翌朝
ハンナは目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。
窓の外は薄曇りで、朝の光はカーテン越しにぼんやりと差し込んでいる。いつもなら、もう少しだけ布団の中にいたいと思う時間だった。けれど、今日はそうする気になれなかった。
昨夜、机に向かっていたときのことを思い出す。
課題の資料を探すのに手間取っていた自分に、シェリーは余計なことを尋ねず、ただ隣に座って手伝ってくれた。できなかったことを責めるでもなく、無理に励ますでもなく、困っているなら一緒に考えればいいとでもいうように。
帰宅してから、シェリーにもらったクッキーを食べた。以前、彼女が自分のために選んでくれたものだ。甘さは控えめで、紅茶によく合った。あのとき、シェリーはどんな顔をして、これを選んだのだろう。自分のことを思い出してくれた。それだけのことが、どうしてこんなにも心に残るのか。
「……まったく、朝から何を考えているのかしら」
ハンナは掛け布団を整え、ベッドから降りた。考える必要などない。シェリーが親切なのは、今に始まったことではないのだから。そう結論づけて身支度を始めたものの、家を出る時間が近づくにつれて、胸の奥は落ち着かなくなっていった。今日も、彼女は待っているだろうか。
いつもの場所で、いつものように笑ってくれるだろうか。そんなことを気にしている自分が、ハンナには少しだけ腹立たしかった。
駅から学校までの道を歩いていると、見慣れた姿が前方に見えた。彼女は通学路の脇に咲いている小さな花を眺めていたが、ハンナに気づくと、ぱっと顔を明るくした。
「ハンナさん! おはようございます!」
「……おはようございます。何をなさっていたの?」
「この花、昨日まではつぼみだった気がするんです。今朝見たら咲いていたので、気になってしまって!」
シェリーは花から目を離し、楽しそうに笑った。
「植物って不思議ですね。昨日まで見えなかったものが、次の日にはちゃんと形になっているんですから!」
「大げさですわね。ただ花が咲いただけでしょう?」
「そうなんですけど、その『ただ』の中にも、いろいろなことがあるんですよ。どうしてこの時期に咲くのか、どんな条件が必要なのか……調べ始めたら、きっと面白いと思います!」
「……あなたの好奇心には、終わりがありませんのね」
「はい! 気になることがたくさんありますから!」
シェリーは当然のように答えた。その返事に、ハンナは小さく息をつく。彼女は、いつだってそうだ。目に入ったものに興味を持ち、わからないことがあれば調べ、誰かが話していれば、そこからまた新しい疑問を見つける。昨日まで知らなかったものを、今日知ることができる。その喜びを、シェリーは少しも隠そうとしない。ハンナはそんな彼女を、眩しいと思っていた。
「そういえば、ハンナさん」
「何ですの?」
「昨日の課題、あのあと困ったところはありませんでしたか? もし何かあれば、一緒に確認できますよ!」
「……ありませんわ。昨日、十分に調べられましたもの」
「そうですか! よかったです」
シェリーは、ほっとしたように笑った。
「ハンナさんがちゃんと進められたなら、私もうれしいです!」
また、そんなことを言う。自分が課題を進められたことを、彼女は本当に喜んでいるらしい。何かをしてもらったからといって、恩を返さなければならないと迫ってくるわけでもない。ただ、相手がうまくいったことを一緒に喜ぶ。
ハンナは、その優しさをどう受け取ればいいのか、まだよくわからなかった。
「……あなたも、少しは自分の課題に集中なさいませ。わたくしのことばかり気にかけていては、いけませんわよ」
「はい! でも、気になることは気になるので!」
「そこは少し控えなさいと言っているのです!」
シェリーは楽しそうに笑った。ハンナも、つられて口元を緩めそうになる。慌てて顔をそらしたが、彼女は気づいていないようだった。そのことに、少しだけ安堵した。
この時間が、ずっと続けばいい。そんな願いが胸に浮かんだことを、ハンナは誰にも知られたくなかった。
昼休み、二人はいつものように教室で向かい合って昼食を取っていた。最近では、シェリーがハンナの席へ来ることも、ハンナがその隣の椅子を空けておくことも、すっかり自然な習慣になっている。最初の頃は、彼女が来るたびに何を話せばいいのかと考えていた。今では、何を話すか決めていなくても、隣に座っているだけで不思議と落ち着く。もっとも、シェリーは沈黙を長く保つのが得意ではないらしい。
