入学してから数日が経ち、ハンナはようやく新しい学校生活にも慣れ始めていた。朝はシェリーと待ち合わせて登校し、授業中は彼女の妙な好奇心に振り回され、放課後には途中まで一緒に帰る。そんな毎日が、少しずつ二人の間に定着しつつあった。
もちろん、ハンナはそれを特別なことだとは認めていない。
シェリーが朝から待っているのは、彼女が勝手に早く来ているだけ。隣の席で話しかけてくるのも、シェリーが誰にでも好奇心旺盛だから。昼休みに一緒に食事をするのだって、たまたま席が近いからにすぎない。
そうやって理由を並べれば、どれも納得できる気がした。
――けれど。
「ハンナさん、今日のお昼も一緒に食べましょうね!」
朝のホームルームが終わった直後、シェリーがそう言って笑いかけてくると、ハンナの心は驚くほど簡単に弾んでしまうのだった。
「……まだお昼には早すぎますわよ。授業が始まりますわ」
「わかっています! だから、先に約束しておこうと思ったんです!」
「わざわざ約束する必要がありますの?」
「ありますよ。だって、楽しみにしていたのに、ハンナさんが別のところで食べることになったら困りますから!」
シェリーは何の疑いもなく言い切った。
ハンナは手にしていた教科書を落としかけ、慌てて抱え直した。
「……そ、そんなこと、わざわざ心配しなくてもよろしいですわ!」
「本当ですか?」
「本当です!」
「よかった!」
満足そうに笑うシェリーを前に、ハンナはこれ以上何も言えなくなってしまった。昼休みを楽しみにしているのは、どうやら自分だけではないらしい。その事実が嬉しくて、けれど嬉しいと思ってしまう自分が少し恥ずかしくて、ハンナは教科書を開きながら小さく息をついた。今日もまた、シェリーに調子を狂わされる一日が始まるのだろう。そう思っていた。
このときは、まだ。
午前中の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
教室の空気が一気に緩み、生徒たちが弁当を取り出したり、友人を誘って廊下へ出たりし始める。ハンナも鞄から弁当包みを取り出し、いつものように隣の席へ視線を向けた。ところが、そこにシェリーの姿はなかった。
「あれ……?」
思わず声が漏れた。ほんの少し前まで、シェリーは隣で教師の話を聞いていたはずだ。終業のチャイムが鳴った途端に席を立ったらしい。ハンナは教室を見渡した。すると、窓際のほうから、聞き慣れた明るい声が聞こえてきた。
「えっ、それって本当ですか? すごいですね!」
シェリーが、同じクラスの女子生徒と話していた。相手の生徒は、確か朝の自己紹介で美術部に入るつもりだと言っていた子だ。名前は……そう、確か小春だったはず。小春は自分の描いたイラストをスマートフォンで見せているらしく、シェリーは身を乗り出すようにして画面を覗き込んでいた。
「この色の使い方、すごくきれいです! こちらの人物は、何かモデルがいるんですか?」
「ううん、オリジナルだよ。そう言ってもらえると嬉しいな」
「本当に素敵です! もっとほかの作品も見てみたいです!」
「いいよ! 今度、美術部の見学に来ない?」
「ぜひ! あっ、でも、見学するときは何か持っていったほうがいいんでしょうか?」
二人の会話は弾んでいた。シェリーはいつもどおり、相手の話を興味深そうに聞き、次々と質問を重ねている。小春も楽しそうに笑っていて、どうやらすっかり打ち解けているようだった。ハンナは手元の弁当を見下ろした。
……別に、珍しいことではない。
シェリーは誰とでも仲良くなれる。人の話を聞くのが好きで、知らないことを知るのが好きなのだ。自分と話しているときと同じように、ほかの生徒にも興味を持つのは当然だった。それなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残っている。
「……まったく。お昼を食べるのではありませんでしたの?」
誰にも聞こえないようにつぶやいて、ハンナは弁当の包みを開いた。もちろん、シェリーを呼びに行くつもりはない。彼女は今、楽しそうに話しているのだから。自分との約束など、忘れてしまったわけではないだろう。きっと、話が終わればこちらに来るはずだ。
そう考えて、ハンナは弁当を一口食べた。けれど、いつもならおいしいと感じるおかずの味が、今日はなぜかよくわからなかった。
「小春さん、もしよかったら、放課後に美術部の見学へ行ってもいいですか?」
「もちろん! じゃあ、今日の放課後に案内するね」
「ありがとうございます!」
