。
その夜
シェリーは机に向かい、いつものノートを開いていた。今日の出来事を振り返りながら、ペンを走らせる。
『調査対象:遠野ハンナ』
『観察結果:厳しい言葉を使うことが多いが、他人が困っていると自然に手を貸す。自分の感情を素直に表現するのは、少し苦手らしい』
そこで一度、ペンを止めた。今日のハンナの笑顔を思い出す。ほんの一瞬だった。
けれど、その表情は、ずっと心に残っていた。
「……あの笑顔、もっと見たいな」
ぽつりとこぼした言葉に、自分で驚いた。もっと見たい。どうしてだろう。ハンナが笑うと、嬉しくなる。ハンナが困っていると、力になりたくなる。
ハンナが自分の知らない誰かと楽しそうに話していたら――。
「…………?」
シェリーは首を傾げた。まだ、その先の気持ちには名前をつけられない。だから、ノートにはこう書き足した。
『調査目的:遠野ハンナという人を、もっと知ること』
そして、その下に小さく一行。
『明日も、一緒に登校する約束をした』
シェリーはその文字を見つめ、嬉しそうに笑った。まだ、わからないことばかりだ。ハンナが何を隠しているのかも。自分が彼女に対して抱いている気持ちの正体も。それでも、明日が楽しみだった。その一方で、別の部屋では。ハンナもまた、机の前で今日のことを思い返していた。シェリーが他の生徒たちと笑っていたこと。自分を昼食に誘ってくれたこと。ノートに、自分の名前を書いていたこと。そして、明日も一緒に登校しようと言ったときの、あの嬉しそうな顔。
「……本当に、ずるい方ですわ」
ハンナは頬杖をついた。あんなふうに笑いかけられたら、期待してしまう。自分だけが特別なのではないとわかっていても。いつか、シェリーが自分の知らない誰かを特別に思う日が来るのではないか。そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。
「……わたくしは、何を望んでいるのでしょう」
問いかけても、答えは出なかった。ただひとつ、確かなことがある。明日も、シェリーに会いたい。その願いだけは、どうしても否定できなかった。ハンナは机の上のカレンダーを見つめた。
新しい学校生活は、まだ始まったばかりだ。これから先、きっと楽しいこともある。すれ違うことも、傷つくこともあるかもしれない。それでも。
「……明日も、隣にいられますように」
誰にも聞こえない声で、ハンナはつぶやいた。窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。
同じ空の下。まだ互いの気持ちを知らない二人は、それぞれの部屋で、次の日が来るのを待っていた。そして、シェリーのノートの最後には、新しい一文が加えられていた。
『調査は、まだ始まったばかり。』
その言葉が、いつか恋の記録へと変わることを。
今の二人は、まだ知らない。