「ハンナさん、聞いてください。面白いことがあったんです!」
「……今度は何ですの?」
「先生が紹介してくださった本に、推理小説の話が出てきたんです。探偵が手がかりを集めて、最後に真相を明らかにするお話なんですけど……」
シェリーは、身を乗り出して説明を始めた。
彼女の話は、少しばかり長かった。途中で別の疑問が浮かんだらしく、話題が横道にそれることもあった。それでも、本人はいたって真剣だ。
ハンナは呆れながらも、最後まで話を聞いた。
「……つまり、あなたもその本を読んでみたいということですのね」
「はい! どんな謎が出てくるのか、とても気になります!」
「あなたなら、結末を読む前に自分で推理を始めてしまいそうですわね」
「それも楽しそうですね! 自分の推理が当たっているか、確かめてみたいです!」
「……本当に、あなたという人は」
ハンナはため息をついた。けれど、その表情は柔らかかった。
シェリーが夢中になって話しているとき、彼女の世界はとても広く見える。目の前の本から、まだ見ぬ事件へ、そして知らない誰かの考えへ。興味を持つたびに、その世界はどんどん広がっていく。
その広さに、ハンナはときどき置いていかれそうになる。シェリーは、弁当箱の端に残っていた卵焼きを食べてから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、小春さんに教えていただいた美術部も、面白かったんですよ!」
ハンナの箸が止まった。
「……美術部?」
「はい。以前、見学に誘っていただいたでしょう? いろいろな作品を見せていただいたんです。絵の描き方も人によって違うんですね。小春さんが説明してくださったんですけど、同じものを見ていても、描く人によって全然違う絵になるんです!」
シェリーは、見学したときのことを思い出しているらしかった。
「とても興味深かったです! 小春さんも、好きなことについて話すときは、いつもよりずっと楽しそうでした」
「……そうですの」
「はい! 今度は、どんな絵を描いているのかも見せてくださるそうです!」
ハンナは、何でもないことのように頷いた。
小春とシェリーが親しくなっていることは知っていた。以前、昼休みに二人が話していたことも覚えているし、放課後に美術部を見学する約束をしていたことも聞いていた。
それなのに、今こうして楽しそうに話すシェリーを見ていると、胸の奥がざわついた。自分の知らない時間がある。シェリーが自分のいないところで、誰かと笑い、誰かの話を聞き、誰かのことを知っていく時間。当たり前のことだ。自分だって、シェリーと出会う前から自分の生活を持っていた。彼女以外の誰かと話すこともあるし、彼女が知らない自分の一面だってある。それでも、シェリーの世界が広がっていくたびに、自分の居場所が少しずつ狭くなっていくような気がした。
「ハンナさん?」
シェリーが顔を覗き込んでくる。
「……何ですの?」
「お話、つまらなかったでしょうか?」
「そ、そんなことはありませんわ!」
「よかったです! 少し考え込んでいらしたので、何か気になることでもあったのかと思いました」
「別に、何もありませんわ。あなたの話は、十分に興味深いものでしたわよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
シェリーは、いつもの笑顔を浮かべた。その笑顔に、ハンナは少しだけ胸を締めつけられた。
どうして、自分はこんなことを気にしているのだろう。シェリーが小春と仲良くするのは、当然のことだ。小春には小春の魅力があるし、シェリーが彼女に興味を持つ理由もわかる。
それでも、ほんの少しでいいから、自分のことを一番に考えてほしい。そんな願いが、心の底に沈んでいた。けれど、ハンナにはそれを口にする勇気がなかった。
午後の授業が終わる頃、窓の外には灰色の雲が広がっていた。帰りのホームルームが終わると、教室のあちこちで帰り支度をする音が響き始めた。窓を打つ雨粒は、時間が経つにつれて大きくなっていく。ハンナは鞄から折り畳み傘を取り出した。朝の天気予報を確認して用意してきたものだ。こうした準備を怠らないのは、当然のことだった。
そのとき、隣の席から声がした。
「ハンナさん、今日は雨が強いですね!」
「ええ。朝から降るかもしれないとは聞いていましたわ」
「そうだったんですか! 私、確認していませんでした」