その会話が耳に届いたとき、ハンナの箸がぴたりと止まった。放課後、美術部。シェリーが、自分の知らない予定を誰かと立てている。たったそれだけのことなのに、胸の奥がひどく落ち着かなくなった。
いつもなら、放課後は途中まで一緒に帰っていた。特別に約束をしたわけではないが、授業が終われば自然と二人で教室を出る。それが、ここ数日の当たり前になっていたのだ。今日も、そうなると思っていた。
……いや、別にそうでなければならない理由などない。
シェリーにはシェリーの友人がいて、やりたいことがあって当然だ。自分が彼女の行動を制限する権利など、どこにもないのだから。ハンナは箸を持ち直した。すると、ようやくシェリーがこちらを振り返った。
「あっ、ハンナさん!」
ぱっと顔が明るくなる。
その笑顔を見ただけで、ハンナの心はまた揺れた。さっきまでの寂しさなどなかったことにして、すぐにでも笑い返したくなってしまう。
「お待たせしました! ……あれ? もう食べ始めていたんですね」
「ええ。お昼休みですもの。いつまでも待っているわけにはいきませんわ」
少しだけ、言い方がきつくなった。シェリーは目を瞬かせたものの、すぐにハンナの向かい側の席を引いた。
「そうですよね。すみません、ついお話が楽しくなっちゃって!」
「……別に、謝る必要はありませんわ」
「ありがとうございます。では、わたしもお弁当を――」
「それより、小春さんと美術部の見学に行くのでしょう?」
口にしてから、ハンナはしまったと思った。まるで、シェリーの予定を気にしているようではないか。いや、実際に気にしているのだが、それを知られるのは何だか悔しかった。
「えっ? ああ、はい! 小春さんの作品がとても素敵だったので、実際に美術部の活動も見てみたいなって思ったんです!」
「……そうですの」
「はい! ハンナさんも興味がありますか?」
「ありませんわ」
即答だった。
シェリーは少しだけ首を傾げた。
「そうですか? ハンナさんなら、どんな絵を描くのか気になるんですけど」
「わ、わたくしは絵など描きません!」
「えーっ、そうなんですか? 意外です!」
「何が意外なんですか?」
いつものやり取りだが、ハンナの心にはさっき聞いた会話が引っかかったままだった。放課後は、小春と一緒。その時間、シェリーは自分の隣にはいない。そう考えると、胸がきゅっと締めつけられる。
自分でも、どうしてこんな気持ちになるのかわからなかった。シェリーと友達でいたいからだろうか。せっかく再会できたのだから、少しでも長く一緒にいたいと思っているからだろうか。
それとも――。
「……ハンナさん?」
「な、何ですの?」
「箸、止まっていますよ?」
シェリーの視線が、ハンナの弁当に向けられていた。
「……考え事をしていただけですわ」
「そうですか。もしかして、何か気になることでも?」
「ありません!」
「……本当に?」
「本当です!」
シェリーはしばらくハンナを見つめていたが、やがて「わかりました」とうなずいた。それから、少しだけ身を乗り出して、声を落とした。
「でも、もし何かあったら、わたしに話してくださいね。ハンナさんのことなら、ちゃんと聞きたいですから」
ハンナの心臓が跳ねた。近い。思っていたよりもずっと近くに、シェリーの顔があった。彼女の瞳には、からかうような色も、無理に秘密を暴こうとする気配もない。ただ、こちらを気にかける優しさがあった。
「……っ、か、顔が近いですわ!」
「あっ、すみません!」
シェリーは慌てて身を引いた。
「でも、ハンナさんが元気がないように見えたので……」
「元気がないわけではありません!」
「そうですか……。なら、よかったです!」
シェリーはほっとしたように笑った。
ハンナは顔を伏せたまま、弁当を食べるふりをした。ずるい、この子はいつだってそうだ。
何気ない一言で心を揺さぶっておいて、本人は何も知らない顔をしている。自分がどれだけ嬉しくなってしまったのかも、どれだけ寂しかったのかも、きっと気づいていない。それでも、今の言葉は嬉しかった。シェリーが、自分のことを気にかけてくれた。
自分が何を考えているのか、知りたいと言ってくれた。その事実だけで、胸の中の棘がほんの少しだけ小さくなった気がした。
昼食を終えると、シェリーは小春のところへ戻り、放課後の待ち合わせについて話をしていた。
ハンナはそれを横目で見ながら、鞄の中から次の授業の教科書を取り出す。
……今日は、一緒に帰れないのだろう。
そう思うと、どうしても気持ちが沈んでしまう。自分は、こんなにも心の狭い人間だっただろうか。以前の自分なら、もっと堂々としていたはずだ。誰かが自分以外の人間と親しくしていようと、気にする必要などなかった。それなのに、今は違う。