「……あなたは、少しは天気にも関心を持ちなさいませ」
「はい。次からは気をつけます!」
シェリーは素直に頷いたあと、窓の外を眺めた。
「でも、雨の日は雨の日で、いつもと違う発見がありそうですね。水たまりに映る景色とか、雨音とか……」
「……何でも発見につなげるのですね」
「はい! せっかくですから!」
ハンナは呆れたように息をついた。しかし、シェリーの言葉を聞いているうちに、ふと気になったことがあった。
「……シェリーさんは、学校に来てから、ずいぶん楽しそうですわね」
「はい!とても楽しいですよ!」
シェリーは迷いなく答えた。
「新しい友達もできましたし、皆さんのお話を聞くのも楽しいです。知らなかったことがたくさんあって、毎日、発見ばかりなんです!」
「……そう」
「小春さんからは絵のことを教えていただきましたし、クラスの皆さんからも、いろいろなお話を聞けました。これからも、もっといろいろな方とお話ししてみたいです!」
ハンナは、鞄の持ち手を握り直した。もっと、いろいろな人と。その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。
「……あなたは、誰にでも興味を持つのですね」
「はい! 知らないことを知るのは楽しいですから!」
「人のことも?」
「もちろんです! その人が何を好きなのか、どんなことを考えているのか、話してみないとわからないことがたくさんありますから!」
シェリーは、楽しそうに笑っていた。
ハンナは、その顔を見つめた。
自分が初めて彼女と話したときも、シェリーはこんなふうだった。こちらが何を言っても臆することなく、気になったことを尋ね、こちらの反応を面白そうに観察していた。最初は、なんて遠慮がない人なのだろうと思った。
けれど、いつの間にか、その好奇心を向けられることがうれしくなっていた。
彼女が自分の言葉に耳を傾けること。自分のためにクッキーを選んでくれたこと。困っていたときに、何も言わず隣にいてくれたこと。それらを思い出すたびに、シェリーが自分にとって特別な存在になりつつあることを認めざるを得なかった。
けれど、彼女にとって自分はどうなのだろう。
「……わたくしのことも、そうやって見ていらっしゃるの?」
思いがけず、そんな言葉が口からこぼれた。シェリーは少しだけ目を丸くした。
「はい。もちろんです!」
あまりにもあっさりした返事だった。
「ハンナさんのことも、まだ知らないことがたくさんありますから!」
ハンナの胸が、きゅっと縮んだ。まだ知らないことがたくさんある。その言葉は、うれしいはずだった。シェリーが自分のことを知りたいと思ってくれている。それは、今までの彼女の行動からもわかっていた。
けれど、ハンナの心には別の考えが浮かんでしまった。
知らないから、知りたい。では、知ってしまったら?自分がどんな人間なのか。何を隠しているのか。どれほど取り繕って、気高い令嬢であろうとしていたのか。
それをすべて知ってしまったら、シェリーは自分に興味を失うのではないか。
「……知ったところで、面白いことなどありませんわ」
ハンナは、できるだけ平静な声で言った。
「えっ?」
「わたくしのことを知りたいとおっしゃいますけれど、あなたが期待するようなものは何もありません。わたくしは、あなたが思っているほど興味深い人間ではありませんわ」
「そんなことはないと思いますよ?」
「いいえ。あなたは、まだわたくしのことをよく知らないから、そう言えるのです」
言いながら、ハンナは自分の声が少しずつ硬くなっていくのを感じた。
こんなことを言いたいわけではなかった。本当は、もっと知りたいと言ってくれたことがうれしかった。自分の知らないところで誰かと仲良くしていても、シェリーが自分のところへ戻ってきてくれるなら、それでいいと思いたかった。
けれど、そんなふうに思えるほど、自分は強くなかった。
「……人のことを知るのが楽しいのは、まだ知らないことがあるからでしょう? けれど、すべてを知ってしまえば、それでおしまいですわ」
シェリーは、黙ってハンナを見つめていた。
「ハンナさん……。私は、そんなつもりで言ったわけではありませんよ?」
「わかっていますわ。あなたは、ただ好奇心が強いだけなのでしょう」
「はい。気になることは、たくさんあります。でも……」
シェリーは、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「私は、ハンナさんのことを知って、答えを出したいわけではないんです」
「……では、何ですの?」
「もっと、お話ししたいんです。ハンナさんが何を好きなのか、何を考えているのか。昨日みたいに、一緒に何かを調べたり、何でもないお話をしたり。そういう時間が、私は好きなんです」
ハンナは、息を呑んだ。シェリーの言葉は、まっすぐだった。けれど、ハンナの心に巣くった不安は、そう簡単には消えてくれない。
「……それは、わたくしでなくても、よいのではありませんこと?」
シェリーが目を見開いた。
「え……?」
「あなたは小春さんとも仲良くしていらっしゃるでしょう。ほかの方とも、楽しそうにお話しなさっている。これからも、たくさんの方と出会うのでしょうね」
自分でも、何を言っているのかわからなくなっていた。
「ですから、わたくしのことを無理に知ろうとなさらなくても、よろしいのではありませんか。あなたには、ほかにも興味を持てる方がたくさんいらっしゃるのですから」
最後の言葉は、ほとんど拗ねた子どものようだった。ハンナは、それに気づいてしまった。気づいた途端、顔が熱くなる。これ以上、何も言いたくなかった。シェリーはしばらく黙っていた。そして、困ったように眉を下げた。
「……ハンナさん。私、何か、あなたを嫌な気持ちにさせてしまいましたか?」
その問いに、ハンナは答えられなかった。本当は、違うと言いたかった。あなたは何も悪くない。あなたが誰と仲良くしていても、それを責めるつもりはない。ただ、自分が勝手に不安になっているだけなのだと。けれど、それを説明するには、自分の気持ちを認めなければならない。
シェリーに、特別でいてほしい。ほかの誰かと同じではなく、自分だからこそ隣にいてほしい。
そんな願いを、今の自分が口にできるはずもなかった。
「……何でもありませんわ」
ハンナは、視線をそらした。
「少し疲れただけです。わたくしは先に帰りますわ」
「ハンナさん、待ってください!」
シェリーが呼び止めた。けれど、ハンナは振り返らなかった。傘を広げ、雨の中へと歩き出す。
背中にシェリーの視線を感じた気がしたが、確かめることはできなかった。
帰宅したハンナは、制服を着替えたあとも、しばらく自室の椅子に座っていた。机の上には、今日の授業で使ったノートが置かれている。明日の準備をしなければならないのに、どうにも手をつける気になれなかった。頭の中では、さっきの会話が何度も繰り返されていた。
――それは、わたくしでなくても、よいのではありませんこと?
自分の口から出た言葉が、どうしようもなく情けなかった。シェリーが小春と仲良くするのは当然だ。新しい友達ができることは、喜ばしいことのはずだった。それなのに、自分は彼女の交友関係を気にして、勝手に寂しくなり、勝手に傷ついている。
まるで、彼女の時間を独り占めしたいと願っているようではないか。
「……そんなこと、できるはずがありませんわ」
ハンナは、机の端に置かれた小さな包みを見た。以前、シェリーがくれたクッキーの包みだった。中身はもうない。それでも、捨てる気になれず、きれいに畳んで置いてあった。
あのとき、シェリーは自分のために選んだのだと言ってくれた。その言葉が、どれほどうれしかったか。だからこそ、怖くなってしまう。
いつか、シェリーが自分のことを知り尽くしてしまったら。自分が隠しているものに気づいたら。自分のことを、特別でも何でもないと感じるようになったら。
そのとき、自分は平気な顔でいられるのだろうか。ハンナは、包みをそっと引き出しにしまった。
彼女の気持ちを確かめる勇気はない。それでも、彼女が自分のことをもっと知りたいと言ってくれた、その言葉だけは、手放したくなかった。
その夜、シェリーは机に向かい、いつもの調査ノートを開いていた。今日も記録をつけようと思ったのだが、ペンを持ったまま、なかなか書き始められなかった。ハンナの顔が、頭から離れない。
自分の話をしているとき、彼女はいつもより静かだった。小春の話をしたときには、少しだけ表情が曇ったようにも見えた。そして最後には、まるで自分を遠ざけるような言葉を口にした。どうしてだろう。
シェリーは、これまでにも、誰かの言葉や行動に疑問を持つことがあった。そういうときは、気になったことを調べ、手がかりを集めて、答えを考えればよかった。けれど、ハンナのことはそう簡単にはいかない。