シェリーが誰かに笑いかけるたびに、その笑顔を自分にも向けてほしいと思ってしまう。
シェリーが誰かと約束するたびに、自分との約束も覚えていてほしいと願ってしまう。
そして、そんな自分の気持ちを知られるのが、何よりも怖かった。
「……わたくし、何をしているのでしょうね」
小さくつぶやいた、そのときだった。
「ハンナさん!」
顔を上げると、シェリーが目の前に立っていた。
「……何ですの?」
「これ、よかったらどうぞ!」
差し出されたのは、小さな包みだった。淡い緑色の包装紙に、白いリボンが結ばれている。
「……これは?」
「クッキーです! 今朝、少し多めに持ってきたんです。ハンナさんにも食べてほしくて!」
「わ、わたくしに?」
「はい!」
あまりにも自然に言われたので、ハンナは返事に困ってしまった。
「……なぜ、わたくしに?」
「えっ? だって、ハンナさんに食べてほしかったからです!」
「そ、それは聞きましたわ! そうではなくて……」
どうして自分なのか。小春にも渡したのだろうか。ほかの生徒にも、同じように渡すつもりなのだろうか。そんなことを聞きそうになり、ハンナは慌てて口を閉じた。シェリーは不思議そうに首を傾げたあと、ふっと微笑んだ。
「ハンナさん、甘いものがお好きかなって思って。違いましたか?」
「……嫌いではありませんわ」
「よかった! では、ぜひ食べてください!」
ハンナはそっと包みを受け取った。指先が、ほんの一瞬だけシェリーの手に触れた。それだけのことなのに、胸の奥がくすぐったくなる。
「……ありがとうございます」
小さな声で礼を言うと、シェリーは嬉しそうに目を細めた。
「どういたしまして!」
その笑顔を見た瞬間、ハンナは思った。ああ、自分はきっと、この子のこういうところが好きなのだ。誰かに何かをしてあげることを、特別なことだと思っていないところ。相手が喜んでくれたら、自分まで嬉しそうに笑うところ。そして、こちらが不器用に受け取った気持ちを、決して笑ったりしないところ。
……好き。
その言葉が頭に浮かび、ハンナはぎょっとした。ち、違う。これは、そういう意味ではない。人として好きだということだ。友人として、大切に思っているということだ。それ以上の意味など、あるはずがない。
「……ハンナさん?」
「な、何でもありませんわ!」
シェリーはまた首を傾げたが、やがて教室の時計を見上げた。
「あっ、そろそろ午後の授業ですね。では、またあとで!」
「……ええ」
シェリーが自分の席へ戻っていく。ハンナは手元の包みを見つめた。淡い蒼色のリボンが、窓から差し込む光を受けて、やわらかく輝いている。ハンナはそれを鞄にしまおうとして、ふと思いとどまった。せっかくもらったのだから、あとで食べよう。そう思って、包みを机の引き出しに大切にしまった。
誰にも見られないように。けれど、口元に浮かんだ笑みまでは、隠すことができなかった。
放課後
帰りのホームルームが終わると、シェリーはすぐに小春のところへ向かった。
「小春さん、お待たせしました!」
「ううん、全然! じゃあ、行こうか」
「はい!」
二人は楽しそうに教室を出ていった。ハンナはその背中を見送ってから、ゆっくりと鞄を肩にかけた。いつもなら、シェリーがこちらへ来て「一緒に帰りましょう」と声をかけてくれる。今日は、それがない。当然だ。彼女には別の予定があるのだから。
自分だって、シェリー以外の友人を作ればいい。放課後に誰かと出かけたり、趣味の話をしたりすればいいのだ。そうすれば、こんな気持ちになることもなくなるだろう。
「……別に、寂しくなどありませんわ」
ハンナは自分に言い聞かせ、教室を出た。廊下を歩いていると、窓の外に中庭が見えた。春の花が咲き始めた植え込みのそばを、何人かの生徒が歩いている。その中に、シェリーの姿があるような気がして、ハンナは思わず足を止めた。けれど、よく見ると別の生徒だった。
「……何を期待しているのかしら、わたくしは」
小さく息を吐き、再び歩き出す。自分がこんなふうに誰かを気にするようになるなんて、思ってもみなかった。シェリーと再会できれば、それだけで十分だと思っていた。
同じ学校に通い、同じ教室で過ごせる。それだけで、もう二度と得られないと思っていた日常が戻ってきたのだから。けれど、一緒に過ごす時間が増えるほど、願いは少しずつ変わっていく。
朝、最初に顔を合わせたい。
昼休みには、自分の隣に座ってほしい。
放課後には、今日あったことを話しながら一緒に帰りたい。
そして、シェリーが誰かに笑いかけるとき、自分にも同じ笑顔を向けてほしい。