彼女が本当は何を思っているのか、知りたい。けれど、無理に尋ねれば、きっと彼女は話してくれなくなる。先日、図書室でハンナが困っていたときのことを思い出す。あのとき、自分は理由を聞き出そうとはしなかった。ただ一緒に調べものをして、彼女が自分から話してくれるのを待った。
すると、ハンナは少しずつ、自分の気持ちを話してくれた。そのことが、シェリーはうれしかった。ならば、今日も同じなのかもしれない。
知りたいからといって、何でもすぐに尋ねればいいわけではない。相手が話したくなるまで、待つことも必要なのだろう。シェリーは、ノートにゆっくりと文字を書き始めた。
調査対象:遠野ハンナ
本日の記録:私がほかの人のことも知りたいと話したら、ハンナさんは少し悲しそうでした。私の言葉が、何か違う意味に伝わってしまったのかもしれません。
そこで一度、ペンを止めた。
自分は、いろいろな人のことを知りたいと思っている。それは本当だ。けれど、ハンナのことは、ただの興味だけでは説明できない気がしていた。彼女が笑うとうれしい。話を聞いてくれると、もっと話したくなる。困っているときには、何かできることがないか考えてしまう。そして、彼女が自分を遠ざけるような言葉を口にすると、どうしてなのか知りたくなる。シェリーは、少し考えてから、続きを書いた。
『私は、ハンナさんのことをもっと知りたいです。でも、無理に知ろうとするのではなく、ハンナさんが自分から話したいと思えるようになりたいです。』
最後に、調査目的を書き加える。
調査目的:ハンナさんと、もっと仲良くなること。
書き終えたシェリーは、ノートを閉じた。明日、ハンナに会ったら、いつも通り挨拶をしよう。
昨日のことを、無理に聞き出すつもりはない。彼女が話したくないのなら、話さなくてもいい。
ただ、いつものように隣に座って、一緒にお昼を食べて、何でもない話をしよう。
それでも、もしハンナが困っていたら。そのときは、また一緒に考えればいい。シェリーは、窓の外を眺めた。雨はまだ降っていた。
人の気持ちは、推理小説の謎のようには解けない。
手がかりを集めれば、必ず答えにたどり着けるわけでもない。それでも、知りたいと思う気持ちは、変わらなかった。ハンナが何を怖がっているのか。どうすれば、もっと安心して話してくれるのか。
いつか、その答えがわかる日が来るだろうか。シェリーは、ノートを大切に引き出しへしまった。
翌朝
ハンナが教室に入ると、シェリーはすでに席に着いていた。彼女はノートを閉じると、ハンナに気づいて顔を上げた。
「ハンナさん、おはようございます!」
いつもと変わらない、明るい声だった。ハンナは、思わず足を止めた。昨日のことを怒っているのではないだろうか。自分の言葉を不快に思って、もう話しかけてこないのではないか。
そんな不安を抱えていたのに、シェリーは今日も笑ってくれた。
「……おはようございます」
返事をする声が、少しだけ柔らかくなった。シェリーは、何かを尋ねようとする様子もなく、いつものように椅子を引いた。
「今日も、よろしくお願いしますね!」
「……何を、ですの?」
「学校生活です!それから、もしよろしければ、お昼もご一緒したいです!」
ハンナは、少しだけ目を見開いた。昨日のことを忘れたわけではないだろう。それでも、シェリーは自分から、今日も一緒に過ごしたいと言ってくれた。
「……ええ。もちろんですわ」
「ありがとうございます! 楽しみです!」
シェリーは、うれしそうに笑った。ハンナは窓の外へ目を向けた。雨は上がり、雲の切れ間から淡い朝日が差し込んでいる。昨日のすれ違いは、まだ解けていない。シェリーが自分をどう思っているのかも、わからないままだ。それでも、彼女は今日も、自分の隣にいてくれる。
その事実を、今は大切にしたかった。いつか、自分の気持ちを話せる日が来るだろうか。あなたにとって、特別な存在になりたい。あなたの知らない自分を見せても、隣にいてほしい。そんな願いを、いつか言葉にできるだろうか。ハンナは、小さく息をついた。
今はまだ、言えない。けれど、今日もシェリーと一緒に過ごせる。それだけで頑張れそうな気がした。
シェリーは机の上のノートを開き、授業の準備を始めた。ハンナはその横顔をちらりと見て、すぐに視線を戻す。雨音に隠してしまった言葉は、まだ二人の間に残っている。それでも、二人の朝はまた始まった。まだ名前のつかない想いを抱えたまま。互いの気持ちを知らないまま。
それでも昨日よりほんの少しだけ、相手のことを考えながら。
文字数多くなりすぎててヤバい