どれも、口にするには恥ずかしいほど小さな願いだ。けれど、ハンナにとっては、どれも大切なものになり始めていた。
翌朝
ハンナがいつもの待ち合わせ場所に着くと、シェリーはすでにそこにいた。
「ハンナさん! おはようございます!」
その笑顔を見た瞬間、ハンナは自分でも驚くほどほっとした。
「……おはようございます。今日は、ずいぶん早いのですわね」
「はい! 昨日は美術部の見学がとっても楽しかったんです! 小春さんがいろいろ教えてくれて、絵を描くのも面白そうだなって思いました!」
「……そうですの」
ハンナは、できるだけ何でもないように答えた。昨日のことを楽しそうに話すシェリーを見て、胸の奥が少しだけ痛む。けれど、今朝は昨日ほど寂しくなかった。シェリーはちゃんと、いつもの場所で待っていてくれた。
「それでですね、ハンナさん!」
「何ですの?」
「今日のお昼も、一緒に食べませんか?」
ハンナは目を瞬かせた。
「……昨日も一緒に食べたでしょう?」
「はい! だから、今日もです!」
シェリーは、まるでそれが当然であるかのように笑った。
「わたし、ハンナさんとお昼を食べるのが好きなんです。お話ししていると楽しいですし、ハンナさんはいろんなことを教えてくれますから!」
「…………」
「それに、ハンナさんが笑ってくれると、わたしも嬉しいんです!」
ハンナの頬が、じわじわと熱くなった。そんなことを、どうしてこの子は平気で言えるのだろう。こちらがどんな気持ちになるか、少しも考えていないのだろうか。
……いや、きっと考えていないのだ。
シェリーはただ、自分が感じたことを素直に伝えているだけなのだから。だからこそ、ずるい。
「……わかりましたわ」
ハンナは視線をそらしながら答えた。
「今日も、一緒に食べて差し上げます」
「本当ですか! やったあ!」
「た、ただし! 授業中にノートへわたくしのことを書き込むのは禁止ですわよ!」
「ええっ! あれはもう、ハンナさんに許可をもらっていると思っていたのに!」
「いつ許可しましたの!」
「直接質問していいって!」
「質問と記録は別ですわ!」
二人の声が、朝の道に響いた。シェリーは楽しそうに笑い、ハンナもまた、こらえきれずに小さく笑った。そのまま並んで歩き始める。肩が触れそうなほど近い距離。
昨日は、そこに誰もいないことが寂しかった。
今日は、隣にシェリーがいることが嬉しい。
それだけで、朝の景色が少しだけ明るく見えた。
その日の昼休み
シェリーは約束どおり、ハンナの隣に座った。
「今日は何のお弁当ですか?」
「……見ればわかるでしょう」
「えへへ、そうですね。あっ、それ、おいしそうです!」
「食べたいのですか?」
「えっ、いいんですか?」
「まだ何も言っていませんわ!」
シェリーが楽しそうに笑う。ハンナは呆れたようにため息をつきながらも、弁当箱の中から小さなおかずをひとつ取り分けた。
「……ほら。少しだけですわよ」
「ありがとうございます、ハンナさん!」
シェリーは嬉しそうに受け取った。
「おいしいです!」
「……そう。なら、よかったですわ」
ハンナは顔をそらした。たったひとつのおかずを分けただけ。それだけなのに、シェリーが喜んでくれると、胸の奥があたたかくなる。そして、ふと思った。いつか、シェリーが自分の知らない誰かを好きになったら。今日のような時間も、当たり前ではなくなってしまうのだろうか。その考えが浮かんだ瞬間、ハンナは静かに目を伏せた。まだ、そんな未来は来ていない。今は隣にいてくれる。だからこそ、今この瞬間を大切にしたいと思った。
「……シェリーさん」
「はい?」
「明日も……その、昼休みは空けておきなさい」
言ってから、ハンナは自分の言葉に驚いた。まるで、シェリーの予定を予約するような言い方だった。けれど、シェリーは少しも嫌そうな顔をしなかった。むしろ、ぱっと笑顔を輝かせた。
「はい! もちろんです!」
その返事を聞いて、ハンナはようやく小さく笑った。明日の昼休み。その次の日の昼休み。
まだ何も決まっていない未来に、小さな約束がひとつずつ増えていく。シェリーは、いつかこの約束が自分にとってどんな意味を持つのか、まだ知らない。ハンナもまた、胸の奥で膨らみ始めた気持ちに、まだ名前をつけられない。
それでも、二人の間には確かに、昨日より少しだけ近い距離が生まれていた。そしてハンナは、シェリーが笑うたびに思うのだった。
――どうか、明日もわたくしの隣で笑っていて。
その願いがいつか、誰にも譲りたくないという、もっと強い気持ちへと変わっていくことを。
今の彼女は、まだ知らなかった